みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

種山高原(4/26、エンゴサク)

2024-04-30 16:00:00 | 種山高原
《1 オトメエンゴサク》(2024年4月26日撮影) 《2 》(2024年4月26日撮影) 《3 》(2024年4月26日撮影) 《4 》(2024年4月26日撮影) 《5 》(2024年4月26日撮影) 《6 》(2024年4月26日撮影) 《7 》(2024年4月26日撮影) 《8 》(2024年4月26日撮影) 《9 》(2024年4月26日撮影) 《10 》(2024年4 . . . 本文を読む
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貧しい農民のために献身できたとは実は言えない?

2024-04-30 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)  ところで、賢治の稲作指導法で巷間評価されているものに石灰施用の推奨もあると思う。実際、彼の肥料設計書には「石灰岩抹」の項がある<*1>。そしてそれは、「岩手の酸性土壌を中和させるために石灰が必要」というのがその施用の理論であったと言えよう。それ故にであろう、賢治から指導を受けた協会員の高橋光一は、    「いまに磐になるぞ。」〈『宮澤 . . . 本文を読む
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種山高原(4/26、カタクリ)

2024-04-30 08:00:00 | 種山高原
《1 》(2024年4月26日撮影) 《2 》(2024年4月26日撮影) 《3 》(2024年4月26日撮影) 《4 》(2024年4月26日撮影) 《5 》(2024年4月26日撮影) 《6 》(2024年4月26日撮影) 《7 》(2024年4月26日撮影)  続きへ。 前へ 。  ”みちのくの山野草”のトップに戻る。  ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私 . . . 本文を読む
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種山高原(4/26、共演)

2024-04-29 16:00:00 | 種山高原
《1 》(2024年4月26日撮影) 《2 》(2024年4月26日撮影) 《3 》(2024年4月26日撮影) 《4 》(2024年4月26日撮影) 《5 》(2024年4月26日撮影) 《6 》(2024年4月26日撮影)  続きへ。 前へ 。  ”みちのくの山野草”のトップに戻る。  ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から . . . 本文を読む
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賢治の稲作指導法とその限界

2024-04-29 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)  さて、前回述べたように、  「羅須地人協会時代」も含めて賢治は実質的には「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たり、「サムサノナツハオロオロアル」いたりしなかったし、出来なかったのだ。ということを私は知ってしまった。つまり、賢治は巷間いわれている賢治像とはかなり異なる点もあったようだ。  振り返ってみれば、かつての私は、  「羅須地人協会時代」の賢治は農民 . . . 本文を読む
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片栗紀行(4/26、白いカタクリ2)

2024-04-29 08:00:00 | 片栗紀行
《1 》(2024年4月26日撮影) 《2 》(2024年4月26日撮影) 《3 》(2024年4月26日撮影) 《4 》(2024年4月26日撮影)  続きへ。 前へ 。  ”みちのくの山野草”のトップに戻る。  ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々 . . . 本文を読む
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片栗紀行(4/26、白(っぽ)いカタクリ)

2024-04-28 16:00:00 | 片栗紀行
《1 》(2024年4月26日撮影) 《2 》(2024年4月26日撮影) 《3 》(2024年4月26日撮影) 《4 》(2024年4月26日撮影)  続きへ。 前へ 。  ”みちのくの山野草”のトップに戻る。  ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々 . . . 本文を読む
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昭和6年の岩手は冷害だったのだが花巻は違っていた

2024-04-28 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)  という次第で、    〈仮説4〉「羅須地人協会時代」の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えない。 が検証されたということになる。つまり、「羅須地人協会時代」の大正15年と昭和3年の稗貫郡等はヒデリの夏だったのだが、本当のところは、両年共に「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治であったということにならざるを得ない。 また、「羅須地人協会時代」 . . . 本文を読む
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片栗紀行(4/26、白いカタクリ1)

2024-04-28 08:00:00 | 片栗紀行
《1 》(2024年4月26日撮影) 《2 》(2024年4月26日撮影) 《3 》(2024年4月26日撮影) 《4 》(2024年4月26日撮影)  続きへ。 前へ 。  ”みちのくの山野草”のトップに戻る。  ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々 . . . 本文を読む
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川尻(4/18、残り後編)

2024-04-27 16:00:00 | 北上・江刺周辺
《1 コチャルメルソウ》(2024年4月18日撮影) 《2 キバナノアマナ》(2024年4月18日撮影) 《3 エンレイソウ》(2024年4月18日撮影) 《4 ミチノクネコノメソウ》(2024年4月18日撮影) 《5 ユリワサビ》(2024年4月18日撮影) 《6 トウゴクサイシン》(2024年4月18日撮影) 《7 イチヤクソウ》(2024年4月18日撮影) 《8 ヒメアオキ》( . . . 本文を読む
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ヒデリノトキもサムサノナツも「サウイフモノニナリタイ」

2024-04-27 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)  さて、昭和3年の「ヒデリノトキ」は流石に賢治も、今度こそは田植時のヒデリをとても心配していたはずだ。それは、大正15年の大旱害の際に賢治は何一つ救援活動等をしていなかったと言えるからその悔いがあったであろうことと、同年の大旱害被害の最大の原因の一つに田植時に用水を確保できなかったことがあったからである。  ところが昭和3年の田植時に賢治は何をしていたの . . . 本文を読む
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川尻(4/18、残り前編)

2024-04-27 08:00:00 | 北上・江刺周辺
《1 ミヤマカタバミ》(2024年4月18日撮影) 《2 》(2024年4月18日撮影) 《3 オオバタネツケバナ》(2024年4月18日撮影) 《4 》(2024年4月18日撮影) 《5 ノミノフスマ》(2024年4月18日撮影) 《6 サワハコベ》(2024年4月18日撮影) 《7 モミジイチゴ》(2024年4月18日撮影)  続きへ。 前へ 。  ”みちのくの山野草”のトップ . . . 本文を読む
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牧野立雄氏と山折哲雄氏

2024-04-26 18:00:00 | 「賢治研究」の更なる発展のために
〈2024年4月24日付『朝日新聞』の17面「岩手」〉  さて、先に私は、    本物だと知った。賢治研究をさらに発展させる方だと。 と述べ、そして  牧野氏はまさにこの、「あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証して」いるからではなかろうかと、私には思えたからだ。たしか、牧野氏の出身は名古屋名のはずなのに、それが今は遠く離れた盛岡で仕事をしながら . . . 本文を読む
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川尻(4/18、ミドリニリンソウ)

2024-04-26 16:00:00 | 北上・江刺周辺
《1 おっ,向こうに》(2024年4月18日撮影) 《2 ミドリニリンソウだ》(2024年4月18日撮影) 《3 》(2024年4月18日撮影)  続きへ。 前へ 。  ”みちのくの山野草”のトップに戻る。  ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはず . . . 本文を読む
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昭和3年の「ヒデリノトキニナミダヲナガシ」たことはなかった賢治

2024-04-26 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)  ところで、「羅須地人協会時代」にヒデリの夏だった年は大正15年だけではなく、周知のように昭和3年もそうであり、同年の夏の花巻一帯では約40日間ほども雨が一切降らなかったと云われている。そしてこのことは次のようなことなどから裏付けられる。  例えば、昭和3年8月25日付『岩手日報』には次のような記事、  四十日以上打ち續く日照りに陸稻始め野菜類全滅!!  . . . 本文を読む
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