《創られた賢治から愛すべき賢治に》
「一九二七年の秋の日」とするわけにはいかなかった鈴木 さて、これで
昭和2年、すなわち一九二七年の秋の日にMが下根子桜を訪問することはほぼ無理だった。まして、その際にMが露にすれ違ったということは考えにくい。
ということがわかったし、Mの件の「下根子桜訪問」自体が虚構であった可能性が頗る高い。
ということもまたわかった。
荒木 それにしても、Mならば「一九二八年の秋の日」に下根子桜の賢治の許を訪れることができないということは当然わかっていたはずなのに、なぜ「昭和六年七月七日の日記」では
一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた。國道から田圃道に入つて行くと稲田のつきるところから…
<『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)74pより>と書いたのだろうか。
吉田 話は簡単で、それは通説となっている「一九二七年の秋の日」とするわけにはいかなかったからだよ。実際にその頃のMは心臓脚気などで重篤であったために下根子桜を訪ねて来られるよう状態にはなかったし、その病気のことは結構世に知られていたのだから、もし
一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた…
と書いたとしたならば、それは明らかな嘘だとすぐばれることをM自身が一番知っていただろうし、そのことを恐れたためだろう。荒木 しかし「一九二八年の秋の日」としたところで、それもあり得ないことはすぐばれるべ。
鈴木 いや、その頃に賢治が下根子桜に戻ってたということはあまり世に知られていなかっただろう。なにしろ昭和3年の8月10日以降、賢治は身を潜めていたとも言えるからな。
荒木 そうだった、賢治はその頃県下に吹き荒れたすさまじい「アカ狩り」から逃れるために実家に戻って蟄居謹慎していたという持論をお前は『羅須地人協会の終焉-その真実-』において展開していたもんな。
吉田 しかもその時Mは賢治の許を訪れていないと判断できる。何らその当時のことを、賢治が病気のために家に戻ったとか、その賢治を見舞ったということを彼のどの著作にも一切書いていないからだ。
始めからMの悪意と思惑あり
鈴木 一方「「三原三部』の人」の中で、
賢治がちゑさんと一方的な見合をし、また大島を訪ねた時代と、Tとよぶ女性が羅須地人協会の家に、しげしげと訪ねた時代が同じだということは注意してよいことであろう。一方を極力拒否しながら一方を結婚の対象に考えることによつて、私たちは、一方が、このましくない女性であり、一方はこのましい女性であることを知るのに困難はしないはずである。
肉体と精神とを、あげて眞正面から肉迫してくる一人の女性を、ついにさいごまで拒否できた精神力をたたえることはやすいが、その精神の支柱のうちに、私は賢治の母や妹とし子、そして伊藤ちゑのあつたことを、相当重く考えなければならないと思う。
<『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)174pより>肉体と精神とを、あげて眞正面から肉迫してくる一人の女性を、ついにさいごまで拒否できた精神力をたたえることはやすいが、その精神の支柱のうちに、私は賢治の母や妹とし子、そして伊藤ちゑのあつたことを、相当重く考えなければならないと思う。
とMは述べている。もちろんTとは露のことであり、Mは露のことを「このましくない女性」と決めつけ、しかも「肉体と精神とを、あげて眞正面から肉迫してくる一人の女性」と表現していることなどから、Mは始めから露に対してかなり悪意と思惑を持って『宮澤賢治と三人の女性』を書いていたことはほぼ明らかだ。
荒木 そして俺は、なぜ露を<悪女>にしたかったのかは今までよくわからなかったが、Mが賢治の強い精神力を称え、ちゑを「このましい女性」に祭り上げるためにそうしようとしたということだけはこれで多少わかった。もちろん、「一方が、このましくない女性であり、一方はこのましい女性であることを知るのに困難はしないはずである」という論にはかなり無理があるけどな。
鈴木 しかも知ってのとおり、賢治と私とを結びつけることは絶対止めて下さいとちゑはMに懇願しているというのに、Mは無理矢理ちゑを<聖女>に祭り上げたようとした。
実際それは、『宮澤賢治と三人の女性』の端書きとも言える「宮沢賢治をしるために」で、
宮沢賢治と、もつともちかいかんけいにあつた妹とし子、宮沢賢治と結婚したかつた女性、宮沢賢治が結婚したかつた女性との三人について、傳記的にまとめて、考えて見たものである。
<『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)3p~より>と説明していることからも窺える。
吉田 始めっからMは
露=「宮沢賢治と結婚したかつた女性」
ちゑ=「宮沢賢治が結婚したかつた女性」
と決めつけてスタートし、同書の中で
露=「このましくない女性」=<悪女>
ちゑ=「このましい女性」=<聖女>
という構図を定着させたかったのだろう。とはいえ、少なくとも露に関しては「傳記的」ではなくて「フィクション的」だけどな。
荒木 そっか、実はそれは単なる「フィクション」だったけど、『宮澤賢治と三人の女性』上でそれが活字となったので一人歩きしてしまい、それからは、そして今でもそれがあたかも事実であったかの如くに跳梁跋扈しているということか。始めっから悪意があって創作したから思惑どおりにいった。いやもとい、思惑どおりいったのかもしれん。
思考実験「全てが虚構」
吉田 荒木の際どい表現も今出たところだし、その可能性を探るためにも発想が柔軟になる思考実験をしてみる必要がありそうだな。
鈴木 おおそれもそうだな。じゃあここからは思考実験として話を進めることにしよう。
待て待て……ということは少なくともMが同書を出版する際には、「とし子」とちゑを際立たせるために露のことも書きたかった。延いては賢治を称えるためにも露に関して書きたかった。
荒木 あるいは、当時『イーハトーヴォ創刊號』に露に関するゴシップ仕立ての「賢治先生」が載っているように、一般読者に興味を持たせるためにゴシップも書こうと思い立った。
吉田 いずれ、そんなことなどを思って同書に露のことも大いに書こうと思っていたことはたしかだろう。実際それは露を含めた三人の女性の三本立ての本になっているし、露関連についてはとても検証したものとも、裏付けを取ったものとも思えんことをあたかもそれを見ていたかの如く書き連ねた文章があちこちに散在しているからな。おそらく、Mは書いているうちに作家の「性」に逆らえなくなってしまって、ついついあれこれフィクションを交えてしまったということだろう。
鈴木 そしてその時の位置づけは
露=「宮沢賢治と結婚したかつた女性」
だった。
荒木 そこでそのために、例の「下根子桜訪問」をでっち上げ、さらにはその際に露とすれ違ったという虚構をした。
鈴木 とはいっても、それをいつにするかを迷った。全くのでたらめの時期にはできない……。
そうか、閃いたぞ。実は、Mは病が癒えて昭和3年6月には『岩手日報社』に入社もできたし、秋には花巻くらいまでならば出かけることができるまでに快復したしたので、、「一九二八年の秋の日」にその挨拶かたがた花巻の賢治の実家に賢治をを訪ねてきたことが実際にあったのだ。だからその「下根子桜訪問」の時期を「一九二八年の秋の日」としたのだ。
吉田 そうだよな、冷静に考えてみれば昭和3年当時病の癒えたMが賢治の許を訪れなかったということはあり得んよな。東京に住んでいた菊池武雄ですら豊沢町に戻っていた賢治を訪ねて行って、しかも賢治とは結局面会できなかったということがあったのだから、その噂がMの許に届かないはずはなかろう。
さっき僕は、何らその当時のことを、賢治が病気のために家に戻ったとか、その賢治を見舞ったということをMはどの著作にも一切書いていないから、昭和3年に花巻を訪れていないと判断したのだが、そうではなくて、病が癒えて昭和3年6月『岩手日報社』に入社できたMが、やっと「一九二八年の秋の日」に豊沢町の実家に戻っていた賢治を訪ねたということは十分にあり得るし、おそらくあったであろう。
鈴木 実はMは訪れていたのだが当時の賢治は蟄居謹慎ということになっていたからそのことをMは一切書かなかった、書けなかった。言われてみれば、「昭和3年の秋の日」にMが花巻を訪れたと考える方が遙かに自然だし、Mと賢治の付き合いの深さを考えてみればその蓋然性もかなり高かろう。
荒木 そっか、Mは実際「昭和3年の秋の日」に花巻の実家に戻っていた賢治を見舞った。一方では、先にわかったように、その時期を昭和2年の秋とすることもはたまた大正15年の秋とすることももともと無理だった。そこで、先ずはその期日を実はMがこっそりと豊沢町に賢治を訪ねていた「昭和3年の秋の日」と設定したというわけか。
鈴木 あとは、「下根子桜訪問」及びその際の「露との遭遇」は全て虚構で、「このましくない女性」という位置づけで、佐藤通雅氏の表現を借りれば「見聞や想像を駆使してつくりあげた創作」をしてしまった。
吉田 とはいえ、Mにもためらいやうしろめたさがあったから、その訪問時期は可能な限りぼやかしたかった。だから例の西暦表現を用いてここだけは「一九二八年の秋の日」とするしかなかった。
荒木 な~るほど。他の個所では「昭和三年」を用いているのにわざわざここだけは西暦で「一九二八年」にしたのはそういう心理が働いていたのか。
鈴木 だから、かたくなに
Mは件の下根子桜訪問時期を
としていたんだ。 ・『宮澤賢治追悼』(草野心平編輯、次郎社、昭和9年1月)所収「追憶記」 :「一九二八年の秋」
・『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年9月)所収M著「追憶記」 :「一九二八年の秋」
・『宮沢賢治と三人の女性』(M著、人文書房、昭和24年1月)所収M著「昭和六年七月七日の日記」 :「一九二八年の秋」
・『宮沢賢治の肖像』(M著、津軽書房、昭和49年10月)所収「昭和六年七月七日の日記」 :「一九二八年の秋」
・『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年9月)所収M著「追憶記」 :「一九二八年の秋」
・『宮沢賢治と三人の女性』(M著、人文書房、昭和24年1月)所収M著「昭和六年七月七日の日記」 :「一九二八年の秋」
・『宮沢賢治の肖像』(M著、津軽書房、昭和49年10月)所収「昭和六年七月七日の日記」 :「一九二八年の秋」
荒木 そうか、Mが下根子桜を訪問し、途中で露とすれ違ったという「事実」を捏造をするためには、その年を「一九二八年」とするしかなかったのか。
うん?それじゃどうしてその後に
・『宮沢賢治 ふれあいの人々』(M著、熊谷印刷出版部、昭和63年10月)所収「高雅な和服姿の〝愛人〟」:「大正15年の秋」
としたんだ?鈴木 いや、実は正確にはその日のことは「大正15年の秋の日」とはせずに
羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日
とMは表現している。
もちろん、もともとMはその「下根子桜訪問」時期が「一九二八年の秋の日」ではまずいことは重々知っていた。さりとてそれを「一九二七年」とすることもまたできないことは、以前に触れたことだが、そのことはM自身が一番弁えていたはずだ。
吉田 そこへもってきて、昭和52年に『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)が出版されてしまうと「一九二八年の秋の日」に賢治が下根子桜にいないことは遍く知れ渡ってしまったので、おのずから、
一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた。
は破綻を来していることもまた容易に指摘されることになってしまった。荒木 さりとて、M自身はそれをすぐさま
一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた。
と書き代えることもまたできない。そこで残された「大正15年の秋の日」とするしかなかったというわけか。吉田 しかも、もうこれ以上あれこれ穿鑿されることをできるだけ避けたかったので「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日」とした。できるだけそれがすぐに「大正15年」のことであったということがわからないようにするために。
荒木 な~るほど。さっき吉田が言った『Mにもためらいやうしろめたさがあったから、その訪問時期は可能な限りぼやかしたかった』という心理がここでも同じように働いていたのか。
鈴木 そうか、このように考えればほとんどのことが辻褄が合うな。
吉田 まあ、あくまでも思考実験上でだけのことだけどな。とはいえ、かなり説得力はありそうだから一つの可能性としては棄てがたい。
しかも、今までの我々の考察によれば
Mの件の「下根子桜訪問」も、その際にMが露とすれ違ったことも共に虚構であった可能性が極めて高い。
ことがわかっているから、もはやこうなれば Mの件の「下根子桜訪問」も、その際にMが露とすれ違ったことも共に虚構であった。……①
と判断してもよかろう。荒木 そうか、件の「下根子桜訪問」は全てが虚構だった、これが今回の思考実験結果ということか。
現時点での仮説の検証結果
鈴木 実はな、今回私はあまりあからさまには言ってこなかったが、私自身は今回も基本的には仮説検証型の考察を行ってきた。そして何を隠そう、その際の私の仮説は今吉田がいみじくも言った“①”だったのだ。
吉田 だろ、それは僕も薄々感じてた。
鈴木 そしてここまでの検証の結果、この仮説“①”の反例となるものは今のところ何一つないはずだ。一方で、現通説の
昭和2年の秋の日Mは下根子桜を訪れ、その際に露とすれ違った。
の反例や反例らしきものが幾つか見つかったということこそあれ、現通説を裏付ける確たる資料も証言もM自身の証言以外には今のところない。とすれば、仮説“①”の反例が見つかるまでは、仮説“①”は現時点では最も妥当な判断であると言える。荒木 何だっけ、現通説の反例って?
鈴木 一つは以前に荒木もあげた、例の
(3) 昭和2年の夏までは露は下根子桜に出入りしていたが、それ以降は遠慮したという本人の証言がある。
があるし、そもそもM自身の証言 一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた。
があるじゃないか。荒木 そうか現時点で反例が2つもあるということであれば現通説はもはや砂上の楼閣。それよりは現時点では反例のない仮説
Mの件の「下根子桜訪問」も、その際にMが露とすれ違ったことも共に捏造であった。
が成り立つとするのが遙かに妥当だ。鈴木 ちょっと待て、私は「捏造」とはいっていないぞ、「虚構」だぞ。
吉田 たしかに捏造というのはちょっときついが、
件の「下根子桜訪問」は全てが捏造であった。
そう言った方が実はふさわしいのかもしれんな。なにしろ高瀬露の人格と尊厳をとことん傷つけてしまったのだからな。
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