みちのくの山野草

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「一九二七年の秋」と書くわけにはいなかった

2014-08-14 08:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
『宮澤賢治追悼』所収Mの「追憶記」には
 ところで、「昭和六年七月七日の日記」が所収されている『宮澤賢治と三人の女性』は昭和24年の発行だから、Mの記述「一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた。國道から田圃道に入つて行くと稲田のつきるところから…」はその訪問時から約21年後になされたものであるということになるので、「一九二八年…」の部分は記憶の間違いとも考えられる。
 ところが、実はそれよりもずっと前の昭和9年発行『宮澤賢治追悼』にも、これと似た内容のMの「追憶記」が載っていて、そこには
 一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた。途中、林の中で昂奮に真つ赤に上氣し、ぎらぎらと光る目をした女性に會つた。家へつくと宮澤さんはしきりに窓をあけ放してゐるところだつた。
 ――今途中で會つたでせう、女臭くていかんですよ……
          <『宮澤賢治追悼』(草野心平編輯、次郎社、昭和9年1月28日発行)33pより>
と記述されている。つまり、昭和9年頃でさえもMは「一九二八年の秋の日」と書いていることがわかる。
 ということは、Mの記述どおり下根子桜を訪ねたのが昭和3年の秋にせよ、通説の同2年の秋にせよ、それから約5年半~6年半後に出版された『宮澤賢治追悼』に所収されてこの「追憶記」は活字になっているわけだから、Mがその年を本来ならば昭和2年と書くべきところを昭和3年と不用意に書き間違えたとは普通は考えにくい。
 まして昭和9年と言えば、Mは岩手日報社の文芸記者として頻繁に宮澤賢治に関する記事を学芸欄に載せるなどして大活躍していた時期でもある。そのような新聞記者が、賢治を下根子桜に訪ねたのが、M自身が病気で長期療養中の昭和2年の秋だったのか、それともそれが癒えて岩手日報社に入社した昭和3年の秋だったのかを確認もせぬままに、その訪問時から6年前後の時を経ただけなのに間違えてしまったというケアレスなミスを犯してしまったというのだろうか。

『宮沢賢治 ふれあいの人々』では
 ところがである、さらなる問題が発生した。実は、昭和63年発行のMの『宮沢賢治 ふれあいの人々』所収の「高雅な和服姿の〝愛人〟」の中には
 羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日であった。そこへ行くみちで、私は一人の若い美しい女の人に会った。…(略)…
 その着物と同じように、ぱっと上気した顔いろに、私はびっくりした。少し前まで、興奮した「時間」があったのだなと私は思った。
              <『宮沢賢治 ふれあいの人々』(M著、熊谷印刷出版部、昭和63年)>
という記述があったからである。もちろん前後を読んでみればこの「女の人」とは露であることがすぐわかるし、これもMの下根子桜訪問時のことを素材にしていることがわかる。
 そしてお気づきのように、ここでも奇妙なことが起こっている。それは、こちらの本の場合でもその訪問時は通説となっている「昭和2年の秋」となっていないからである。しかも、こちらは「昭和六年七月七日の日記」にあるような「一九二八年の秋」ではなくて、「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋」、すなわち「大正15年の秋」ということになっているからである。
 この「昭和63年」頃であれば、『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年)が発行されてから10年以上も経っているのだから同巻所収の「賢治年譜」は関係者の間ではもう定着していただろうから、Mが下根子桜を訪問した時期が「昭和2年の秋〔推定〕」となっていることは彼自身が知らなかったはずないだろうし、その通説が「昭和2年の秋」となっていることもまたは弁えていたであろうのに、である。

新たな疑問
 さてそこで、ここでまでのことなどをまとめてみれば、Mはその訪問時期を
 ・『宮澤賢治追悼』(草野心平編輯、次郎社、昭和9年1月)所収「追憶記」                   :「一九二八年の秋」
 ・『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年9月)所収M著「追憶記」              :「一九二八年の秋」
 ・『宮沢賢治と三人の女性』(M著、人文書房、昭和24年1月)所収M著「昭和六年七月七日の日記」  :「一九二八年の秋」
 ・『宮沢賢治の肖像』(M著、津軽書房、昭和49年10月)所収「昭和六年七月七日の日記」         :「一九二八年の秋」
 ・『宮沢賢治 ふれあいの人々』(M著、熊谷印刷出版部、昭和63年10月)所収「高雅な和服姿の〝愛人〟」:「大正15年の秋」
とそれぞれに記述していることになり、いずれにせよ通説となっている「昭和2年の秋」を意味するような記述の仕方はしてないことがわかる。かたくなにそれを避けていると言える。ということは逆に言えば、実はMは「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかったということであり、やむを得ず、例えば「一九二八年の秋」としたのではなかろうかという新たな疑問が生ずる。
 となれば、『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)所収の「賢治年譜」には
 「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。
と付記しているが、これをそのまま放置しておくわけにはもはやいかないだろう。
 もっと踏み込んで、なぜMはかたくなに通説となっている「一九二七年の秋の日」と記述することを避けたのだろうかという疑問に答える必要があり、「一九二七年の秋の日」とは書けなかった理由が実はそこにはあったのではなかろうかということを探求せねばなるまい。

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