さて、『豊作飢饉』について無知だった私は『三上満さんが語る賢治と農業〈2〉』からそのからくりを知ることが出来た。三上氏は賢治のことにも触れながら『豊作飢饉』について次のように解説している。
賢治にとって大きな打撃だったのは、一九三〇年の豊作です。大不況の中での豊作で、米価は値下がり、一九三一年の春頃は、豊作飢饉の様相になっていた。あの頃は、米はまったく自由販売で、米の仲買人が買い付ける。場合に . . . 本文を読む
”やっと出会えた五庚申塔”で報告した春日神社近くに住んで居られる庚申講中のご老人から聞いたことで、まだ報告していなかったことが一つある。
それは、
その年の納めの庚申日に『七庚申塔』に色を塗る講中がある
ということである。このことを聞いて、私は心の中で『そういうことだったんだ』と膝を打った。
先ずはその前に、以前に疑問を呈したことがある色が塗られた『庚申塔』を紹介する。
《1 地蔵堂の庚 . . . 本文を読む
胡四王山のツクバネウツギについて報告する。
ツクバネウツギ(衝羽根空木)はスイカズラ科、ツクバネウツギ属の落葉低木で、林の中に生えている。
《1》(平成20年5月12日撮影)
《2》(平成20年5月12日撮影)
《3》(平成20年5月12日撮影)
《4》(平成20年5月12日撮影)
5枚の蕚片を残した果実がツクバネに似ているので、この名が付いたとのこと。
”みちのくの山野草”のト . . . 本文を読む
とうとう念願の五庚申塔に出会えたので報告する。
過日、花巻の狼沢や椚ノ目を彷徨ったならば沢山の石塔群があったので、またぞろ近辺を彷徨ってみた。
椚ノ目にも熊野神社があったが、その近くの小瀬川にもあった
《1 小瀬川熊野神社》(平成21年2月25日撮影)
である。境内にはやはり
《2 石塔群》(平成21年2月25日撮影)
があり、中には赤と黒で鮮やか文字が塗られた石塔の
《3 七庚申》(平 . . . 本文を読む
胡四王山のヒツジグサについて報告する。
ヒツジグサ(未草)はスイレン科、スイレン属の多年草であり、麓の沼に生えている。
《1》(平成20年6月24日撮影)
《2》(平成20年6月24日撮影)
《3》(平成20年6月24日撮影)
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さて、賢治が「雨ニモマケズ手帳」を書いた昭和6(1931)年頃、世の中はどうなっていたのだろうか。
農村の疲弊状態について、江口 圭一氏によれば
『農村の窮乏』
一九三〇年の空前の豊作飢饉で打撃を受けた農村は、三一年のいっそうの不況と窮乏に沈んだ。農産物価格の下落がつづき、農村需要品(工業製品)価格との差いわゆるシェーレがひろがった。下表(割愛)に示されているように、三〇年五月と三一 . . . 本文を読む
胡四王山のジュンサイにつて報告する。
ジュンサイ(蓴菜)はスイレン科、ジュンサイ属の多年草で麓の沼に生えている。
《1》(平成20年6月24日撮影)
《2》(平成20年6月24日撮影)
《3》(平成20年6月24日撮影)
水面に見える目玉は亀さんである。
《4》(平成20年6月24日撮影)
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では前回つくった《表8 賢治の生きていた頃の庚申と冷害・旱魃》から10年ごとの区切り部分を抽出して表にしてみると次のようになる。
《表9 10年刻みの冷害・旱魃回数(明治19年~昭和30年)》
1876~1885年の10年間→不作3回 『七庚申』1回
1886~1895年の10年間→不作2回 『七庚申』1回
賢治0?代(1896~1905年)→冷害2回・不作1回・『 . . . 本文を読む
胡四王山のジシバリについて報告する。
ジシバリ(地縛り)はキク科、ニガナ属の多年草とのこと。陽当たりの良いところに生えている。
《1》(平成20年5月12日撮影)
《2》(平成20年5月23日撮影)
《3》(平成20年5月23日撮影)
《4》(平成20年5月9日撮影)
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今回は賢治が生きていた時代の旱魃・冷害の被害がどれくらい酷かったのか。『岩手県農業史』(森 嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)を参照しながら明治19(1886)年~昭和30(1955)年について調べてみると次表のようになる。
まず、発生年については
《表7 賢治の生きていた頃の冷害・旱魃発生年》
明治21(1888)年 明治42(190 . . . 本文を読む
胡四王山のサワオグルマについて報告する。
サワオグルマ(沢小車)はキク科、キオン属の多年草とのこと。やや湿った草地に生えている。
《1》(平成20年5月7日撮影)
《2》(平成20年5月7日撮影)
《3》(平成20年5月7日撮影)
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賢治の作品の中には、次のような詩
『秋』
一九二六、九、二三、
江釣子森の脚から半里
荒さんで甘い乱積雲の風の底
稔った稲や赤い萓穂の波のなか
そこに鍋倉上組合の
けらを装った年よりたちが
けさあつまって待ってゐる
恐れた歳のとりいれ近 . . . 本文を読む
胡四王山のヒュウガミズキについて報告する。
ヒュウガミズキ(日向水木)はマンサク科の落葉低木であり、おそらく胡四王山のものは植栽されたものであろう。
《1》(平成20年3月30日撮影)
《2》(平成20年3月30日撮影)
《3》(平成20年3月30日撮影)
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ところで、なぜ今回このような五庚申塔を探し始めたのかというと、賢治は「雨ニモマケズ手帳」の最後のページにどうして”七庚申は1つなのに五庚申を2つも書いている”のかと云うことが切っ掛けであった。
そこでも、もう一度原点に戻るためにそのページを見てみよう。
【Fig.28 復元版「雨ニモマケズ手帳」165~166p】(校本宮澤賢治全集 資料第五 筑摩書房)
羽黒山などの供養塔のスケ . . . 本文を読む
胡四王山のエゾムラサキツツジについて報告する。
エゾムラサキツツジ(蝦夷紫躑躅)はツツジ科、ツツジ属の落葉低木で北海道や北東アジアに分布するという。したがって、早春の林の中に薄紫の美しい花を咲かせる胡四王山のものは植栽したものなのであろう。
《1》(平成20年3月30日撮影)
《2》(平成20年3月30日撮影)
《3》(平成20年3月30日撮影)
《4》(平成20年4月12日撮影)
《 . . . 本文を読む