みちのくの山野草

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賢治と中舘武左衛門

2014-09-05 09:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
『年表作家読本 宮沢賢治』より
鈴木 さてでは最後に残った一つについてだ。
 それは以前、荒木が『そこに高瀬露の名が出ているぞ』と教えてくれた
   (31)『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社、平成元年、197p)
に載っていることに関してだ。
荒木 そういえばそんなことがあったな。
鈴木 念のため、当該個所をもう一度見てみよう。昭和7年6月の出来事の一つとして、次のようなことがそこには述べられている。
 二二日 中舘武左衛門(盛岡中学の先輩で、自称「行者」)宛返書。賢治の病気の原因が、父母に背いたことや女性との関係にあるというような内容の手紙がきたらしい。「大宗教」の教祖、中舘に対して、言葉は丁寧だが厳然たる調子で反発している。
               <『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)197pより>
荒木 あっそうそう思い出した。そこには露の名は出てこないが、その頁の下段のところに註釈があってそっちに露の名が出ていたはずだ。どれどれ、やはり
 一時噂のあった高瀬露との関係についても「終始普通の訪客として遇したるのみ」と一蹴している。普通こうした中傷めいたことは、一笑に付して黙殺するはずだが、わざわざ反論しているのは、妹の死・父母への反抗・高瀬との関係、それぞれが、賢治の心の傷だったからかも知れない。
              <『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)197pより>
となっていた。
吉田 いやなかなか、著者山内氏の『心の傷だったからかも知れない』という見方には鋭いものがある。
鈴木 なおそこには続けて、「曾て賢治にはなかつた事」で取り上げたところの例の関登久也宅訪問事件が引用されている。
荒木 ということは山内さんは、この「厳然たる調子」の反発と「曾て賢治にはなかつた事」とは関連していると踏んでいるということか。たしかにどちらも似た雰囲気があるし、同じ昭和7年の出来事でもあるからな。
 ところで、そもそもこの中舘某という人物、今まであまり話題に登ってこなかったがどんな人物なんだ?

中舘武左衛門とは
鈴木 まずは『白堊同窓会会員名簿』を見てみると、
 明治43年3月卒 中舘武左エ門 一高・京大 本籍 気仙郡世田米村
となっていて、中舘は世田米村出身だがわざわざ盛岡中学に行き、その後一高を経て京都帝國大學法科に進んでいる。
荒木 え~と、賢治は盛岡中学をたしか大正3年に卒業しているはずだから中舘は盛中の五年先輩となりそうだな。
鈴木 一方中舘は、大正15年8月18日及び22日に『岩手日報』に「霧多布の海」というタイトルの随筆を寄稿している。とりわけその中で興味深いのは、その22日分の中に
 わたしは實に淋しい人である。この淋し味を慰めて鞭撻してくれるのは友人諸君である。花巻の佐藤金治君からは多年骨肉も及ばぬほどの應援を受けて來た。
             <大正15年8月22日付『岩手日報』四面より>
と述べているところだ。
吉田 この佐藤金治とは、例の賢治小学校時代の担任八木英三のクラスの三人の秀才「三治」のうちの一人であり、その中でも一番成績のよかった級長の佐藤金治その人のことだろう。もちろんその他の二人のうちの一人が宮澤賢治であり、もう一人が小田嶋秀治だ。
荒木 そうそう秀才の「三治」って聞いたことがある。そしてその金治の家は賢治の家の一軒おいて隣であったはずだから、金治から「多年骨肉も及ばぬほどの應援を受け」というほどに親密であった中舘であれば、その金治から賢治のことについては結構情報を得ていた可能性があるな。
鈴木 また、賢治は『昭和二年日記』の断片中の1月7日(金)分にこう書いている。
 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪
               <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)409pより>
したがって、中舘武左衛門は正月松の内に下根子桜の賢治の許を訪れるような人物だから、昭和2年頃の賢治は結構中舘と親しくしていて良好な関係にあったと思われる。
吉田 また、一番先頭に中舘の名前を書いているから賢治は敬意も払っていると推察できるね。

七月三十日付中舘武左衛門宛書簡
鈴木 それから、中舘は次のような書簡を賢治から貰っている。
昭和三(一九二八)年
241a 〔昭和三年〕七月三十日 中舘武左衛門あて 封書
  中館武左ェ門様    七月三十日
お手紙ありがたく拝誦いたしました。
ご労働のご様子ですが、どうかご無理をなさらぬやうねがひます。ご昇天は何時でもおできでせうから。ご来訪を期されるお方があるとのお言葉ですが、ご承知の通りのひどい外道であなたの様に 石からも鳥からも道を得られる方ならばともかく、まづ大低の所はご失望と軽べつに終られるのが例ですからなにとぞ齢くださらぬやうよろしくお伝へねがひあげます。
暑曇連日稲熱続発諸君激昂迂生強奔
            近状如件御座候
まづはご健康を祈りあげます。
            宮沢賢治
《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
               <『新校本宮澤賢治全集別巻(補遺篇)』(筑摩書房)27pより>
荒木 「書簡」というからには「書簡下書」ではないのかこれは。
鈴木 うん、これはそのものズバリの書簡だ。どうやら、この書簡は『新校本年譜』出版後に発見されたので同年譜にそのことは載っておらず、『同別巻(補遺篇)』で初めて公になったもののようで、実際に、同巻口絵にその手紙の写真が掲載されている。
【241a中舘武左衛門あて書簡(〔昭8〕・7・30)】

               <『新校本宮澤賢治全集別巻(補遺篇)』(筑摩書房)より>
吉田 おい、違ってるぞ。ほらこことここが。
荒木 あっそうだ。一方は〔昭和三年〕なのに他方は〔昭8〕だ。
鈴木 そうなんだよ。この書簡〔241a〕は以前少し触れたように、例の関登久也『昭和五年短歌日記』を所蔵しておられるU氏がお持ちだ。そこで、はたしてこれが昭和3年なのか、はたまた昭和8年なのか直接この目で確かめたかったので東海地方に住むU氏の許をこの前わざわざ訪ねたのだ。
荒木 しかも2回も。あげくそれはいずれも無駄足に終わったわけだ。
鈴木 悲しいかな、それは事実だ。

〔241a〕の日付は〔昭和三年〕七月三十日
吉田 いや待て待て、もしかするとそれはある程度特定できるかもしれないぞ。ちょっとそこの『校本全集第十三巻』を見せてくれ。おっ、サンキュー。
 いいか、この書簡〔241a〕の《用箋》は「丸善特製 二」原稿用紙ということだろ。そこで、この『同十三巻』でこのタイプの《用箋》が使われているものをピックアップしてみる。ちょっと待ってろ。
 まずは昭和8年分から遡って調べてみるぞ。……ないな。このタイプの《用箋》は昭和8年分には出てこない。それからえ~と…昭和7年にも出てこない。え~とえ~と、昭和6年についても同じだ。おっと昭和5年になってやと出て来た。
 〔284〕昭和5年11月 《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
となっている。それから…
 〔278〕昭和5年10月24日
 〔263〕昭和5年4月19日
 〔261〕昭和5年4月8日
 〔260〕昭和5年4月4日
 〔259〕昭和5年3月30日
よし、以上が昭和5年に《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙が使われているものの全てだ。
荒木 ということは、昭和6年以降はこの《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙が使われることはほぼあり得ず、一方少なくとも昭和5年はかなりそれが使われているから、この《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙が使われたのはほぼ間違いなく昭和5年以前。したがって、『241a中舘武左衛門あて書簡』はほぼ昭和5年以前のものとならざるを得ず、おのずから日付は〔昭8〕・7・30)ではなくて、
 書簡〔241a〕の日付は〔昭和三年〕七月三十日である蓋然性が極めて高い。
ということになる。
吉田 それにしても、「ご昇天は何時でもおできでせうから」などというような皮肉たっぷりな書き方をしていることを知ると、どうもこの書簡からは僕が持っている賢治のイメージとはほど遠い印象を受ける。
 そしてそれは、昭和7年6月22日付中館武左衛門宛書簡下書から受ける印象とよく似ている…。
鈴木 ということは、賢治と中舘との間の関係は昭和2年の松の内頃までは少なくとも極めて良好だったのだが、遅くともその約1年半後以降からはこれまた極めて悪化していたということになりそうだな。一体そこには何があったのだろうか。
荒木 それも気になるところだが、俺はこれで大体中舘のイメージが掴めたから、肝心のその昭和7年の中舘宛書簡下書の中身そのものを次に知りたいな。

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