この9月27日に種山を訪れたが、その際の物見山の報告を先ず行いたい。
種山高原『星座の森』を左手に見てアスファルト道路をしばし行けば物見山登山口の駐車場に着く。そこに車を駐めて物見山にちょっと一足。
《1 そろそろ草紅葉》(平成25年9月27日撮影)
が始まったようだが、さてこれらは
《2 ミソハギかそれともエゾミソハギか》(平成25年9月27日撮影)
よく見てみると、萼の付属片 . . . 本文を読む
では、9月26日に訪れた胡四王山のまだ未報告のものの報告をしたい。
《1 センウズモドキ》(平成25年9月26日撮影)
《2 オオバショウマ》(平成25年9月26日撮影)
《3 サラシナショウマ》(平成25年9月26日撮影)
《4 ミズヒキ》(平成25年9月26日撮影)
《5 イヌタデ》(平成25年9月26日撮影)
《6 オオイヌタデ(赤色)》(平成25年9月26日撮影)
《7 〃 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》(承前) どうやら、
大正15年の「ヒデリ」による大干魃の際に賢治は一切義捐活動をしなかった。と判断せざるを得ない、ということが分かった。もちろん、その「ヒデリ」の時に義捐活動は行わなかったが、その旱害罹災を気の毒に思って「ナミダヲナガシ」たことはあったかもしれない。さりとて、そのような「ナミダ」ならば流さない方が未だましだと罹災農民たちからは言われてしまうだろ . . . 本文を読む
この9月26日に訪れた胡四王山に今咲くキク科の花などの報告である。
《1 タムラソウ》(平成25年9月26日撮影)
《2 ダキバヒメアザミ》(平成25年9月26日撮影)
《3 何アザミ?》(平成25年9月26日撮影)
《4 センダイトウヒレン》(平成25年9月26日撮影)
《5 オヤマボクチ》(平成25年9月26日撮影)
《6 ノコンギク》(平成25年9月26日撮影)
《7 ユウガ . . . 本文を読む
この9月26日、一ヶ月振りに胡四王山を訪れた。
サクラタデでが結構美しかった。
《1 》(平成25年9月26日撮影)
《2 》(平成25年9月26日撮影)
《3 》(平成25年9月26日撮影)
《4 》(平成25年9月26日撮影)
《5 》(平成25年9月26日撮影)
《6 》(平成25年9月26日撮影)
続きの
”胡四王山(9/26)のキク科”へ移る。
前の
”いまの胡 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》 先に〝当時賢治は何をしていたのか〟で触れたことだが、伊藤克己がそのようなことに関しては一言も触れていないからといって、賢治がそのときに義捐活動をしなかったという結論はもちろんできないのではあるが……。
賢治は義捐活動をしたか
さて、賢治が楽団活動を止めたとなれば、それと同時にそれ以降賢治は義捐活動の方に力を割きその活動に邁進したとも考えられる。
なぜならば、 . . . 本文を読む
9月23日に訪れた矢巾「水辺の里」の報告の最終回であり、まだ報告していなかった花などの投稿をする。
《1 ナギナタコウジュ》(平成25年9月23日撮影)
《2 オトコエシ》(平成25年9月23日撮影)
《3 ツリフネソウ》(平成25年9月23日撮影)
《4 ノブドウ》(平成25年9月23日撮影)
《5 クルマバナ?》(平成25年9月23日撮影)
《6 ニラ》(平成25年9月23日撮 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》即刻止めたのは楽団
一般には、この2月1日付『岩手日報』の報道を境にして賢治はそれまで羅須地人協会で行っていた活動から次第に手を引いていったと言われているようだ。
具体的には、伊藤克己が「その當時思想問題はやかましかつたのである。先生はその晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いては濟まない」と証言しているような理由で「オーケストラを一時解散」したということが先ずあ . . . 本文を読む
9月23日に訪れた矢巾の「水辺の里」に咲くキク科の花などの報告である。
《1 コメナモミ》(平成25年9月23日撮影)
《2 アメリカセンダングサ》(平成25年9月23日撮影)
《3 アキノノゲシ》(平成25年9月23日撮影)
《4 ダンドボロギク》(平成25年9月23日撮影)
《5 イヌヨモギ》(平成25年9月23日撮影)
《6 ヤクシソウ》(平成25年9月23日撮影)
《7 オ . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》広がる旱害罹災地
さらには、次のような報道があった。
【Fig.1 昭和2年1月23日付 岩手日報】
知事夫人が 旱害罹災者慰問 内務部長夫人と 共に二十五日からとあり、次の県下各地の旱害罹災地
▲紫波郡赤石、不動村
▲和賀郡中内、谷内村
▲江刺郡羽田村
▲西磐井郡日?村を訪問するという。このことからは、旱害被害は紫波郡や稗貫郡のみにとどまらず、少 . . . 本文を読む
矢巾の「水辺の里」に今咲いているタデ科の仲間の報告である。
《1 ミゾソバ》(平成25年9月23日撮影)
葉は牛の額の形をしている。
《2 アキノウナギツカミ》(平成25年9月23日撮影)
葉は茎を抱き、茎には下向きの刺あり。
《3 タニソバ》(平成25年9月23日撮影)
他のタデ科より丈が低く、びっしり生えている傾向あり。
《4 イヌタデ(奥の山は南昌山)》(平成25年9月23日 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》紫波一帯は凶歉
前回触れたように、昭和2年1月9日付『岩手日報』によれば旱害被害は赤石村のみならず、不動村や志和村も同じ様な惨状にあるということであったが、同年1月19日付同紙によれば、古館村の旱害被害も甚大だったという次のような記事もあった。
【Fig.1 昭和2年1月19日付 岩手日報】
得能知事が旱害地視察 寒さと飢えになく村民 正視するに忍びない . . . 本文を読む
9月23日に訪れた「水辺の里」の木の実の報告である。
《1 ツリバナ》(平成25年9月23日撮影)
《2 〃 》(平成25年9月23日撮影)
《3 〃 》(平成25年9月23日撮影)
《4 サワグルミ》(平成25年9月23日撮影)
《5 ウワミズザクラ》(平成25年9月23日撮影)
イヌザクラかウワミズザクラの区別は花期ならば区別しやすいが、果実の時は難しい。ところが実は、
イ . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》 さて、大正15年末の12月25日に大正天皇が崩御したので、大干魃関連の報道はその直後から途絶え、崩御に伴う報道が紙面の殆どを占めることになった。
明石村の旱害救済
年が明けて昭和2年となると、1月5日の紙面に久し振りに赤石村などの旱害罹災民の報道が載った。それは新春に相応しい明るい記事であり、その内容は以下のようなものであった。
【Fig.1昭和2年1月5日 . . . 本文を読む
この9月23日、南昌山に行ってみようと思って出かけたのだったが、残念なことにこの前の豪雨で被害を受けたということで矢巾温泉から向こうの道路は通行止めだった。
そこで、その近くにある「水辺の里」へ行き賢治の歌碑などを見ようと思って訪ねたところ、嬉しいことに
《1 》(平成25年9月23日撮影)
《2 》(平成25年9月23日撮影)
《3 》(平成25年9月23日撮影)
《4 》(平成25 . . . 本文を読む