みちのくの山野草

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「若しや旧名高瀬女史の件」とは何か

2014-09-08 08:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
広がる賢治の良からぬ「風聞」
吉田 とは言っても、これから話すことは一部推測部分もあるので思考実験だからそのつもりで聞いてほしいのだが、他でもない「聞き込みたる、若しや旧名高瀬女史の件」とはいまの証言内容のことだったのだよ。おそらく。
鈴木 あっそうか、つまり
 「聞き込みたる、若しや旧名高瀬女史の件」=「賢治は昭和7年に遠野に露を訪ねてきていた
という等式が成立する可能性が大だということか。
 ちなみにこの件に関して『新校本年譜』は
 身辺聞き込みのことは高瀬女史の風聞かもしれぬが、神明に誓って終始普通の訪客として遇したのみであること、聞き込みなどと岡っ引きの使うような言葉を新宗教の開祖が使うべきでなかろう。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)487pより>
というように解釈している。
荒木 そおかそおか、なるほどな。「若しや旧名高瀬女史の件」とは「賢治は昭和7年に遠野に露を訪ねてきていた」という露に関する「風聞」のことだったのか。
吉田 知ってのとおり、露が嫁いだ小笠原家といえば遠野南部の名家中の名家だ。その名家に嫁いだばかりの露の許にあろうことか独身の男性賢治が訪ねて行ったのだ。普通そんなことをしたら訝しく思われるだろう。
 しかも恐らく、このような事柄に対しては無防備な性向がある賢治のことだから、小笠原家の家柄のこともさらにあってそのことがたちどころに周辺に良からぬ「風聞」となって広まってしまったのだ。
荒木 たしかにな、もし賢治の遠野訪問が事実であったとしたならば、結婚したばかりの露のところへその頃は定職についてもいなかった賢治が訪ねて行ったのだから、小笠原の家格のこともありその賢治の訪問はたちまちスキャンダルになった可能性大だ。
吉田 また、喜善は昭和7年4月~5月、エスペラント講習会を開くために花巻に滞在していた<*1>から、そのスキャンダルは喜善の知るところとなった可能性もある。
 しかも、先ほどの書簡下書〔422a〕には「新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき由佐々木喜善氏より承はり」とも書かれていることから、中舘と喜善とは親交があったということも考えられる。
鈴木 あるいは中舘と佐藤金治<*2>とは親密だったから、それも含めたいずれかのルートを通じてこのスキャンダルが中舘の知るところとなった。
荒木 したがって、賢治は中舘に対して
    新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることありなど
と述べてはいるものの、わざわざ「岡つ引き」のするような「聞き込み」などせずともおのずから聞き知ったという意味での「聞き込み」によってその「風聞」を中舘は知ったのかもしれんな。

中舘と賢治との丁々発止から言えること
鈴木 そこでこのスキャンダルを知った中舘はここぞとばかりに思い立った。というのは、以前書簡〔241a〕で
 ご昇天は何時でもおできでせうから。…(略)…ご承知の通りのひどい外道であなたの様に石からも鳥からも道を得られる方ならばともかく、まづ大低の所はご失望と軽べつに終られるのが例ですからなにとぞ齢くださらぬやう
と賢治からたっぷりと皮肉られていたこともこれあり、江戸の敵を長崎で討とうとして賢治に「先祖の意志と正反対のことをなし、父母に弓引きたる」という意味の皮肉いっぱいの手紙を賢治に寄越した。そしてその中にはこのスキャンダルがらみのことも中舘は書いておいた。その部分が、賢治の中舘宛下書稿〔422a〕で「心配の何か小生身辺の事」と書いているところに相当していたのだろう。
吉田 そこで賢治は
 別に心当たりも無之、若しや旧名高瀬女史の件なれば、神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみに有之。
というように、露との間には何も特別のことはありません「普通の訪客として遇したるのみに」と弁明し、返す刀で
 憑霊現象に属すると思はるゝ新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき由佐々木喜善氏より承はり此等と混同せらるゝ様有之ては甚御不本意と存候儘何分の慎重なる御用意を切に奉仰候
とか、
 新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることありなど俗語を為さしめたるをうらむ次第に御座候。この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝。
とこれまた辛辣な言葉を連ねて中舘に逆襲した。
荒木 そこには二人の間で相当激しい言葉のやりとり、丁々発止があったということはこれでもはや明らかだから、この「風聞」は実はかなりの問題行動であると周囲からひどく顰蹙を買っていたということが考えられるべ。
吉田 つまり賢治は痛いところを中舘から突かれたから内心怒り心頭に発していたので、またもや辛らつな言葉で「却つて新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることありなど俗語を為さしめたるをうらむ次第に御座候。この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝」と締めくくって、虚勢を張ったのかもしれん。
荒木 あっわかったぞ。賢治は皮肉を連ねてはいるけど、内心怒り心頭だった。この時の賢治の激昂振りと「曾て賢治にはなかつた事」のそれとはそっくりではないか。これで繋がった。これのことだったのだな、吉田が先に「この娘さんの証言で全部繋がりそうだ」とのたもうたのが。
鈴木 な~るほど、そういうことだったのか。
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<*1:投稿者註>佐々木喜善の昭和7年の日記には
  四月十三日 風
 午前中、中舘に行く。午後宮沢賢治氏の病室へ行つて三、四時間話す。夜食は中舘さんによばれる。講習所で十一時半頃まで話してかへる。日詰の佐藤春文さんの妻君に会ふ。よほど慣れて来た。
 講習会をやつていると盛にラッパや軍歌がきこえた。こんやいたちぺい稲荷さんが満州より帰らへるといふのである。今夜此処で二ヶ所の神様がかへられるさうである。
  四月十四日 晴
 午前中、中舘からむかへが来たので行つて見る。二、三時間聞いて□□の神々の戦地へ御立ちになることなど聞く。息子さんが東京から帰つて来て、今夜十二時過ぎまで話しこんでかへる。
 妻に葉書を出す。岡村君から手紙来る。
  四月十五日 大雨  
 とてもの雨だつた。夜一時頃まで話した。いろいろな話があつた。帰へり寝たのは二時であつた。これではとても体がたまらぬと思つた。武藤君から葉書が来ていた。
  四月十六日 雨
 朝、中舘へ行つて主人と話をしているうちに雨が降り出し、傘をかりて来た。其足で宮沢君のところへ行つて夕方まで話した。それからまた夜は雨に降られて帰つた。宮沢君のところではいろいろのものを作つて御馳走になつた。
  五月二十六日 晴
 中館さんのところへ行つて見る。宮沢君のところに行かうと思つたが止した。講習生の別の一人が来た。心持ちよく稽古が出来た。
 照井君のところに6号金ペン、パイロツトをあづかつて来る。
              <『佐々木喜善全集 Ⅳ』(遠野市博物館)546p~より>
 このように、当時の喜善の日記の中には「中舘さん」という名前が頻出している。私はこの「中舘さん」が中舘武左右衛門であった可能性があるとも思った。実際、賢治の実家の真向かいの「中留酒店」は中舘姓の当時は大きな造り酒屋さんだったというし、その他にも中舘姓の家が花巻にはあり、いずれも出は遠野であると聞いていたか。そこで、「中留」さんのお宅にお邪魔して「こちらと世田米の中舘武左右衛門さんとはご親戚なのでしょうか」等とお訊ねしてみたのだが、当主の方はよくわからないということだった。
 そこで次に遠野博物館にも出掛けていって同じことをお訊ねしたが、現時点では把握していないということであった。
<*2:投稿者註> 大正15年8月18日及び22日付『岩手日報』に「霧多布の海」というタイトルの随筆を中舘は寄稿していて、その中にて
 わたしは實に淋しい人である。この淋し味を慰めて鞭撻してくれるのは友人諸君である。花巻の佐藤金治君からは多年骨肉も及ばぬほどの應援を受けて來た。
             <大正15年8月22日付『岩手日報』四面より>
と述べていて、中舘は佐藤金治からひとかたならぬ「應援を受けて來た」ということのようである。
 なお佐藤金治とは、例の賢治小学校時代の担任八木英三のクラスの三人の秀才「三治」のうちの一人であり、その中でも一番成績のよかったのが級長の佐藤金治であったという。もちろんその他の二人のうちの一人が宮澤賢治であり、もう一人が小田嶋秀治だ。なお、金治の家は賢治の家の一軒おいて隣であったともいう。

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