〈『新校本 宮澤賢治全集〈第14巻〉雑纂 校異篇』(筑摩書房)口絵より〉> さて、今度は「47 施肥標準試験」(新校本では〔教材用絵図 四九〕)についてだが、
【47 施肥標準試験】
〈『宮澤賢治の世界 教材用絵図』(高村毅一、宮城一男編、筑摩書房)96p〉
『宮澤賢治の世界 教材用絵図』においてはおおよそ以下のような解説がなされていた。
この棒グラフの絵図は、稗貫郡の十三ヶ町村のそれぞれの選 . . . 本文を読む
〈『新校本 宮澤賢治全集〈第14巻〉雑纂 校異篇』(筑摩書房)口絵より〉
さて、前々から気になっていた羅須地人協会での講義用に作成されたという〔教材用絵図〕についてだが、この度、『宮澤賢治の世界 教材用絵図』(高村毅一、宮城一男編、筑摩書房)を見ることができて幾つかのことを知った。
まずは「48 肥料用量試験」(新校本では〔教材用絵図 四五〕)を見てみる。
【48 肥料用量試験】
. . . 本文を読む
〈『下根子桜の朝』平成23年11月11日撮影〉【米田利昭の論文「宮沢賢治の手紙」より】
米田は、このようなことも論じていた。
高瀬露、賢治の知り合った女性のうち最も大切な人とわたしには思われるこの人にあてた(と見られる)手紙の下書が幾つか残されている。何故大切かといえば、「賢治をめぐる四人の女性」などといわれるが、初恋の看護婦はその名前さえ特定できず、いわば跡かたもなく、伊藤チヱ自身があの人 . . . 本文を読む
〈『下根子桜の朝』平成23年11月11日撮影〉【米田利昭の論文「宮沢賢治の手紙」より】
米田は、昭和2年の幾つかの賢治書簡を引いて、それぞれ次のようなことを述べていた。
まずは、昭和2年1月30日付伊藤清一宛書簡を引いて、
伊藤清一に、地元での農業講話の講師を引き受ける件をことわっている。「只今の仕事が学校や役所へ挑戦的でありますので……不遜の譏りを免れません」と。自分でも知っていたのだ、 . . . 本文を読む
〈『下根子桜の朝』平成23年11月11日撮影〉【米田利昭の論文「宮沢賢治の手紙」より】
次に米田は、大正15年12月12日付政次郎宛て書簡を引いているのだが、その解説文の中に
見合いも作業衣で通した(5)らしいが 〈駒沢女子大学「研究紀要」創刊号 平成六年十月、66p〉
があり、この(5)の註釈が、
伊藤チヱの姪の伊藤ツルさんによると、賢治はチヱとの見合いにも普段の . . . 本文を読む
〈『下根子桜の朝』平成23年11月11日撮影〉【米田利昭の論文「宮沢賢治の手紙」より】
さらに米田は、こうダメ押ししていた。
百姓をしながら短歌や俳句を作るといった金のかからぬものでなく、彼の選んだものは金のかかる、バタ臭い、村民の感情を逆撫でするようないわば前衛演劇で、そのために東京駅行きは必要だった。とにかく「教師をやめて本当の百姓になる」の〈本当の百姓〉の中身が、普通の解釈と賢治の意味 . . . 本文を読む
〈『下根子桜の朝』平成23年11月11日撮影〉【米田利昭の論文「宮沢賢治の手紙」より】
米田は、こうも述べていた。
「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい/もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい」
「曾ってわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた/そこには芸術も宗教もあった/いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである/宗教は疲れて近代科学に置換され然も . . . 本文を読む
〈『下根子桜の朝』平成23年11月11日撮影〉【米田利昭の論文「宮沢賢治の手紙」より】
米田は、このようなことも述べていた。
十五年四月四日、やはり森に、
「学校をやめて今日で四日木を伐ったり木を植ゑたり…(投稿者略)…もう厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました。東京へその前にちょっとでも出たいのですがどうなりますか。」と東京へ出たいを繰り返している。目的は、実際に後で東京へ出た時 . . . 本文を読む
〈『下根子桜の朝』平成23年11月11日撮影〉【米田利昭の論文「宮沢賢治の手紙」より】
米田は、このようなことも述べていた。
…(投稿者略)…百姓することと劇団を作ることとが、賢治にとっては表裏一つのことだった。
しかしこれにはもう少し内面的な繋がりもあった。百姓をしながら芸術活動をするでは、誰しも大正中期に武者小路実篤の始めた「新しき村」を思い浮かべるだろう。友の保阪が武者小路の心酔者 . . . 本文を読む
〈『下根子桜の朝』平成23年11月11日撮影〉
【米田利昭の論文「宮沢賢治の手紙」より】
次に米田は、大正14年4月13日付け杉山芳松宛簡205を引いて、
教え子で樺太の王子製紙につとめた杉山芳松にあてて、
『わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに創ったりしたいと思ふのです。 . . . 本文を読む
〈『下根子桜の朝』平成23年11月11日撮影〉
【米田利昭の論文「宮沢賢治の手紙」より】
今年ある方から、米田利昭の論文「宮沢賢治の手紙――教師をやめて本当の百姓に、羅須地人協会の頃――」のコピーを頂いた。興味深い内容と共に、賢治研究に対する冷静で客観的な姿勢を知って、私は頷きながら何回か読ませて頂いた。
そこで、今回はこの論文を改めて読み直しながら少し私見を述べてみたい。
まず同論文の . . . 本文を読む
《1 》(平成31年2月10日撮影)
《2 》(平成31年2月10日撮影)
《3 》(平成31年2月10日撮影)
《4 》(平成31年2月10日撮影)
《5 》(平成31年2月10日撮影)
《6 》(平成31年2月10日撮影)
《7 》(平成31年2月10日撮影)
《8 》(平成31年2月10日撮影)
さて、今から92年前の本日、昭和2年2月10日(木)には、『新校本年譜』によ . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 さて、ここではよく知られている大正15年4月1日付『岩手日報』の例の記事をまず確認してみよう。それは以下のような内容であった。
新しい農村の建設に努力する
花巻農學校を辞した宮澤先生
花巻川口町宮澤政治(ママ)郎氏長男賢治(二八(ママ))氏は今囘縣立花巻農学校の教諭を辞職し花巻川口町下根子に同志二十餘名と新しき農村の建設に努力 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》賢治の「不羈奔放さ」
さてここまでの、とりわけ「羅須地人協会時代」の検証作業を通じて、賢治に関する「通説」や「年譜」において常識的に考えておかしいところはほぼおかしいと判断しても間違いないということを覚ってしまった私だが、これで「羅須地人協会時代」における検証作業はほぼ一通り終えてしまったつもりだ。
ただし最後に、これまでのことを踏まえて、今まで実は私の . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 さて、ここまで10年間ほどかけて賢治のことを調べてきた私の主たる理由は何かというと、それは今から約半世紀前に恩師の岩田純蔵教授が、
賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。という意味のことをある時に嘆いたことである。実は岩田教授は賢治の甥(賢治の妹 . . . 本文を読む