みちのくの山野草

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『昭和五年 短歌日記』実は「昭和6年」用

2014-08-29 09:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
『昭和五年 短歌日記』の持ち主はU氏
鈴木 実はそもそも、この平成15年7月29日付『岩手日報』で“関徳弥の『昭和五年 短歌日記』発見”という新聞報道があったことを知ったのは、私がしばしばお邪魔している矢巾温泉の古書店『イーハトーブ本の森』の店主高橋征穂氏から聞いたからなんだ。他でもないこの新聞報道の際に
   日記を入手した北上市花園町の古書店経営、高橋征穂さんが…
と紹介されている高橋さんその人だ。
 そして高橋さんは、徳弥のその『昭和五年 短歌日記』を東海地方に住まわれるU氏に売ったということも教えてくれたのだが、私にとって東海地方はあまりにも遠くて行けそうもない。そこで先ずは北上市の『現代詩歌文学館』に行ってみたというわけだ。
荒木 その結果、「関が一九三〇(昭和五)年に書いたとみられる日記」と報道された同日記が、鈴木から見れば筆跡が確かに関徳弥のものであることは判ったし、新発見の日記の曜日欄が消されていたということも確信できたが、それだけでは曜日欄が消された訳までは知ることなどできなかった。そこで、何はともあれその現物を見るしかないと思ったんだべ。
鈴木 まさにその通り。こうなると東海地方に住まわれているU氏を直接訪ねるしかないと思って、高橋征穂氏にお願いしてU氏の住所と電話番号を教えてもらった。直接U氏にお電話をした。U氏には高橋征穂氏から紹介していただいたことを告げながら、直接お邪魔して徳弥の『昭和五年 短歌日記』を見せていただきたいこと等をお願いしたところ快く承諾していただいた。もちろん新聞報道の写真上では曜日の欄が消えた跡があるので直接拝見したいことと共に、この方は書簡『中舘武左衛門宛〔241a〕』もお持ちになっているということを私はある方から教えてもらっていたので、その書簡も見せていただきたい旨も併せて申し述べ、平成25年7月のある日に訪問していいと承諾をいただいたのだった。
荒木 ところでなんだ、その中舘云々というのは?
鈴木 実はこの中舘武左衛門宛書簡は『新校本宮澤賢治全集別巻(補遺篇)』(筑摩書房)で公になっているものだが、同書においてはその日付が
   口絵:〔昭和8〕・7・30
となっているのに、
   本文:〔昭和3〕七月三十日
となっているんだ。
荒木 ちょっと変だな。
鈴木 実は、これと似たことは詩人時代社編輯部宛書簡〔446〕においてもあるんだ。その場合も、昭和3年と昭和8年の混乱がある。
吉田 なるほど。考えてみれば数字の「8」と「3」はスタンプで押された場合にかすれれば似ているからな、人間の意思が入り込める余地がある…。

一回目のU氏訪問
荒木 それでその訪問結果はどうだった?
鈴木 私は喜び勇んで、JRの乗車券を買い、宿を予約してその出発の日を首を長くして待っていた。すると、その出発の前日U氏から都合が悪くなったので明日は無理になったとご連絡を頂いた。
吉田 そうかそれは残念。
鈴木 そこで私は、それでは明後日にお訪ねしますということで承諾を頂き、出発は予定日通りの日にした。初日は、実は前々から一度訪れてみたいと思っていた身延町に行って久遠寺の賢治碑を見て、その後韮崎市に行って保阪嘉内のことを調べ回ればいいかと思ったからだ。
 するとその初日、久遠寺を見終えて身延線に乗って韮崎に向かっていたところへU氏から携帯に電話が入り、明日も仕事の都合で会えなくなったという連絡が入ったのでやむを得ず諦めた。まあその日は韮崎に泊まって、保阪嘉内に関連する場所を訪れたりして幾ばくかを知ることができはしたが、正直泣き泣き花巻に戻った。
荒木 何、またもやか。始めっから会うつもりなんかなかったのじゃないのか、U氏は。
鈴木 それは薄々感じた。そもそもこの曜日の消去の経緯については、日記の持ち主に会って日記の現物を見ればばかなりわかるはずだと私は思っていたから、先の古書店主高橋征穂氏にはその経緯を訊いてみていなかったので、とりあえずはU氏訪問の顛末報告方々高橋氏を訪ねて、あの新聞に載った日記の曜日が消されているのはなぜだったのでしょうかと訊いてみた。
吉田 その回答は?
鈴木 そのことは気にも留めなかったし、そのことが当時話題になった記憶もないということだった。
荒木 そこで、しつこさがウリの鈴木のことだ、やはりその現物、徳弥の『昭和五年 短歌日記』を見るしかないと再度思ったんだべ。
鈴木 わかるか? そうなんだよな。しかし、年金暮らしの私がまた東海地方まで行くのはお金もかかるので無理。そこで、U氏にお電話をしてその日記には例えば「元日」の曜日欄は消えているのか、もし消えていれば曜日は何と記載されているのでしょうか、せめてそこだけでも教えてもらえないでしょうかと懇願したところ、それではその旨手紙で連絡して下されば調べてご返事をしますということだった。
吉田 その曜日がどう書いてあるかで、実はその日記が書かれた年が昭和何年であったかがわかると踏んだわけだな。
荒木 それでそれで、元日の曜日欄には何と書いてあったというのだ?

二回目のU氏訪問
鈴木 ところが待っても待ってもその返事が来ないのさ。私もしつこいとは思ったが、どうしても諦めきれず二ヶ月程経ってから再度そのお願いの手紙を出した。しかしやはり梨の礫さ。
荒木 そうか、だからこの前もまたその東海地方に「大人の休日倶楽部パス」を使って行ってきたという訳だったんだ。
鈴木 年金暮らしの私の場合にはそうでもしないと無理。そして、今度は事前には連絡せずに直接U氏のお宅にお邪魔した。
吉田 どうせ約束してもドタキャンされたのでは意味がないからな。
鈴木 そうなんだ。すると、今度はU氏に会えた。会っただけで、この方はいい人だと直感した。遠いところわざわざ訪ねて来て下さってと仰って、その日記を見せてくれるということで奥の方に行った。私は再度訪ねて来た甲斐があったと心の内で快哉を叫んだ。
 ところが戻ってきたU氏の返事は、ちょっと事情があって今は見せられないので夕方また連絡して欲しいというものだった。そこで私は宿を取って夕方を待って連絡した。
荒木 じれったいな、それで結局…
鈴木 結論を言えば、見ることが出来なかった。夕方電話をしたところ、本が沢山あってその日記が紛れていてどこにあるか今は不明なので探してみますから、また明日連絡をしてくださいということだった。するとその明くる日の昼前に連絡が入り、探してみたのですがその日記は見つかりませんでしたというものだった。
荒木 なんだ、結局また無駄足だったのか。
鈴木 そうなんだ、一時のぬか喜びに過ぎなかった。
吉田 何かあるんだよ。その裏には深い事情が…。
鈴木 割り切れなさを感じつつ、世界遺産になった富士山を眺めながら私はしょぼくれてそこを後にした。
 花巻に戻ってから、再び高橋征穂氏にその報告に行った。高橋さんは非常に訝っていた。あの日記は「○○○万円で売った」ものだから、他の本と紛れるようなところに保管などしておくはずがない、と。
 それでは最後の頼みの綱と思って、私は先の新聞報道の際の記者会見で高橋征穂氏と同席した牧野立雄氏を紹介していただて、ついこの前牧野氏とお会いした。
吉田 それでその結果は?
鈴木 牧野氏からは、その日記の曜日欄の記載に関しては特に話題にも問題にもなったことがないという回答だった。
吉田 進展はなかったのか。

『昭和五年 短歌日記』は昭和5年に書かれたものでない可能性
鈴木 それを受けて私はまた高橋氏を訪れて、次のような話しをした。
 高橋さんには申し訳ございませんが、どうやら同日記の曜日欄が消されていたのは始めからであり、ついては逆に、同日記は昭和5年のものではないという可能性が高いと私は思っておりますが。
と。すると高橋さんは、それはあり得ることだと肯って下さったので今こうやって二人に喋るんだが、前に荒木も言ったように
 徳弥の『昭和五年 短歌日記』は実は昭和5年に書かれたものではなく、他の年に徳弥がそれを使って書いた日記である可能性が極めて高い。
と判断し、次に進むしかないと覚悟した。
吉田 “徳弥の『昭和五年 短歌日記』”の曜日欄の記載が明らかに人の手で消されていることは間違いないから、それが消されているという事実がまさにあの記述内容は昭和5年のものではないということの証左であり、この推論は当然の帰結だろう。
 しかしだ、たしかに“徳弥の『昭和五年 短歌日記』”の元日の曜日欄等がどうなっているかを知ることによってそれが何年に書かれたものであるかということは特定しやすくなるだろうが、このルートはたぶんその裏に深い事情があると思われるのでこれ以上もう踏み入ることはできないだろうから、このまま当面保留にしておくしかない。
 その代わり、僕たちの調べ方次第によっては“徳弥の『昭和五年 短歌日記』”と言われているその日記が書かれた年を絞り込むことだって可能かもしれないから、これからはこちらのルートで探ってみよう。
鈴木 なお、徳弥は物を大切にする人だったというようなことを私は仄聞しているから、たまたま未使用の『昭和五年 短歌日記』が手に入ったのでもったいないと思った徳弥が、曜日の部分だけを消して他の年に使ったと推測している。
荒木 そうそう、俺もその可能性はあると思ってた。それじゃ、この日記は昭和何年に使われた徳弥の『短歌日記』なのかを、そのルートで特定してみっぺ。

関徳弥の『昭和五年 短歌日記』は何年に書かれたか
鈴木 まずさっきの写真【関徳弥の『昭和五年 短歌日記』の10月5、6日の日記】を見てくれ。ここで改めて確認したいのが、この曜日欄の曜日が人の手によって消されていることだ。
荒木 それは一目瞭然。
鈴木 また、この日記を発見した当の高橋征穂氏がその日記は「昭和5年」であるということを言っているし、牧野氏もそれを否定はしていない。もちろん新聞報道でもそれは「昭和5年」のものであるという。
 したがって、“徳弥の『昭和五年 短歌日記』”は「昭和5年」用として発売された日記であることもまた間違いないと判断できる。
荒木 ところが、曜日欄の曜日が消されているということから、この日記を書いた徳弥はこの日記を「昭和5年」として使ったわけではなく、他の「年」用に使ったということ以外には考えられない。
吉田 それも、「十月六日」の場合などは消したということがありありと判る消し方であり、気付かれないように消そうというような魂胆などはないことが明白だから、別の企みがあるとも思えないないしな。
荒木 それでは、
   関徳弥の『昭和五年 短歌日記』は「昭和5年」以外の年に書かれた。
という結論でいいんでないべが。
鈴木 じゃあ次だが、私たちの喫緊の課題は、徳弥はこの日記を何年用として使ったのかを推理し、できればその年を特定することだ。
吉田 まずは、この日記が「昭和5年」用であることは確かだと考えていいのだから、「日記」の性格上「昭和5年」以前に使われたということはあり得ない。一方で、昭和8年以後もあり得ない。賢治は昭和8年の10月にはもはや亡くなってしまっていたからだ。
 となれば、その可能性は
  昭和6年か同7年
のいずれかでしかない。
 そこでだ、そのパソコンで『万年カレンダー』を今見てくれ。昭和6年と7年の10月4日~6日の曜日がどうなってる?
鈴木 ちょっと待て、ちょっと待て、え~と、
  昭和6年の場合:10月4日(日)、10月5日(月)、10月6日(火)
  昭和7年の場合:10月4日(火)、10月5日(水)、10月6日(木)
だ。
 それから、上田哲の「「宮澤賢治伝」の再検証(二)-<悪女>にされた高瀬露-」によれば、露は
 一九三二年〈昭和七年三月三十一日任上閉伊郡上郷尋常高等小學校尋常科訓導但本科正教員勤務〉(この転任は、遠野の人小笠原牧夫と結婚のための転居によるものである。)
ということだが、昭和7年4月11日牧夫と結婚、昭和7年の10月の露は遠野在住、勤務先はもっと釜石よりの上郷村だ。となれば、昭和7年に上郷小學校勤務の露がウィークデイの10月4日~6日の間に花巻の徳弥の家に2回もやって来るのは容易なことではない。
 そうそう、荒木が当時の岩手軽便鉄道の時刻表等を調べてくれると言っていたよな。そっちの方はどうだった?
荒木 もちろんだ。ただしそれは昭和5年の「岩手軽便鉄道の時刻表」<*1>だがそれほどの違いはなかろう。その時刻表によれば、
   遠野→花巻の本数は一日6本で、遠野始発は 5:30、同終発は 17:55
逆に、
   花巻→遠野の本数も 同 6本で、花巻始発は 5:40、同終発は 17:27
だ。そして、花巻~遠野間の所要時間は約2時間50分ほど。なお、当時露は上郷小學校に勤めていたということであれば上郷駅から乗ることとなり、
   花巻行き 上郷駅発 10:10、12:35、15:45、17:05
の4本、花巻までの所要時間は約3時間10分ほどだ。
 ちなみに、花巻~遠野の当時の運賃は
   特等:2円52銭
   並等:1円44銭
となっている。
鈴木 そうか、賢治が自費出版した『春と修羅』が2円40銭だったから、「特等」の運賃はほぼそれと同じ額だったことになるのか。

『昭和五年 短歌日記』は昭和6年に書かれた
吉田 これで、昭和7年の線はほぼ消えたな。
 結婚したばかりの露が、平日勤務の上郷小學校からたった4本しかなかった軽便鉄道に乗って約3時間ちょっとをかけて花巻にやって来て、新聞報道によれば
 昭和五年十月四日の欄に「夜、高瀬露子(露のこと)氏来宅の際、母来り怒る。云々」
ということだから、4日は夜に徳弥の家にやって来たことになる。
 もし昭和7年10月4日(火)に露が遠野からやって来たとなれば、仕事を早引けして、遅くとも上郷駅発17:05の汽車に乗って来たと考えられる。そうすると露はその日は向小路の実家に泊まるしかない。花巻の終発が17:27だからもう汽車には乗れないからだ。当然、翌日5日(水)も仕事を休むか遅刻の可能性が高く、さらには6日(木)の日も花巻にいたことになるのだから、平日連続3日間も上郷小學校の仕事に差し支えがあった可能性大だ。
鈴木 しかも6日については日記の写真を見れば、
 高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく。
ということだから、もしこのことが昭和7年の出来事であるとするならば、露は結婚した後にわざわざ遠野からやって来て賢治から貰ったという本を返したということだが、このようことは常識的にはあり得ない。もし返すとするならば結婚する前、昭和7年3月以前にだろうからな。吉田の言うとおり昭和7年の線は無理だな。
荒木 また考えてみりゃあ、未使用の日記を別の年に使うとしても翌年ならばそれはあり得そうだが、流石に2年後に使うということは考えにくいからな。結局、昭和7年の線は限りなくゼロに近いってことか。
 こうなると消去法によってということだけではなく、昭和6年にはまだ露は花巻にいたということもあるので、この日記は昭和6年に使われたものとならざるを得ない。
 したがって、俺たちの結論は
 関徳弥の『昭和五年 短歌日記』は、実は昭和6年に使われたものである。それゆえ、徳弥は曜日を消して使っていた。
と判断してまず間違いない、でいいべ。
鈴木 言い換えれば、
 “徳弥の『昭和五年 短歌日記』”については、
 ・10月4日の記述内容は実は昭和6年10月4日の徳弥の日記である。
 ・10月6日のそれは実は昭和6年10月6日の徳弥の日記である。
として扱ったほうが遙かに妥当である。
ということになるようだな。
吉田 先に、
 僕たちの調べ方次第によっては“徳弥の『昭和五年 短歌日記』”と言われているその日記が書かれた年を絞り込むことだって可能かもしれないから、これからはこちらのルートを探ってみよう。
とついつい勢いで言ってしまったのだったが、案外妥当な線で日記の使用年を特定できたな、よかったよかった。

検証に耐え続けている<仮説>
鈴木 さて、私たちが考察した限りにおいては、“徳弥の『昭和五年 短歌日記』”は実は昭和6年用として徳弥が使ったものであるという結論に達したので、こうなれば次の「昭和6年」の場合の検証用資料として再考せねばならないので、検証結果がどうなるかはその時まで保留しておきたい。
 ただし、その可能性は少ないことがわかったのだが、この日記が仮に「昭和5年」の日記だとした場合にどうなるかを念のため考えてみたい。つまり、新聞報道された“徳弥の『昭和五年 短歌日記』”の「10月4日」と「10月6日」に書かれている内容が<仮説:露は聖女だった>の反例となるかを調べてみたい。
 ではまずその日記の記述内容の確認だ。
 10月4日:夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話。女といふのははかなきもの也。
 10月6日:高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく。
となっている。
 ではこの記述内容をどのよう解釈し、どう判断するかだが荒木はどう考える?
荒木 まず10月4日については、10月4日の夜徳弥の家に、花巻女学校で同級生であったナヲ(徳弥の妻)を訪ねて高瀬露がやって来たが、その際に徳弥の義母ヤス(ナヲの母、賢治の叔母)がやって来て怒った。それは露と賢治の結婚話についてであった。そしてその様子を見ていた徳弥は「女といふのははかなきもの也」と感じた、という解釈でどうだ。
吉田 そんなところだろうな。ただ問題はそのことによって<仮説:露は聖女だった>が崩れるかだが、それはなかろう。この記述内容だけで露が悪女にされる理由はないからだ。
荒木 とはいえ、ヤスが怒ったんだろう。
吉田 おそらくそれは事実だったろうが、賢治には何ら非はなく露独りだけに非があるから怒ったということまでは保証しているわけではない。単に「露と賢治の結婚話」について怒ったということでしかない。こんなはっきりしていない内容で検証などできない。
鈴木 では、「女といふははかなきもの也」についてはどうだ。
荒木 これだけでは徳弥が誰に対してそう感じたのかは確定できないだろう。それは露かもしれないし、ヤスかもしれないし、ナヲだったのかもしれない、はたまた女性一般かもしれない。したがってこんな曖昧なものは検証以前だ。
鈴木 となれば、10月4日の記述内容は<仮説:露は聖女だった>の反例とはならないということでいいな。
荒木 一方の10月6日については、内容的にはっきりしているから解釈で悩むことはない。こちらの方の意味は、露が翌々日の6日また関徳弥家にやって来て、賢治から貰ったという書籍を返してほしいとナヲに頼んで置いて帰って行ったという解釈以外にないだろう。
吉田 前々日に結婚話があったということだから、露はけじめを着けるために以前に賢治から貰っていた本を小笠原牧夫との結婚を前にして賢治に返したと考えられるので、露のそうした行為、誠実ともとれるそのような行為は<仮説:露は聖女だった>ことを裏付けこそすれ、その反例とならないこともまた明らかだ。
荒木 あっそうか、この頃既に露は小笠原牧夫との結婚を決めていたのか。
吉田 それはあり得るが、露と牧夫とが結婚したのは昭和7年の3月末頃だから、ちょっとな。時期的なことを考えれば昭和5年の時点でそんな先のことを予見して本を返したということはなかろう。
荒木 わがった、その点からもこの“徳弥の『昭和五年 短歌日記』”は実は「昭和6年」の日記に書かれたものだったという可能性があるとも言えるのだ。
吉田 結局、“関徳弥の『昭和五年 短歌日記』”が平成15年に新たに見つかったからといって<仮説:露は聖女だった>を棄却する必要はないということだ。
鈴木 なお、「昭和5年」に関してこの<仮説>の反例となりそうな証言や資料は知られていないから、
    「昭和5年」の場合も<仮説:露は聖女だった>は検証に耐えた。
ということだ。
荒木 やった! 今回もまた、<仮説:露は聖女だった>を棄却する必要はないということになる。いやあ嬉しいな。
 鈴木は当初「昭和5年」は難題だと言っていたから、もしかすると<仮説:露は聖女だった>の反例が出て来て、今まで検証に耐え続けてきたこの<仮説>を棄却せねばならんかもしれぬとちょっと不安があった。しかしその結果は、少なくとも「昭和6年~昭和7年」を除いてはこの<仮説>は成り立つということだ。この調子だともしかすると、この<仮説>は最後まで検証に耐え続けてくれるかもしれん。
鈴木 ご免ご免、私が「難題」だと言ったのは検証が難題だというのではなくて、『短歌日記』の「曜日欄の曜日が消されている」というおかしなことがあることだったのだ、言い方がまずかったな…。
****************************************************************************
<*1:投稿者註> 『汽車時間表 第六巻第十號』(日本旅行協會)230pより

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