《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
この度、『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)を読み直していたところ、そうなんだよなと合点したことがある。それは、同書の「八三 測候所」の中に、賢治が盛岡測候所に出掛けて行って所長の福井規矩三から指導を受けたことに関して次のように書かれていたからである。
昭和元年には、気候不順に因る不作の苦杯を嘗めた為、昭和二年には屡々気象の調査に測候所に行き . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
何んのことはない、今回の「推定」については、『新校本年譜』は単に「可能性がある」ということを安直に「推定」と言い換えているだけの、羊頭狗肉に過ぎない。そして今回のことのみならず、「旧校本年譜」や『新校本年譜』はこのようなすり替えが散見されるのである。 たとえば、「昭和4年の露宛書簡」や「一九二八年の秋の日の下根子桜の訪問」などのように。
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【Fig.1 昭和2年1月9日付『岩手日報』夕刊(1月8日)一面】
当時の未曾有の大旱害の報道内容
さて、賢治は一ヶ月弱の滞京を終えて年末に帰花。明けて昭和2年1月からはよく知られているようにほぼ十日置きに羅須地人協会の講義等を本格的に始めたわけだが、この頃も相変わらず新聞は紫波郡等の未曾有の大旱害の惨状を報道をしていた。例えば、昭和2年1月 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》賢治のように素直に正直に
どうやら、澤里武治の件の証言を恣意的に使っている「宮澤賢治年譜」には致命的な欠陥がある。とりわけ、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」という賢治の発言中の、「少なくとも三か月は滞在する」という部分を理由も明示せぬままに「宮澤賢治年譜」は完全に無視しているとい . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》猛勉強の結果病気
しかも、「現賢治年譜」における透明な存在期間は年が明けてからも続き、それは「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」の長きにわたる。ではその空白期間の真相は何かといえば、澤里武治の証言(「澤里武治氏聞書」の生原稿)どおりで、
確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村に於て農民の指導は勿論の事、御自身として . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》「澤里証言」の経年変化
ところで、関登久也が澤里武治から「聽取」したという「チェロを持って上京する賢治を澤里ひとりが見送った」件に関する証言は、次のような関登久也の幾つかの著書等に載っている。以下に、年代順にそれらを並べるとその変化が見られる。
(1) 澤里武治?の「生原稿」
確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村に於 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 さて『新校本年譜』による限りは、昭和2年11月もその傾向があったのだが、この12月はそれ以上で、そこから賢治の営為を読み取ることは全くできない。このままではこの頃の賢治はいわば透明人間だからこのままにしておくわけにはいかない。となればおのずから、「澤里武治氏聞書」におけるあの記述をいよいよ無視できないということになろう。言い換えれば、筑摩の『宮澤賢治年譜』 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 では、昭和2年12月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみようと思ったが、何もない。せいぜいあるのは、次のような間接的な事項が二つ、
一二月二一日(水) 本日付発行の盛岡中学「校友会雑誌」に「冬二篇」を発表。
一二月二六日(月) 本日付「新潟新聞」に詩誌「新年」主催「代表的詩人作品 詩誌 詩集展」の記事があり、その出品者中に . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 ここでは、昭和2年の稲作事情と賢治の稲作指導について振り返って見たい。
昭和2年の稲作関連報道
では、『岩手日報』における稲作関連の報道をまずは簡単に振り返ってみると以下のようになる。
◇5月10日
紫波郡稗貫郡も…早生が少し被害を受けてゐる豫想よりは被害程度軽微
◇5月14日
縣下一帯に亘つてけさ又降霜す
◇5月29日
天候不順で苗代の發育が . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 以前、〝当時冷害はなかったという事実〟において、
後述する予定だが、昭和2年の稗貫郡内の作柄は「良」であって、少なくとも福井の言うような「ひどい凶作であった」とはと言えないはずだ。と述べたので、このことについてここでは論じたい。例年、11月に入れば「第二回稲作予想収穫高」が発表されているはずだからだ。
ただしその前に一度確認しておく。当時盛岡測候所長で . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 さて、前回「この点からいってもあの澤里武治の証言をますます無視できない」と述べたところの証言とは何か。それは、拙著『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』における拙論の重要な「鍵」となった次の証言、
どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 では、昭和2年11月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、
一一月一日(月(ママ))~三日(水(ママ)) 菊花品評会の審査にあたる。
一一月 「文語詩篇」ノートに「十一月「白藤ヲタノミテ藤原ノ結婚式」とメモ。
のようになっていて、同年譜から窺える11月の営為はたったこれだけだ。詩についても下 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 さて、前回の〝昭和2年10月の賢治〟で述べたこと以外には、『新校本年譜』の昭和2年10月分記載事項に基づいて論ずることはもはや何もない。しかしながら、下表
【賢治下根子桜時代の詩創作数推移】
を俯瞰する限りにおいては、8月以前とこの9~10月の2ヶ月間の著しい変わり様に鑑みれば、「レコード交換会」以外にも何か大きな問題を賢治は . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 では、昭和2年10月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、
一〇月二一日(金) 高橋慶吾のための職業として、レコードの交換会を考え、知友への紹介と趣意を書き、自分のレコードを提供する(書簡232)。
一〇月頃 石田興平が訪れた。刈屋主計と花巻温泉に行く。
のようになっていて、同年譜から窺える . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》「あのこと」とは
さて、「もはやあのことをやはり無視するわけにはいかないだろう」となぜ前回私は述べたのかというと、この昭和2年の9月、賢治はもっと他にもやっていたことがあるのじゃなかろうか、そう誰でもが思うであろうし、それを窺わせることがあるからである。
実は、かつての「賢治年譜」の昭和2年9月については、『新校本年譜』には載っていないことも記載されてい . . . 本文を読む