「経埋ムベキ山」の一つ堂ヶ沢山に虹が架かっていた。
《1 》(平成30年10月31日撮影)
《2 》(平成30年10月31日撮影)
《3 》(平成30年10月31日撮影)
続きへ。
前へ 。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
. . . 本文を読む
さて、ここまでの考察によって、
賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」としての必要条件には、
一.「当時珍しかった花卉の園芸」や「当時珍しかった洋菜の栽培」
一.農民芸術
が少なくともある。と言えることに私は気付いた。さりながら、その「百姓」としての必要条件である「農民芸術」が、先に述べた程度のものであったとすればあまりにも心許ないものであることは自明だから、当時の賢治自 . . . 本文を読む
沢内の貝沢に向かう途中、紅葉が綺麗だった(ここがどこであるかは不明)。
《1 》(平成30年10月28日撮影)
《2 》(平成30年10月28日撮影)
《3 》(平成30年10月28日撮影)
《4 》(平成30年10月28日撮影)
《5 》(平成30年10月28日撮影)
そして、沢内はいずこも紅葉真っ盛りであり、どこを眺めても山は粧っていた。そこで、車を停めて一々撮影することはもう . . . 本文を読む
岩手県道281号線、南昌第二トンネルを抜けると大きな橋があり、北の沢に架かるものだろうか、周囲満目の紅葉が見事だった。
《1 》(平成30年10月28日撮影)
《2 》(平成30年10月28日撮影)
《3 》(平成30年10月28日撮影)
《4 》(平成30年10月28日撮影)
《5 》(平成30年10月28日撮影)
《6 》(平成30年10月28日撮影)
《7 》(平成30年10月 . . . 本文を読む
さて、二つの新聞記事によって、
賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」とは、「当時珍しかった花卉の園芸」や「当時珍しかった洋菜の栽培」が必要条件であった。と言えることに私は気付いたのだが、これらの記事に基づいて、もう一つの観点から次のことを考えてみた。それは「芸術」の観点からである。
まず、大正15年4月1日付『岩手日報』の記事からは、
(3) 半年ぐらゐは花巻で耕作にも従 . . . 本文を読む
沢内行の途中で見えた南昌山。
《1 》(平成30年10月28日撮影)
《2 》(平成30年10月28日撮影)
《3 ハウチワカエデ?》(平成30年10月28日撮影)
《4 》(平成30年10月28日撮影)
《5 》(平成30年10月28日撮影)
《6 コシアブラ》(平成30年10月28日撮影)
《7 》(平成30年10月28日撮影)
《8 イタヤカエデ》(平成30年10月28日撮影 . . . 本文を読む
10月28日、花巻から岩手県道281号線を通って沢内に行き、貝沢小学校や深沢晟雄記念館を見て来た。
まずは、
《1 東根山》(平成30年10月28日撮影)
《2 》(平成30年10月28日撮影)
《3 》(平成30年10月28日撮影)
続きへ。
前へ 。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の . . . 本文を読む
さて、賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」とは、一つ、まずは少なくとも園芸をやることが必要条件であったことがほぼ明らかになった。
ではその他にどのような必要条件があったのであろうか。それは、当然あの二つの新聞記事中の賢治の回答にもあり得るはずだ。まずは大正15年4月1日付『岩手日報』のあの記事、
新しい農村の建設に努力する
花巻農學校を辞した宮澤先生
花 . . . 本文を読む
以下の写真も鎌田一三氏が撮影したものである。
《1 薬師岳》(平成30年10月25日撮影)
《2 登山口駐車場》(平成30年10月25日撮影)
以降は道すがらの紅葉である。
《3 》(平成30年10月25日撮影)
《4 》(平成30年10月25日撮影)
《5 》(平成30年10月25日撮影)
《6 》(平成30年10月25日撮影)
《7 》(平成30年10月25日撮影)
《8 》 . . . 本文を読む
同じく以下の写真も鎌田一三氏撮影のものである。
今回の行程中、とりわけあちこちに目立ったのがでっかい黄色い木の葉。
《1 》(平成30年10月25日撮影)
《2 》(平成30年10月25日撮影)
今までこんな葉っぱこの時期見たことがない、あるいは気にも留めなかった。
→その後、鎌田氏からこれはウダイカンバというものであると教わった。
でっかいといえば、
《3 こんなブナの大木や》(平 . . . 本文を読む
というわけで、仮説「賢治は百姓<*1>になるつもりは元々なかった」が検証できたわけだが、となれば、前回最後の方で、
賢治の言っていた「本統の百姓になる」の「百姓」とは、当時日常的に使われていた「百姓」とは異なるものである、ということもまた同時に明らかとなったとも言える。ついては、賢治の言っていた「本統の百姓になる」の「百姓」とはどのような百姓であったのかということを、次に考えねばな . . . 本文を読む
この10月25日、遠野の又一の滝を訪ねた。ところが、私は老いぼれてしまったようで、写真を撮ろうとしてザックの中を探すもののカメラなし。
紅葉真っ盛りの又一の滝や薬師沢を堪能はしたものの、私は写真を撮ることができなかったので、真っ盛りの紅葉などは私の頭の中にのみ。
それを気の毒に思った友人の鎌田一三氏が、これを使って投稿して下さいと言ってくれたので、以下に投稿させていただく。
《1 》(平成3 . . . 本文を読む
この度、分銅惇作がある講演会における講演「宮沢賢治の文学と法華経」で、次のような賢治評を話していたことを知った。そこで私は、後述するが、吉本隆明や伊藤忠一等と似たような見方を分銅もしていたのだと受け止めた。そして、いや見ている人は見ているものだ、と胸のつかえが下りたし、幾何か安堵した。
私は賢治をあまり買いかぶってはいけないと思うんですが、確かに賢治は文学的な天才だとしか思えないような、私なん . . . 本文を読む
さて、ここまでの一連の考察によって、仮説「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」に対しての反例は何一つ見つからなかったから、この仮説は検証できたということになる。したがって、今後この仮説に対する反例が見つからない限りという限定付きの、
賢治は百姓になるつもりは元々なかった。
は真実となった。
そして、ここまでの検証を通じて「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」ということだけでなく、 . . . 本文を読む
さて、私は今までに「宇宙意志」について考えたことは一度もなかったし、まして賢治と「宇宙意志」についてなどなおさらにである。そして今後もこのことを論ずることはないと確信したいほどだ。ところが、過日ある方から賢治と「宇宙意志」について問われた
そこで、折角問われたことだから少し考えてみたのが、取り敢えず次の3項目だ。
⑴ 私は自分のことを自然科学者の端くれと自覚しているのだが、その立場からしても . . . 本文を読む