《創られた賢治から愛すべき賢治に》
怨敵悉退散吉田 ちょ、ちょっと待て。ほらさっきの〔われに衆怨ことごとくなきとき〕のことがあったじゃないか。
荒木 やべぇ、そうそうそうだった。俺が質問したといのに…。
吉田 では。それは以前鈴木が見せてくれた
【「雨ニモマケズ手帳」31p~32p】
<『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)より>
の32pに書かれているものだ。小倉豊文によればここには、
◎われに
衆怨ことごとく
なきとき
これを怨敵
悉退散といふ
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)116pより>
と書かれている。ちなみに、これに続く33pには
◎われに
衆怨
ことごとく
なし
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)116pより>
と書かれていて、小倉はどちらの頁も〔聖女のさましてちかづけるもの〕の書かれた日と同じ10月24日のものらしいと推測している。
そして、小倉は賢治がこの〔われに衆怨ことごとくなきとき〕をここに書き付けた理由を次のように説明している。
鈴木 そうかそういう途中段階をちゃんと踏んでいたのか。実は私は今まで、10月24日に詠まれた〔聖女のさましてちかづけるもの〕とその10日後に書かれたという〔雨ニモマケズ〕の間にある両極端とも思えるほどの賢治の心情の揺れがどうしても理解できなかった。
ところが、実は賢治は〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠んだ後にそのことを実はしっかりと「自ら深く反省検討」していての〔雨ニモマケズ〕だったのか。これで私もやっと腑に落ちた。
荒木 実は、賢治は感情の起伏が激しかったと俺も人づてに聞いていて、まあ、そこが天才の天才たる所以の一つかもしれないが、少なくともこれら二つの間に〔われに衆怨ことごとくなきとき〕が書いてあったということならば、それならば「雨ニモマケズ」もありだな。
鈴木 うん、これでまた賢治に一歩近づけたような気がしてきた。
荒木 そっかそっか、そのようなことを俺たちに教えようという狙いもあって、吉田はここにこの〔われに衆怨ことごとくなきとき〕をわざわざ入れたおいたのだな。
荒木 やべぇ、そうそうそうだった。俺が質問したといのに…。
吉田 では。それは以前鈴木が見せてくれた
【「雨ニモマケズ手帳」31p~32p】
<『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)より>
の32pに書かれているものだ。小倉豊文によればここには、
◎われに
衆怨ことごとく
なきとき
これを怨敵
悉退散といふ
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)116pより>
と書かれている。ちなみに、これに続く33pには
◎われに
衆怨
ことごとく
なし
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)116pより>
と書かれていて、小倉はどちらの頁も〔聖女のさましてちかづけるもの〕の書かれた日と同じ10月24日のものらしいと推測している。
そして、小倉は賢治がこの〔われに衆怨ことごとくなきとき〕をここに書き付けた理由を次のように説明している。
恐らく、賢治は「聖女のさましてちかづけるもの」「乞ひて弟子の礼とれる」ものが、「いまわが像に釘う」ち、「われに土をば送る」ように、恩を怨でかえすようなことありとも、「わがとり来しは、たゞひとすじのみちなれや」と、いささかも意に介さなかったのであるが、こう書き終わったところで、平常読誦する観音経の「念彼観音力衆怨悉退散」の言葉がしみじみ思い出されたことなのであろう。そして、自ら深く反省検討して「われに衆怨ことごとくなきとき、これを怨敵悉退散といふ」、われに「衆怨ことごとくなし」とかきつけたものなのであろう。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)119p~より>鈴木 そうかそういう途中段階をちゃんと踏んでいたのか。実は私は今まで、10月24日に詠まれた〔聖女のさましてちかづけるもの〕とその10日後に書かれたという〔雨ニモマケズ〕の間にある両極端とも思えるほどの賢治の心情の揺れがどうしても理解できなかった。
ところが、実は賢治は〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠んだ後にそのことを実はしっかりと「自ら深く反省検討」していての〔雨ニモマケズ〕だったのか。これで私もやっと腑に落ちた。
荒木 実は、賢治は感情の起伏が激しかったと俺も人づてに聞いていて、まあ、そこが天才の天才たる所以の一つかもしれないが、少なくともこれら二つの間に〔われに衆怨ことごとくなきとき〕が書いてあったということならば、それならば「雨ニモマケズ」もありだな。
鈴木 うん、これでまた賢治に一歩近づけたような気がしてきた。
荒木 そっかそっか、そのようなことを俺たちに教えようという狙いもあって、吉田はここにこの〔われに衆怨ことごとくなきとき〕をわざわざ入れたおいたのだな。
詩は単独では伝記研究の資料たり得ない
吉田 これでまた一段と《愛すべき賢治に》なっただろ。ところで、いつもの荒木なら
荒木 いやあ、俺おかしいと思うんだよ。この前までは賢治周辺の人たちの証言や客観的な資料等に基づいて検証を行った来たのに、今回は詩によるものだったろ。
たしかに、この詩はさておき、賢治の詩は素晴らしいものが多いということは俺でもわかる。しかしな、詩は所詮詩でしかない。創作の一つだ、ここは押さえておかねばならないことだと思うんだ。端的に言えば、詩〔聖女のさまして近づけるもの〕に書いてある内容が全て事実であるということは言えないということだ。
そりゃあもちろん中にはノンフィクションの詩もあるだろうが、基本的には詩というものはフィクションが含まれていると思わねばならないだろう。だからいくら賢治といえども、詩に書いてある中身をそのまま現実にあったことだとするわけにはいかないべ。
鈴木 いわゆる詩は還元できない、ということだよな。だからこそ、もし詩を伝記の資料として使うのであれば、その裏を取ったり検証をしたりした上で使わねばならない。
吉田 そのあげく、この詩に関してはそのような為すべきことを為していないだけでなく、露はクリスチャンだ、クリスチャンは聖女だ、だからこの詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕は露のことを詠んでいるんだというあまりにも杜撰すぎる論法が読み手によって取られてしまって、結果的には露のことをこの詩は<悪女>にしてしまったという責任の一端を免れ得ない。
荒木 しかもだ、それどころかそれは露ではなくてちゑである可能性が極めて大であるということを俺たちは導けたのだから、露にすれば踏んだり蹴ったりだ。濡れ衣もいいどこだべ。
吉田 たしかにそうだが、かの小倉豊文でさえもこの詩〔聖女のさまして近づけるもの〕を引き合いに出して、
この詩を読むと、すぐに私はある一人の女性のことが想い出される。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)111pより>
と言って、これは露のことを詠んだのだと実質的に断定しているくらいだからな。
あるいはまた、佐藤勝治でさえも「賢治二題」の中でこの詩を引き合いに出して
だから、他の人や読者もおしなべてこの詩は高瀬露のことを詠んでいるのだと認識し、これだけ賢治が憤怒を込めて詠っているくらいだから、露は相当な<悪女>だと決めつけてしまった、そんな気がしてならない。
荒木 しかしだよ、単に手帳に書かれた一篇の詩によってだぞ、その一篇によって一人の人間の尊厳や人格が全否定されるということは許されると思うか? そんなことはねえべ。
鈴木 荒木が怒るのももっともだと思うよ。それもこれも、然るべき人たちがその裏付けも取らず、検証もせずに漫然と再生産を繰り返してきたからだ。
吉田 たしかに、如何なる賢治の詩といえども単独であっては「賢治伝記研究」の資料たり得ない。荒木が怒り心頭に発するのももっともだ。
鈴木 何かというと、それらしいことや不都合なことがあるといつもそれは高瀬露だと決めつけられている傾向がある。たとえば、露であることが全く判然としていないのに「判然としている」と決めつけられた昭和4年の書簡下書、そして今回の〔聖女のさまして近づけるもの〕の「聖女」、さらにはこの次の年に出てくる悪口を言いふらした女性、皆そうだ。
吉田 露に関しては捏造だらけと言ってもいいほどの例の「昭和六年七月七日の日記」、そしてあまりにも杜撰なこの詩の「聖女」の決めつけ方、これらのことを考えればそこには明らかに何者かによる「悪意」や「企み」があったということがもはや否定できなかろう。
荒木 おいおい憶測でそんな物騒なこと言ってもいいのか。ちょっとまずいよそれは。
え~とえ~と、俺は賢治を尊敬しているからなおさらに、いくら賢治の詩といえどもそこに書いてあるからといって殆ど検証も為されずにその詩の中の文言だけを基にして、俺もくどいのは重々承知だが、ある一人の人間の人格や尊厳を傷つけてしまうことは許されなことだと思う。そしてそもそも、他人のことを傷つけたり貶めたりしてまでも自分のことを崇めて欲しいなどとはこれっぽっちも賢治自身は思っていなかったし、今も思っていないはずだ。それは至極当たり前のことだろうと俺は言いたい……な~んちゃって。でもこれで俺のもやもやもちょっと霽れた気がしてきた。
<仮説:露は聖女だった>を棄却する必要はないということになる。いやあ嬉しいな。
と言って抃舞していたはずなのに、今回の「昭和6年」の場合はなしか。荒木 いやあ、俺おかしいと思うんだよ。この前までは賢治周辺の人たちの証言や客観的な資料等に基づいて検証を行った来たのに、今回は詩によるものだったろ。
たしかに、この詩はさておき、賢治の詩は素晴らしいものが多いということは俺でもわかる。しかしな、詩は所詮詩でしかない。創作の一つだ、ここは押さえておかねばならないことだと思うんだ。端的に言えば、詩〔聖女のさまして近づけるもの〕に書いてある内容が全て事実であるということは言えないということだ。
そりゃあもちろん中にはノンフィクションの詩もあるだろうが、基本的には詩というものはフィクションが含まれていると思わねばならないだろう。だからいくら賢治といえども、詩に書いてある中身をそのまま現実にあったことだとするわけにはいかないべ。
鈴木 いわゆる詩は還元できない、ということだよな。だからこそ、もし詩を伝記の資料として使うのであれば、その裏を取ったり検証をしたりした上で使わねばならない。
吉田 そのあげく、この詩に関してはそのような為すべきことを為していないだけでなく、露はクリスチャンだ、クリスチャンは聖女だ、だからこの詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕は露のことを詠んでいるんだというあまりにも杜撰すぎる論法が読み手によって取られてしまって、結果的には露のことをこの詩は<悪女>にしてしまったという責任の一端を免れ得ない。
荒木 しかもだ、それどころかそれは露ではなくてちゑである可能性が極めて大であるということを俺たちは導けたのだから、露にすれば踏んだり蹴ったりだ。濡れ衣もいいどこだべ。
吉田 たしかにそうだが、かの小倉豊文でさえもこの詩〔聖女のさまして近づけるもの〕を引き合いに出して、
この詩を読むと、すぐに私はある一人の女性のことが想い出される。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)111pより>
と言って、これは露のことを詠んだのだと実質的に断定しているくらいだからな。
あるいはまた、佐藤勝治でさえも「賢治二題」の中でこの詩を引き合いに出して
彼の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない。これがわれわれに奇異な感を与えるのである。
と言いつつも、この詩は露のことを詠っているのだとつゆほども疑っていない。だから、他の人や読者もおしなべてこの詩は高瀬露のことを詠んでいるのだと認識し、これだけ賢治が憤怒を込めて詠っているくらいだから、露は相当な<悪女>だと決めつけてしまった、そんな気がしてならない。
荒木 しかしだよ、単に手帳に書かれた一篇の詩によってだぞ、その一篇によって一人の人間の尊厳や人格が全否定されるということは許されると思うか? そんなことはねえべ。
鈴木 荒木が怒るのももっともだと思うよ。それもこれも、然るべき人たちがその裏付けも取らず、検証もせずに漫然と再生産を繰り返してきたからだ。
吉田 たしかに、如何なる賢治の詩といえども単独であっては「賢治伝記研究」の資料たり得ない。荒木が怒り心頭に発するのももっともだ。
鈴木 何かというと、それらしいことや不都合なことがあるといつもそれは高瀬露だと決めつけられている傾向がある。たとえば、露であることが全く判然としていないのに「判然としている」と決めつけられた昭和4年の書簡下書、そして今回の〔聖女のさまして近づけるもの〕の「聖女」、さらにはこの次の年に出てくる悪口を言いふらした女性、皆そうだ。
吉田 露に関しては捏造だらけと言ってもいいほどの例の「昭和六年七月七日の日記」、そしてあまりにも杜撰なこの詩の「聖女」の決めつけ方、これらのことを考えればそこには明らかに何者かによる「悪意」や「企み」があったということがもはや否定できなかろう。
荒木 おいおい憶測でそんな物騒なこと言ってもいいのか。ちょっとまずいよそれは。
え~とえ~と、俺は賢治を尊敬しているからなおさらに、いくら賢治の詩といえどもそこに書いてあるからといって殆ど検証も為されずにその詩の中の文言だけを基にして、俺もくどいのは重々承知だが、ある一人の人間の人格や尊厳を傷つけてしまうことは許されなことだと思う。そしてそもそも、他人のことを傷つけたり貶めたりしてまでも自分のことを崇めて欲しいなどとはこれっぽっちも賢治自身は思っていなかったし、今も思っていないはずだ。それは至極当たり前のことだろうと俺は言いたい……な~んちゃって。でもこれで俺のもやもやもちょっと霽れた気がしてきた。
耐え続けている「卵」
吉田 かつて村上春樹氏がエルサレム賞を受賞した際、スピーチで「壁と卵」の比喩を用いて
と言ったということだが、僕は今このことを思い出していた。
誰しも自分が高い壁の側に立つとは言わないとは思うが、厳然と高い壁となっ立っている人がいるのも現実。そしてちょうどこの「卵」は露、あるいはこの<仮説:露は聖女だった>もそうかもしれない。
しかも、ここまで調べた来た限りにおいては「卵がどんなに間違っていても」どころか露はほぼ間違っていないし、一方の壁については「壁がどんなに正しく」てもどころかかなり間違っていることがわかったのだから、少なくとも僕は「卵の側に立つ」。
鈴木 (そうか、吉田が物騒なことを言ったのは自分のせいだと思って荒木は慌てて話題を変えようとしたんだ。そして、吉田はそれを察知してこんな話を持ち出したということかな。)
荒木 ずるいベ。一人だけかっこつけて。しかも村上春樹の「虎の威を借り」たりして。
鈴木 じゃじゃじゃ、すっかり吉田にしてやられたな。
それでは、現時点での私たちの結論は、
荒木 ということは、<仮説:露は聖女だった>は相変わらず検証に耐え続けているということか。さしずめ検証に耐え続けている「卵」というところだな。
それじゃ脆くて弱い「卵」よ、今はまだそうかも知れんがこの次の「昭和7年」も検証に耐え得れば、晴れて雛になって歩み始めることができて、そのうち空も飛べるかもしれんぞ、あと少し頑張れと願いつつ最後の年の検証作業に移ろうか。
鈴木 よしっ、行ってみるとするか。
もし硬い、高い壁と、そこに投げつけられて壊れる卵があるなら、たとえ壁がどんなに正しく、卵がどんなに間違っていても、私は卵の側に立つ。
<『朝日新聞2009年2月25日夕刊 斎藤美奈子・文芸時評』より>と言ったということだが、僕は今このことを思い出していた。
誰しも自分が高い壁の側に立つとは言わないとは思うが、厳然と高い壁となっ立っている人がいるのも現実。そしてちょうどこの「卵」は露、あるいはこの<仮説:露は聖女だった>もそうかもしれない。
しかも、ここまで調べた来た限りにおいては「卵がどんなに間違っていても」どころか露はほぼ間違っていないし、一方の壁については「壁がどんなに正しく」てもどころかかなり間違っていることがわかったのだから、少なくとも僕は「卵の側に立つ」。
鈴木 (そうか、吉田が物騒なことを言ったのは自分のせいだと思って荒木は慌てて話題を変えようとしたんだ。そして、吉田はそれを察知してこんな話を持ち出したということかな。)
荒木 ずるいベ。一人だけかっこつけて。しかも村上春樹の「虎の威を借り」たりして。
鈴木 じゃじゃじゃ、すっかり吉田にしてやられたな。
それでは、現時点での私たちの結論は、
そもそも詩を単独で伝記研究の資料として使うことには無理がある。
ということを肝に銘じつつ、再度確認。 詩〔聖女のさまして近づけるもの〕の内容によって、<仮説:露は聖女だった>を棄却する必要はない。
だ。これで「昭和6年」に関しての考察は終了だ。荒木 ということは、<仮説:露は聖女だった>は相変わらず検証に耐え続けているということか。さしずめ検証に耐え続けている「卵」というところだな。
それじゃ脆くて弱い「卵」よ、今はまだそうかも知れんがこの次の「昭和7年」も検証に耐え得れば、晴れて雛になって歩み始めることができて、そのうち空も飛べるかもしれんぞ、あと少し頑張れと願いつつ最後の年の検証作業に移ろうか。
鈴木 よしっ、行ってみるとするか。
続きへ。
前へ 。
“『聖女の如き高瀬露』の目次”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
「虎の威を借りた狐」というオーソリタリアニズムへの好悪好醜感情もさることながら「他人(ひと)の尻馬に乗って吠え立てる」だとか「他人の褌で相撲をとる」 などと譬えられるコムフォルミズム(大勢順応主義)もしくはポピュリズムというヤツも恃みにしたくはありません。などと自省していながら、不図気が付くと、「権威主義的な自分」や「s大勢順応主義的な自分」が居る、というのが現実適応生活者としての自分ということになる訳ですね。「如何に生き延びる乎]と「厳頭之感、其れを為すか為さぬか.ザット イズ ザ クェスチョン。」との間での揺れ動き。しかしながら、連れ合いや吾子との人生を始めたとあれば、『巌頭之吟』を詠う訳には行かない因縁となり、…。
小生が、『それから』や『こころ』をあまり好まなず、太宰を嫌悪し芥川も買わない因縁はその辺りに。しかしながら、小生は教員としても個人としても私人としても自死行為者に縁が浅くはありませんでしたし、そんな他者への〈鎮魂の歌(挽歌)〉は一点ならず画いたり書いたりした経験があります。たとえば、先生も読んだかもしれない『それから』(『白堊』寄稿。何の因果か、次の務め先せ彼の妹と遭遇するという…)と題したエッセイや、『逝ける少女へのパヴァーヌ』といった、「人真似の他人本位」を表題に用いて。
さて、本題は、〝I want to becomu the Man that 雨風雪…〟とでも英訳できそうなメッセージ文をどう享受するか、という難有い課題。小生は、「私ハ左様ナ人ニ,ナリタイ.」という〈欲求(ニード)〉乃至〈欲望(デザイア)の表現とうけとめ、「私ハ左様ナ者デアル」と言っているではないのだ、ということを再三、自他に対けて確認して来ました。そう高校生語りかけた高校生の中で異論・反論を対けて来た他者はいませんでしたから、それがアタリマエの読み方なのだと合点していたのですが、必ずしも、…….
で、小生にとっての問題になったのは、「ヒドリはヒデリか日取か?」とか、「多雨冷害ヤ旱魃ノ夏ハ泪ヲ流シオロオロ歩ク者デアリタイか否か?」といったことではなかったからです。念の為に書きますが、この件に関しても、「私ハ左様為シテイル者デアル」と書いているのではないということです。
では、如何なることが「難有い問取」であったのかと言いますと。「不貪慾戒・不瞋恚戒・不愚癡無明邪見戒ニ努メル者ガ,他ノ皆カラ木偶之坊(無用不材者)トシテ罵ラレ無視サレル」という事態状況への痛切な批判と読めてしまったからです。
で、そう読むと、その四年前の『1927年時点での盛岡中学校生徒諸君に寄せる』や『サキノハカという黒い花といっしょに』だけでなく、『盗まれた…』〈藤根禁酒会称揚歌〉や〈県技師の黒雲ニンブスへの満腔憤懣〉から〈大正十二年九月十六日への憤懣〉にまで一つながりになってしまう、と。
小生は画工のはしくれですから『農民芸術概論綱要』は問題にせざるをえませんでしたが、そこでの主張の〈難有さ:難行門的特質〉は、〈百姓(ひゃくせい・一般庶民)〉のみならず農業労働者には通じない提言だろう、と。実際、「世界がぜんたい幸福にならないうちは」という坐りは悪いが含蓄を秘めた日本語文は、「世界全体が幸福にならないうちは」と書き換えられ、「此処にはない〈まことのことば〉や〈まことの幸福〉」のことなどは問い直されることなく、〈小人〉にもワカリヤスイ世俗的幸福観を土台にた、……。否応なく、八紘一宇流全体主義的幸福を目指す満洲帝国建国への軍靴のヴェイグ(滅茶苦茶なアイマイ)化した読みが、……。
たとえば、「鈴木大拙先生が道われるように、禅は機械のまっただなかでも〈全体作用:無我のところ宇宙全体の創造不断なる主客未分なる無的主体が働く)のでなければなりません。」という秋月龍民なる禅師家の道取はどうでしょう。大拙が特に好んだ臨済の「随処作主、立処皆真。」―小生が、〈不羈奔放〉や〈大自在、遊戯三昧〉と重ねて語用している古道です―は、ヨーロッパ文化の地下水脈としても伝えられる〈宇宙生命の樹〉の譬えとしても散られる看話禅公案は、漱石が『草枕・十』や『点頭録』で言及している「如何なるか趙州の庭前柏樹子?」つまり「仏教思想の真面目(しんめんもく)や如何?」ということに。「如何なるか父母未生以前本来の面目?」や、「万法帰一(万象同帰・万物斉同)とは如何?」といった ?公案問取は凡て同じことを問うて入る訳です。そんな視野が拓くと『青森挽歌』や『かしわばやしの夜』や『柏林の散歩(うとうとするとひやりとくる)』などへの遊楽読みは、……。まあ、賢治の伝記的日常生活とはとんと無縁の。権(かり)に家出ならぬ出家生活に入れたとしても、……。
とまあ、またまた文遊る遊理道楽道取に遊化
遊楽してしまい申し、失礼致し居り候。
2014,9,3 誰も許してくれない随処作主、遊戯三昧
お早うございます。
昨日は南本内岳という山に7年ぶりに登ってきました。天気もそこそこ良くて、岩手山、鳥海山、はては月山までも望むことができたりして満足してまいりました。
さて、
「私ハ左様ナ人ニ,ナリタイ.」という〈欲求(ニード)〉乃至〈欲望(デザイア)の表現とうけとめ、「私ハ左様ナ者デアル」と言っているではないのだ
についてですが、私も基本的には仰るとおりであると思っております。
ただ、〔雨ニモマケズ〕に関しましては、〔聖女のさましてちかづけるもの〕とのあまりにも大きすぎるギャップがどうして十日後に生じたのかが以前から理解できなかったのです。
ところがこの度、〔われに衆怨ことごとくなきとき〕がその間に書かれていて、その意味を小倉豊文から教わって大体は納得できました。
さりながら、私の場合のその納得は
〔聖女のさましてちかづけるもの〕→〔われに衆怨ことごとくなきとき〕→〔雨ニモマケズ〕
という流れの中のものです。
したがって、辛さんの
「私ハ左様ナ人ニ,ナリタイ.」という〈欲求〉乃至〈欲望〉
という受け止め方と私のそれはやはりやや異なっているのかなとも思っております。
私の場合は、今回のことでますます
「私ハ左様ナ人ニ,ナリタイ.」は〈悔恨〉と〈懺悔〉
という想いが強くなってしまったからです。もちろん、私の読みは文法的にも問題があり、「…ニ,ナリタイ.」のですから、これはその時以降の賢治の想いなわけで、何もそれまでのことをそこに賢治は含めていないはずだからです。
さりながら、〔聖女のさましてちかづけるもの〕やもしかすると同時期に詠んだと思われる〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕を詠んだ賢治はやはり尋常ではありません。ところがその直後、賢治がそのことを「自ら深く反省検討」して詠んだのが〔われに衆怨ことごとくなきとき〕いうことであれば、「賢治も私たちと同じような苦悩を味わっていたのだ」ということ知ることができ、そのような賢治があのような幾多の素晴らしい作品を書いたのだということでとても嬉しくなり、かえって賢治に新たな魅力を感じられるようになります。少なくとも、「聖人君子の賢治があのような幾多の素晴らしい作品を書いたのだ」と教わるよりは遙かにです。
鈴木 守
久方ぶりに午前中キーボードを叩いております。京都方面に対けた小生の悪癖道取を無念と苦渋の思いで削り去りました。というのも、、「眼と眼を合わせ笑うのだ」ではなく、「眼を合わすことなく嗤い啖っているのかもしれない」という不毛を感じさせられ、小生の枕流漱石的勘違いであったのだと思い知らされたからでした。画を描き彫り刻むを楽しむ者として同業であるという甘えを働かせてシマッタ!のか、と。因みに、久方ぶりで、都のもう一方のブログ内容に興味を懐きコメントを寄せたのでしたが、すれ違いでした。鈴木卓苗と金田一他人についての提供して戴いた経緯もあって、意思疎通が成り得るかと期待したのでしたが、……。
同一の道取資料に基づく読取思量の内容が、全く異なるベクトルを働かせてしまわざるを得ぬことへの「道取道得が孕みもつ多義性としてのアムビギュイティ」を改めて想い知らされた念いです。この四十年来、「M・メルロー=ポンティ流のアムビギュイティ(両義性)なる身心境位」を目指しては来たつもりでしたが、西田幾太郎の道う〈絶対矛盾的自己同一〉の否応のない難有さを。
改めてた、高田博厚の作った、『西田幾太郎像』『新渡戸稲造像』『宮澤賢治像』『内村鑑三像』そして『高村光太郎像』『谷川徹三像』などの〈肖像彫刻の道のことば〉に想いを致している次第です。高田は20年間のフランス滞在中、R・ロランやM・ガンジーそしてアランと「眼と眼を合わせて笑い合い、ディアローグを経験した唯一の日本人」であり、三人の肖像彫刻も作っているのですが、日本での評価は下がる一方のようです。まあ、作られた〈人人〉への評価が薄れて行く現象と機を一にしているのかもしれません。
因みに、「肖像彫刻としての〈心の深さ〉の表現力」については、舟越保武師の『萩原朔太郎像』や『吉田茂像』よりも「深い!」小生は感じています。固より、高田の『稲造像』と『賢治像』についてのマジョリティ評価は、「似ていないし汚い」と散々です。吉見正信氏は『賢治像』を私有している筈ですが本音での評価はどうなんでしょうね。
さて、小生と守さんとの間の『雨ニモマケズ』観の異同性、クリアーに浮かび上がり始めましたね。固より、その難有い問題点は、「賢治の悔恨と懺悔の表現なるか否か」、ですね。その別異性が差不多(チャブドゥ)なのか否かは、現時点では「ファジーでアムビギュアスなアイマイさ「」を残していると感じています。
で、確認しますが、「賢治の懺悔と悔恨」というのは、「高瀬露ではなく伊藤ちゑ」に向けられたソレですか、それとも、「羅須地人協会活動の失敗」に向けられソレですか、それとも、昭和初年から昭和六年十一月までの主として農業技術者としての自己活動に向けてのそれですか、それともそのz凡てに対けてのそれだと考えるのですか。
『雨ニモマケズ』手帳における、『雨ニモマケズ』の前に記された道取、その後に記された道取などについての読みとそれについての思量は、小生にも、多少はありますが、それについてはこれまで一切触れてきませんでした。とりあえず書いておきたいのは、71・72頁の「木偶坊 ワレワレハカウイウモノ二ナリタイ」ですね。無論、「ワタシハ」と「ワレワレハ」との間wの別異性を、「差不多なり」と感じるか、「天と地の違いに等しい」と感じるかは、〈大志・大心・大等・大同〉という問題と相まって難有いこと至極でしょう。因みに、この場合の〈大〉は、「大拙の大」と同様、「大小の大にては非ず」ということに。禅仏教で、「〈空・無の無〉は、〈有無の無〉にも〈虚無の無〉にも非ず」と通底しています。鍵になるのは、「言語概念分節作用により二項対立的なる分別差別を加える以前か以後か?「」、という難有い問題に。西田幾太郎哲学の出発点である『善の研究』での〈純粋経験〉という概念mや、高田博厚の道う〈一元性〉と道う概念が、所謂「無門慧開の〈無の一字〉」と絡み合って浮かび上がって来ます。因みに、既にお話したか否か失念しましたが、小生は「賢治は禅仏教の言語哲学に通じていた「」という見方を土台にしています。つまり、老荘哲学にも通じていた、と。漱石の『草枕』との連関性に着眼したのは、国柱会家出の最中に書き始められた『かしわばやし林の夜』がその鍵作品になります。その場合の〈柏〉は、「柏餅の柏」ではなく、「如何なるか是仏。趙州庭前柏樹子。」という代表的な臨済看話禅公案での「松柏類、柏檜の柏」という譬喩ということに。その場合、〈松〉や〈檜〉だけでなく〈ラリックス(落葉松・唐松)〉や〈ヒバ(檜葉)〉そして〈杉〉さえも〈換喩(メトニミー)〉として機能させることが、……。〈メタファー(隠喩・暗喩)〉と〈メトニミー〉との間の因縁関係性は難有いことになりますので。
因みに、宮澤賢治は盛中生五年時十七歳の時、盛岡報恩寺師家住持尾崎文英に参禅していますが、曹洞宗公案は「如何なるか不思量底を思量するとは。非思量。」という問取に限られるのだとか。観光参禅ではなく問答参禅を体験するためには、紹介者が必須ですし、『無門関』や『碧巌録』とまではいかないにしても事前学習は必須だったと考えるべきでしょう。なお、盛中生時代にはじまる賢治短歌には、〈柏〉をテーマにした短歌が沢山出て来ますが、短歌を賢治文学上での短歌をどう意義付けるかは見解が分れるようです。因みに、小生は「極めて重要ならん!」派ということに。
他には、例の「友一人もなく、同志ひとりもなく」なる『くらかけ山の雪』バージョンや、『雨ニモマケズ』の前後に出現する、「凡そソ栄誉ノアルトコロ,必ズ,苦禍ノ因アリトシレ」という老荘底(ち)なる相補相依性原理(両義性原理)が記されていること。相補相依性因縁性起論は、互いに相関性のつよい唯識仏教、華厳仏教そして禅仏教にとっては要になる思想のようです。政治性の強い日蓮宗系や浄土真系ではどうなのかは不勉強でよくは存じません。念の為に書いておきますが、小生は無神論者の無宗教者です。実家は三百年来の曹洞宗盛岡報恩寺で、竹馬の友の一人に永平寺修行経験をした曹洞宗寺住持がいて、甥の法事の度に『修証義』講義をみっちりきかされ、『正法眼蔵』談義なども交わしますが、仏教への信心はありません。とはいえ、日蓮宗と浄土真宗には、基督教教に対してより違和感の方が。尤も、思想的には「ゴッド教的傲慢さには辟易「」といった体です。舟越保武師の白堊百周年記念講演での「ここ十年あまりですが、ミケランジェロとロダンに対して強い反感を抱くようになってまいりました。」という明言を。藝術上の問題意識ではなく宗教的、世界観的な問題意識の声と解釈しています。さもなければ、あまりにも傲慢な宣言ですので。
さらりとかわすつもりが長くしつこくなりました。『雨ニモマケズ』解釈問題、『雨ニモマケズ』手帳テクスト解釈問題については、ぢゃっと、本格的なディアローグの緒に着いた、というのが小生の正直な感想であり観想です。「争論はキライ」などと言っておきながら、「実は論争ガ好キ「」なのかもしれません。但し、「他人の揚げ足を取ってついついほくそ笑んでいる自分」を〈空〉から眺めるのは不愉快でガンスが。
文遊理道樂遊民のセルフジレンマ・ディスクールでした。あの方(H氏)は、どういう意図なるか、「シニフィアンの奔流」と表現していました。〈奔流〉ではなく〈暴流(ぼうる)〉なら、はっきりしたシニックあるいはサーカスムなのですが、〈不羈奔放〉と同様、〈奔流〉という道取だと、「アムビギュアスなアイロニ―なる言語表現」という〈道(コトバ)の理〈コトワリ〉になりましょうか。
2014,9,04 15:26