みちのくの山野草

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「ライスカレー事件」はあったのだが

2014-08-21 08:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
「ライスカレー事件」はあった
 さてこうなってしまうと、「昭和六年七月七日の日記」における露に関するMの記述内容はかなりその信憑性が危ぶまれる<*1>ということがわかったが、そこでも語られている例の「ライスカレー事件」そのものだけは少なくともあったと考えられる(理由後述)。ただし、その内容がどれほど事実を伝えているものであるかは、虚構が多いということがわかってしまった「昭和六年七月七日の日記」は当てにならないので、まずは高橋慶吾の「賢治先生」に依ってみよう。
 某一女性が先生にすつかり惚れ込んで、夜となく、昼となく訪ねて来たことがありました。その女の人は仲々かしこい気の勝つた方でしたが、この人を最初に先生のところへ連れて行つたのが私であり、自分も充分に責任を感じてゐるのですが、或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、台所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依頼に数人の百姓たちが来て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで乱調子にオルガンをぶかぶか弾くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、昼はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。
              <『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』(宮澤賢治の會、昭和14年)より>
 次は関登久也著『宮澤賢治素描』所収の「宮澤賢治先生を語る會」<*2>に依る。
K …いつだったか、西の村の人達が二、三人來たとき、先生は二階にゐたし、女の人は臺所で何かこそこそ働いてゐた。そしたらまもなくライスカレーをこしらへて二階に運んだ。そのとき先生は村の人たちに具合が惡がって、この人は某村の小學校の先生ですと、紹介してゐた。餘つぽど困つて了つたのだらう。
C あの時のライスカレーは先生は食べなかったな。
K ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、先生は、私はたべる資格はありませんから、私にかまはずあなた方がたべて下さい、と決して御自身たべないものだから女の人は随分失望した様子だつた。そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。そしたら先生はこの邊へんの人は晝間は働いてゐるのだからオルガンはやめてくれと云つたが、止めなかた。その時は先生も怒つて側にゐる私たちは困つた。そんなやうなことがあつて後、先生はあの女を不純な人間だと云つてた。
          <『宮澤賢治素描』(関登久也著、協榮出版社、昭和19年)255p~より>
 Kはさておき、Cは信頼に足る人物であると判断できる。それは、佐藤勝治の論考<*3>や菊池忠二氏の論考<*4>におけるCに関する記述内容から読み取れるからだ。そのようなCとKが共にこの「ライスカレー事件」を目の当たりにしていたと思われる証言をそれぞれしているのだから、その中身がどうであったかはさておき、少なくともこの「ライスカレー事件」があったことだけはまず間違いなかろう。

その真相は?
 次に、両者における高橋慶吾の証言を比べてみると
                〔オルガンを弾く迄の状況対比表〕
          「賢治先生」              「宮澤賢治先生を語る會」
来客       数人の百姓              西の村の人2、3人      
客の居場所   1階                    2階
賢治  〃     2階→1階→2階            2階
料理中の露   1階台所                 1階台所でこそこそ
食事場所    1階                    ライスカレー2階に運ぶ
オルガン演奏  1階                    2階から下りて1階
となるから両者の間には結構違いがある(ちなみに、昔の「数人」は5~6人)し、しかも「こそこそ」という表現を用いていることからKの悪意が読み取れる。したがって、このことに関する高橋の証言はその程度のものでしかない。つまり、
 「ライスカレー事件」そのものは実際にあったが、Kの証言内容についての信憑性はかなり低い。
と言わざるを得ない。せいぜいこれらから「修飾語」を取り去ったものだけが考察の対象となり得る程度のものであろう。
 まして、「昭和六年七月七日の日記」における「ライスカレー事件」のMの記述内容はこの高橋等の「証言」を元にして創作したものであり、賢治の伝記研究のための資料としては危なすぎてそのままは使えない。例えば、
 悲哀と失望と傷心とが、彼女の口をゆがませ頬をひきつらし、目にまたたきも與えなかつた。彼女は次第にふるえ出し、眞赤な顔が蒼白になると、ふいと階下に降りていつた。
 降りていつたと思う隙もなく、オルガンの音がきこえてきた。…(略)…その樂音は彼女の乱れ碎けた心をのせて、荒れ狂う獸のようにこの家いつぱいに溢れ、野の風とともに四方の田畠に流れつづけた。
              <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)90p~より>
等はその典型だ。その現場にMがいたわけでもない。冷静に考えればこれが単なる創作、しかも悪意を含んだそれだということはすぐわかる。百歩譲って、仮にMが露と会ったとしてもそれは一度道ですれちがっただけのことでしかないMが、どうしてこのような露の「真実」を書けるというのだろうか。
 いわんや儀府成一の「やさしい悪魔」をやである。上田哲が「やさしい悪魔」のことをいみじくも「M(投稿者イニシャル化)らの文章を下敷きにして勝手にふやかしたものに過ぎない」(『七尾論叢 第11号』76pより)と言うとおりまさにそれは“ふやかしたもの”であり、名前を仮名(内村康江)にしたことをいいことに、面白可笑しく無責任にでっち上げたものとしか思えない。言葉にすることさえも憚られるようことをさもあったかの如くに儀府はその中で書き散らしているからである。この点でもMの結果責任は重い。
 次に、賢治が「ライスカレー」を食べなかった理由だがそれを合理的に説明できるのは、時間的な推移と賢治の心境の変化の仕方を考えてみれば「賢治先生」の方だと考えられる。つまり、大体次のような時系列でことは流れ、
 ある時、賢治は2階で勉強していた。
→その時露は賢治の許に来ていて、台所で「ライスカレー」を作っていた。
→ちょうどそこへ肥料設計の依頼に数人の百姓たちがやって来た。
→彼等は、料理をしている露を見てびつくりした。
→それを突然見られてしまった賢治は露がまるで嫁さんの如く思われたのではなかろうかと思って焦ってしまった。
→ばつが悪くなった賢治はその「ライスカレー」をその百姓たちに御馳走した。
→そして賢治はつっけんどんに「私は食べる資格がない」と言って取り繕い、2階に上がってしまった。
→当然露は「折角つくつた料理を食べないなんて…」とがっかりし、心を落ち着けるためにオルガンを弾いた。
→その傷心振りを察知した賢治は1階に下りていって露を慰めた。
→しかし→しかし露の気持ちは直ぐには元に戻らなかった。
という顛末であったであろう。
 それは下根子桜時代、ロシア人のパン屋が来た頃の露と賢治はとてもよい関係であったということを私は知ってしまったので、その時賢治は露が「ライスカレー」を作りに来ること承知していたかあるいは依頼していたはずだと考えられるからだ。しかも、今の流れであれば、賢治が「ライスカレー」を食べなかった理由もそれなりに合理的に説明できる。このあたりがことの真相であったとしてもほとんど間違いなかろう。

「ライスカレー事件」で露を<悪女>にはできない
 さて、Kの証言に基づくならば2~3人の来客が少なくともあり、しかも賢治の分の「ライスカレー」も用意したということがわかるから最低でも3人分の「ライスカレー」を作っていたことになるが、下根子桜の別宅にそれ用の食器等が十分にはなかったから食材の準備だけでなくそれらも準備せねばなかったであろう。
 ちなみに、当時下根子桜の別宅にどれほどの食器があったのかについては、賢治と当時一緒に暮らしていて炊事等も手伝っていたという千葉恭が次のような証言している。
 大櫻の家は先生が最低生活をされるのが目的でしたので、台所は裏の杉林の中の小さい掘立て小屋を立て、レンガで爐を切り自在かぎで煮物をしてをられました。燃料はその邊の雑木林の柴を取つて來ては焚いてをられました。食器も茶碗二つとはし一ぜんあるだけです、私が炊事を手傳ひましたが毎日食ふだけの米を町から買つて來ての生活でした。
        <『四次元7号』(昭和25年5月、宮澤賢治友の会)所収「宮澤先生を追つて(三)―大櫻の實生活―」 より>
 したがってこの証言に従えば、下根子桜の別宅には「茶碗二つとはし一ぜんあるだけ」だったから、別に新たに「ライスカレー」用の大皿、スプーン、コップなど最低でも3人分、そしておそらく露はその他にそのための食材や調味料なども用意してきたはずだ。多分この事件の起こった日は勤務校が休みの日曜日か長期休業中であり、鍋倉の下宿から向小路の実家に戻っていた露は実家から約1㎞ある道のりそれらを運んできたことになる。
 その上、下根子桜の別宅の場合、炊事場はちょっと離れた外にあったということもあり、その別宅で当時3人分以上の「ライスカレー」を作るということは、普通の家庭とは違って何から何まで大変なことだった。とはいえ、そうでもしなければ「ライスカレー」はつくることができなかったのだから、露はとても優しく甲斐甲斐しい人だったということがわかる。
 それに対して、賢治は突如自分の都合が悪くなったので頑なに食べることを拒否したというのであれば、仮に露が「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」と言ったとしても、そしてまた心を落ち着けるためにオルガンを弾いたとしてもそれは至極当たりまえのことであり、その責めは賢治にこそあれ、露にはほとんどなかろう。
 ましてや、そんなことで露が<悪女>にされたのではたまったものではない。恩を仇で返すようなものだ。ちなみに<悪女>とは「性質のよくない女」ということだが、こんなことで「性質のよくない女」と決めつけられたのでは、世界中の女性が皆<悪女>になってしまうだろう。
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<*1:投稿者註> 高橋文彦氏の論考「宮沢賢治と木村四姉妹」の中に次のような指摘がある。
 実は、杲子の足どりを調べていくうちに、賢治を初め、すでにこの世の人でない人たちの過去をほじくる姿勢に疑問を投じた老婆(ここでは触れない)に邂逅した。彼女は、Mというある著名な地元賢治研究家の名を引き合いにして、彼女はもとより多くの人たちが、ありもしないことを書きたてられ、迷惑していることを教えてくれた。架空のことを、興味本位に、あるいは神格化して書き連ねた作品の多いことを指摘し、賢治を食いものにする人たちのおろかしさに怒りをぶつけた。
               <『啄木と賢治第13号』(佐藤勝治編、みちのく芸術社、昭和55年9月発行)81pより>
ただし、この中に出てくる「M」は始めからアルファベットになっていて、私がイニシャル化したものではない。そこで、この「M」と私がイニシャル化した人物「M」とが同一人物であったとしたならばどうなるのだろうかと考えてしまうと、末恐ろしくなってくる。
 また、他ならぬ「歴史学者」小倉豊文が『「雨ニモマケズ手帳」新考』の中で、
 以上の諸氏の諸編著は、その殆どが直接・間接の聞き書きが主であるから、読者ないし研究者は、その点に注意が必要であろう。私は花巻ないし岩手県下を歩き廻ること四十年近くになるが、賢治の行蔵が早くから「新しい神話」となっていると感じたことが少なくないからである。
              <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)305pより>
と警鐘を鳴らしている。そしてその「諸氏」とは、栃木沢竜二(『新考』によれば、賢治が有名になり始めた頃の清六のペンネームであり、その頃政次郎は賢治について積極的に書いたり語ったりするのを固く禁じていた。)、関登久也、佐藤隆房、そしてM(投稿者イニシャル化)の4名を指している。
 つまり、これらの諸氏の編著は基本的にはそのままでは「賢治伝記」の資料としては使えない。なぜならば、それらは検証されたものでも裏付けを取ったものでもないからであるということを、小倉豊文は私たちに警告している。
<*2:投稿者註> 同書によればこの座談会は昭和10年頃に行われたもので、出席者は町の青年K、村の青年C、同じくMの三人であるであるという。また、「K」は高橋慶吾、「C」は伊藤忠一であるということを関登久也著『賢治随聞』所収の「宮沢賢治先生を語る会」で後に明らかにしている。
<*3:投稿者註> 佐藤の論考「賢治二題」によれば、伊藤忠一が「稲コキ用のモーター」の件でいやな思いをしたことを正直に喋っていることからそれが窺える。
<*4:投稿者註> 菊池氏の『私の賢治散歩 下巻』の「詩碑付近」の中に、
 賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしていあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしく近づけるような人ではながんした。
という伊藤忠一の証言があることなどからもそれが窺える。

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