この12月17日、私は花巻農業高校に向かった。それは、「羅須地人協会の建物」をもう一度じっくり見直してみよう、そうすればおのずから決着が着くはずだと思い立ったからだ。
《1 》(平成30年12月17日撮影)
《2 》(平成30年12月17日撮影)
まずは、建物の周りをゆっくりと一周してみよう。
《3 》(平成30年12月17日撮影)
《4 》(平成30年12月17日撮影)
《5 》(平 . . . 本文を読む
前回私は、
今回のシリーズ〝「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」の検証〟の一切を終えたい。
としたのだが、一つ大事なことを忘れていたので付け加えておきたい。それは、
賢治は何故「本当の百姓」とは表現せずに「本統の百姓」と表現していたのか。
ということについてだ。
周知のように、賢治は「本統の百姓」になるという意味のことを何人かに伝えて、花巻農学校の職を辞して実家を離れて下 . . . 本文を読む
前回、「農民芸術」の分野においては、「羅須地人協会時代」の賢治は農事詩等の詩作についてはかなり頑張って取り組んだのだが、後に賢治自身が封印したものも少なくないから、賢治のその想いを尊重すれば逆に、詩作についてはそれほどの成果があったとは言えない。よって、同時代の成果として挙げられるものは「農民藝術概論綱要」の完成くらいであろうということになる。
そこで、件の「百姓」としての「必要条件」について . . . 本文を読む
それでは、「羅須地人協会時代」の「農民芸術」としては音楽分野もあるから、今回は同時代の賢治自身の「音楽活動」について考えてみたい。
賢治が音楽分野で一番努力し、苦労したのがチェロの修得であろう。ちなみに、昭和2年の賢治の日記、
【『昭和2年の賢治の日記帳(印刷上は「大正十六年日記」)』】
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)より>
によれば . . . 本文を読む
さて、ここまでの考察によって、
賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」としての必要条件には、
一.「当時珍しかった花卉の園芸」や「当時珍しかった洋菜の栽培」
一.農民芸術
が少なくともある。と言えることに私は気付いた。さりながら、その「百姓」としての必要条件である「農民芸術」が、先に述べた程度のものであったとすればあまりにも心許ないものであることは自明だから、当時の賢治自 . . . 本文を読む
さて、二つの新聞記事によって、
賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」とは、「当時珍しかった花卉の園芸」や「当時珍しかった洋菜の栽培」が必要条件であった。と言えることに私は気付いたのだが、これらの記事に基づいて、もう一つの観点から次のことを考えてみた。それは「芸術」の観点からである。
まず、大正15年4月1日付『岩手日報』の記事からは、
(3) 半年ぐらゐは花巻で耕作にも従 . . . 本文を読む
さて、賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」とは、一つ、まずは少なくとも園芸をやることが必要条件であったことがほぼ明らかになった。
ではその他にどのような必要条件があったのであろうか。それは、当然あの二つの新聞記事中の賢治の回答にもあり得るはずだ。まずは大正15年4月1日付『岩手日報』のあの記事、
新しい農村の建設に努力する
花巻農學校を辞した宮澤先生
花 . . . 本文を読む
というわけで、仮説「賢治は百姓<*1>になるつもりは元々なかった」が検証できたわけだが、となれば、前回最後の方で、
賢治の言っていた「本統の百姓になる」の「百姓」とは、当時日常的に使われていた「百姓」とは異なるものである、ということもまた同時に明らかとなったとも言える。ついては、賢治の言っていた「本統の百姓になる」の「百姓」とはどのような百姓であったのかということを、次に考えねばな . . . 本文を読む
さて、ここまでの一連の考察によって、仮説「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」に対しての反例は何一つ見つからなかったから、この仮説は検証できたということになる。したがって、今後この仮説に対する反例が見つからない限りという限定付きの、
賢治は百姓になるつもりは元々なかった。
は真実となった。
そして、ここまでの検証を通じて「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」ということだけでなく、 . . . 本文を読む
さて、前回までいくつかの検証を行ってみたのだが、結局、先に定立した仮説「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」の反例は見つからなかった。そこで私は、そろそろこの仮説「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」は、今後反例が見つからない限りという、限定付きの「真実」であるということになりそうだ、ということを確信しつつある、と前回の最後に述べた。
実は、私はこれから述べることを知っていたから、この仮説 . . . 本文を読む
では今回は、昭和3年の農繁期の賢治の営為によって、先の仮説「賢治は百姓<*1>になるつもりは元々なかった」の検証をしてみたい。
さて、昭和3年の農繁期における賢治の主立った営為はどんなものであったのだろうか。『新校本年譜』から以下にそれらを抜き出してみる。
《4月》
四月一〇日(火) 田中義一内閣は、この日安寧秩序を害するものとして労働農民党および日本労働組合評議会、全日本無産青 . . . 本文を読む
今回は、昭和2年の農繁期の賢治の営為によって、先の仮説「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」の検証をしてみたい。
それでは、昭和2年の農繁期における賢治の主立った営為はどんなものであったのだろうか。『新校本年譜』から以下にそれらを抜き出してみる。
《4月》
四月一日(金)
(→)
四月二日(土)
四月四日(月)
→
四月五日(火)
(→)(→)
四月七日(木)
. . . 本文を読む
では今回は、大正15年の農繁期の賢治の営為によって、先の仮説「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」の検証をしてみたい。
賢治が大正15年4月になって下根子桜に移り住んでからの、いわゆる農繁期における彼の主立った営為はどんなものであったのだろうか。『新校本年譜』から以下にそれらを抜き出してみる。
《4月》
四月一日(木) 花巻農学校を依願退職する。下根子桜の別宅で独居自炊の生活に入る。
四 . . . 本文を読む
では今回は、賢治が花巻農学校を辞めた際に退任式等がなかったことを確認し、その上で、先の仮説「賢治は百姓<*1>になるつもりは元々なかった」を検証をしてみたい。
前回の最後の方で、私は
なお、賢治の花巻農学校の辞め方が不自然であったことを私は既に知ってしまっていたからなおさらに、この記事における賢治の回答には「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」ということを読み取ってしまう。た . . . 本文を読む
では今回は、大正15年4月1日付『岩手日報』の記事によって、先の仮説「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」の検証をしてみたい。
さてその記事だが、それは以下のような内容である。
新しい農村の建設に努力する
花巻農學校を辞した宮澤先生
花巻川口町宮澤政治(ママ)郎氏長男賢治(二八(ママ))氏は今囘縣立花巻農学校の教諭を辞職し花巻川口町下根子に同志二十餘名と新しき農 . . . 本文を読む