以前〝人のつながり等〟において〝阿部芳太郎〟という人物を挙げた。その際に「賢治との交際を持った」としたが、それは具体的にはどのようなものであったのだろうかと考えあぐねていた。
舞台の背景
それが、この度少しだけだがわかった。賢治が花巻農学校在職していた当時の演劇に関する中村末治の次のような証言の中にそれはあった。
やがて上演する日が迫り、わしら生徒は汗みずくになって教室から教壇を運び込み、そ . . . 本文を読む
教え子川村輿左衛門の証言
賢治の花巻農学校時代の教え子の一人、川村輿左衛門は鳥山敏子氏の取材に対して次のようなことを語っていた。
劇は楽しくもなかった 無理にやらされて
あんなに偉い先生だとわかっていたら、ちゃんと授業の記録をとっておくとか、きちんと頭のなかに入れておくとかして、みなさんのお役にたつことができたのに。なんせ、あのころは、はなたれ小僧だったもんで。
大正一一年頃、宮沢先生 . . . 本文を読む
過日、シリーズ〝賢治、家の光、犬田の相似性〟を終了したのだが、その直後盛岡のある書店で『賢治の見た夢』(相川良彦著、日本経済評論社)という本が目に留まった。先のシリーズと関連することがあったし、私の知らないことを解説してくれていたので以下にその中から幾つかを紹介させてもらいたい。
当時の社会的思潮
まずは〝第一章 宮澤賢治の農民芸術論〟の出だしは次のようなにっている。
一 はじめに
民 . . . 本文を読む
4 まとめ
(1) 結論
さてここまで辿って来てみると、賢治の下根子桜時代における文芸活動については次のようなことが言えないだろうか。
(ア) 「農民劇」に対する賢治と「農民文芸会」の捉え方はかなり似ていた。
(イ) 賢治の創作の殆どは、「農民文芸会」の唱えるところの「農民詩」とも見ることができる詩の創作であった。
(ウ) 「農民文芸会」の『農民文芸十六講』と賢治の「農民芸術概論綱要」は通 . . . 本文を読む
3 「農民詩」
さて、下根子桜時代の賢治の創作活動はどのような分野でのそれであったのだろうか。『宮沢賢治必携』(佐藤泰正編、學燈社)によればその時代に執筆された童話は殆どなく、せいぜいあったとしても〔ある農学性の日誌〕(昭2・8・21日付以後の執筆か)と『なめとこ山の熊』(昭2頃の執筆か)の2作品しかないということになりそうだ。
一方詩に関しては、詩の創作数を「新校本年譜」を基にして月別に数え . . . 本文を読む
2 「農民芸術概論綱要」
さてでは先の新聞報道以外で、大雑把に言えば「農民劇」以外で賢治が下根子桜で行っていた農民芸術に直接関連するものは何か。それはほぼ、農民芸術の理論化と文学の創作の二つではなかろうか。つまり、「農民芸術概論綱要」と「農民詩」ではなかろうか。
さて、時代が大正に入るとおびただしい数の雑誌が多くの大衆芸術を生み、「民衆芸術論」をより一層発展せしめた。農民文学運動はそのような時 . . . 本文を読む
(6) 賢治は何を為したのか
ひるがえって見て、賢治は下根子桜に住んで一体何をしたかったのか私にはあまりそこが見えてこないが、『岩手日報』の報道に依れば、
『新しい農村の建設に努力する』……☆
ための方法論としてはそこへ移り住んだ当初
④実践としては幻燈會(毎週)、レコードコンサート(月一回位)を行いたい。
ということを考えていて、これらに類した実践を多少は行ったことであろう。
しかし . . . 本文を読む
(3) 昭和2年2月1日付『岩手日報』の記事
では下根子桜に移ってから10ヶ月後の賢治はどうだったのだろうか。そのことは同じく『岩手日報』(昭和2年2月1日付)の次のような報道から窺えるようだ。
農村文化の創造に努む
花巻の青年有志が 地人協會を組織し 自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十餘名と共に羅須 . . . 本文を読む
しばし〝 賢治、家の光、犬田の相似性〟というタイトルであちこちうろちょろと周辺を彷徨ってみたのだったが、最後の方になって巧くまとめられそうになくなってしまってしばし打っちゃいて置いたこのシリーズである。
さりとて寒露も過ぎて秋の山々も色付き始めてきたことでもあり、まごまごしていると直に厳しい冬がやって来そうだということを覚り、意を決してそろそろまとめに入りたい、と思っているのだが…。
そも . . . 本文を読む
以前、賢治と佐伯郁郎を繋ぐ人物として宮澤安太郎がいるということを述べた。この宮澤安太郎に関する詳述はあまりないようだが、調べてみたところ現時点では以下のようなものが見つかったので報告しておきたい。
まず挙げたいのが佐藤司氏の次のような記述である。なんと安太郎はあの「十字屋」の店主であったことが解った。
宮沢安太郎 明三五~昭和一九。従弟、父政次郎の弟(治三郎)の長男。大一〇盛岡中学校卒業。こ . . . 本文を読む
以前〝賢治、家の光、犬田の相似性(#34)〟等において、『新校本年譜』に
大正15年 六月 このころ「農民芸術概論綱要」を書く。とあるが、その時期についての疑問を呈した。
「全集第六巻並に別巻解説」より
そんなり折たまたま十字屋版の『宮澤賢治全集 別巻』を見ていたならば、森惣一(森荘已池)の「全集第六巻並に別巻解説」が同書に所収されてあった。つらつらと眺めていたならば、その59p以降に次の . . . 本文を読む
『春と修羅』第三集は農民詩集か
前回の〝賢治、家の光、犬田の相似性(#46)〟において私は、
賢治自身は当時自分のことをずばり「農民詩人」とは思っていなかったとしても、少なくとも賢治自身は自分のことを「農民詩人」に近似していると思っていたことが肯えると思う。そして、下根子桜時代に詠んでいた詩は「農民詩」かそれに近いものだということも。と述べた。
それゆえ、当時(下根子桜時代)の賢治は
『春 . . . 本文を読む
〝賢治、家の光、犬田の相似性(#45)〟において、
例の大正15年7月25日の〝面会謝絶事件〟の際に、森荘已池が賢治に対して白鳥省吾等には会う必要がないと言った(出典確認中)のも宜なるかなと思うってしまう。ということを述べたが、その〝出典〟が見つかった。
それは菊池忠二氏の『私の賢治散歩 下巻』の中に次のようにあった。
宮沢賢治が、いったん約束した面会の約束を、その前日になって、急にくつが . . . 本文を読む
、おそらく例の出典であろうものがなんとか見つかった。
『詩と詩人』より
それは草野心平の『詩と詩人』の中にあり、以下のようなものだった。
坂本遼の「たんぽぽ」
詩集『たんぽぽ』は昭和二年九月に刊行された。著者は坂本遼、装幀は浅野孟府で赤い日本紙の表紙にマッチの棒が一本描いてある。いまはもう古本屋などでも殆んど手に入らない。発行部数がすくなかつたせゐもあるが、それよりもこの詩集は、一度手 . . . 本文を読む
以前〝賢治、家の光、犬田の相似性(#41)〟において、
二人の農民詩人が参加したことで、賢治は「銅鑼」に作品を寄せる必要がなくなったという書簡を寄せたことがあるという部分に関しては同紙に載っていなかった。したがって、この証言が何を出典として書かれているのかは現時点では確認できずにいるがと述べた。その後、手を尽くしてそれを探しているものの未だ見つかっていない。
猪狩満直
そこで取り敢えずはこの . . . 本文を読む