《白露草》(平成28年8月24日撮影、下根子桜)
袴田巌さん、お姉さんのひで子さんおめでとうございます。
朝日新聞デジタルに、10/8(火) 15:31配信の
袴田巌さんの無罪確定へ、検察が控訴断念方針 判決覆すの困難と判断
という見出しの記事があり、そこには、
1966年に静岡県のみそ製造会社の専務一家4人を殺害したとして、強盗殺人罪などで死刑が確定した袴田巌さん(88)を無罪とした再 . . . 本文を読む
「私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露―」(テキスト形式)
この投稿は、『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』の中の第三章である
Ⅲ 私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露― 鈴木 守
についてである。
一 はじめに
宮澤賢治が生前血縁以外の女性の中で最も世話になったのが高瀬露である。ところが現実は、露はとんでもない〈悪女〉にされていて、いわゆる〈高瀬露 . . . 本文を読む
第二章 「賢治伝記」の看過できぬ瑕疵
さりながら、私の問題提起が、まして一連の主張がそう簡単には受け容れてもらえないであろうことは充分に覚悟している。そこには構造的な問題が横たわっていそうだからである。そこで、前掲の〝㈠~㈥〟などのような事柄については、どう決着がつくかはまだまだ時間を要するだろうから歴史の判断を俟つしかないと今は思っている。
ただし、捏造された〈悪女・高瀬露〉だけは人権に . . . 本文を読む
〈表表紙〉下根子桜の白花露草 (平成28年8月24日撮影)
〈裏表紙〉早池峰山のつめくさ(ホソバツメクサ)(平成16年7月10日撮影)
裏表紙の短歌五首は、昭和14年12月13日に「賢治先生の靈に捧ぐ」と題して露草(高瀬露の号)が詠んだものである。
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☆『賢治の真実と露の濡れ衣』(一気読みタイプ)
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おわりに
鈴木 ではこれで検証作業等は全て無事完了、我々は「高瀬露は〈聖女〉だった」ということを実証できた。
荒木 でもやはり、俺は正直不満を隠せないな。賢治が亡くなってから約80年を経た今でさえも、調べてみればこうやって新たな事実等を知ることができてこの検証ができたのに、なぜこのようなことが今までに為された来なかったのだろうか。
吉田 まして、「露は<聖女>だった」ということが僕ら . . . 本文を読む
第八章〈悪女伝説〉は全くの捏造
〈高瀬露は聖女だった〉は妥当な真実
鈴木 よし、これでやっと安堵できた。なお念のために確認しておくけど、「昭和8年」に関しては露に関するこの<仮説:高瀬露は聖女だった>に関連する証言や資料は今のところ見つかっていなはずだから検証作業は不用。また、寶閑小学校勤務以前の露のについても同様だ。
したがって現時点では、我々が知る限りの反例となりそうな証言や . . . 本文を読む
第七章 敢えてした「粗雑な推定」
〈仮説〉の反例現る?
これで残された「年」についてはほぼ調べ尽くしたのだが、思わぬ伏兵が潜んでいた。
鈴木 もちろんこの「昭和7年」が最後に残された年だったので、結局最後までこの<仮説>は検証に耐え続けてくれたということになる。ということは、高瀬露の全生涯にわたって〈仮説:高瀬露は聖女だった〉は成り立つことになった。
荒木 いやちょと待てよ、そ . . . 本文を読む
第六章 昭和7年の場合
曾て賢治氏になかつた事
ここからは昭和7年についてである。
◇賢治を中傷する女の人
鈴木 では、いよいよ最後に残った「昭和7年」分についてだ。
まずは、『イーハトーヴォ第十號』を見てくれ。その五頁には、例の露の
・教へ子ら集ひ歌ひ語らへばこの部屋ぬちにみ師を仰ぎぬ
・いく度か首をたれて涙ぐみみ師には告げぬ悲しき心
などの四首が載っている。そしてそこには
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思考実験<賢治三回目の「家出」>
荒木 ところで、前に吉田が言っていた「ある伏線」はこれらとどう繋がるのだ?
吉田 ご免、そのためにはもう少し準備運動が必要なんだ。まずは、当時のことを時間的な流れで以下に確認したい。
・大正15年秋~昭和2年夏:下根子桜の賢治の許に露出入り(菊池映一氏の証言より)。
・昭和2年秋 :伊藤ちゑ兄と共に来花、賢治と会う(10月29日付藤原嘉藤 . . . 本文を読む
第五章 昭和6年の場合
また持ち上がった賢治とちゑの結婚話
ここからはいよいよ昭和6年に入る。
◇憤怒の〔聖女のさましてちかづけるもの〕
鈴木 それでは、「昭和6年」分については賢治の〔聖女のさましてちかづけるもの〕がその中心となりそうだが、いよいよ始めるとするか。
荒木 そもそも、その〔聖女のさまして云々〕とはどんな詩なんだ?
吉田 それは、『雨ニモマケズ手帳』にこのように書かれていて、実 . . . 本文を読む
第四章 昭和5年の場合
関徳弥の『昭和五年 短歌日記』発見
ではここからは、昭和5年に関わることについてである。
鈴木 昭和5年で問題となるのは、関登久也(本名:徳弥)の『昭和五年 短歌日記』だ。
実は、平成15年7月29日付『岩手日報』の20面にほらこのように〝賢治に結婚話あった〟という見出しの記事が載ったんだ。そしてこのような報道があった訳はと言えば、関徳弥の『昭和五年 短歌日記』が発見 . . . 本文を読む
第三章 昭和4年の場合
昭和4年露宛書簡下書「新発見」?
ではここからは、昭和4年に関わることについてである。
◇<仮説:高瀬露は聖女だった>の定立
鈴木 それでは、これで羅須地人協会時代の検証等は全て済んでしまったから残るはこの時代以降についてであり、今後は昭和4年~昭和7年について調べればよい。
では、まずは「昭和4年」分について考察してみよう。なお、ここからは今までの考察で . . . 本文を読む
森の「下根子桜訪問」自体が虚構
さて、森が「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかった理由は、森の病状がかなり思わしくなかったことが当時かなりの程度世間に知られていたことにもあったからに違いないと私は直感した。そこでそのことを以下に検証してみたい。
◇昭和2年の新聞報道によれば
その頃の森は生出仁と共に「岩手詩人協会」を設立し、機関誌『貌』を創刊するなどの活躍をしていたから、その存在がそれな . . . 本文を読む
第二章 羅須地人協会時代の場合
検証もせず裏付けもないままに
さてここまで「昭和六年七月七日の日記」の中の露に関する森の記述内容の検証をいくつかしてみた結果、そこにはどうも信憑性の危ういものがあるということを知った。
このことに関連して上田哲は前掲論文において、
露の〈悪女〉ぶりについては、戦前から多くの人々に興味的に受けとめられ確かな事実の如く流布し語り継がれてきた。多くの本や . . . 本文を読む