暫くぶりに胡四王山は「経埋ムベキ山」の一つだったことを思い出した。
《1 》(平成24年10月30日撮影)
《2 》(平成24年10月30日撮影)
《3 》(平成24年10月30日撮影)
《4 》(平成24年10月30日撮影)
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では今回は「第二回は五月二〇日から二八日まででした」という、花巻で開かれた第二回目エスペラント講習会期間中の佐々木喜善の日記を見てみよう。
五月二十日 晴
二時半に田中さんと共に花巻に立つ。大和さんに落着く。夜の森さんの座談会に呼ぶために島君と明治屋へ行く。明治屋で夕食をすまし、一時半まで話して雨中明治屋へ行つてとまる。此の人たちはとても親切である。
五月二十一日 晴
森さんの話で、 . . . 本文を読む
ではこのシリーズの最終回、頂上からは周回コースの残りを辿り、登山口まで戻ることとしその報告をしたい。
《1 ヨブスマソウ》(平成24年10月27日撮影)
《2 〃 》(平成24年10月27日撮影)
《3 クルマユリ》(平成24年10月27日撮影)
《4 〃 》(平成24年10月27日撮影)
《5 〃 》(平成24年10月27日撮影)
《6 トリアシショウマ》(平成24年10月27日撮 . . . 本文を読む
では今回は、「高台展望台」~鞍掛山頂上までの報告をする。
《1 岩手山が見え隠れ》(平成24年10月27日撮影)
《2 ブナ》(平成24年10月27日撮影)
《3 コマユミ》(平成24年10月27日撮影)
《4 》(平成24年10月27日撮影)
《5 オオバギボウシ》(平成24年10月27日撮影)
《6 》(平成24年10月27日撮影)
《7 》(平成24年10月27日撮影)
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では今回は、これから曲がりくねった上り坂を登り、西側コースと合流、「カタクリ回廊」を経由して、「高台展望台」までの報告をしたい。
《1 》(平成24年10月27日撮影)
《2 コマユミ》(平成24年10月27日撮影)
《3 ミヤマイボタ》(平成24年10月27日撮影)
《4 サイハイラン》(平成24年10月27日撮影)
《5 マイヅルソウ》(平成24年10月27日撮影)
《6 》(平 . . . 本文を読む
鞍掛山の紅葉狩りに出掛けた。暫くぶりに岩手山を仰いでみたかったからでもある。
登る前、小岩井農場からの岩手山は頭が雲の中だった。
《1 いつも控えめな鞍掛》(平成24年10月27日撮影)
駐車場手前から鞍掛や岩手山を眺める。
《2 》(平成24年10月27日撮影)
《3 登る頃は岩手山も雲が取れていた》(平成24年10月27日撮影)
《4 》(平成24年10月27日撮影)
《5 》( . . . 本文を読む
さて、佐々木喜善の日記がますます気になってきた。とりわけ〝中館さん〟が誰なのかが。そこで前掲書『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)を見直すと次のようなことも書かれていた。
三 晩年の宮沢賢治と佐々木喜善
しかし、喜善と賢治の関係が再び見えてくるのは、昭和七年(一九三二)、仙台で暮らすようになった喜善が花巻でエスペラントの講習会を開くことになり、その折に賢治を訪ねるようになってからです。講習会は . . . 本文を読む
佐々木喜善の日記
先日たまたま『宮沢賢治と遠野』を眺めていたならば、その中に佐々木喜善の次のような昭和7年4月13日の日記が載っていた。
四月十三日 風
午前中、中館に行く。午後宮沢賢治氏の病室へ行つて三、四時間話す。夜食は中館さんによばれる。講習所で十一時半頃まで話してかへる。… 私はこれを見てもしかすると?と思ってしまった。
というのはそのとき私の頭の中には二つの事柄が同時に浮かんだ . . . 本文を読む
教え子川村輿左衛門の証言
賢治の花巻農学校時代の教え子の一人、川村輿左衛門は鳥山敏子氏の取材に対して次のようなことを語っていた。
劇は楽しくもなかった 無理にやらされて
あんなに偉い先生だとわかっていたら、ちゃんと授業の記録をとっておくとか、きちんと頭のなかに入れておくとかして、みなさんのお役にたつことができたのに。なんせ、あのころは、はなたれ小僧だったもんで。
大正一一年頃、宮沢先生 . . . 本文を読む
《0↑赤林山》(平成24年10月27日撮影、湯沢付近から)
「椀コ」の特定
さて前回の結果から、賢治は「現赤林山」のことを当時も「赤林山」であると認識していたであろうことがほぼ間違いないと解ったので、ここではそのことに基づいて「椀コ」はやはり「赤林山」であると特定できることを再度主張したい。
賢治の文語詩「岩頸列」の出だし
西は箱ヶ . . . 本文を読む
「赤林山」は「赤林山」
以前〝 「椀コ」はやはり「赤林山」でなかろうか〟において、資料として用いた5万分の1の地形図〝大正元年測図昭和14年修正「5万分の1の地形図『日詰』」(陸軍参謀本部)〟は〝賢治が持っていた5万分の1の地形図『日詰』とほぼ同じであろうと思われる〟と言ってはみたものの、一抹の不安があった。というのは、それは〝大正元年測図昭和14年修正〟されたものであったからである。賢治が使っ . . . 本文を読む
評伝尾崎喜八
以前〝賢治の光太郎宅訪問〟において、「(賢治は)尾崎喜八氏の所にも寄られたそうで」と高村光太郎が言っていたということに触れたが、そのことに関して重本恵津子氏が『花咲ける孤独 評伝尾崎喜八』の第五章において次のように述べている。
さて、この時代でもう一つ書き落とせないのは、大正十四年か十五年かはっきりしないが、「蒼天居(尾崎喜八の自宅のこと:投稿者註)」に宮沢賢治の訪問を受けたこと . . . 本文を読む
10月20日、東根山(あずまねさん)麓にある藤原嘉藤治の家を訪れた。
『童話『銀河鉄道の夜』の舞台は矢巾・南昌山』によれば、
嘉藤治は、大日本青年団本部に勤めていたが、戦争が激化し戦時教育令公布により、昭和二十年五月二十二日、大日本青年団本部が解散した。そこで、昭和二十年八月十二日、家族と共に郷里矢巾に帰った。一旦矢巾町白沢、屋号馬場武雄さん宅の馬屋を改造して住まいした。昭和二十年八月十五日 . . . 本文を読む
10月20日藤原嘉藤治の家を訪ねたのだが、約束の時間までに間があったので訪問前に東根山登山口から麓に少し入ってみた。
すると嬉しいことに、ここに〝ミヤマセンキュウ〟がまだ咲いている。感激。
そして、まだいくらかその他の花も咲いていたので報告する。
《1 ミヤマセンキュウ》(平成24年10月20日撮影)
《2 「共存同栄の森」》(平成24年10月20日撮影)
おっこんなところにかつての『 . . . 本文を読む
今回のボランティアは陸前高田市内の、多分〝中川原〟という地名の場所の側溝の泥揚げであった。
昼休みに周辺を見て回って、現状を知ってもらうための投稿用写真を撮っていた。すると、ボランティアに来たのであろう人達の自家用車がかなり駐車していた。その中には〝山口〟ナンバーの車があった。つい嬉しくなってその持ち主に声を掛けた。
『遠くから大変ありがとうございます』
と。すると、その車の持ち主は歳の頃 . . . 本文を読む