羽を休める鳥のように

きっとまた訪れる薄紫の夕暮れを待ちながら

運命と宿命

2011年01月11日 | Weblog
本を読んでいるときは次の本をストックしておく。
読む本がない、という状況は作りたくない。
暮れにヤフオクで買えたと思っていた二冊が、
ぼんやりしているうちに落札されてしまって、
古本屋に行く時間がなく(仕事先の古本屋にもなくて)
長女が残していった大きな紙袋をあさってみた。
そしてその中から選んだのがこれ。重松清「疾走」。
表紙のインパクトがすごい。
重松さんの本では「流星ワゴン」が好き。というか、他は
ほとんど読んでいない。
1、2冊読んだけどもう覚えていない。
長女の読書量はすごいので引越しの時、あれだけ運んだのに、
部屋にはまだたくさん残っていて「好きなように処分してください」と
言われていた。

「疾走」は凄まじい小説だった。
孤独の限界を走って行く少年の軌跡。
おまえは、という手法によって語られていく。
語り手が物語のなかで読者にそっと椅子をすすめるような存在の
神父であることが後半になってわかる。
主人公が聖書を手にする場面も何度かある。
うちにも聖書はあるが読んだことのないわたしはよくわからないまま
少年の孤独な魂が救われることはあるのだろうかと頁を繰っていった。

神父の講和の中で「運命と宿命」についての話があった。
人生をすごろく盤にたとえてマス目を進んでいく話だった。
幸せなマス目も不幸せなマス目もたしかにあるに違いない。
にんげんは不平等だけれどそれもまた公平である、
誰でもがいつかは必ず死ぬという宿命なのだから。
そんなふうな話だった。

読み終わって、文庫本二冊をこうして合わせて写真を撮ってみた。
ふと、長女の引越しの時を思い出した。
あの日、引越しできなかった壊れた事故車の荷台に上って、
病院にいる娘のために荷物を拾い集めた。
足元にガラスの欠片を踏みつけながら。
たくさんの小物や洋服、、そして本、、、また本。
アタマの中を空白にして紙袋に詰め込んだ。
ガラスの粉を払い血のついたものは避けながら。

なぜ今になってそんなことを思い出したのかわからない。
結果的に引越し荷物に梱包されなかった本が無傷で、
こうしてわたしの手元に残されている。
娘が置いていったもの。
でもいま、その娘に「読んでるよ」と言える。伝えられる。
うれしい。

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