羽を休める鳥のように

きっとまた訪れる薄紫の夕暮れを待ちながら

いつもどこかで

2016年06月02日 | Weblog
先月入院した母は火曜日に別の病院に移送された。
突然の電話、というのはいつでもこわい。
母がいたグループホームに荷物を取りに行く。
前の病院に手続きに行く。
書類をそろえる。銀行に行く。
買い物をしてすべてに母の名前を書く。
パジャマのズボンのゴムはゆるく入れ替える。
洗濯せんたく。

それでも母は案外シッカリしている。
シッカリとわたしの顔を見る。
ほんのすこし会話もできる。
「またくるからね」バイバイと手を振るとちゃんと振り返す。

こういう日々、ちょっとうれしい出来事もあった。
5月29日の朝日新聞に友人の記事が掲載された。
「組み体操 二人組みもリスク」
友人の息子さんの体操事故は二年経った今も納得できるような解決をみていない。
中学生になった息子さんはつらい後遺症に苦しんでいる。
友人は仕事を辞めて病院に付き添い解明を求めて奔走した。
わたしはただ聞き、がんばれと言うしかなかった。
ようやくマスコミが取り上げてくれたので小さな一歩。
ここにくるまでの彼女の怒り、悲しみ、悔しさを思うと、
小さな記事だけどとても重いと感じる。
まだまだ訴訟へとむけて闘いは続いている。

いつもどこかで誰かががんばっている。

週末、前から予定していた次女との京都旅。
兄が行っておいで、と言ってくれたのでたぶん行ってきます。