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まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

人参と4本の杖

2013-07-10 | 暮らし

人参畑は、もぐらの穴で大変だ。なので、竹をあちこち刺して、ずぼっと落ちると、そこにはもぐらの通路があるので、埋めて再び竹を刺す。

父は、手のかかる人参畑に「買った方が安いやろ。」と、にまにま笑いながら言う。わたしが苦心しているのを見るのが嬉しそうだ。

父は、膝が痛くてやっと杖をついて歩いているので、「杖を2本にしたら?」と、言うと「足が4本になったら、どの足を出していいんか分からんようになる。」と、笑っていた。一瞬信じそうになった。


手の内について

2013-07-10 | 弓道

手の内といえば、手の内をあかすなとか、手の内を見せるなとか言われるように、すごく大事なところで、弓道ではここが重要視され、これなくして、何をかいわんやである。図解でも手のひらをしっかり描いて、説明がなされ、難しいので弓道教本第1巻では、さらりと説明してあるのだ。

詳しくは、第2巻、3巻を熟読しなさい。と、さりげなく書いてある。(第2巻、3巻参照)と。しかし、それではすまされず、第4巻にもとくとくと説明している。「手の内を知らずして射を語ることなかれ。」と、まで言われているのに、一体何十年おろそかにしていたことか。適当に、中たりが出たら満足し、適当が身について、いつの間にかずるずると悪くなっていた。

角見の働きの重要さを身を持って分かるまでに、こんなに年月をかけている弓道人はいないのではないか。たいがいの上手な射手は、ちゃんと研究し、出来ている。なので、中たりもちゃんとあるしきれいな弓返りをする。何で中たらないのかといえば、ここに尽きる。もちろん、先日の頬付も関係するが。

要するに、出来ていれば中たるのである。正射必中の意味はそこなので、教本に逆らう訳ではないが、「的中至上主義」でなくてはならないのだ。このことを、弓道仲間に言うのははばかられるが。教本の教えをバイブルのごとき教えとして、後輩の指導にあたりなさいと言われているのに、中たりにこだわりなさいと教えたら誤解される。「現代弓道の修練の眼目、品格のある射、日本の弓道は的中至上主義をとってはいない。」のくだりは、曲げてはいけない。しかし・・・。

おかしなことを言うと破門されそうだ。しかし、幸い弓道は、師弟関係を結んでいるのではなく、自分で会費を払って協会員になっているので破門はないが、つまらない波紋が広がるとまずいので、ひとりでつぶやいていることにする。力説してはいけない。

 


頬付について

2013-07-09 | 弓道

石川県民体育大会に、今年は病後であまり試合も出ていなくて、中たりもなかったので、選手からはずれ監督になった。昨年も、一昨年も県体が近づくにつれてビクに悩まされたが、今年は解放されたせいか、何故か、中たりが出てきた。連日、立で8射6中だったが、今日の夜の立ちの記録では8射8中。皆中の最後の1本も外れる気がしなかった。しかし、ここが危ない。どこか崩れるとまた中たりが落ちるだろう。日々の研鑽の大切さを思う。

先日から、加賀の道場のM田君と「稲垣源四郎先生の角見の働き」と、手の内の作り方を改めて見直した。どちらかというと、日置流のM田君に習っている。ついでに、頬付を口割に合わそうとしてビクがきていたことが分かり、一番離れの出やすいところで離すことにした。

頬付はいつも一定のところにつけるのであって、唇にあわせるのではないが、何故か口割(唇の合わせ目)の高さにこだわっていた。それが意味のないことで、矢を付ける位置が低いほど放しにくくなる。特に首の短い人はいっそう離れにくくなると、きっぱりと書いてあるので、ほっとした。

その説が正しいかどうかは、的中が上がってきたことで証明できるのではないか。

ついでに、首の短い身近な人が、下唇に矢が降りてきて、ビクを繰り返していたので、要指導した。やはり、ほんの少し離れやすくなってきた。彼は、肩にネクタイをしていくくらい首が短いので、矢を下唇まで降ろしてしまっては、肩とこぶしの間が詰まり、離れは出にくくなるので、一旦緩めなくては離れない。

夫婦でビクを繰り返していて、「一射して 二回楽しむ 離れかな」で、あった。だんなは首が短く、わたしは小顔で、口から肩にかけてが人より短いので、頬付は一番バランスのよいところを見つけなくてはならない。たぶん、よく中たるときは、そうしていたのだと思う。昇段昇格を目標にしている時に、ぴたっと口割に矢が合っているのがきれいだなあと思ったことが間違いだった。何の根拠もなく思ったことだ。

さて、今後の課題は、上記の説が正しいかどうかを証明しなくてはならない。そのためにも、もう一度日々の稽古をひたすら黙々と、そして上達を焦らないこと。

わたしが熱弁していると、首の短い亀さんは、いびきをかいて寝ている。今日、彼は病院の検査で少し病気が進行していた。弓道はなかなか上達しないが、何も研鑽しなくても病気は進行していく。皮肉なものだ。だからこそ、日々の精進は大切なのだと思う。

 


矢渡し稽古

2013-07-09 | 弓道

この暑さはどうしたことでしょう。

水曜に山中で加賀市の弓道選手権をするときに、矢渡しの当番が当たってしまった。暑い・・・ひたすら暑い。介添えの人たちが熱心で、練習したいので夜集まりましょうと決まったが、絽の着物とはいえ暑い。絽の黒の紋付は当日着ることにして、練習用に昔の着物を着たら、なんということでしょう。

着物を着て家を出るまでに汗だく。稽古を始めて弓を持って正座しただけで、袴の下で着物が足に汗でくっついて、びりびりと縫い目から裂けてしまった。やば゛゛゛゛。そうだった・・・夏用パッチが必要だったのだ。忘れていた。食事の後片付けをして焦って着物も長いので、余分に着ることを忘れていた。この着物は娘を産んで孫渡しの時に着たもので、せいぜい弓道の稽古着にと、長く使用したものだ。

手持ちの着物は、また着るかもしれないと裾を残していたが、いよいよこの着物も切ることにしよう。しかし、見事に破れたものだ。


越前松島水族館

2013-07-05 | 暮らし

何年ぶりの水族館行き。イルカショーとクラゲに興味をそそられる。

イルカって、もしかしたら言葉が分かるんかい?という気がするほど。次々に芸をこなす。

帰りに越前海岸で海を眺めながらイカを食したのもなかなかです。

だんなは、生ビールを飲んでご満悦。


絵の才能?

2013-07-04 | 暮らし

シャボン玉を鉛筆で描いたが、ぴんとこない。

ストローから楕円でふくらむ様子を描いたら、4歳のkenは「袋!」という。シャボン玉の丸いのに光を描いたら「皿?」という。海に浮かぶガラスの浮に縄が巻いてあるものを描いたら「肉」と言われた。どうも、ボンレスハムっぽいのだろう。

鉛筆で描いたせいもあるが、シャボン玉は、周りの景色や、吹く人を描かなくては感じがつかめない。

下手やん。しかし、何事も上達を焦ってはいかん。弓道でさえそうではないか、高校の時から40年も続けても、目覚ましい上達をみられないまま今に至っている。だからと言って、止められない。弓道仲間と、昇段に挑戦するという替え難い楽しみがある。

 


憲法九条を守ることと、原発反対

2013-07-02 | 暮らし

選挙が近づきます。新聞には、中部の立候補者へのアンケート回答がありました。

日頃から、原発反対、憲法九条の改正に対して反対のわたしは、46名の候補者への質問回答に興味がありました。自分たちと考え方が同じ人を投票したいに決まっているからです。

原発再稼働に賛成か反対か?の問いに対して、46名中反対は16名でした。賛成とも反対ともつかない人は数えませんでした。なぜ、曖昧な答え方をするのかは、何となく分かるのですが、基本的にどうかと言う点で話を進めないと、とんでもない方向へなあなあで進んで行ってしまうと思います。

また、戦争反対「憲法九条の改正」に対しての反対。これも、46名のうち、22名の反対でした。

福島県の人の手紙というのが、Eテレで紹介されていました。「毎日、放射線量をはかり、子供たちが安心して遊べないことが辛いです。いくら、規定値内でも、ゼロではないことが辛いです。がんばれ福島と言われますが、頑張ることと、放射能が漂っていることは別の話です。気持ちは晴れません。」というのを聞いて、心痛みます。

また、戦争についても、経済界の偉い人と、政治家の人たちが、経済の面から見たら、日本が戦力的に何もしないことが、他国との取引の中で浮いてしまうとの懸念があることが問題なのでしょう。その人たちの子供が戦争にかり出されることはないでしょう。いつも、辛い目に遭うのは弱い立場の人たちです。

わたしたちが、反対を叫ばずに誰が唱えるのでしょう。

加賀市の「光闡坊」の佐野住職のところへ買いに行きました。1000円です。必見です。


開口笑

2013-07-01 | 料理

沖縄のサーターアンダギーにも似た感じの、揚げ物。周りにごまをしっかりつけて油で揚げると、口を開いて笑ったように膨らむことから、「開口笑」(かいこうしょう)と、言うらしい。中華風胡麻ドーナツ。

孫が来た時に一緒に作ったら、小さく丸めても、けっこう大きく膨らむので楽しい。小学1年のkouに「口を開いて笑うって名前や。」と、言うと「ばっくんドーナツやねぇ。」と、新たな名前をつけた。

4歳のkenは、「おとうさんの分、おかあさんの分」と、言って自分が作ったのを食べてもらいたくて、分けていた。小麦粉200グラムで、20個から30個できるので、楽しい。

ドーナツも笑うが、作りながら、子供たちも大笑いだった。

 

 


脳の記憶は曖昧である

2013-07-01 | 暮らし

脳の記憶はいかに曖昧か。そのことを肝に銘じなくてはならない。前に読んだ脳の本にもあったが、一番厄介なのは、人は相手より自分が賢いと思ってしまうということ。

わたしは、賢い人が周りにたくさんいるので、自分が賢いとは思わないが、記憶があいまいであることは大いにうなづける。記憶はばらばらに脳の中に散らばって落ちている状態で、色々な場面でそれを自分に合うように取りだすのだそうだ。

いつも、自殺したいと思う人は、最悪のチップばかり拾い集めて、そのことを繰り返すらしい。その逆に、昔の甘い恋の思い出も、何回も取り出し、ますます相手を美化してしまうらしい。しかし、美化する相手もいなくなったのは、脳のチップが老化してきたのだろうか。

本題はそれではない。弓道の再伝達講習をするときに、いかに恐ろしいかということが分かったからだ。不安で、教本を読み、副読本を読み、問答集を読んで行くが、何かのはずみで、どこにも書いてないことや、精神論を言い出す先輩もいる。それは、お酒の席やひとりごとの時にやってほしいと思うが、自分も何かの本を読んだりすると、すぐに誰かに伝えたくなるので要注意だ。

いつ自分もそういうふうに、余分な一言を言うか分からないのである。 それで、忠実に言葉少なにというか、慎重に指導をしていくことが大切なのだと思う。でも、怖いのは、質問である。質問には答えたい。分からなかったら調べて後日、お知らせしますと言えばよいのだが、つい何かいらぬことを言ってしまいそうだ。たいがい、質問はどこにも書いてないことを尋ねてくるから、書いてないことは知らないと言えばいいが、そうはいかないと思ってしまう。

要するに、講師は責任がある。確固たる自信と、威厳をもってあたらなくてはならない。まだまだ未熟を知るばかりだ。