まこの時間

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何度でも

2022-02-10 | 弓道
羽生結弦選手は、やはり凄いなと思った。
練習で一度も成功していない4回転半に挑むという行為は、無茶ではないかと思ったし、一度も成功しないものは本番で火事場のバカ力ではない限り、奇蹟はそう簡単に起こらないだろうと思った。

日頃の、軟弱なわたしの弓の稽古からの経験では、稽古で出ないものは出ないし、稽古より本番の的中は落ちることが多い。
緊張や力の入り過ぎなどが原因である。
普段出来ていることが出来ないことが多いので、そう思ったのだった。

しかし、羽生選手はあえて4回転半にチャレンジしたのは、いい感触まで来ていたのだろうと思う。
世界一のアスリートは、やはり違うのである。
「もう少し、もう少しで完璧になる」というところを繰り返していたに違いない。
あえて、わずかの可能性に賭けて挑む力は凄い。
実際には回っていたのだ。
転んでしまったけれど。
正直なところ、何回転なのかよくわからない。
瞬時に4回転でしたとか、3回転になってしまいましたねと判断できるところもすごい。解説者も経験豊かだから分かるのだろう。

話は戻るが、諦めずに出来る時を信じて繰り返す力はすごいと思う。

ドリカムの『何度でも』の歌に、「一万回だめでへとへとになっても、10001回目には何か変わるかもしれない」と、いう歌詞がある。
その10001回目がオリンピックの本番。

しかし、だからと言って、ただ繰り返せばいいというのではない。
ダメなものは一万回繰り返してもダメなのである。
変わるためには、行く方向を見定めなくては、時間の無駄というもの。
それでも、挑み続けられる何かを持っていることは人生の拠り所となる。
それは料理の腕を上げるとか、毎日歩く目標でもいいのだと思う。

しかし、良くなるかもしれないと努力し続けて、変わり映えしないで何十年も時を過ごしてしまったことを何としようか。
稽古を続けると、あちこち痛くなったり、筋力の衰えを実感したり。
繰り返しの呪縛に遭っているのでは?という人もいた。
さあ、この先の長くもない人生に、一体何を賭けるのか。

今日も、「ああでもないこうでもない」と、みんなと稽古して気づいた。
この過程が貴重なのだとも思えたのだ。
そう、誰もが金メダルを取れるわけではない。
その他大勢にも、小さくても積み上げることができる。
そして、いつまでも満足できないまま、喜んだり、落ち込んだりしているのはある意味幸せなことなのだ。
たどり着けないことを伸びしろがあるとか、成長し続けているとか勘違いするのも幸せなことか。
いや、それは「おめでたい」人なのか。


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