さて、琴奨菊の優勝に際し、「日本出身力士」という奥歯に物が挟まったような表現が横行しています。
日本国籍を取得している旭天鵬が優勝しているため、「日本人」の優勝としてカウントすべきというクレームがでたからなんでしょうが、あまりにも形式主義と言うか、「日本人」というと「ナショナリズム」云々にくわえ、国籍という形式で揚げ足を取る気満々のクレームにおびえたというか、そもそもメディアがクレームをつけそうな勢力のシンパというオチもあるためか、一種のャ潟eィカルコレクトネスとしてこういう妙な表現が出回っています。
ボクシングの「日本のジム所属」も微妙な表現ですが、これもャ潟eィカルコレクトネスの世界であり、「特別永住者」などの扱いを考慮したものですが、カテゴライズをそうしたために、日本のジムに外国出身ボクサーを所属させたケースも含まれることになり、違和感を覚える人も少なくありません。
要は「日本人」をどう捉えるのかですが、国籍という形式的基準ではなく、出身も考慮した「一般的な」認識にあわせればいい話です。
逆に出身は日本でも、国籍を離脱しているケースをどうするか。ノーベル賞受賞者に対しては明らかに「日本人」としているわけで、日本出身で米国籍は「日本人」として、外国出身で日本国籍も「日本人」は基準が一定でないですね。
ドナルド・キーンの名著に「私が日本人になった理由」があるじゃないか、と言われそうですが、世界基準で言えば「アメリカ系(欧米系)日本人」でしょう。米国でも統計上は出身で細かくカテゴライズしてるわけで、逆に「米国人」というカテゴリーはそれこそ戦時とか「国家」を強く意識する時や、政治や社会保障に関する場合を除けばそこまで意識されず、意識するのは「中国系」「イタリア系」といった出身です。
じゃあ「日本出身」でいいじゃないか、という批判が出てくるでしょうが、言い換えである「アフリカ系米国人」「ネイティブアメリカン」と言ったャ潟eィカルコレクトネス絡みを除けば、「系」は「人」と概ね扱われるわけですが、中国籍を持っていないのにチャイニーズはおかしい、という人はいるでしょうか。
そう考えると、「日本人」ということに何か不都合があるのか。「日本出身の日本系」を日本人と呼ぶことに遠慮をするほうがおかしいわけで、「広義」「狭義」とか、「法律上」といった状況でカテゴライズが変わるものだ、と柔軟にとりたいものです。
日本国籍を取得している旭天鵬が優勝しているため、「日本人」の優勝としてカウントすべきというクレームがでたからなんでしょうが、あまりにも形式主義と言うか、「日本人」というと「ナショナリズム」云々にくわえ、国籍という形式で揚げ足を取る気満々のクレームにおびえたというか、そもそもメディアがクレームをつけそうな勢力のシンパというオチもあるためか、一種のャ潟eィカルコレクトネスとしてこういう妙な表現が出回っています。
ボクシングの「日本のジム所属」も微妙な表現ですが、これもャ潟eィカルコレクトネスの世界であり、「特別永住者」などの扱いを考慮したものですが、カテゴライズをそうしたために、日本のジムに外国出身ボクサーを所属させたケースも含まれることになり、違和感を覚える人も少なくありません。
要は「日本人」をどう捉えるのかですが、国籍という形式的基準ではなく、出身も考慮した「一般的な」認識にあわせればいい話です。
逆に出身は日本でも、国籍を離脱しているケースをどうするか。ノーベル賞受賞者に対しては明らかに「日本人」としているわけで、日本出身で米国籍は「日本人」として、外国出身で日本国籍も「日本人」は基準が一定でないですね。
ドナルド・キーンの名著に「私が日本人になった理由」があるじゃないか、と言われそうですが、世界基準で言えば「アメリカ系(欧米系)日本人」でしょう。米国でも統計上は出身で細かくカテゴライズしてるわけで、逆に「米国人」というカテゴリーはそれこそ戦時とか「国家」を強く意識する時や、政治や社会保障に関する場合を除けばそこまで意識されず、意識するのは「中国系」「イタリア系」といった出身です。
じゃあ「日本出身」でいいじゃないか、という批判が出てくるでしょうが、言い換えである「アフリカ系米国人」「ネイティブアメリカン」と言ったャ潟eィカルコレクトネス絡みを除けば、「系」は「人」と概ね扱われるわけですが、中国籍を持っていないのにチャイニーズはおかしい、という人はいるでしょうか。
そう考えると、「日本人」ということに何か不都合があるのか。「日本出身の日本系」を日本人と呼ぶことに遠慮をするほうがおかしいわけで、「広義」「狭義」とか、「法律上」といった状況でカテゴライズが変わるものだ、と柔軟にとりたいものです。