モーニングウィング、朝のTJライナーと相次いで登場してくることで、メディアが「有料着席サービス」マンセー記事を垂れ流しています。今日の東京朝日夕刊がまさにそうでしたが、確かに需要はあるし、自分自身総武快速線のグリーン車をちょこちょこ使っていますが、それでも「有料着席サービス」を全面的に是とすることには違和感を覚えます。
着席を「サービス」と考えること自体がずれているわけで、当たり前の状態をサービス、あまつさえ「付加価値」というのが公共交通であれば、それを使うことを「強制」するモビリティマネジメントなんかは、いわゆる「社畜」よりもマゾヒスティックな対応を強いるわけで、「当たり前の状態」が提供できていない状態に対して異を唱えていかないと、世の中は良くなりません。
かつての「アクティ」、今の京急A快特のように、ラッシュ時の有料車両を日中は一般列車として提供するのであればまだ許容範囲ですが、専用車両という位置づけになると、日中遊ばせるわけにはいかない、ということで、本来可能なはずの座席提供を絞り、有料サービスへの誘導を図っているとしか思えない状況が実際に起きているだけに、パブリシティ記事のマークを付けるべきと言えるマンセー記事の行き着く先は、「座りたかったら別料金」という世界でしょう。実際、最近の通勤型はバリアフリー対応を錦の御旗に立席スペースを大幅に増やしたり、優先座席を増やしていますから、一般の座席提供数は相当減っています。
「当たり前の状態」が「サービス」になってしまうのは、独占状態だから、というのは自明の話です。競合が常にある飲食店で、「箸や食器を別売りにすれば儲かる!」という発想をする間抜けがいないのも、競争原理の下ではそういう客から搾り取るという発想は不可能だからです。あるいはLCCのように必ず発生する代金支払いに手数料を取るというのも「当たり前」に金をとる発想ですが、こちらは「本体」をそれ以上に勉強しているわけです。
こういう記事には、成熟化して乗客が増えない鉄道会社は料金収入に頼るしかない、というコメントをもっともらしく述べる「専門家」が湧いてきますが、こういうときだけ「民間企業」「営利企業」の論理を振りかざして「当たり前」に「追加」を払うことを正当化していますが、そういう「専門家」は往々にして「公共交通は公共の補助がないと無理」とか、公共性を前面に出して公的支援を正当化しているわけで、常に事業者目線で立場や論拠を使い分けているわけです。
まず一般車両の混雑緩和を図る。そこで事業者の手に負えない部分は「公共交通の輸送改善」として公費を積極的に投入する。事業者と公共はまずその「王道」を進まないといけません。時世時節に応じてあるべきサービスは向上、進化するわけで、それに応じて負担増をお願いすることは否定してはいけませんし、新規需要が見込めないからと向上、進化を止めることは許されません。それができるのは独占状態だからであり、向上や進化は本来自由競争が原則なのに独占が認められることの対価として事業者が負担すべき部分です。
その意味で、安い運賃を守るために、という理由で3/4の減車というサービスの切り詰めを行った新京成は、安かろう悪かろうに安住することを良しとしない利用者からは非常に評判が悪いのです。
公費の投入としても、通勤ラッシュの改善というのは最大多数の最大幸福になる費用対効果の高い事業です。
「あるべき姿」「最小限の水準」が充足できていない状態の改善です。マイナスからのスタートです。それを考えると、「交通の維持」と言いながら、バスでも可能な対応に対して過剰な軌道系交通を導入することに公費を投入するのであれば、限られた財源をどう配付すべきなのか、という議論も可能でしょう。社会派諸氏の中では、公費を投入して(過剰な)軌道系交通を推進することと、(あるべき姿のはずの)着席サービスを付加価値とすることは両立するようですが。
あらゆる分野で、過去よりも高性能なものが提供されており、かつ物価指数等を考えたら消費者の負担は悪化していない。というのが世間の常識でしょう。然るに独占状態を約束されている公共交通においては、そうした既存マーケットに対する「改善」が何故止まるのか。公共とともに汗をかき、利用者も「付加価値」ではなく全体の底上げとしてのコストアップを理解する。あるべき姿に対して「いびつ」であり「異常」なのが足下の流れである、ということを考えていかないと、公共交通はますます「悪かろう」の暗黒面に堕ちていきます。
着席を「サービス」と考えること自体がずれているわけで、当たり前の状態をサービス、あまつさえ「付加価値」というのが公共交通であれば、それを使うことを「強制」するモビリティマネジメントなんかは、いわゆる「社畜」よりもマゾヒスティックな対応を強いるわけで、「当たり前の状態」が提供できていない状態に対して異を唱えていかないと、世の中は良くなりません。
かつての「アクティ」、今の京急A快特のように、ラッシュ時の有料車両を日中は一般列車として提供するのであればまだ許容範囲ですが、専用車両という位置づけになると、日中遊ばせるわけにはいかない、ということで、本来可能なはずの座席提供を絞り、有料サービスへの誘導を図っているとしか思えない状況が実際に起きているだけに、パブリシティ記事のマークを付けるべきと言えるマンセー記事の行き着く先は、「座りたかったら別料金」という世界でしょう。実際、最近の通勤型はバリアフリー対応を錦の御旗に立席スペースを大幅に増やしたり、優先座席を増やしていますから、一般の座席提供数は相当減っています。
「当たり前の状態」が「サービス」になってしまうのは、独占状態だから、というのは自明の話です。競合が常にある飲食店で、「箸や食器を別売りにすれば儲かる!」という発想をする間抜けがいないのも、競争原理の下ではそういう客から搾り取るという発想は不可能だからです。あるいはLCCのように必ず発生する代金支払いに手数料を取るというのも「当たり前」に金をとる発想ですが、こちらは「本体」をそれ以上に勉強しているわけです。
こういう記事には、成熟化して乗客が増えない鉄道会社は料金収入に頼るしかない、というコメントをもっともらしく述べる「専門家」が湧いてきますが、こういうときだけ「民間企業」「営利企業」の論理を振りかざして「当たり前」に「追加」を払うことを正当化していますが、そういう「専門家」は往々にして「公共交通は公共の補助がないと無理」とか、公共性を前面に出して公的支援を正当化しているわけで、常に事業者目線で立場や論拠を使い分けているわけです。
まず一般車両の混雑緩和を図る。そこで事業者の手に負えない部分は「公共交通の輸送改善」として公費を積極的に投入する。事業者と公共はまずその「王道」を進まないといけません。時世時節に応じてあるべきサービスは向上、進化するわけで、それに応じて負担増をお願いすることは否定してはいけませんし、新規需要が見込めないからと向上、進化を止めることは許されません。それができるのは独占状態だからであり、向上や進化は本来自由競争が原則なのに独占が認められることの対価として事業者が負担すべき部分です。
その意味で、安い運賃を守るために、という理由で3/4の減車というサービスの切り詰めを行った新京成は、安かろう悪かろうに安住することを良しとしない利用者からは非常に評判が悪いのです。
公費の投入としても、通勤ラッシュの改善というのは最大多数の最大幸福になる費用対効果の高い事業です。
「あるべき姿」「最小限の水準」が充足できていない状態の改善です。マイナスからのスタートです。それを考えると、「交通の維持」と言いながら、バスでも可能な対応に対して過剰な軌道系交通を導入することに公費を投入するのであれば、限られた財源をどう配付すべきなのか、という議論も可能でしょう。社会派諸氏の中では、公費を投入して(過剰な)軌道系交通を推進することと、(あるべき姿のはずの)着席サービスを付加価値とすることは両立するようですが。
あらゆる分野で、過去よりも高性能なものが提供されており、かつ物価指数等を考えたら消費者の負担は悪化していない。というのが世間の常識でしょう。然るに独占状態を約束されている公共交通においては、そうした既存マーケットに対する「改善」が何故止まるのか。公共とともに汗をかき、利用者も「付加価値」ではなく全体の底上げとしてのコストアップを理解する。あるべき姿に対して「いびつ」であり「異常」なのが足下の流れである、ということを考えていかないと、公共交通はますます「悪かろう」の暗黒面に堕ちていきます。