Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

21年目の日は暮れて

2016-01-17 23:50:00 | 震災・災害
21年目の1月17日が暮れていきました。
20年目の節目を過ぎたこともあり、静かな「1.17」でしたが、20年目で「一区切り」となりがちなことへの警鐘を意図したかのような報道などもまた目についたわけで、そうであれば今後も22年目、23年目と目配りを忘れないでほしいものです。

首都圏では5時46分にTVで放送したのは今年もNHKのみ。それも極小化している感じで、黙祷が終わり、コメントを少し流した5時50分にエンドマークです。黙祷の時間も、昨年同様東遊園地の中継から北淡の集会にスイッチ。それぞれの場所でそれぞれの行事をしているは当然ですが、黙祷を中座する格好の中継はどうなんでしょう。

ちょっと気になったのは、これまで5時46分の時報とともに「黙祷」の鰍ッ声が流れますが、確か以前はちょっと長く尾を引いた独特の節回しだったのに、今年は短く「黙祷っ」と入ったこと。あの節回しが特別な1分間に入る「儀式」でしたが、今年はちょっとその心構えを欠いた状態で黙祷に入りました。

上でこれからも忘れないでほしい、と言いましたが、もちろん本欄も来年もまたその先もこの日を忘れず、そして想いを馳せる日としていきます。



特定の論点に関する批評

2016-01-17 18:21:00 | 交通
碓氷バイパスでのバス転落事故は死者14名、重軽傷者27名となり、乗員乗客全員が死傷するという「全滅」状態になりました。
バス会社やツアー会社の問題は言うまでもない話ですが、その批判の中には的外れ、現実を見ていないものも少なくありません。
ここではそうした「誤解」に敢えて絞って指摘してみます。

まず、現場となった碓氷バイパスを通ること自体がおかしい、という批判。
ツアー会社からの指示書では練馬から東松山までと松井田妙義から佐久までが高速道利用と指示されていたので、指示違反だと色めき立っていますが、まずこの指示書のほうが「おかしい」という指摘も可能です。

東松山で関越道を降りて一般道に入ると、旧熊谷東松山有料道路を経てR17からR18か、R254で児玉か藤岡に出てR17に移ります。
R254を藤岡より先まで走ると、松井田妙義に行く適切な道がありません。そこまで行ったらR254で内山峠経由で佐久に抜けるのが常道であり、上信越道に乗るのであれば下仁田です。

さらに佐久から先、夜間瀬、高井、木島平、野沢、戸狩を経て斑尾まで一般道を行くのであれば、R18というよりも浅間サンラインからR18上田バイパスにつなぐルート一択であり、佐久から浅間サンラインというのはなんとも遠回りで、ならば小諸まで高速です。
逆に松井田妙義で高速を降りて、碓氷バイパス、軽井沢バイパス、浅間サンラインという道なりのルートを通ることは至極自然であり、「おかしな」指示書に対し、現場が読み替えて対応していた可能性があります。

指示書は明らかに高坂と横川のSAで休憩を取る前提に見えますが、どちらもスキーツアーやトラックで混み合うSA、時間帯であり、上里で休憩して藤岡で降りた、という情報を踏まえると、ルート選定自体に不思議な点はないとも言えます。指示書通りに走るのが法令の規定ですが、「おかしな」指示にまで従うべきなのか。そもそも法令は指示が不自然、机上の空論であった場合を想定しているようにみえません。

碓氷バイパスを悪路のように喧伝する向き、特に「同業者」も目立ちますが、松井田妙義から碓氷軽井沢を経て佐久までの区間は上信越道きっての事故多発区間であり、カーブが多く勾配もきつく、トンネルも連続する上信越道は、碓氷バイパスを走ることに比べて居住性という意味ではそこまでのアドバンテージはないでしょう。

そもそも碓氷バイパスはもともと道路公団管理の有料道路であり、カーブは多いですが峠道としては(下り坂であっても)かなり高速で走れる「高規格な」道路です。事故そのものは群馬県側のカーブ連続の上り勾配が終わり、緊張の糸が切れて反応が遅れたか、スピードコントロールができなかったのでしょうが、凍結状態でもなく、そこまで騒ぐような「危険な道」ではありません。だいたい碓氷バイパスがそこまで危険なら、誰も黙っていますがこれまで数多くのスキーツアーや観光バスが取っていますが、一体どれだけの事故が起きているのか。寡聞にして聞きませんが。

そして、このバスはこのあと信州中野から山道に入り、何ヶ所もスキー場に立ち寄りますが、碓氷バイパスの走行に不安があるような運転技量であれば、斑尾まで無事にたどり着くことはおそらく不可能です。ですから碓氷バイパス経由は、通常の技量であれば問題がないはずですし、碓氷バイパスの走行もおぼつかない技量であれば、そういう技量の運転手を立てたバス会社の責任です。

あとは、一般道経由自体への批判。
さすがにこれは高速を信州中野まで使ったら何時に着くのか、と考えたらわかる話ですが、それでもSA等で休憩すれば、という再批判が寄せられます。しかしこれも、ツアーバスが我も我もとSA等で仮眠休憩したらどうなるのか。たちまち大型車スペースは溢れ返るわけで、一部の路線高速バスがSA等での仮眠を前提にワンマン運転しているケースも含めて、長時間占有という「目的外使用」を前提にした時間設定をまず問うべき話になりますし、それは路線高速バスも含めた問題として認識すべき話です。

だいたい、路線高速バスでも一般道を敢えて走るケースは少なくないですが、結局は藤岡JCTでの事故の時と同様、事故にかこつけた新免批判、ツアー批判の変形でしょう。だいたい事故、それも重大事故については、零細の新免だけではなく、大手も過去に何回も引き起こしているのですが。

今回は路外に転落して大惨事となりましたが、事故が発生する場所如何での話であり、飛騨川事故や犀川事故のように悪条件が重なればいつでも大惨事は起こりえます。そしてそれは路線業者だから、老舗だから大丈夫とは言えないのです。







悪を悪と指摘しない社会

2016-01-17 17:13:00 | 時事
ココイチが廃却した冷凍カツが横流しされた事件ですが、メディアはなぜ主語を歪めるのか。
朝日は17日の朝刊に至るまで、「カレーチェーン「COCO(ココ)壱番屋」を展開する壱番屋(愛知県一宮市)が廃棄を委託した店舗用の冷凍カツが不正に横流しされた問題で、」としていますが、なぜ文の大半をココイチの説明に充て、「破棄を委託した」の7文字がかすんでしまい、読み手によってはココイチのカツが横流し、と短絡しかねない文になっています。

日本語の原則であれば、本来は「産廃業者ダイコー(愛知県稲沢市)が、廃棄を受託したカレーチェーンの冷凍カツを不正に横流ししていた問題で、」でいいはずです。壱番屋の社名やココイチのブランド名をことさらに書いて、誰が横流ししたかを書いていないというのは悪意以外の何物でもないでしょう。

メディアの姿勢がこれなら、無責任なネット界隈はもっとひどいわけで、ココイチ側に何か非があったに違いないと決めつけたり、安全神話のごとく完璧を要求して、些細な不備をほじくり返して、ダイコーやみのりフーズ、Aマートアブヤスなどの「共犯者」と同列に置こうとしています。

上記のようにメディアの「社名公表基準」は明らかにおかしいわけで、朝日の記事でも「Aマートアブヤス」の文字は出ていないのに、被害者のココイチは正式社名にブランド名となぜ限られた文字数で記載するのか。スーパーの店頭にはココイチの冷凍カツに異物が入っていたので回収します、という掲示が出ていましたが、品質が保証されない不正規品を扱っていたことのお詫びでない時点で、問題を認識していない、反省していない、という証左ですが、それへのツッコミすらしないで「被害者」を論うのをみると、言い方は悪いですが、「犯人」側に何か通じているのでは、としか言いようがありません。

そして当初から目につく、いや、目に余るのが、大量破棄が問題だという議論のすり替えです。
廃棄ロスの本来の意味は、無駄に大量生産して結果として余らせる、ということですが、本件は製造トラブルで発生した異物混入品を排除するための行為であり、「食の安全」にかかわる話です。14日の報道ステーションにおけるキャスターの発言、さらには有名な漫画家のSNSでの発言がその一例ですが、特に漫画家の発言は、スーパー擁護ともとれる内容も含んでおり、拳の向きが明後日というか、被害者を殴りつけているのです。

無駄を指摘するのであれば、SKEとのコラボによる「推しトッピング」対決であり、実際に一部で明らかに完食出来ないレベルの不自然なトッピングを注文する例が出ているのですが、その時点で批判しないで、全く違う事例で持ち出すという二重の恥さらしです。いや、今をときめく券\プロダクションは見てみぬふり、ということも含めてトリプルイシューといえます。

そもそも本件で目に付くのは問題が何かわかっていない議論であり、端的に言えば廃走@に関する基本知識の欠如です。
廃棄物処理業者が本件のような不正を行った場合、廃棄物の出し手は手の打ちようがない、というか、廃走@が構築した廃棄物処理のスキームそのものの信頼が根底から崩れます。
その意味で今回の不正を実行した産廃業者や、そういう廃棄物横流しの裏ルートを構成していた卸業者や流通業者は、単なる法令違反ではなく、法体制の信頼性そのものを脅かしたということで厳しく処分されるべきです。

ココイチは廃棄物の出し手として収集運搬業者と中間処理業者の両社と委託契約を締結しています。適当にその都度業者に委託しているのではないわけで、業者選定のリスクというか、目利き不十分の道義的責任はありますが、自治体の許可を取得している業者に、許可内容に従った処分を委託する以上の義務を要求することはなかなか難しいです。
廃走@では処分の実地確認を義務付けていますが(廃走@改正前から条例や指導、ソフトローで事実上義務化されていました)、今回の内容を見るに、一部を堆肥処分しているわけで、その処分状況を撮影し、ここが堆肥生産場です、と説明を受けたら、実地確認でそれ以上何をするのか。「本当に全部やりましたか?」と少々怪しくても「他社」にそこまで言える権限が廃走@では付与されていないのです。

マニフェストを偽造し、処理現場の確認でもごまかしをされても真実を見抜くだけの能力を求めるのか。そういう脱法行為を厳しく処分することで信頼を担保する方が先でしょう。もしこの内容で廃棄物の出し手の義務が重くなったら踏んだり蹴ったりであり、その意味ではあってはならない、だけではなく影響が大きすぎる事件です。

ココイチの非としては、そこまでの目利きを求めるかにもよりますが、そこまで求めないにしても、少なくとも社名入り段ボールの管理は問われます。これすら偽造されたらお手上げですが、もし廃棄物として引き渡す際に社名入り段ボールを使っていたとしたら、そこに製品(原材料)と廃棄物の区分を付かない状態であったことの隙はあります。普通の会社なら、社名入りの封筒であっても管理にうるさいわけで、社名入りのグッズが信用を担保する、ということを踏まえた管理が必要です。

あとは再利用できない状態での引き渡しをすべき、という声もありますが、これははっきり言えば無理です。
それをするのが中間処理であり、それを内作化するというのは、自社で廃棄物処分設備を持つということになります。
廃走@は廃棄物の処分は排出者自らがすることを原則としていますが、現実には炉などを持つ製造業でもない限りそれは不可能であり、専門業者に委託することになるわけで、原則は書いていますが、内容は実態に即しています。

再利用できないようにする、つまり、何らかの加工をする、ということは、そこに廃棄物を変質させる何らかの工程が発生します。
それを「処理」と見做したら、ココイチは何らかの法令に基づく届け出や毎年の報告をする義務を負うわけで、コストがかかってもそこまでやれば完璧とはいえ、そこまでしないといけないのであれば、廃走@が実質機能していない部分がある、ということで、本来はやはり業者の責任として考える部分です。

最後に、本件は流通における長年の「ウワサ」を図らずも証明した格好です。
生鮮品が加熱され、加工されて惣菜になり、最後は弁当のおかずになる。こうしたロンダリングがまことしやかにささやかれていましたが、現実は出所不明の原材料を平気で購入して、総菜や弁当のおかずで販売したスーパーが明らかになっているからです。その意味では「ココイチの冷凍カツ」と正直?に販売したAマートアブヤスはまだマシ?です。

とはいえ、製造者までのトレーサビリティが不可能な食料品を仕入れているスーパーが存在する、という時点でアウトです。
もし食中毒が発生し、それが冷凍や加熱でも対応できない素材由来のものであった場合、生産者まで追えないものを平気で販売できるのか。販売者が一切の責任を負う、ということであればまだしも、回収時の対応を見るに、そんな気はさらさら無いとしか言いようがないわけです。

今回それをやらかしたのが地場の中堅スーパーということですが、全国チェーンに対抗して頑張る存在、として判官贔屓的に扱われることが多かったこの手の業者が実はトンデモ、となると、全国チェーンを蛇蝎のように嫌うまちづくり系の主張が本件に関していえば的外れどころか消費者をリスクにさらしかねないものと言えてしまいます。

その意味でも罪深いわけで、廃走@から食の安全まで、あらゆる「信頼」を破壊した今回の事件において、それに目をつぶって被害者企業を論う報道姿勢は、あらゆる面で問題であり、消費者の敵とも言えます。




事実を言えない空気

2016-01-17 16:07:00 | 歴史
1月14日に自民党の合同会議でいわゆる「慰安婦」は職業的売春婦だったと発言した元文相が内外の批判を浴び、発言を撤回しました。
首相も暮の日韓合意を踏まえた発言を、と批判しており、政府内のみならず政権与党とはいえ政府と無関係の政治家ですら、発言に制約を課せられることが明らかになったわけです。

強制連行の有無が長く論点になっていますが、そこで明るみに出ているのは官憲による強制連行ではなく、いわゆる女衒、つまり売春婦斡旋業者の存在であり、貧困に苦しむ親が娘を売った、という構図が一般的といえます。そういう意味では「売春婦」だったという評価は正しいとしかいいようがなく、公娼制度としてそれを許す法体制の不備とそれによる人権侵害があった、という議論は、この「事実」を土台に行うべきです。

ところが「事実」を述べることすら首相自らが否定したわけです。
不可逆的、という行動の束縛は、謝罪と賠償についての蒸し返しだけでなく、政治的に確定した「ャ潟eィカル コレクトネス」以外の見解は、例えそれが真実であっても許されない、という懸念が早くも現実のものになりました。

かつて南京事件などに対する見解を述べた政治家が中国やその走狗に批判され更迭される、ということが年中行事のようにありましたが、「事実」を丁寧に検証することで、これまでの「ャ潟eィカル コレクトネス」のウソが明るみになり、今ではきちんとした反論であればそれで更迭されるようなことはなくなりましたし、中国も藪蛇を恐れてか声も小さくなりました。

いわゆる「慰安婦」もそうであり、「官憲による強制連行」の根拠とされた証言が虚偽と確定したことで、その流れが加速するという期待が膨らんだ、いや、ようやく「正常化」されると信じていたのに、年末のドサクサに紛れて日本側に確定したメリットが全くない合意を結んだ挙句に、事実を述べることすらできなくなったわけです。

これはここ30年くらいの時計の針を元に戻すようなものであり、それで確定させようとする、歴史への冒涜であり、民族への裏切りともいえる行動ですが、国士様御用達新聞をはじめ、本件は「批判されて当然」あるいはスルーというのはどういうことでしょうか。
これこそ「変な空気」の最たるものですが。



当然の話に噛みつくのか

2016-01-17 15:39:00 | ノンジャンル
浦安市の成人式というとTDLが会場ということで賛否喧しいのですが、今年は市長のスピーチが議論を呼んでいます。
出産適齢期を強調した内容に、毎度のことながら女性に対する出産の強制だなんだと批判が上がっていますが、スピーチの内容自体は少子化の流れの中で、将来の高齢者でもある新成人が、自分たちを含めた社会福祉の担い手をどう「確保」するのか、という話であり、唯一の解決策である「出産」には医学上適齢期というものがある、という至極当然の話だけに、脊髄反射での批判は支持を集めませんし、同じく脊髄反射で飛びついた国営放送を含むメディアは、煽ってもだれもついてこない様子に頬被りです。

ジェンダー勢力がどう言おうと、男女という性差は、人間という生物が雌雄同体でない以上、厳として存在するのであり、出産、育児において「女性しかできない」ことは多いという現実を無視してはいけません。
もちろん男性がそれをサメ[トすることを否定しませんし、昨今議論を呼んでいる議員の育休問題も、「男性に出来ること」をすることで負担を分かち合う実質的な「男女平等」という意味で推進していく流れにあるものです。

「女性にしかできない」のが出産ですが、さらにそこには「適齢期」というものがあるわけです。いわゆる「マルコー」じゃないですが、適齢を過ぎてからの出産はリスクが高いのです。ここでいうリスクとは、苦痛だなんだというレベルの話ではなく、母子の健康、端的言うと生命の危険に及ぶ話です。

さらに妊娠の可能性も減るわけで、子孫を増やす、いや、残すという生命体としての本能、義務も果たし得ない状況です。最近も不妊治療に望みを託すがギャンブルのようなものであり、ただ高額の「治療費」が費やされるという報道がありましたが、経済的事情を理由に適齢期を逃し、さらに経済的負担をかけて、という負のスパイラルに陥っています。
生命体には寿命があり、適齢期とオブラートにくるんでいますが、ある特定の行動についてはそれが実行可能な年齢が限られます。出産の時期を決めるのは私、と個人主義を主張するのは、私は200歳まで生きます、と寿命を無視して主張するのに等しいのです。

そう言う現状、さらには敢えて繰り返しますが、「生命体としての義務」の履行をまじめに考えるべきです。
憲法で、近代市民法体系で個人の自由ガー、と言いますが、個人の自由、個人の生命の尊重は、そこにその人が存在するから発生するものです。そして人は草木に実るのではなく、生殖によりこの世に生を受けるのです。それは憲法だなんだというものと次元が全く違う話であり、言い換えれば生命体としての義務履行はあらゆる前提になるともいえます。

出産適齢期を意識してください、というスピーチに何の非があるのか。新成人という節目で生命体の義務を考えることに言及する古都に何が問題があるのか。そしてその対象は女性であって何が悪いのか。男性は出産できません。
ただ、この議論で本来すべきことは、生活への不安が高齢出産傾向を助長していることが明白になっている現状、出産適齢期での出産を促すのであれば、生活への不安を除去する政策、安心して出産、育児ができる政策を同時に実施しないといけないのです。

現状は当然それを欠いたままであるどころかますます不安が増大する社会であり、それなくして笛を吹いても国民は踊りません。
票目当てに高齢者へのバラマキを年中行事にしていることが、若年者の政治不信をどれだけ招いているか。「生命体としての義務」を果たせない、いや、拒否するような流れは、まさに究極の意思表示といえます。