Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

降下始とオスプレイ

2015-01-11 01:40:00 | ノンジャンル
今日は空挺団の降下始でした。
一昨年に観覧して以来、どうも間が悪く今年も所用があって行けなかったのですが、降下始に参加する機材が低空で飛び交う様は見ていました。全部は見ていませんが、あまり数を繰り出した印象が無かったのですが、現地ではどうだったのでしょうか。


(2013年の降下始から)

ちなみに今年は中谷防衛相が駐屯地の降下訓練施設で「体験降下」をしたそうですが、元レンジャー教官ゆえお手のもの、というか、一番低い「飛び出し塔」(機材を模した設備から飛び出す訓練を行う)なので、毎年本当に降下する空挺団長(陸将補)を思うとあまり威張れたものではないですが、まあ率先垂範という意味では立派です。

その降下始、もともとはオスプレイの展示がある予定でした。
それが「地元に配慮」ということで中止になったのですが、いわゆる「アジア諸国の反発」と一緒で、「どこの地元?」という話でしょう。

それだけなら左翼勢力に屈した、というレベルの話ですが、そういう前例を作ったということは実は軽くない影響を残しそうです。

我が国にとってオスプレイを活用する局面は、米軍所属ですから安保条約に基づく出動時に限定されますが、その局面は機動力ある部隊による島嶼等の奪還作戦になります。
つまり、自衛隊でオスプレイを使う可能性が一番高いのが第一空挺団なのです。


(2013年の降下始。離島奪還演習)

第一空挺団の部隊が機動的にオスプレイで出動する、というシチュエーションは十分考えられるわけで、習志野の演習場から発進することになるはずです。ならば当然習志野演習場におけるオスプレイの運用は今回の降下始での展示にかかわらず実績を積んでおかないとぶっつけ本番になるわけで、それは論外です。

ところが今回オスプレイの展示(=飛来)を「地元に配慮」の名目で見送ったわけです。
これは悪しき先例であり、演習での飛来においても地元の左翼勢力に介入される余地を作った格好です。
そして第一空挺団がオスプレイでの駐屯地からの出動を実地に訓練していないという、あまり好ましくない情報も世界中に発進したわけで、日本の「離島奪還作戦」に神経をとがらせている中国にとっては「ありがたい」情報でしょう。


(中央電視台の映像(日時を特定できる部分を削除しています)では、水陸機動連隊、水陸両棲戦車部隊、"魚鷹"運輸機部隊、と日本のメニューを上げている中にオスプレイ(魚鷹)が入っているように、かなり気にしています)

今日の降下始はここ数年続いている「離島奪還作戦」がテーマですが、中国はそれに対して非常に神経を尖らせています。以前中国に行った際、中央電視台のニュース解説で降下始の映像を絡めて結構な長さで報じていたのを見ており(まさか中国で習志野演習場の映像を見るとは思いませんでした)、牽制が効いている中での今回のマイナス情報の提供は残念です。



「言論」においての批判を否定してはいけない

2015-01-11 00:59:00 | 時事
仏の新聞社襲撃は世界中に大きな衝撃を与えましたが、「言論の自由」への大きな挑戦であることは間違いないのですが、その陰で置き去りになっている論点があります。

こう書くとお前はテロを肯定するのか、と早合点する人もいるでしょうが、今回のテロが「なぜ」起きたのか、を考えると、果たしてこれが「言論の自由」と大見得を切って言えるのか、という話だからです。
つまり、イスラム教への冒涜と読者が感じた内容は、テロは論外としても批判を受ける対象ではないのか、ということです。

言論の自由は尊重されるべきものですが、批判を許さないものではありません。批判もまた言論であり、言論の場で意見を戦わせることで自由が担保されますし、その過程で不適切な言論は批判を受けて退場していくことになります。

今回問題となった「言論」は風刺画の世界ですが、以前ここでも批判したような米大統領の諷刺が一歩間違えたら黒人差別と取られかねないような「洒落になってない」風刺まで無条件で保護されるべきなのか。、言論の場で厳しく批判することで退場を促す仕組みが確立していないと、言論の自由の名のもとに安全圏から石つぶてを投げる行為が容認されることになります。

今回の事件を伝える報道で気になったのは、おりしも第三者委員会が厳しく批判した朝日が、意図的なのか偶然なのか、問題の発端となった慰安婦関係の記事を書いた元記者の大学講師が名誉棄損と訴えた記事を大きく扱っていたことです。

凄惨なテロの印象が諷刺画の是非を問うことに対して思考停止となり、諷刺画を守れ、というような風潮になっていることに乗じて、記事批判はおかしい、記事を守れ、とでも言いたいのかもしれませんが、諷刺画における「毒」の程度の問題に対し、元記者のケースはそれ以前の記事が事実に基づかない「飛ばし」に等しいものであり、為にする意図が否定できない以上捏造という批判を受けても致し方が無いものです。

朝日は過去にいわゆる赤報隊事件で記者の命が奪われる犠牲を払っていますが、あの時は「朝日の論調が気にくわない」という個別具体論を伴わない、言論の土俵に立てない攻撃であったのに対し、今回の仏のテロや元記者の問題は、言論の土俵で批判する余地がある、あるいは批判されて然るべき内容であり、テロに乗じて批判すら許さないという流れにならないように注意していくべき問題と言えます。