上野の国立博物館で開催中の「書聖 王羲之展」に行ってきました。
上野の山でも一番奥にあり、こういう時こそ博物館動物園駅が残っていれば、という位置関係でした。
中国の書家の中でも別格とも言える「書聖」の名を持つ王羲之は魏晋南北朝時代、東晋の人です。
私もそうだったのですが、高校あたりで書道を選択すると王羲之の蘭亭序とか、初唐の三大家の作品を臨書したことで馴染みのある書です。
(平成館入口。看板の書は左が行穣帖、右が蘭亭序)
解説を見て驚いたのが、後に唐の太宗(李世民)が王羲之の書をいたく気に入り、初唐の三大家と呼ばれる欧陽詢、虞世南、褚遂良に王羲之の模写をさせたということ。なんとも贅沢なやり方であり、今風に言えば、大家の歌を当代に人気実力兼ね備えた歌手がカバーする感じでしょうか。
模写と言うことでは、日本の三蹟、藤原行成の模写もありました。(ただし真筆とは断定できておらず、「伝藤原行成」だが)
で、太宗は王羲之の真筆を陵墓に副葬品として入れてしまい、そうしたこともあって真筆が残っていないということも価値を高めているのですが、拓本や模写ですら非常な価値を持ち、歴代の皇帝が手元に納めたわけで、行穣帖なんかは模写が2行15文字しかないのに、長々と跋文が付き、乾隆御覧之寶、乾隆鑑賞、太上皇帝之寶と乾隆帝の鑑賞印がべたべたと。まあ一般人が押したら台無しになるような鑑賞印ですが、乾隆帝ともなるとそれが宝物という裏書きになるわけです。
一方で初公開と銘打った大報帖なんかはこうした鑑賞印が一切押されていないわけで、どうやって歴代皇帝の目を逃れたのか気になります。
久々に文化に浸ったのですが、人気の展覧会だけあって混み合っていたのには辟易です。
こうした展覧会では解説が流れるイヤホンがレンタルされるのが通例ですが、それに聞き入って解説が終わるまで展示物の前を立ち去らない人が大半なので最悪です。
絵画と違い書ですから、壁に掲げるわけにも行かず、ガラスケースに平置きされるのを見る格好で、立ち止まられると全く見えないのです。
これがマニアックな鑑賞者ばかりならまだしも、「昔の人はすごいねぇ」と言うようなレベルのミーハーにも及ばないレベルの中高年が大半ですから、筆致や鑑賞印を含めて見たいのに邪魔の極みです。
「よく分かっていない」と言うのが露骨に出るのが、解説がある場所しか溜まっていないうえに、王羲之を理解するために、と設けられた、魏晋南北朝以前の書の解説に、イヤホン解説があるので溜まっていたり、王羲之以降に王羲之の書法がどう伝わったのか、というコーナーに王羲之でないから関係ないと人がまばらだったりするわけです。
特に後者は初唐の三大家の代表作の拓本が並んでいたりするわけで、もったいない話です。
解説イヤホンも重宝しますが、動きが止まり、係員が動くように促したり、追い越して好きなところから見て下さいと案内するのでは、イヤホンが元凶と言えます。
イヤホン組の鑑賞ラインを下げるとか、解説時間を短くするとか(今回はNHKアナの朗読付と謳っており、それも一因でしょう)、イヤホンを残すならそれなりの対応が必要です。
上野の山でも一番奥にあり、こういう時こそ博物館動物園駅が残っていれば、という位置関係でした。
中国の書家の中でも別格とも言える「書聖」の名を持つ王羲之は魏晋南北朝時代、東晋の人です。
私もそうだったのですが、高校あたりで書道を選択すると王羲之の蘭亭序とか、初唐の三大家の作品を臨書したことで馴染みのある書です。
(平成館入口。看板の書は左が行穣帖、右が蘭亭序)
解説を見て驚いたのが、後に唐の太宗(李世民)が王羲之の書をいたく気に入り、初唐の三大家と呼ばれる欧陽詢、虞世南、褚遂良に王羲之の模写をさせたということ。なんとも贅沢なやり方であり、今風に言えば、大家の歌を当代に人気実力兼ね備えた歌手がカバーする感じでしょうか。
模写と言うことでは、日本の三蹟、藤原行成の模写もありました。(ただし真筆とは断定できておらず、「伝藤原行成」だが)
で、太宗は王羲之の真筆を陵墓に副葬品として入れてしまい、そうしたこともあって真筆が残っていないということも価値を高めているのですが、拓本や模写ですら非常な価値を持ち、歴代の皇帝が手元に納めたわけで、行穣帖なんかは模写が2行15文字しかないのに、長々と跋文が付き、乾隆御覧之寶、乾隆鑑賞、太上皇帝之寶と乾隆帝の鑑賞印がべたべたと。まあ一般人が押したら台無しになるような鑑賞印ですが、乾隆帝ともなるとそれが宝物という裏書きになるわけです。
一方で初公開と銘打った大報帖なんかはこうした鑑賞印が一切押されていないわけで、どうやって歴代皇帝の目を逃れたのか気になります。
久々に文化に浸ったのですが、人気の展覧会だけあって混み合っていたのには辟易です。
こうした展覧会では解説が流れるイヤホンがレンタルされるのが通例ですが、それに聞き入って解説が終わるまで展示物の前を立ち去らない人が大半なので最悪です。
絵画と違い書ですから、壁に掲げるわけにも行かず、ガラスケースに平置きされるのを見る格好で、立ち止まられると全く見えないのです。
これがマニアックな鑑賞者ばかりならまだしも、「昔の人はすごいねぇ」と言うようなレベルのミーハーにも及ばないレベルの中高年が大半ですから、筆致や鑑賞印を含めて見たいのに邪魔の極みです。
「よく分かっていない」と言うのが露骨に出るのが、解説がある場所しか溜まっていないうえに、王羲之を理解するために、と設けられた、魏晋南北朝以前の書の解説に、イヤホン解説があるので溜まっていたり、王羲之以降に王羲之の書法がどう伝わったのか、というコーナーに王羲之でないから関係ないと人がまばらだったりするわけです。
特に後者は初唐の三大家の代表作の拓本が並んでいたりするわけで、もったいない話です。
解説イヤホンも重宝しますが、動きが止まり、係員が動くように促したり、追い越して好きなところから見て下さいと案内するのでは、イヤホンが元凶と言えます。
イヤホン組の鑑賞ラインを下げるとか、解説時間を短くするとか(今回はNHKアナの朗読付と謳っており、それも一因でしょう)、イヤホンを残すならそれなりの対応が必要です。