高松ペアの金メダルは、本人たちに加えて韓国出身の監督と中国出身のコーチの存在が大きかったことを、あまりメディアは報じないなぁ。東アジア・チームの勝利だったとも言える点は、現在のトレンドを象徴している。国家を相対化する見方ができると思うし、その方が面白いと思うのだが…。
— michio hayashi (@michio_ha) 2016年8月19日 - 14:12
ちなみに宗教と翻訳されたreligionの原語であるラテン語のreligioとは、re-ligio、つまり孤立したものや疎外されたものを再度(re)繋ぐ(ligio)こと、つまり自己と外部との接続を回復する行為を指していました。 twitter.com/maeyoake/statu…
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 15:27
「はい」と「いいえ」の違いから与えられるのが情報で、言わば二元論的かつイデア的な分断されたもの。「はい」と「いいえ」の違いをつなぐのがナラティブで、言わば一元論的かつ抽象的な一つに繋がった物語。後者が、女性的な、何かを包み込む大きな力なのだと思う。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 16:05
違いを強調する「分化作用」と、違いを包み込む「統一作用」は、「冷たさ」と「暖かさ」だと言い換えることができるのかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 16:09
@goshisyo 確かにその可能性はありますね。ご指摘下さり、ありがとうございました。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 18:34
連続ツイート「和辻哲郎『人間の学としての倫理学』を読んで考えたこと」
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 18:37
(和1)和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』を読んだのだけれど、ドイツ観念論や現象学を儒教の概念に置き換えて考えようとする和辻の姿勢に共感できる所があり、戦前の日本における西洋哲学研究のレベルを知る意味でも良い機会になった。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 18:37
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(和2)和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』に登場する「間柄的存在」は、廣松渉の「間主体」よりも哲学として優れていると思った。それと『正法眼蔵随聞記』が和辻哲郎校訂、中村元補訂・解説で岩波文庫から出ているのだけれど、和辻哲郎が仏教研究者の中村元の先生だったとは知らなかった。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 18:38
(和3)「なる」という言葉の変化から出発した丸山眞男の古層の研究と、木村敏の言う「ものごと」が「もの」と「こと」とに分かれたという指摘は、「なる」とSeinを比較し、「わけ」が言い表されると「こと」になるとした和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』の影響下にあると考えられる。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 18:39
(和4)仏教の輪廻の概念から、畜生との対比にて人間が誕生したという指摘は素晴らしく、デカルトの動物機械論がカトリックの教義に沿って生まれたことと似ている。金森修さんの『動物に魂はあるのか 生命を見つめる哲学』と一緒に読むと面白い。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 18:40
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(和5)和辻によると、アリストテレスはポリティカについて書いたのに、後世の人がそれをポリティカとエチカとに分けてしまった。アリストテレスにとってポリティカとは「ポリスの人に関するもの」つまり社会の全体性における人の学であり、言葉すなわち理性による自他の合一関係を考える学問だった。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 18:40
(和6)言葉は個人のものとして、しかも自他の間に共通する。つまりロゴスによる実践によって人間存在が実現せられる。アリストテレスのポリティカとは、「部分が全体を現わすことにおいて部分であるという点を強調したもの」だったとする和辻の主張には、目を見張るものがある。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 18:42
(和7)そしてヘーゲルが民族と称するものは、アリストテレスの言うポリスに当てて用いられたものだとする。人間の存在が、自他の行為として常に人倫的組織の形成であることを明らかにするヘーゲルの人倫の学を、和辻は「最も偉大な典型」だと高く評価している。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 18:42
(和8)国家が人の総体性を示すものだとして、父、母、子という家族体系の延長に存在するのであれば、君主制における皇室は、国民の家族体系と相似形にあるのではないか?私はヘーゲルは正直苦手だったけれど、勉強すればするほど、やはり無視できない大学者だ、と強く感じる。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 18:43
(和9)私にはカントもヘーゲルも夏目漱石も現象一元論への試みを違う手法で試みた人たちであり、シャンカラの到達した、アドヴァイタ(不二一元論)を通じてのブラフマニズムへのアプローチと良く似ている、と私には思えて来る。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 18:44
以上、連続ツイート「和辻哲郎『人間の学としての倫理学』を読んで考えたこと」でした。最後まで読んで下さった皆様、ありがとうございました。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 18:45
没後10年 ナムジュン・パイク「2020年 笑っているのは誰 ?+?=??」 ワタリウム美術館 #に行く。今回は前半、50年代〜80年代まで。メディアに対する先見性がすごい。 artbeat.ly/29MAL19 #TABapp
— わたなべじゅん (@watanabe610) 2016年8月18日 - 21:14
ナムジュン・パイク展、国立近美での「映像表現 ’72展、再演」と同様に当時「映像(イメージ)とは何か」という問題意識で制作されたものが、今ではその支持体(実体)にばかり目がいくという皮肉。ホログラフィーの進化でイメージは固定された支持体を必ずしも必要としないのではないでしょうか
— 山下 研 (@kenyam_ec) 2016年8月18日 - 21:53
ワタリウム美術館のナムジュン・パイク展を見に行ったけど、もう少し時間に余裕を持てる時に見に行けばよかったかなぁと。
— クスル (@tkyhrkt) 2016年8月19日 - 17:45
自分よりさらに駆け足で見ていった人もいたけど。
ナムジュンパイク展良かった~!
— 火星どつぶう (@wmhunm) 2016年8月19日 - 20:46
ナムジュンパイクが今現代に産まれてたらもっと違う作品だったのかな~ビデオアートの価値観が勝手に時間芸術だとストンと来た
月とテレビとあとビデア
徳川家康がいかにして江戸期の長期的安定を可能にしたかを考える上で、儒教の果たした役割はとても大きいと思う。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 22:17
神道における天地・万物を生成させる霊的な働き「むすび」=産霊、産巣日、産日、産魂とは、「苔生す」(こけむす)同様、メソポタミア地域で話されていた国際語アッカド語をヒエログリフで音写した、「生まれて来る」を意味する古代エジプト語ms=musu=「生す」に由来するのではないか?
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2016年8月19日 - 22:18