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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

幸せになる方法を見つける場所

2016-12-16 | Weblog
マイケル・ムーアの撮ったフィンランドの教育の動画を見た。
職員室の先生たちの自由な服装や雰囲気がとても気持ちよく、
宿題がないとかテストがほとんど記述式だとか、開放的で自由な様子でした。
でもね、これは、具体的なひとつひとつのことを考えなしにただ真似しても
良い結果にはならないと思うし、アプローチの仕方は様々でいいと思うけど、
「学校って幸せになる方法を見つける場所」・・・ここ、これは、はっとした。
そう言われればそうで、当たり前のことだけど、
日本ってなんか個人が幸せになりたいって思うことが、
あまりおおっぴらに推奨されない感じがあるもん。
幸せの定義もいろいろだろうけど、
「学校って幸せになる方法を見つける場所」だし、人生は楽しむものだと思いたい。
自分は楽しむために生まれてきたと思いたい。

たとえばうちの親のような古い人間は楽しむということに対してあまりいい顔しない。
楽しいから何かするというのは、見下されたり良くないことのように
批判的な目で見られることが多いように思う。
勉強のため、仕事のため、親のため、社会や国のため、
あるいは理想のため、何かを成し遂げるためとかなら褒められるけど
楽しむためというのは、それらに比べたら随分と軽く見られているというか、
むしろ悪いことのように思われがちな気がする・・・特に日本などは。
窮屈な世の中だな。

その動画を見た数日後に、
実はフィンランド式はその後大失敗して学力低下が大変だという記事も見たけど、
教育に関してはいつも試行錯誤で仕方ないと思うんですよ。
時代が変われば人も変わるし子供達も変わるし、
それに合わせた教育をしていくしかない、むしろ試行錯誤であるべき。
何かが成功だと言って丸ごと真似たり、
失敗だと聞いて丸ごとやめたりするようでは、余計心もとない。
常に正しい一つだけの正解なんて、人間相手にあるはずないもんね。
でも、幸せになる方法を見つける場所、
自分にとって幸せが何かを見つける場所、っていう部分は
ずっと同じでいいと思う。

フィンランドの教育

「奇妙な孤島の物語〜私が行ったことのない、生涯行くこともないだろう50の島」

2016-12-15 | 本とか
島は小さな大陸にほかならず、大陸もまた大きな大きな島にほかならぬのではないか。
旅行ガイドブックを買いに行ったのに、なんとなくそこにあった、
ものすごく実用性のない島の本を買ってしまった。
「奇妙な孤島の物語〜私が行ったことのない、生涯行くこともないだろう50の島」
でもとても素敵な本なの。「もっとも美しいドイツの本」賞受賞作。
場違いなガイドブックの棚にあった幸運。
年に一冊でもこういう本と出会えたら、その年は幸せな年、という気がする。

まずは、装丁のブルーにやられました。思い切りのいい濃いめの水色。
ティファニーの青より少し濃いかな。とてもきれい。

こちらの→詳しいレビューを読んだら内容はわかるし
すぐにでも欲しくなると思うけど、リンクが切れると残念なので少し抜き書き。
タイトルのとおり、50の孤島が紹介されている。『ドイツのもっとも美しい本』に選ばれただけあって、とても綺麗な本である。しかし、その印刷と造りは極めてシンプルだ。一つの島が見開きで紹介されていて、左側がマリンブルーの海に浮かんだ島の地図。地図の縮尺はすべて同じで、ページの縦横がおおよそ39kmと27kmになっている。
つまり小さい島は小さく、
もっともっと小さい島はもっともっと小さく描かれてるということです。
『孤独』という名の島、赤ん坊が必ず死んでしまう島、空飛ぶ円盤が撮影された島、総督と家臣の二人が住んでいた島、毎年11月に一億二千万匹ものカニで真っ赤に染まる島、ロビンソン・クルーソーになろうとしてある男が渡った島、水爆実験のため空っぽになってしまった島、ミステリーのように殺人事件がおこったであろう島、金星の日面通過を見るために巨額を投じて観測隊を派遣したが悪天候でどうにもならなかった島、など、孤島たちの奇妙なエピソードそれぞれに特別な意味を見いだせるだろうか。それでも、すべてが間違いなく面白い。



→訳者あとがき の中では、旧東ドイツ出身の著者について書かれている。
著者ユーディット・シャランスキーは作家にしてブックデザイナー。本書の文章はもちろん、地図の製作も、そしてドイツ語版は装幀も、すべて著者の手になる。1​9​8​0年、旧東ドイツのバルト海に面した港町グライフスヴァルトに生まれた。地図を見るとドイツのいちばん北東のはずれ、ポーランド国境も近い海辺の町である。ベルリンの壁が壊れた1​9​8​9年秋には、著者は9歳になったところだった。
著者にとって東ドイツは島だったのだと。
この著者は非常に多才で素晴らしいセンスを持った人のようで、
文を書き絵を描き装丁まで手懸けた本が他にもあって
それらのどれもが高い評価を得ているようです。
あと翻訳についても書かれていて、それも興味深く好感が持てる。
著者が地名について領有者の言語で記入し、その言語を統一しなかったこと。
だから訳者も地名を日本語訳しなかったこと、
それは「地図上で征服行為を反復しない」というデリカシーなんですね。
それから日本語では過去形をとったけど原文は現在形であったこと。
ドイツ語は全くわからないけど、最近、ドイツ在住の作家多和田葉子さんの
言語や翻訳に関する本を読んでいたので、どういう感じかわかる気はする。

→トーベ・ヤンソンの8ミリホームビデオを編集したDVDとか、
こういう本とか、そういう独特な美しいものばかり見て生きていたいものだなぁ。。。

ファッション

2016-12-14 | Weblog
樹木希林さんが派手に自由に服を着ているCM、素敵やけど、
これでさえみんなこうあれとは言わないほうがいいんだよなぁと思う。
とにかく目立たないことが気持ちも落ち着いて居心地よく自分の中の調和を保てる
という人もいるから。あーだいたい自分のことですね・・・笑
元気な時にはファッションもイケイケゴーゴーと思うときもあるんだけど。

個性を主張したい人はどんどん主張して、それを非難とかされない世の中がいいけど、
主張したくない人は静かにしていて、でもバカにされないのがいいなぁと思う。
という自分は、でも、うるさく主張する側に見えてるんだろうなぁ。
別にいいんだけど。
透明人間になりたいんですけどね本当は。

あと、彼女の語る正論が正論すぎてつまんない、とも思った。
これはテロップだけでよかったんじゃない?


10月のつぶやき:後半

2016-12-13 | つぶやき
最近ふと気付いたんだけど、手を繋いでるカップルはときどき見るけど
腕を組んでるカップルってあんまり見ないよね?わたしが若い頃、30年前などには、
手をつなぐカップルと同じくらい腕を組んでるカップルもいたような気がするんだけど
気のせいか?
そういえばわたしも、殿方と腕を組んだことって何十年ない気がする。


オリンピックにも興味がなくてほぼ見たことないけど、ノーベル賞にも興味がない。
ノーベル賞をとって話題になった人自体が興味深いことはあるけど。
勝ち負けや順番のあるものに興味がないということかなと思う。
ボブディランが、受けようが拒否しようが、それもどうでもいいや。


夏がしんどいのは、いつも汗で、自分が清潔に思えないことが大きい。
ダメな文明の清潔信仰にやられてます。潔癖性予備軍の予備軍、くらい。
埃が怖くて掃除ができない程度のものですけど。


男の人と食事やバーに行くときに、下心ないですよという証明をなんとなくしたくて
割り勘を主張するということがある。
男女問わず、相手がわたしよりうんと高収入な場合(年上の人は大体誰でもそうだけど)
ちょっとご馳走されるのはやぶさかではないんだけどなー。
男女問わず、わたしよりうんと生活が苦しい人と外で飲み食いするときは、
大体わたしが払う。年が20歳も30歳も下の子だと、まあそうなる。
よく会う遊び友達とは、大雑把な割り勘が多いなぁ。やはり男女問わず。


ラズベリーとバナナとヨーグルトの豆乳スムージーを作って飲ませたら、
息子におかあさんのくせにインスタっぽいなと言われ、
ちょっと前に「おばさんはインスタグラムに来ないで」と書いて炎上した
誰かのブログの話になった。


展示の、写真のサイズが揃ってると、サイズで気が散らなくて見やすい。
これはもう少し小さい方がいいのではと思う写真でも、違和感なく見られたし。


息子が、初内定ひとつ決まって、うかれてお花を買って、東京から持って帰ってきた。
小さいブーケ。なかなかいいセンス。
花を買う男子に育ってくれて嬉しい。


編み物をしていると瞑想のような状態になってとてもいいことがある、という記事で
なんで「素晴らしい、日本人であることを再認識」みたいな感想になるのか謎。
編み物も瞑想も全然日本の専売特許じゃないんだけど(~_~;)


今、「50歳くらいのおばあちゃんが」って書いてあるツイートを見た。
ツイートの内容はどうでもいいんだけど、「50歳くらいのおばあちゃん」って!?
普通に言われるとなんだかなぁ。自分でも言うけどさ、自分の事をおばーさんって。
でも「50歳くらいのおばあちゃん」・・・
・・・なんだか、3回も書いちゃっよだぜ。

心の体力も体の体力も、すっかりおばあさんですけどね。
寒いときに歩くときなんかのそろそろした気の使い方とか、歩きながら、
わー、わたし今すっごいおばあさんっぽい〜!って自分で思うもん。


息子に「マハラジャ」が通じなかった。当たり前か。
インドの王様?と踊るふりをしてたので、まあ遠くはない(?)。
友達がこの前80年代テーマのマハラジャパーティに行ってたので。


写真の奥って、そんな深いとこ行かなくてもあるんやな、と思ったことを覚えとこう。
なめてるんじゃないですよ。


金木犀の香りが来た!って言ってる友達を2人見かけた翌日に、うちのまわりにも来た。
昼間は夏のように暑いけど。


バスソルトは自分で作ることはあるけど、買うことは滅多にないので、
頂き物のマークスアンドウェブのバスソルトをいれてお風呂に入りました。
ローズマリーの香りは大好きなので、すごく気持ちよかった。
今、お風呂ではちょっと古典的なミステリーの短編を読んでるんだけど、
これにも似合う。


高校時代羽生結弦くんに似てると言われてた息子ですが、
大学生になって顔がなんか間延びして間抜けな感じになったら、
今は星野源に似てると言われている。うーん。
でも少なくともわたしには似てない。と思う。


映画「みかんの丘」はお茶が印象的。しょっちゅうお茶をすすめる。
お茶が飲みたくなった。誰かの入れてくれたお茶。


肩までの長さの真ん中わけのまっすぐストレートの髪なんだけど、
髪を下ろしてると顔は小さく見える。
髪をきゅっと全部ひとつに束ねてると頭が小さく見える。
ダンスの時鏡を見ると、その方がすっとして見える。
そして、わりと古典的な顔なので(整ってはいるけど、あんまり今風じゃない、
いろいろと普通の顔)髪を全部まとめちゃうバレリーナ風は、わりと似合うと思う。
首と胴体を伸ばして、肩を下げて、ダンスの時の言葉で言うと、トーンを整える。


電車の音、車の音、葉っぱの音、風の音。暑くも寒くもない。
夏のように強くない日差しの明るさ。とりあえずの多幸感。

素敵な非日常のよさも好きだけど、飽き飽きしながらも、
いつもの自分の部屋のいつもの平穏な状態がやっぱり、心地いい。ど
こも痛くないし。誰にも邪魔されないし。こういうしあわせが、一番馴染む。



結局、こういう差別問題が起こった時に、特定の個人への怒りよりも
その背景について多く考えてしまうのは自分が当事者でないせいだろうか?
でもやっぱり個人の問題とは考えられないし、
個人を罰しておしまいにする方が悪いように思う。
個人への憎しみをたぎらせてもいい方には行かないような・・・
被害当事者が怒りの感情を持つのは当然で仕方ないと思うけど。
でも社会的な差別問題は、自分は当事者でないと言っていいものじゃない、か。


今年はかなりクラッチバッグきてるから、
なんかバカバカしい派手でデコラティブなの作りたい。


新潮社クレストブック、2ヶ月前にはお風呂で読んでたので
メガネなしで読めてたはずなのに、今はちょっと厳しい。
お風呂で読めなくなったらものすごく悲しい。
どうすればいいのかわからん。(読書の7割くらいはお風呂でしてる人)


何にでも興味を持つのはいいけど、世界は広すぎるので何にでも興味を持ってたら、
身が持ちません。だから、もう、簡単に好きなものだけと付き合うわ。


広い場所で、小学生くらいの女子が父親に「走っていい?歩くの飽きたー!」
若いっていいなー。


タマリンドのグミ、酸味は干し梅っぽい。辛さは唐辛子の刺激的辛さ。
不思議な食べものだけど、好きかも。


明るく染めたロングの巻き髪に、バッチリメイクでセーラー服の女子。
コスプレかと思うほどの清潔感のなさ(^_^;)


友達と家のリフォームの話をしてて、
派手な黄緑の壁や自分で貼ったタイルの写真を見て、
あー、リフォームって楽しいことのはずやった、と思い出す。
面倒だなーとばかり思ってしまってた。
安く早く済ませることばかり考えると、どんどんつまんなくなって行くよな。
わがまま言って、楽しもう。多分ずっと住む家だし、自分の大事な基地やもん。


京都まで1時間の間に、詩を一つ読んだだけ。3月の詩。


苦節何ヶ月目か、初めてタンゴに、チョット馴染んできた気がするぞ!
いくつになっても、なんにつけても、
何かがはっとわかるようになるって、楽しいことだなぁ。


お風呂で、真面目で誠実な人が幸せになる短編種説を読んで、ほかほか。
そして目の痙攣もおさまってる。


なんでもいいから編みたいときがあって、
でも編んでいるものがないときはとりあえず
アクリルたわしをどんどん作るんだけど、
これが案外楽しくないんだよなぁ。2個くらい編んだら飽きる。
いろんな形や色で編んでも、飽きる。実用になるからいいんだけど、
達成感がないというかなんというか。

大きなものは、こつこつやってるときは単調だったりするけど、
最終的な達成感が先にぼんやり見えると続けられる。長編小説も同じ感じ。
なかなか面白い短編小説でも続けて読んでると、飽きるんだよね。
編み物も読書もそこは同じ。


左目の視力が随分下がってることに、昨日気づいた。
近眼と、老眼で、ちょうどよく見える範囲が少ない。
カメラで言うと被写界深度が超浅い(^_^;)


友達が走るのと、わたしが編むのと、案外同じようなことなんかなと、
ちょっと思った。
ただ消費カロリーは違うし、マラソン大会のような晴れの場はないし、
肩こりや眼精疲労や体に悪いことばかりだけど、編むのは。笑


離婚するなら、キレイでいなさいって言われたこと思い出した。
みじめな気持ちにならないために、きちんときれいにしてる方がいいよって。
必死で無理やりきれいなふりをしてるだけでも、そのうちそういう自分に慣れてくる。
ひとりでも楽しい自分でいないと、しんどくなるし。そしてそのうち回復してくる。


実はかなり誰にでも緊張するし、何度も会ってても緊張する相手は多い、
というかほとんどそうなので、最初から緊張しない相手は珍しい。
お店の内装やるときの工務店の子は、若いしなんでも気軽には言えたけど、
どこかに緊張があったの。でも今度の設計デザイナーさんはそれが全然ないわー。
らくー。よかったー。
緊張は相手の容姿や年齢には関係無いんだよな。
イケメンでも超地味な、ださださのおっさんでも、緊張する相手はいる。
どんな人にでも、ほんの少しでも威圧感的なものを感じてしまうともうだめ。
今日の人は爽やかな青年だったけど、威圧感がなく、素のままな感じが良かった。


明日も、サロン・ドゥ・螺の建築関係の展示の店番。
お客様はほぼ専門家でこちらが何か説明することもなく、
ご挨拶と受付くらいをすればいいので、編み物や読む本や読む詩を持っていく。
細切れの時間に読める本はあるけど、詩って落ち着いて読まないと読めないな。

3月の詩をカバンに入れて、ギャラリーへ。
お、なんか素敵な土曜日みたいやん。


今回の、専門家ばかり、ゆるゆるっと来る類の展示、なんかいいなぁ。
お客さんの密度が濃いから、人数じゃないんだよなぁ。
写真やイラストの展示で、ぶらっと見る人がポツポツしか来ないとちょっと寂しいけど
一人一人が専門家で真面目な興味を持ってしっかり見に来るのは、
数が少なくてもいい感じ。


数カ月も持ち歩いてる本があって、薄い本だから持ち歩きやすいんだけど
2ページごとに付箋つけちゃうくらい面白くて、なかなか読み終わらない。
お風呂では別の本、ベッドでも別の本読んでますけど。


きょうは、たっぷりと布を使った、黒いコットンのワンピース。禁欲的な感じのつもり。
でも指輪はゴージャスなバラの形のプラチナとダイヤのやつ。


自分の言葉をなくして、離れてぼんやり聞いてるのも、
同調して盛り上がるのもどっちも楽しいし、いいんだけど、
家に帰って、自分の言葉を、もっと理解しないうさぎがいたことが、恋しい。
今、足りないはずの自分の言葉を投げかけても、
なんの反応もしないうさぎを物足りなく思いながら撫でてた時が恋しい。
あの、共感も理解もない、ただのあの温かい生きた毛皮の、ちから。


泣き上戸って、ちょっと見てるのは嫌いじゃないけど、
自分がなるのは、完全に想定外。
機嫌のいい愉快な酒飲みでいられないくらいなら、飲まない。
年とともに、泣き虫になってかわいいのも、そろそろアウトだし。


今日はセーブして、ワイン一本くらいしか飲んでない。獺祭飲んだけど。
ザンビアの話をした記憶がある。あさってから行くと言ってた人がいた。
ザンビアってどんな国だろ。南アフリカよね?海のない国?


寒い!冬が来た!
夏中、北海道を羨んでいたけど、これから五ヶ月くらい羨ましくないぞ!

映画:この世界の片隅に

2016-12-12 | 映画


この映画を頭からけなしている人はほとんど見たことがないけど、
一定の賞賛をした上で、この主人公あるいは主人公の生きる日本という国が
ほぼ戦争被害者としてのみしか描かれていないことに対しての不満は
いくつかネット上で見かけました。
それで、実際はどういう感じなのかと、ちょっと構えて見に行ったんだけど、
うーん、後半のいくつかの場面の不自然さ(説明不足?)の箇所以外は、
ただただ丁寧な描写と主人公のすずの柔らかい人柄に好感を持つばかりでした。
素直で優しい人には勝てない。
馬鹿といえば馬鹿だし、意識低すぎといえば意識低すぎ、
鈍いといえば鈍いんだけど、置かれた場所でやるべきことを淡々とやり、
ふわふわと人の好意や悪意の間を浮かぶように泳ぎ、
自分の傷にも気付かず、それで誰も何も責めず、
ずっとやさしいという主人公はとても魅力的だったのです。

でも戦局が激しくなり、悲しい事件が起こる後半になると
さすがの主人公も、精彩が消え、生きる意欲も薄れてしまうようになります。
その辺は、見ていてつらい。
これだけ傷つくと、それはそうなっちゃうよなぁと思うし。
でも結局、なくしたものがたくさんあっても、
彼女の素直さや優しさは結局は全部が失われることはなく
それを取り戻していくような展開にほっとする。

戦争に負けた後に、すずが感情を爆発させるシーンだけは、
ちょっと説明不足だとは思います。
原作ではすずが終戦後に、焼け野原の町に初めて韓国の太極旗が上がるのを見て、
加害側国民としての自分に気づき、さらにショックを受ける、というような
シーンがあったらしいんだけど
映画では太極旗が一瞬見えるだけで終わり、これでは何が言いいたのかわかりません。
この中途半端で意味不明な説明不足のせいで、ネット右翼な人たちが、
終戦後は韓国・朝鮮人進駐軍?たちによる復讐の暴力や虐殺が蔓延した、
と言うようなデマが乱れ飛ぶ状況になってしまった。
このシーンをカットするなら太極旗もカットすればよかったのに、
本当によくわからないシーンだなぁ。でも、どっちにしても、
加害国の人たちひとりひとりを責めることは、わたしにはできないんですけどね。
その人たちの誰かがわたしだったかもしれない。と思うから。
たまたまそこに生まれてそこに育ったら、自分がその人だったかもしれない。
だから、そういう人たちを丁寧に描いた映画を、
被害者としてしか描いてないと非難するようなことがわたしには難しい。
それに、今の世の中でも、加害者性が全くない人なんているだろうか?
そこを厳しく糾弾し始めたら、誰もがつらくつらく生きるしかなくなるのでは?
そう考えると、わたしはやっぱりそういう非難はしたくないかなぁ。

他にもいくつか、意味不明の中途ハンパになってる部分を人に教わって、
腑に落ちないことがいくつかありますが、
全体としては、わたしはこの映画はやっぱり好きです。
すずのような人、立派ではないけど優しく穏やかで呑気な人が好きだし、
その芯の強さにも感服する。とても魅力的な人だと思う。

あと、予告で見たときは、みんな褒めてるけどこれ大丈夫か?と不安になった、
すずの声の、のんですが、心配いらなかった。
そんなに絶賛するほどかな?とは思うけど役柄にとても合ってる声でよかったです。

無能の呪縛

2016-12-11 | Weblog
>「彼らは黒人に靴磨きをさせ、次に彼らが靴磨きをしている事実から黒人は能力が低い証拠に挙げる」っていう、昔のアメリカについて述べた文章を読んだのは30年くらい前だったかなー。

というツイートを見かけて、
娘を、女の子だからと家に軟禁して就職も勉強もさせずに見合いで結婚させ、
仕事なんてできない無能な娘、と言い続けたうちの親を思い出します。

自分が無能でないことは重々承知ですけど、
何十年も無能と言い続けられたら、その呪縛は中々きれいには消えない。
むしろ、その呪縛に合わせて、本当にどんどん無能になってきてしまってる気がする。
自分が特別に無能なわけじゃないのは、
やさしい人たちに慰められなくてもわかっているので、そういう問題じゃないんです。
だから慰められても困る。
でも、呪縛のせいと思うとめんどくさいので、
とりあえずは更年期のせいということにしときたい。

10月のつぶやき:前半

2016-12-10 | つぶやき
すいてる電車で、子どもたち、部活帰りか試合の後か、並んでへろへろ熟睡してる。
お疲れさま(^_^;)
電車から降りるとき、つり革に頭がぶつかる子、ぶつからない子がいて、
これ、小さい時ぶつかるの夢やったな。高い方のつり革掴めるの、夢やったな。
わかるで。わかるで。わかるで。わかるで。口々に、わかるで、と言い合ってて
なんかかわいいなぁ。
忘れ物ないかー?おー!と言いながら降りて行った。
自分の息子の小さかった頃思い出す。


カウンターでハイボールを飲んでるわけですが、
横でコーヒーを飲んでる常連らしいおじさんが、カップをお皿に置く音が
いちいちでかくてビックリする。
なんでそんなにガッチャンと大きな音たてないと置けないのか。
万事につけガサツな人なんだろうなぁ。


地域の知り合いの人に、エンディングノートのセミナーに誘われた(^_^;)
その人ご自身は後期高齢者だと思うのですが・・・
そりゃわたしだってなんでも準備は早い方がいいと思うけど・・・


ホテルのワンフロア各部屋に画廊が一つずつ入り、見て回る形式のアートマルシェは
数年前の大阪についで、2回目ですが、やはりいろいろ思うところあり。
でもまあ、興味深いです。
そして大阪と違ってテラスは海に面して、神戸の街が見えるというすごいロケーションが、
楽しかった。そこで日本酒をいただける。最高。
しかし、アート作品より、テラスからの眺めの方がいいって、難しいことであるよ。


絵を描く動画の、筆についた絵の具が紙に落ちるところが、たまらない。
描きたくて、ムズムズする。描けないし、描かないけど。
生まれ変わったらペンキ屋さんになる。
ペンキ屋さんでなく、看板屋さんか。
筆や刷毛とペンキで描く看板屋さんは、もうなくなってるかな。


昼間、蒸し暑かった余韻がまだある、風が吹いて気持ちのいい夕方。
ホントは、テラスのある店で風に吹かれながら飲みたいんですけど。


歯のブリッジが、直し中で今仮歯なので、タコの燻製とか硬いもの食べるの難しい。
おばあさんになったら、これがデフォルトになるんかな?


はちみつパックと書いてある、韓国で買ったパックが、紛れもない朝鮮人参の香り。
漢方くさいの嫌いじゃないし、めちゃ肌に良さそうな気分になるので、いいけど、
なんでどこがはちみつ?

夏の初めに70枚くらい買った、フェイシャルのシートマスク。
週に3、4枚使ってなくなる頃には秋!と思ってたのに、まだ暑い。
あと6枚くらいでなくなるんですけど秋、まだかい?


旅行で行ったオーストラリアなどで、わりとあからさまな感じの
人種差別的扱いを受けたことは何度かあって、
観光地でもこうなのか、この人大丈夫なのか?と思うくらいに、
相手がバカで間違ってるとわかってたので傷つきはしなかったけど、
そういう経験がないんだろうな、外国人差別する人は。
傷つきはしないけど、めんどくさいし、疲れるんだよ。
言葉も地理もやや不慣れな場所なんだからいらんことに神経使いたくない。
小学生でも分かるレベルの幼稚な差別くらいは、なくしましょうよと思う。
もちろん高度で巧妙な差別がいいというわけでは全くないけど、とりあえず。

今の時代、ご飯食べに行った店の人とカジュアルにSNSで繋がったりしちゃうんだけど、
美味しく食べて楽しく過ごしたお店の人が、
保守速とかばんばんシェアするネトウヨ的な人だったので、
共通の友達たくさんいるのにそっとブロックした、ということがある。
嫌韓嫌中の人は、自分が差別主義者である自覚のない人が多そうだけど
(大体ただの正義のつもりでいるよね?)、嫌韓の自覚はあるだろうから、
嫌韓バッヂみたいなのつけといてくれると、
わたしも最初から避けるから、お互い気まずいことがなくてよいのでは?


コーヒーは、朝一回飲むだけの日が多いけど、おいしい豆を2種類買ったので、
朝と午後も飲んでる。味が違って楽しい。
4種類あっても飲みきれないけど2種類くらいいつも家にあるのがいいなぁ。


何かを乗り越えた人の言葉は重みがあるけど、
乗り越えられるいい環境や金銭的余裕がなくて、
うまく乗り越えられず辛い思いをしている人には、
乗り越えた人の、素敵な言葉でさえ辛いだろうと思う。


濡れた布を当てっぱなしでいる気持ち悪さを気にしないのか、
布ナプ最高という人のことが、まじめにわからない。
あれ気持ち悪くなかったですか?
肌に触れる表面が乾いている通気性のいい紙ナプの方が
衛生的でもあると思うんだけど。


ふわふわの小さい動物には本当に罪がない。
わたしも、せめてちいさいすべすべの動物になって、罪がない感を味わいたい。


今使ってるコロンが2本目。
2つ続けて同じコロン使ったことってあんまりない。
好きなやつ、過去に2回廃番になってるし。今のはまだ大丈夫そう。
でも冬にはもう少し暖かい香りが欲しくなるかも
(今使ってるのはちょっと複雑な柑橘系です)。


「怒り」は評判通りすごくよかった。でもどんな映画でもわたし、
レイプシーンがあるとつらすぎて、本当は見たくないくらい。
必要なシーンでフィクションとわかっていても、しんどい。
性犯罪者は死ねばいい。と思う。(死刑反対の立場ですけど)


「お得に贅沢」を「お腹に贅肉」と空目するくらい疲れていた、
3年前の今日だそうです。


高校生かな、男子三人電車に乗って来て座りながら
「あ、昔、亀キチ飼ってたときの水槽の匂いと同じや」
なんか、かわいいな。


大きな家に住んでて、パーティの用意をしてるんだけど進まない夢。
何かの修理の人が来て、大きな白人なんだけど、
多分映画「アスファルト」の宇宙飛行士が排水管直そうとするシーンが
印象に残ってたからだと思う。
ただ私の夢では、その白人はもっとおっさんで、なんと全裸・・・
ちょっとこわかった。w

ちょっと前に見たもののイメージが夢の中に出てくることは、
多くはないけど、まあたまにある。でも、出てきて欲しいものは出てこない。


歯医者で治療中、椅子の上でまな板の鯉的に、されるがままで、
痛いのを我慢してる時にしみじみと、ああ
個人的な心の中のアレヤコレヤの悩みや愚痴なんか、ほんと何でもないわ。
歯一本おかしいだけで他のことできなくなるんだから。
ほんま甘っちょろすぎだわたし、と思いましたよ。
健康大事。どこも特に痛くないのって、奇跡のように素晴らしい。
自分が子供の頃は普通だったけど。
頭が重いとか肩が凝って痛いとか慢性的な不調は、もう痛いうちには入らない。
歯が一本痛いだけで、何もできなくなることを思えば。


今日もスーパーのセルフレジで、店員呼びつけて怒ってるおっさんがいた。
複雑すぎる、もっと誰でも使えるようにしろとかクドクドと怒ってる。
いや、誰でも使ってますよ。あなた以外は。
苦手なら隣の有人レジに行けばいいでしょ、
おっさんが酔っぱらってるからでしょうよ、とは言えず、
若い女性店員に同情の念だけ送っておいた。

本当にこの頃毎週のように「お客様は神様!」のつもりで一方的にクレームつけて
怒鳴ったりするおっさんを見かけて、気分悪い。
そんなとこで八つ当たりしたり威張ったりするしかない人を哀れに思うけど、
やっぱり迷惑だし不快。ほろびろ。


今朝も、素晴らしいお天気の秋の朝だな。
秋の空き地はイネ科の天下だけど、イネ科は地味だし中々見分けがつかない。


友達んちの屋上でミシェルゴンドリーの映画を見て、
風でスクリーンが膨らんだり揺れたりするのがすごく楽しかった。
不思議な時間だったなぁ。

いつまでも、時々不思議な時間がある感じで、遊んでいたいよ。
もっと年取って世の中がわからなくなっても。
面白いばかばかしいような遊びを考えつかなくなったり、
思いついてくれる友達がいなくなったりしませんように。
息子に、おかーさんはホントにいつもバカな遊びばかり思いついてやってる、
と思ってもらえますように。

きれいに飲む大人な酒飲みはかっこいいけど、
やっぱりたまにバカ飲みするのも楽しいんだよなぁ。
バカなことができなくなるのは、さびしい。年取ると体力的に無理になるしな。


病気じゃないけど、この心のしんどいのが毎月毎月何十年も続くかと、
思い起こすと、
耐えがたい、無理と思っても、その時その時でやりすごしてるうちに
気がつけば何十年も耐えてこられたんだよなと思うと不思議。
まあ、わたしは多分、かなり軽い方だからラクだと思うけど。
しかも先は見えてきているはず!?


雨が止んだら無風になって、やっぱり蒸し暑くなって、
全然眠れないまま、もう4時。
もう十月なのに扇風機ブンブン回して、
氷枕をとってきておでこの上。ねむいのに。


最近、体調が悪い時やしんどすぎるとき、
なんでか勝手にぽろぽろ涙が出るようになってきた。
多分、しんどさそのものじゃなくて、
そういうしんどさの中の自分に惨めな気持ちになって、
涙出てるのかなと思うけど、キャパオーバーで混乱して
涙が出てるだけかもしれない。
別に悲しくなくてもぽろぽろ出る。


自分の好き嫌いよりなにより、
人に何かを押し付けられることが我慢できなかったせいか、
ピンクという色や女の子的なものが一切、長い間嫌いでした。今は好き。
誰も押し付けてこなくなって、気がついたし。ピンク色が似合うのも。
今の自分は、気持ちよく自分の女性性を楽しんでいるし、
柔らかいものややさしいものや淡いものやピンク色や、そういうの全部好きだし、
押し付けられることがなければきっと、もっと自然に
小さい時から楽しめたのかもと思うけど。


電車が長く止まってると、知らない駅でも降りてどこかへ行きたくなる、
と言っても、せいぜい知らない飲み屋に入るくらいなんだけどさ。


信号のある横断歩道で、車が来ない時わたしは信号無視することがあるけど、
周りに子供がいたらおとなしく待ってる。真似されるとこわいしいやだから。
でも小学生がじっと待ってる横を、車の切れ目にさっと走って信号無視する大人は
案外多い。


寝る前にメモ:メリケンカルカヤ。今ぼうぼうと生えてるイネ科の雑草。
ずっとなんだろうと思ってたけど判明した。


夜の十時に公園でフォークダンスを踊る変な人たちのひとりになった。

学校の強制する全員参加の運動会は嫌いなものリストに入ってたけど、
だらだらゆるゆると日がくれた後に飲みながら食べながらする
大人の運動会は悪くないですな。


なにしろ、なんでも、強制されるのが苦手すぎる。何も強制されず、
同調圧力さえない場所なら、なんでも、まあ楽しい。
なんとなくいや。ってあまり理由として認められないし仕方ないけど、
自分のなんとなくいや、の力が頑固すぎて困る。


夏にスカートにしてたシルクのストールを、ストールとして使う季節。

第3回関西蚤の市

2016-12-09 | 小さいもの
1回目に行って、2回目は行けず、今回3回目は張り切って行ってきました、
仁川の阪神競馬場で開催される関西蚤の市。

前回はフードに並ぶのが遅れて売り切れ続出だったので、今回は昼前から出かけ、
先ずコーヒーを1杯飲んでから、腹ごしらえに並ぶ。
知り合いのやってるおいしいレストランが出店してたのでそこに並んだけど
1時間並びました・・・。
でもおいしかった、ヘルシーないろいろ野菜の上にラム。
柔らかくてちょうどいい程度のラムのくせがあって。満足。

それから北欧市と豆皿市を中心に見てまわりました。
北欧モノが特に好きなわけじゃないのは変わりませんが、
普段あまり買い物に出ないので、こういう機会に実用的でかわいいものが
何か見つかるといいなと思うと北欧雑貨はちょうどいい感じです。
一方、アンティーク雑貨は、ぶらぶら見るのは面白いけど
何に使うのかわからない道具や、きれいだけど実用的でない物が多い感じ。

写真の奥のポットは2年前の関西蚤の市で買ったデンマークのものです。
今回の蚤の市で買ったのは、緑のノルウェーのミルクピッチャーと
小さめ豆皿2枚と、豆皿の上の小鳥のブローチ。
ブローチはチェコの地方で仕入れたそうです。
そのときしてた指輪と似合ってたので買っちゃった。
豆皿も、このポットの色と合うかなぁ?と思って2枚買った。
小さいチョコなんかをお茶の時のおやつに入れると可愛い。
深い緑のミルクピッチャーは小さいお花を活ける用だけど、
ドレッシングなどを入れるのにも使いやすそうです。
これのポットもかわいかったけど、我慢しました。笑

すごくお天気のいい日で、秋のような青い空で
日焼けしたと思うくらいだったんだけど、楽しい買い物だった。
午後少し疲れたので、競馬もワンレース見てみました。
前回はレースはしてなかったので、生の競馬を見たのは初めて。
競争馬のきれいさは、よく伝え聞いてたけど、ほんとうに美しく感嘆。

月記:2016年11月

2016-12-08 | 月記
9月10月は糖質制限を始めて、いろいろとお出かけをセーブしてたんだけど
いつの間にか平常に戻ってて11月は忙しかった。でも盛りだくさんで楽しかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・写真の会の友達とうどん合宿。高松で何軒でうどんを食べ
 瀬戸内国際芸術祭の最終日に男木島に滑り込んで、写真を撮る旅。
・オリヴィエ・ムランのピアノコンサート
・NHK解約手続き。ゴネるかと思ったら案外簡単にできて拍子抜け。
・京都で数年ぶりの友達と若者のライブに行く。
 「踊るディスコ室町」という人たちのライブ。いっぱい踊ってきた。
・友達が実行委員やってる御影バル。数人の友達と2時から10時間飲む。
・阪急のイタリアフェアでトリュフ塩買う
・清荒神のディープな?お好み焼きやさんで飲み会
・友達のタカギトオルさん写真個展
・宝塚映画祭で3本
・友達の藤田理代さんのZINE個展。
・そのあと伊丹で、作家さんの酒器で飲むという企画を楽しむ。
・笑福亭鶴瓶・瓶吾さん親子会。宝塚ソリオホールで。
・川本陸子ちゃんのノクチルカ、レコ発ライブ。岡本で。
・山本のりこさんのボサノヴァライブ。いつものチッポグラフィアで。
・狂言師の読む稲垣足穂の舞台
・猪養野写真展
・ベランダのプランターにジュリアン植える

・映画館で観た映画「ブリジッと・ジョーンズの日記ダメな私の最後のモテキ」
「ティファニー ニューヨーク五番街の秘密」「永い言い訳」「92歳のパリジェンヌ」
「父子草」「王将」「大笑い江戸っ子祭り」「この世界の片隅に」

・DVDで観た映画「トイレのピエタ」

数え切れないたくさんの人生

2016-12-07 | 映画
いつも千円くらいで映画を観てるし(回数券やレディースデイやレイトばかり)、
数百円の文庫本を読んでいるけど(だいたい文庫になるまで待つ)、
考えてみると100年前にはこんなにたくさんの人生を(フィクションでも)
こんなに手軽に見ること知ることってなかったんだよなぁ。
今年は今のところ映画館で80本観てる。
ドキュメンタリーや物語のないものもあるけど、多分70個くらいは、
知らない国や知らない場所の知らない人の人生を覗いたわけです。
昔の人が思いもよらないほど、たくさんの人生を毎日のように見ている。
今までの人生で何百何千の、他人の人生を見てきてると思う。
そう考えると自分の知恵も想像力も、もっともっと広がってもよさそうなものなのに、
目に見えて手の届く範囲の限られた数の人生しか知らないまま人生を終えた
昔の人より優れている気もしないのはなんでだろうなぁ。
処理しきれないほどの情報の中で世界は狭くなり、
それで世界の広さをより感じることはできるのに、
だからといってより賢くなれるわけじゃないんだなぁ。
わたしには映画は時間つぶしの遊びで、
別に賢くなるために観てるんじゃないけど。

映画:ブルーに生まれついて

2016-12-06 | 映画


依存症というのは大変なものだな、としみじみ。
自分は行為依存は多々あると思うけど(ネットとか編み物とか)
アルコールやニコチンや麻薬物質などの物への依存がないようなので、
なかなかわからないけど。
一番大事な物も何もかも失うとわかってるのに、なんでまたやるのか?
わかんないな。いや、少しはわかるけど、
大事なものを失うということに対する想像力が足りないんじゃないかと思う。

2度の結婚に失敗し、ドラッグ依存から大怪我をした
トランペッターのチェット・ベイカーが
新しい恋人に支えられながらドラッグを断ち、再起し・・・という話。

イーサン・ホークはいつも困った犬のような顔をしているけど
今回はとても役柄に合っていたと思う。
若い頃はなんか間の抜けた顔のでかいアメリカ人俳優だとなんとなく思ってて
広くて大きな顔の中に困ったような小さい目がぽつんぽつんとある印象で
全然いいと思わなかったんだけど、年取ってなんか小さくなった気がするんです。
別に元々大男ではないし顔もでかくないんだけど、そういう印象だったのが、
顔も小さくなって、間抜けな顔じゃなくなった、困ってる顔は同じだけど。
ドキュメンタリー「シーモアさんと大人のための人生入門」では
監督イーサン・ホークの自分の悩みや葛藤の語りは、
薄っぺらで凡庸でつまんないからカットすればいいのに、と
辛辣なことを書いたけど、役者としてはどんどん良くなってきてると思います。
相手役の女優さんは、足はきれいだけど全体にむっちりしてて、かわいい。
セクシーというには、どこか可愛さのある女優さんですね。でも美男美女だわ。

映画はロマンチックできれいで切ない恋愛映画としても見られますが、
(音楽映画というほどは、音楽が大きなモチーフじゃない感じ・・・)
恋人の女性は、どんなに愛していても、ある地点を越えたら
ぱきっと見切りをつけて別れられる女性で、
わたしは、ずるずる一緒にダメになりそうな優柔不断で甘い女なので
こういう女性のこともよくわからないなぁと思ってたら
この女性は架空の登場人物らしい。へー。なるほどなぁ。
この点も含めて、わりとよくある感じの雰囲気映画というかメロドラマです。
撮影中止になったチェット自身の映画のワンシーンとして
モノクロの映像がはさまれてたりするんだけど、
これがチェットのムーディな音楽と合わさって、とてもおしゃれで
なんかほんの少し「男と女」思い出しました。
あのエッセンス、少しあると思う。笑
おしゃれな構図をもってきたり、なんだか間を長くもたせたりしていて
水増しされて薄まってる感も少しあるけど、
美男美女の話なので、見ていて気持ちいいし、まあいいか。

あとこういう映画でいつも疑問なのは、ドラッグ売人や借金取り立て人が
主人公を殴ったりするときに、相手を再起不能にしたりするじゃないですか?
たとえばトランペッターの歯や顎を砕いたら、借金返せなくなるじゃない?
なのになんでそこ、やるの?殴って再起不能にしたらそれで気がすむの??
わたしならどんなに借金返済が遅れてても、再起不能にするより、
しっかり働いてさっさと返してもらうほうがいいけどなぁ。謎。

ジャズミュージシャンの伝記的映画というのは、他にも結構あるのかな。
一番に思いつくのは名作「ラウンドミッドナイト」。
若い頃に見てとても印象的だった。久しぶりに見たいなぁ。
2、3年前に見たミシェル・ペトルチアーニのドキュメンタリーも興味深かったです。
チャーリー・パーカーを描いた映画「バード」も見たはずだけど
あんまり覚えてないな。これもまた見よう。
去年話題になった「セッション」はフィクションだったっけ?
あとはもうすぐマイルス・デイビスの映画が上映されますね。
チェットの映画みたいな恋愛映画には絶対ならないだろうけど、楽しみです。

もうひとつ
ディジー・ガレスピーの、黒いベレー帽をまっすぐにぽこっとかぶるのは
なんかこの冬の気分に合うなぁ。メガネと同じ色のベレー帽かってかぶろうかな。

これは映画のワンシーンではなく拾ってきた実物の写真。

映画:ククーシュカ

2016-12-05 | 映画
2年前に見た映画で、ほとんど感想を書いてなかった映画のことを
別のことを調べてて思い出したら、
それってこの前見た「みかんの丘」と似てる構図の話だな〜と気づいた。

ここに少しだけ書いたけど、これ→三姉妹〜雲南の子
傷ついた敵同士の兵士が同じ家で看病される。
家の主は、「みかんの丘」は何もかも知り尽くしてなお優しさを失くさない老人で
「ククーシュカ」は生命力溢れる女性だけど、どっちもすごくいい映画です。

で、ククーシュカのことを書きたくなったけど
感想書いてない映画は、結構内容を忘れちゃうんですよね。
内容を忘れた昔の映画についても、
覚えてることだけ書くいいかげんなブログです。笑
ククーシュカというのはロシア語でカッコウのことらしいです。

フィンランドの最北部のラップランドでひとりでたくましく生きるサーミ人の女性が
第二次大戦末期に、敵対していたソ連兵とフィンランド兵を一緒に匿うことになる。
3人ともそれぞれの言葉を全く知らず、言葉による意思の疎通がおかしいくらいできない。
誤解はとけず、ソ連兵はフィンランド兵をナチだと思い込み、なんとか殺そうとするが
自分は怪我をしているので、なかなかうまくいかない。
サーミ人の女性は強く優しい自立した女性で、
夫がいなくなって以来、久しぶりの男たちの出現にうきうき。
久しぶりの男だわ一度に二人も!ラッキー!みたいなシーンがあって、
この女性が(の民族が?)性に対しておおらかで明るいのだなとわかる。

この3人が、全く通じないし噛み合わないのに、なんだかよくしゃべるんですよ、
それぞれ勝手に。
通じないから一方は怒って何か言ってるのに、言われた方は勘違いして
ニコニコと礼を言ったりする、そういう掛け合いのところが
なんとも言えないユーモアで面白いです。

この映画も、兵士たちはだんだんわかりあうようになっていくのだけど
ラストは「みかんの丘」とと違って、暖かい幸せなシーンなので
ファンタジーや寓話に近いかもしれません。
でも内容的には「みかんの丘」と同じことを表していると思います。

この映画について書かれた早稲田大の水島朝穂さんの文
紛争は解決ではなく転換するのだ、と書かれていて、なるほどなと思った。
 米軍の研究によると、戦場において敵と遭遇して、実際に相手に発砲できる兵士は25%しかいなかったという。驚いた米軍当局は、標的を人間の形に変える。そして、繰り返し、人間の形の標的を瞬間的に撃つ訓練をする。すると、戦場での発砲率があがったというのである。相手と知り合いになってから、それでは殺し合いなさいといってもできるものではない。いわんや、一緒にものを作ったり、助け合ったりすれば、もう殺せない。この映画は、「不思議な三角関係」を通じて、女性1 人に男性2人という文字通りの三角関係だけでなく、実は、2者の憎しみと対立を解消する方法は、そこに第三者(しかも異性)を介在させることで、憎しみと対立のエネルギーを「転換」してしまう話である。ノルウェーの平和学者J・ガルトゥングの主張する「超越法」(Transcend)のことを思い出した。
 ガルトゥングによれば、紛争は「解決」するのではなく、「転換」する。つまり、対立する双方の主張や立場を調整するのではなく、双方の矛盾や対立から跳躍して、新しい創造的な道を見つけ出すという方法で、矛盾や対立を「超越」していく(詳しくは、J.ガルトゥング=奥本京子訳『平和的手段による紛争の転換――超越法』(平和文化、2000年)。そこでは、対立する紛争当事者双方と、独立・客観的な立場で対話できる第三者が必要となる。これを「紛争ワーカー」ないし「平和ワーカー」と呼ぶ。
 また、紛争転換のための「超越法」では、α)態度における「共感」、β)行動における「非暴力」、γ)対立における「創造性」の三角形がカギとなる。この場合、サーミ人の女性が魅力的な「平和ワーカー」の役回りを演じ、言葉は通じなくても双方に共感が生まれていくこと、そして、厳しい自然のなかで生活を成り立たせるための共同作業が必要となっていること。そこに創造的な意欲が生まれ、おのずと暴力はなくなっていく。
 この映画の「不思議な三角関係」そのものが、それぞれに国家を背負った軍隊構成員が、生活に必要な共同作業のなかで憎しみや対立の根を昇華させていく「場」になっているように思う。目標は生活であり、それはきわめて平和的だ。「武力なき平和」への道程において、この「超越法」は重要な意味をもつ。この「ククーシュカ」は、「超越法」のケース・スタディとしてみても面白いだろう。


それはさておき、ムーミンの国、北欧タンゴの国、フィンランドが
最近、呼んでる気がするのですよ。一度行ってみようかしらん。

こんまる日々5:壁は塗ろう

2016-12-04 | Weblog
ティファニーの映画を観たので、壁をティファニーブルーにしたくなった。
でもきっとまた気が変わるかもなぁ。

やっぱり、壁のクロスは、よっぽど気にいる物がなければ、
ペンキ塗り用のを貼って、微妙な色を塗ってもらおうと最初考えた。
北側の部屋は濃いブルーと薄いブルー。
トイレはグレイっぽい淡い緑。
寝室はラベンダー系。
物置はクリームっぽいベージュ。
リビングは白でピアノの壁だけグレイッシュミントグリーンかな。

でもクロスを貼って、さらにペイントしてもらうと予算は余分にかかる。
そういえば、わたしにはペンキ屋さんに勤めている友達がいる。
そのペンキはとても微妙な中間色のペンキがたくさんあるブランドで
前にそこのペイントパーティにも行ったし、
きれいな色が揃ってて、クロスを選ぶより絶対好みの色があるし、
(自分の店の内装の時に、クロスにいい色がなくてすごく妥協した・・・)
友達も協力してくれるって言うし、
ペンキ塗るの大好きだから、自分で塗るか!
DIY的なことが全くできない、大きなものの作業が苦手なわたしですが
リフォーム後はこんまりしてて大きな家具や物は少ないはずだし
壁を塗るために養生(他のところをカバーして保護する)するのも
そんなに大変じゃないはず。
と、決めたら楽しくなってきた。

ペイント下地のクロス張りまでは、業者さんにやってもらおう。
ペンキ下地用クロスの上に塗ると、本当にいい質感になって、ぼくは大好きです、
とデザイナーに言われた。安っぽくないすてきなマット質感になるらしい。
下手なクロスよりずっとよさそう。

リビングとピアノの部屋はクラシックに色味は抑えるけど
廊下は部屋より天井が低いので、天井に色をつけても面白いかも。
でも今の所、腰より下あたりで、ツートーンに塗りたいのだ。
洗面脱衣場所はお風呂と同じラベンダーで。
トイレはポップにするかシックにするか、濃い色を使ってもいいかも。
うんと悩みながら、晴れて乾いた日に少しずつ塗っていくのも楽しいはず。
リフォームの工事が全部終わってから、ゆっくりやろう。

でも天井だけは普通のクロスにしていこうと考えなおした。
うちの天井は、マンションでもやや高めなので、
養生するだけで腕や首が壊れそうだし危ないよなぁ。
自分の年と体力、体調を考えて無理しないことにした。
天井にはっきりした色を塗るのもおしゃれなんだけどねぇ・・・。

ヘリンボーンの床とペイントした壁だけが、今回のこだわりになるかな。
分譲でも勝手に変えられないマンションの窓のサッシには
本当は内窓つけて内側はきれいにしたいけど
それはそれでまたお金がかかるので、あきらめる。

具体的なことを決めていく段階って、ひたすら見積もり予算との
兼ね合いだなぁと思う。
これをしたいから、これはあきらめる、とか。
まあいいや、少なくとも今よりはずっとよくなるんだしね。

狂言師の稲垣足穂

2016-12-03 | 芸術、とか
たくさんあるチラシの中で目を引いた1枚。
公民館とか、そういう地味な?ところにも、
この頃はちょっといい感じのフライヤーを見かけることが増えてきました。
これはどこで見たのだったか、曇った夕暮れの?町の景色に惹かれて
なんとなく持って帰ってきた。

お食事+リーディング公演「今宵、おいしいドラマを灘で」と書かれてたので
朗読会みたいな感じかな?
本のイベントはいろいろ行きたいと思ってるけど、
朗読会は作家によるものが多くて、
作家の自作朗読って味はあるけど、舞台って感じではないんだよねぇ。
味があっても、ちょっと退屈することもある。
でも、なんだかよくわからないけど狂言師が読むなら、
普通の朗読会と違って退屈はしないかな、どんな感じかな?と
前日になってやっと予約の電話をかけてみた。
・・・満席。あら残念。ま、仕方ないか。
でもすぐあとに折り返し電話が来て、ひとつ空きました用意できますと。
ラッキー。

慣れない駅から迷いながら少し歩いてレストランへ。
広すぎず狭すぎずの、カジュアルなビストロっぽい居心地いい雰囲気。
まずワンプレートに盛られた野菜たっぷりの食事が出てくる。

なんども頼むのが申し訳ないので、赤と白のワインを一度に頼みました。笑

一通り食事が終わった後で、狂言師が入ってきて、舞台に作ってあった
2畳ほどの広さ、20センチほどの高さの台に上がり、
おもむろにタブレットを持ち上げ、読み始めたのでした。
目の前3メートルのところから、どしんと腹に響く狂言師の声が、
チョコレットとか箒星とかのファンタジーな話を読むという、
なんとも素敵すぎる時間だった。
狂言師の動きは独特で力があり、もう全然朗読のレベルじゃなかった。
演劇を見ているくらい、集中して見入り、聴き入りました。
狂言師の手の大きさがタブレットを片手に持つのにちょうどいい感じで、
しかも紙の本と違って、読書っぽさが全くないのが思いの外よかった。
着物を着た狂言師がタブレット端末を手の延長のように持ち
それを見ながら読み、舞う。
何か新しいものを見ているような感じがしました。
最近の読書会は、タブレットが多いようですけど
狂言師との組み合わせの妙に、心から唸りましたよ。

伝統芸能の人が、一般向け?に何かやるときって、なんか本当に素人向けというか
入門的なものが多くて、わたしは素人のくせにうんざりするんだけど、
そういとこが全然ない舞台だった。
こういう風に、異質なものの組み合わせが上手くいった時の楽しさったらない。
あと、あの、バックの音楽や効果音は誰が演出したんだろう。
全く邪魔にならずに、とてもいい効果だった。
同じ演出家のやってるものなら、もっと見たくなりました。

食事は、ご飯も美味しかったし隣に座ってた女子とも話が弾みました。
隣の席の知らない女子には、本のイベント→朗読会というもの→
ネットのトルストイマラソン朗読会→ロシア人の友だち→ポストクロッシングについて
といろんな話をしたけど、その彼女は演劇をやっている人で、
この朗読のシリーズが、今度中島らもの作品でもあるんだけど、
中島らもが好きすぎて他の人の読む彼の作品は見たくないという話を聞いた。
普段わたしは知らない人と話をするのがわりと億劫な方なんだけど、
美味しいご飯食べながらワイン飲みながら舞台の期待でワクワクしながら、
本に関わるいろんな話がいっぱいできてうれしかったです。

実はこの企画は、実はお友達の勤め先(神戸近郊の町の区民ホール)の主催で、
その彼女にも3年ぶりに会えたし、彼女の3歳の子供にも初めて会えたし、
何から何まで、いい金曜日の夜だった。
あー、こういうこじんまりとした質のいいものだけで、人生を埋め尽くしたいぞ!
こういうのは、都会やその近郊ならではなのかもねぇ。都会近くに住んでてよかった。

「チョコレット」
原作:稲垣足穂
台本・演出:岩崎正裕
上演:善竹忠亮
音響:Alain Nouveau

映画:大笑い江戸っ子祭り

2016-12-02 | 映画
宝塚映画祭で見た3本目、1959年の宝塚映画製作。
落語の「芝浜」「たらちね」「千両富」などのエピソードを散りばめた
江戸時代が舞台の映画ということで、無理やり時間をやりくりして見ました。
複数の落語を下敷きにした映画として「幕末太陽傳」の完成度はないけど
コメディだから、これはこれですごく楽しい。
監督は喜劇の神様と称されたらしい斎藤寅次郎で、
主役級のコメディスターが贅沢に出ていて、オールスター喜劇映画です。

いくつかのエピソードの組み合わせなので、
メインのストーリーというほどのものもないのだけど
大家さんのピンチを貧乏長屋のみんなで助ける(くじが当たって)話、かな。
映画の冒頭で、町娘の雪村いずみが同じ長屋に住むくず屋さんに売りつけたくじが
ラストで当たるんですけどね。
その合間に、親を探しに来た子どもを預かったり
言葉の丁寧すぎるお嫁さんをもらったり
間抜けで人のいい泥棒に入られたりするドタバタが色々起こります。

三木のり平が、親切なくず屋さんの久六。映画全体的には彼が主役かな。
有島一郎は酒飲みで仕事をしない魚屋の八五郎。「芝浜」ですね。
益田喜頓は長屋の大家さんですが家賃の取り立ては半ば諦めているようです。
長屋の空き部屋を借りに来る、ちょっとだけ出てくる役者がトニー谷。
エノケンは町の目明かしの親分。
大家さんの娘の病気を見る医者役で一瞬だけ出てくるのが古川緑波。
あと、雪村いずみは宝塚映画祭の古い映画では何度も見てるけど
本当にスターだったんだろうな。ここでもおきゃんな町娘として
かわいくうまく歌っています。

ドタバタの単純で馬鹿馬鹿しい笑いは気持ちよく、
軽く織り込まれた人情話もべたべたせずにいいアクセントになって
気軽に見られる86分の映画なのに、たっぷりな感じのする映画でした。
そういえば昔の映画は2時間未満のものが多いですね。
最近は長い映画も多くて、はしごすると疲れます。

三木のり平も益田喜頓も有島一郎もみんな痩せて、顎の尖った細面の顔で、
喜劇役者で三枚目の役をやってて、
一方、この映画の中で男気のある二代目鼠小僧のイケメン役の俳優は
体はちょっともっちりしてて、頭が大きくて大げさな顔なんですけど、
この頃はまだこういう歌舞伎役者っぽい感じ?が男前だったんでしょうかね。
今なら、普通の服装をしてれば、絶対前者の方がイケメンとされそうなのに。