教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

「教育史は何の役に立つか」という問い

2014年12月22日 01時10分49秒 | 教育研究メモ

 「教育史とは何か」という問いと、「教育史は役に立つか」という問いは、別々に論じていてはいけないのではないか。教育史が存在することが、役に立てようとしようがするまいが、そのまま何かの役に立つのでないといけないから。

 教育史は様々なことに役立つ。
 教育史は、過去の経緯を明らかにし、現在の教育のあり方を相対化する。現在のあり方を批判可能にし、将来のあり方を考える材料と姿勢をつくる。教育史は、教師に、ことの本質にせまるような教育研究・教材研究の批判的立場を用意し、創造的な実践を生み出す可能性を開く。国民には、主体的で自立的な進路選択や子育て、生涯学習、政策参加などの立場を用意し、より自由で適切な国家社会を形成する可能性を開く。
 教育史は、過去の教育の成功を明らかにする。教育の遂行や条件整備の際に、守っていくべき理念や手順を見極める材料を提供する。
 あるいは、教育史は、過去の失敗を明らかにし、教訓を示す。それは、類似の教育課題に取り組む際に、注意すべき留意点を考える材料になる。すなわち、教育史は、教師・国民に、現在や将来の教育のあり方に関する決断や合意について、的確さや説得力を付与する材料になる。
 または、教育史は、過去において特定の思想や学説、方法、制度などが成立した歴史的文脈を明らかにする。それは、過去の成功や教訓をそのまま現在に適用するような短絡的輸入や形骸化を防ぎ、現在の歴史的文脈に対する注目を促し、現在・将来の教育に対する慎重・適切な思考と態度を生み出す。

 教育史は、ただの過去の事実に関する知識の羅列や年表であっては、現代日本においてその存在価値を認められない。社会において存在価値を失った学問は忘れ去られるのみである。しかし、私は、今は忘れ去られても、遠い将来に再び脚光を浴びるかもしれないさ、とあきらめることはできない。教育史には、上記のように極めて重要な機能があることを知っているからである。
 また、私には、教育史は歴史学や社会学の一領域である、と割り切ることもできない。歴史学としての教育史、社会学としての教育史はあっていいし、どんどん進めていけばよいと思う。しかし、その成果を、歴史学や社会学の枠内にとどめておく訳にはいかない。教育史は、教育の現在・将来を考え、よい実践を推進し、さらにはよりよい実践を生み出す立場と材料を提供することができるからである。教育史は、教育学のなかで鍛えられ、教育の現在・将来に生かされるべきである。

 教育史学者は、「教育的概念・現象がどのように歴史的に展開してきたか」をさらに細かく明らかにするだけでなく、「教育史とは何か」をもっと論じ合う必要があると思う。ばらばらに論じる(独白)のではなく、ともに論じ合う(対話)必要がある。互いの考えの違いをぶつけ合い、共通性と異質性を明らかにして、それぞれ認め合ったり、高め合ったりするところまで持って行かなければならない。そうしなければ、「教育史」という領域は消え去ってしまう。
 教育史は、いかに教育学として機能するか、またはし得るか。いかに教育政策過程や教員養成・国民育成・人間形成において機能するか、またはし得るか。これ らの問いに、教育史学者は明確な答えを持っているだろうか。「そんなことを考える必要はない」という思考停止や、「歴史は趣味である」という居直りは論外である。かつて教育史は教育学の中核の一つであり、今でもその役割を期待される向きは残っている(建前であれ、本音であれ…)。教育学は、現代日本において、その存在意義を問われている。そんな時に、教育史のみ、思考停止や居直り、あきらめ、無視を決め込むことは許されない。「何か役に立つはずだ」と言っていれば済む時代は、すでに過ぎたと思う。

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