中国四国教育学会、無事発表を終えられました。研究の質を上げられるようないい質問ももらえました。質問してくださった方々、本当にありがとうございました。日曜の仕事にも無事(?)参加できました。
さて、普段の生活において、なかなか書けそうなネタがないので、たまに教育に関する名言でもたまに紹介しようと思い立ちました。忙しいのですが、ちょっと書きためていたので、以下公開。下線から上は私のコメント、下は原文(翻訳原文)です。
まず最初に取り上げますのは、子育ての方針についてのルソーの名言。
「[子どもの]死をふせぐことよりも、[子どもを]生きさせることが必要なのだ。」
子どもを「生きさせなければならない」、という主張には、なるほどそうかと思わせられました。強制的な響きのある主張ですが、ルソーの時代は保護者の不注意や無理解により乳幼児がたくさん死んでいた時代であり、子どもの自由や適切な発達が妨げられていた時代ですから、そういう言い方になったのでしょう。現代日本では、ルソーの時代ほど多く子どもが死んでいるはずはないのですが、ほぼ毎日虐待死が報じられるような社会ですから、今ふり返ってもよい言葉なんじゃないかと思います。
どこへ向かって子どもを「生きさせる」のか。死なないようにという消極的な目標ではなく、勝手に生かしておくというような放任的な目標ではなく、生涯を通してどんな境遇においても生きていけるようにという積極的な目標へ向かって。
ここで「生きる」こととは何か。それは「活動」することである。自分の体や能力を用いることである。子どもは思うままに跳びはね、走り回り、大声を上げる。これは、子どもの体が強くなろうとして生じる運動なのだ。そのような運動を支え、子どもを活動させ、生きさせなければならない。今の感覚でいえば、体だけでなく、心の運動を支えていくことも大事だろう。それが子どもを育てるということなんじゃないのか。
以下、その部分の原文(翻訳)です。
「[子どもの]死をふせぐことよりも、[子どもを]生きさせることが必要なのだ。」
出典:ルソー『エミール』(1762年)より
(今野一雄訳『エミール』上巻、岩波文庫、33頁)
人は子どもの身をまもることばかり考えているが、それでは十分でない。大人になったとき、自分の身をまもることを、運命の打撃に耐え、富も貧困も意にかいせず、必要とあればアイスランドの氷のなかでも、マルタ島のやけつく岩のうえでも生活することを学ばせなければならない。[略] 死をふせぐことよりも、生きさせることが必要なのだ。生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。わたしたちの器官、感官、能力を、わたしたちに存在感をあたえる体のあらゆる部分をもちいることだ。もっとも長生きした人とは、もっとも多くの歳月を生きた人ではなく、もっともよく人生を体験した人だ。 (同上、33頁)
自然は[子どもの]体を強くし成長させるためにいろいろな手段をもちいるが、それに逆らうようなことはけっしてすべきではない。子どもが外へ行きたいというのに家にいるように強制したり、じっとしていたいというのに出ていかせるようなことをしてはならない。子どもの意志がわたしたちの過失によってそこなわれていなければ、子どもはなにごとも無用なことを欲することはない。子どもは思うままに跳びはね、駆けまわり、大声をあげなければならない。かれらのあらゆる運動は強くなろうとする体の構造の必要から生まれているのだ。しかし、子どもが自分ではできないこと、他の人々が子どものためにしてやらなければならないことを望むばあいには、警戒しなければならない。 (同上、116頁)
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