またも思考整理のメモ。こなれていません。
「教育とは何か」を考えることには、さまざまな意味がある。たとえば、これから何がおこりそうか予見するために用いられる資料を作成する。これは、学問研究の資料としてだけではなく、やがて起こることへ適応するための能力・態度・理解などを生み出す実用的資料にもなっていく。
たとえば、「教育学としての教育史」、すなわち歴史から「教育とは何か」を考えることによって得た資料は、思弁的な考察や現状の考察などから得た資料とは異なる性質を持つ。それは、実際にあった事実を用いて考えた結果であり、教育を考える上で有力な資料であるとともに、今後の教訓となりうる。教訓とは、われわれが世代を通じて経験してきた有意義な結果であり、今後も再構成しながら引き継いでいくものである。それは、過去の事実をそのまま羅列したものではない。それぞれの事実を関連づけ、体系化したものである。「教育学としての教育史」は、われわれの先人の経験を関連づけ、体系化することによって、「教育とは何か」を考える上での有意義な資料または教訓となることができる。
教育学は役に立たない、とくに教育史は役に立たない、と言われることがしばしばある。しかし、本当に教育学は役に立たないのか。教育史は役に立たないのか。所詮、学問や歴史は趣味であると居直る前に、考えるべきことはあるのではないか。人生を考える上で、教育は無視できない主題である。教育を考えるための学問である教育学は、このときに、十分に役に立てるべきものである。教育史とくに「教育学としての教育史」は、「教育とは何か」を考える上での重要な資料を提供するものであり、役に立てるべきものである。
教育学や教育史の研究成果が教育を考える資料として「人々の使えるように準備されていない」のであれば、この問題は、「教育とは何か」を専門に考える人々である教育学者の問題である。教育学や教育史にはさまざまな流儀があるため、すべての教育学者には責任を押し付けられないが、少なくとも「教育とは何か」を考えることを自任する者は、自らの仕事を省み、さらに教育学研究を展開していかなければならない。そして、教育を考えるため、より使いやすい資料を創出・再編成していく必要がある。
教育学の成果が教育を考える資料として「使えない」というのであれば、論点は違ってくる。教育を考えるすべての人が、教育学者になる必要はない。専門的訓練を受けなければ、組織的・体系的知識(学問)にいたる考察をすることは難しい。これからの教育を考えるのは、何も学者や研究者だけの専売特許ではない。全ての人々は教育を考える資格を持つ、というよりむしろ、考えるべき問題である。そのときに問いたいのは、次のことである。教育のあり方を考えようとする際に、教育学の成果を役に立てようという意識はあるだろうか。これからの教育のあり方を考える際に、資料として使ったことがないのにもかかわらず、役に立たないと思い込んでいるのではないか。
上述のような教育学の成果を「使えない」という問題に人々が陥っているのであれば、教育学者は、ここでも自らの使命を省みるべきであろう。教育学者は、教育学教育の担い手でもある。人々が適切な資料を用いて教育を考えることができないのは、教育学教育が、教育を考えるための能力・態度・理解を身につけることにつながっていないからかもしれない、と考えることは無駄ではない。教育学教育は一部の人々にしか行えない、という言い分もあるかもしれない。しかし、現代日本では、開放制教員養成をとるために、多くの大学生が教育学教育を受ける。少なくない人々が、一度は教育学教育を受けるはずなのである。教育学教育の量的不足は、あまり強い説得力を持てないのではないか。そうであれば、教育学者は、早急に教育学教育のあり方を再検討しなくてはならないだろう。
とか何とか。
「教育とは何か」を考えることには、さまざまな意味がある。たとえば、これから何がおこりそうか予見するために用いられる資料を作成する。これは、学問研究の資料としてだけではなく、やがて起こることへ適応するための能力・態度・理解などを生み出す実用的資料にもなっていく。
たとえば、「教育学としての教育史」、すなわち歴史から「教育とは何か」を考えることによって得た資料は、思弁的な考察や現状の考察などから得た資料とは異なる性質を持つ。それは、実際にあった事実を用いて考えた結果であり、教育を考える上で有力な資料であるとともに、今後の教訓となりうる。教訓とは、われわれが世代を通じて経験してきた有意義な結果であり、今後も再構成しながら引き継いでいくものである。それは、過去の事実をそのまま羅列したものではない。それぞれの事実を関連づけ、体系化したものである。「教育学としての教育史」は、われわれの先人の経験を関連づけ、体系化することによって、「教育とは何か」を考える上での有意義な資料または教訓となることができる。
教育学は役に立たない、とくに教育史は役に立たない、と言われることがしばしばある。しかし、本当に教育学は役に立たないのか。教育史は役に立たないのか。所詮、学問や歴史は趣味であると居直る前に、考えるべきことはあるのではないか。人生を考える上で、教育は無視できない主題である。教育を考えるための学問である教育学は、このときに、十分に役に立てるべきものである。教育史とくに「教育学としての教育史」は、「教育とは何か」を考える上での重要な資料を提供するものであり、役に立てるべきものである。
教育学や教育史の研究成果が教育を考える資料として「人々の使えるように準備されていない」のであれば、この問題は、「教育とは何か」を専門に考える人々である教育学者の問題である。教育学や教育史にはさまざまな流儀があるため、すべての教育学者には責任を押し付けられないが、少なくとも「教育とは何か」を考えることを自任する者は、自らの仕事を省み、さらに教育学研究を展開していかなければならない。そして、教育を考えるため、より使いやすい資料を創出・再編成していく必要がある。
教育学の成果が教育を考える資料として「使えない」というのであれば、論点は違ってくる。教育を考えるすべての人が、教育学者になる必要はない。専門的訓練を受けなければ、組織的・体系的知識(学問)にいたる考察をすることは難しい。これからの教育を考えるのは、何も学者や研究者だけの専売特許ではない。全ての人々は教育を考える資格を持つ、というよりむしろ、考えるべき問題である。そのときに問いたいのは、次のことである。教育のあり方を考えようとする際に、教育学の成果を役に立てようという意識はあるだろうか。これからの教育のあり方を考える際に、資料として使ったことがないのにもかかわらず、役に立たないと思い込んでいるのではないか。
上述のような教育学の成果を「使えない」という問題に人々が陥っているのであれば、教育学者は、ここでも自らの使命を省みるべきであろう。教育学者は、教育学教育の担い手でもある。人々が適切な資料を用いて教育を考えることができないのは、教育学教育が、教育を考えるための能力・態度・理解を身につけることにつながっていないからかもしれない、と考えることは無駄ではない。教育学教育は一部の人々にしか行えない、という言い分もあるかもしれない。しかし、現代日本では、開放制教員養成をとるために、多くの大学生が教育学教育を受ける。少なくない人々が、一度は教育学教育を受けるはずなのである。教育学教育の量的不足は、あまり強い説得力を持てないのではないか。そうであれば、教育学者は、早急に教育学教育のあり方を再検討しなくてはならないだろう。
とか何とか。
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