教育史教育の有用性はどこにあるか。
教育史教育の有用性は、学習者自身が教育観(子ども観・社会観・人間観なども含む)を問い直し、教育について考える土台を作ることができるところにある。教育の場面では、自然に形成された教育観では対応できない問題がある。教育の専門家として教師が生きるならば、問題解決の過程で教育観・子ども観を問い直 して根本的に考え直すことができるようにならなければならない。一般人と教師とを分ける根本的なものは、自分の教育観・子ども観などの観念のレベルから問題を問い直す姿勢だと考える。このような姿勢は、自然の経験だけでは形成しにくい。教育史教育はその姿勢を形成する。
人は誰でも一定の教育観をもっている。教育する時、意識するしないに関わらず、人は自分が有している教育観に従って被教育者と関わっている。教育観は、被教育者との関わり方を規定する。教師や大人の子どもに対するふるまい方は、根本的に、それぞれが有している教育観から生じている。教育観は日々の経験のなかで形成されている。親からのしつけや今まで出会ってきた教師の指導、同級生や先輩後輩との教え合いなどを通して、人々はそれぞれ教育観を形成している。教育史教育が対象とする人々は、何の教育観も抱いていない無垢な人々ではない。そのため、教育史教育とは、ゼロから学習者の教育観を形成することではない。教育史教育は、そのような意味で、「問い直す」機会にならなければならないのである。
教師の役割を果たし、教師としてふるまう上でも、教師が教育観を問い直す姿勢は重要である。確かに、教育観を問い直す姿勢がなくとも教育することはできる。しかし、問い直しの姿勢がなければ、その教育が根本的に間違っていても修正することができない。「教育とは何か」を深く考えたことがない教師や、教えたことや教育のやり方が間違っていた時に直すことのできない教師に、誰も教わりたいとは思わない。教師が子どもに対して自らの責任を果たそう、子どもに対して誠実であろうとするならば、教育観を問い直す姿勢は重要である。
また、教師が社会に対して責任を果たし、誠実であるためにも、教育観を問い直す姿勢は重要である。社会が変化すれば教育に期待される役割も変化する。社会の期待に応えようとする時、教師は自分の教育観を問い直す必要がある場合がある。あるいは、社会の期待そのものが不明確・不十分である場合もあれば、間違っている場合もある。その場合には、言われるままに実践することはできないし、無批判・思考停止では許されない。教師自身が社会に働きかけ、適正な手段を講じて修正を迫る必要があるかもしれない。社会の期待に応えるにしても、批判的に関わるにしても、教師に確固とした教育観がなければそれは不可能である。
教育観を確固としたものにするには、自らの教育観を問い直し、改善・補強し、その根幹を発見・自覚しておく機会が必要である。教育史教育はその機会を提供することができる。
教育史教育は、学習者が自分の教育観を問い直す機会を提供しなければならない。だから、年号や人名、著者名、重要語句を覚えさせるだけでは不十分である。これらは、過去から考えるための索引のようなものであり、教育史教育の入口でしかない。教員採用試験や講習認定試験等が年号や人名、著書名、重要語句を問うのは、過去から考える入口に立っているかどうか確認するためであれば、いっこうにかまわない。入口に立たせることに意味はある。しかし、入ってからどうするかまで指導しなければ教育史教育にはならない。教育史教育は、教育観を問い直す「唯一」の方法ではないが、史料を用いて歴史的事実に触れ、過去にさかのぼって教育を問い直すことは、古来行われてきた身近な方法である。この身近な方法について、その意義や手段、効果などを考察し、実践し、検証・改善することは、我々教育史教育者の責務である。
教育史教育は、史料を教材として、学習者を歴史的事実に出会わせ、教育を問い直す活動に導く教育実践である。これを通して、学習者が自ら教育観を問い直す姿勢を育て、その態度・能力を涵養し、そのための基礎となる知識・技能を身につける機会を提供する。そのために、教育史教育者は、教育史教育にとって価値ある史料を教材化し、教育観を問い直す過程を構想して授業化し、実践する。また、自ら教育史研究者となって教育史教材としての価値ある史料を発見し、解釈して、研究者間で吟味し、史料の教材としての価値を高める。従来、このような教育史教育者の活動は、個人の活動にとどまっていた。無自覚・無意識な活動にとどまった場合も多かったであろう。しかし、史料の発見・検討には自覚的で組織的な専門的研究が必要である。また、教材化や授業過程の妥当性や効果を高めたり、それを公表して、他の教育者や社会の参考に提供したりするためにも、自覚的・組織的研究が必要である。
教育史教育研究は、よい教師を育てるために必要である。そのためにも教育史研究は必要である。教育史研究と教育史教育研究、そして教育史教育の実践が自覚的・組織的に共進することは、教師教育の質をより高める。教育史教育者が教育史教育とは何かを問い直すことは、教師・教師志望者に対する責務である。教育史教育者は、教育史教育の意義と責務とを自覚し、組織的研究に取り組む動きを始めるべきである。
教育史教育者よ、我々は、「教育史を学ぶことに何の意味があるのか?」という問いかけに真っ向から答えなければならない。「教師にとって教育史は必要ないのではないか?」という世にはびこる誤解を解かなければならない。答えることをやめ、誤解をそのままにし、ましてや自分自身がその疑問と誤解に飲み込まれていないか。「教育史研究者」という自己規定にとどまっていないか。「教育史なんて役に立たない」という自己否定に陥っていないか。そのような心持ちで教育史を教えるのは、自己満足と自己欺瞞、そして学習者に対する不誠実しか生み出さない。
教育史教育の有用性を問うのは、我々教育史教育者の責務である。
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