教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

学位論文の目次(第4部後半:輿論形成体制+結章)

2014年09月11日 20時43分42秒 | 教育会史研究

 第Ⅳ部第7章は書き下ろしの未発表論文です。学位論文までに発表機会がなかったので。


白石崇人「明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良―資質向上への指導的教員の動員―」(学位論文)


 第Ⅳ部

第5章:全国教育者大集会の開催背景 ―輿論形成体制への地方教育会の動員―

 1.明治20年代初頭の教育社会における輿論形成体制
 2.大日本教育会の輿論形成体制の問題
  (1)教育会組織の統合をめぐる論争
  (2)地方会員の不満の顕在化
  (3)輿論形成体制に対する不満の構造
 3.大日本教育会の方針転換―地方教育会との連携
  (1)関西教育大懇親会の開催
  (2)関西教育協会結成に対する賛否両論
  (3)教育会相互の関係づくり―全国教育者大集会の開催へ

第6章:学制調査部の「国民学校」案 ―輿論形成・政策参加への教員動員―

 1.結成期帝国教育会の研究調査組織
  (1)学制調査部・国字改良部の成立
  (2)学制調査部・国字改良部の構成員
  (3)社会運動のための学制調査部・国字改良部
  (4)外部団体との連携による輿論形成
 2.学制調査部における「国民学校」案の成立
  (1)湯本武比古起草の「国民学校」案
  (2)学制調査部による「国民学校」案の検討
 3.初等教育改革案としての「国民学校」案

第7章:全国小学校教員会議の開催 ―指導的教員による専門的輿論形成・政策参加―

 1.全国小学校教員会議の開催
  (1)明治末期の小学校教員と日露戦後経営への関心
  (2)全国小学校教員会議の開催
 2.小学教育調査部と全国小学校教員会議
  (1)義務教育年限延長に伴う初等教育講究の気運
  (2)小学教育調査部の設置と活動
  (3)小学教育調査部の第2回全国小学校教員会議提出問題案
  (4)小学教育調査部の第3回全国小学校教員会議提出問題案
 3.第1回全国小学校教員会議の実態とその意義
  (1)教授・訓練・管理に関する考察・意見交換機会の提供
  (2)指導的教員による議論―文部省諮問第一の修身書をめぐる議論から
  (3)小学校教員の地位の象徴

      第Ⅳ部の小括

結 章:明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良とは何か

 1.本研究の結論
  (1)教員改良の原点
  (2)国家隆盛を目指した教員資質の組織的向上構想
  (3)教員講習による学力向上・教職理解の機会提供
  (4)輿論形成・政策参加による自己改良への教員動員
  (5)指導的小学校教員の専門性の涵養
 2.残された課題

 【主要史料・主要参考文献】
 【写真史料出典】
 【論文初出】

   あとがき


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学位論文の目次(第4部前半:輿論形成と教育研究)

2014年09月10日 22時14分51秒 | 教育会史研究

白石崇人「明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良―資質向上への指導的教員の動員―」(学位論文)


 第Ⅳ部:輿論形成・政策参加による自己改良への教員動員

      はじめに

第1章:討議会における教員の動員 ―「討議」の限界性―

 1.大日本教育会における討議会開催の準備
 2.討議会「児童ニ銭ヲ持タシムル利害如何」
  (1)第1回討議会における議論
  (2)第2回討議会における議論
  (3)第3回討議会における議論
  (4)経済的精神の養成方法についての模索
 3.討議会「小学ニ於テ男女共学ノ可否」
  (1)第1回討議会における議論
  (2)第2回討議会における討議
  (3)将来の男女の社会的役割を果たすための方策

第2章:「研究」の事業化過程 ―輿論形成体制の模索―

 1.「研究」の規定背景
  (1)明治20年代初頭における教育研究の組織化状態
  (2)文部省・帝大・教育ジャーナリズム主導の改革
  (3)伊沢修二の大日本教育会改革構想
 2.明治21年5月改正規則の「研究」規程
  (1)教育問題の専門的「研究」
  (2)部門新設の意義に関する論争
  (3)部門の範囲と結論処理に関する論争
 3.部門会議における「研究」の方法
  (1)部門会議の開催状況
  (2)小学校尋常・高等・簡易科用教科書の「研究」
  (3)初等教育部門会議における「研究」の方法
  (4)明治21年7・8月の初等教育部門会議の成果

第3章:「研究」の事業化における西村貞の理学観 ―教育の理学的研究組織の構想―

 1.西村貞の大日本学術奨励会構想
  (1)学会・技芸会・教育会の連合
  (2)理学と教育の関係への注目
 2.西村貞の理学観
  (1)西村貞の教育理論
  (2)教授術への理学の応用
  (3)西村の教育理論における理学観
 3.西村貞と大日本教育会改革
  (1)日本全国ノ輿論形成ノ本家株
  (2)明治21年5月の改革における西村貞の役割
  (3)明治26年12月の改革における西村貞の役割

第4章:研究組合の成立 ―教育方法改良への高等師範学校教員の動員―

 1.教育学術研究と高等師範学校
 2.明治26年12月における大日本教育会改革
  (1)研究活動の位置づけをめぐる動き―能勢栄の提案
  (2)教育談話会の結成と動向―大日本教育会の教育学会化に並行して
  (3)組織改革への教育談話会員・高師教員の関与
 3.大日本教育会研究組合の成立過程
  (1)嘉納治五郎の大日本教育会改革構想―現職教員への研究奨励
  (2)大日本教育会組合規程の制定―個人研究の組織的補助
  (3)教育学術研究組織としての研究組合の設立
 4.研究組合における構想の実現
  (1)東京有数の指導的教員・教育研究者による組織構成
  (2)研究成果の歴史的位置
  (3)単級教授法研究組合の役割
     ① 教育会雑誌・師範学校を通した研究成果の普及
     ② 批評・意見交換の喚起
  (4)その他の研究組合の活動

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学位論文の目次(第3部:教員講習)

2014年09月08日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 さあ、学生がだんだん大学に戻ってきたため、ジワジワ忙しくなってきました。入試など学生募集も活発化してきました。間に合わなくならないように、はやく今年の研究をおしまいにしなければ…

 さて、今日もこりずに学位論文目次の続き。第3部も第2部と同様、もう1章追加する予定です。


白石崇人「明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良―資質向上への指導的教員の動員―」(学位論文)

 第Ⅲ部:教員講習による学力向上・教職理解の機会提供

      はじめに

第1章:夏季講習会による教員講習の開始

 1.明治24~26年における夏季講習会の開催
  (1)夏季講習会の開始―中等教員養成と学科研究
  (2)多様な受講者と受講意欲
  (3)現職小学校教員への学習機会の提供
 2.高等教育機関の学者による最先端の講習内容
  (1)明治24年の夏季講習会の様子と講師
  (2)明治25年の夏季講習会の様子と講師
  (3)明治26年の夏季講習会の様子と講師
 3.夏季講習会の本当のねらい
  (1)学力形成・教職意義の理解による教員の品位向上
  (2)「研究」する教員を求めて

第2章:大日本教育会による教員講習の拡充 ―年間を通した学力向上の機会提供―

 1.「講義」から「学術講習会」へ
 2.明治27~29年の夏期講習会の実態
  (1)夏期講習会の定着
  (2)夏期講習会後の自主学習の手引き
 3.学校教員対象の各種講義の開講

第3章:帝国教育会結成直後の教員講習 ―教員の学習意欲・自律性への働きかけ―

 1.「学術講習会」から「学術講義会」へ

  (1)教員講習事業の継承と発展
  (2)講義会の変容―教員講習から大学公開講座へ
 2.夏期講習会の展開
  (1)夏期講習会の継続
  (2)夏期講習会に対する教員の要求
  (3)教員の団結と自律性への言及

第4章:帝国教育会による教員講習の拡充 ―中等教員講習所に焦点をあてて―

 1.会員の期待に支えられた教員講習の拡充

 2.中等教員講習所の設置と運営
  (1)中等教員講習所の設置過程
  (2)中等教員・文検受験者養成を目指す講習
  (3)修了生の輩出と中等教員養成講義録への発展
  (4)中等教員講習所の廃止
 3.中等教員講習所における講習内容とその結果
  (1)現職小学校教員が通える夜間課程
  (2)地方小学校教員への学習機会の提供
  (3)数学科の教育課程とその結果
  (4)地理歴史科の教育課程とその結果
  (5)国語漢文科の教育課程とその結果
  (6)英語科の教育課程とその結果

      第Ⅲ部の小括

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学位論文の目次(第2部:教員改良構想)

2014年09月05日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 あさって日曜日はAO入試。その準備のため、学内の復旧作業の総仕上げが行われました。疲れましたが、これでほぼ原状復帰です。

 さて、先日から学位論文の目次を披露しております。ふと必要なときがあるので、とりあえず自分用のメモです。
 あ、学位論文は、全4部・22章構成です。


白石崇人「明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良―資質向上への指導的教員の動員―」(学位論文)



 第Ⅱ部:国家隆盛を目指した教員資質の組織的向上構想

   はじめに

第1章:大日本教育会結成期における教員改良構想 ―教職の専門性への言及―

 1.結成期の『大日本教育会雑誌』における教員関係記事
 2.理学・教育学の知識習得と教授法の熟達
 3.教員像の転換の兆し
  (1)村民との誠実な交流
  (2)専門職的意識の勃興
 4.教員資質と人件費削減との関係
  (1)教員の収入増額のねらい―熟練の教師を求めて
  (2)教育費節減に伴う教員の専門性軽視
 5.教員の専門性への言及
  (1)教員の自覚と「教育家」「当局者」の支援
  (2)教員集団における専門性向上
  (3)養成段階における専門性形成
  (4)中等教育の独自性に基づく教員の専門性

第2章:明治23年前後における教員改良構想 ―教職意義の拡大と深化―

 1.明治21~24年の『大日本教育会雑誌』における教員関係記事
 2.教員の人格的資格および協同
 3.「教育者」の一員としての教員
  (1)教育を防衛・改良する「教育家」「教育者」
  (2)「教育者」としての共同意識の形成
 4.教職意義の拡大・深化の試み
  (1)国民育成に関する責任内容の拡大―海軍の期待
  (2)教職への帰属意識形成―自重心と「愉快」への注目

第3章:大日本教育会末期の教員改良構想 ―単級教授法研究組合報告と高等師範学校附属学校編『単級学校ノ理論及実験』との比較から―

 1.単級教授法研究組合報告の基本的特徴
  (1)高師編『単級学校ノ理論及実験』の基本的性格
  (2)単級教授法研究組合報告と高師編との比較―内容構成と単級学校論
 2.単級教授法論の特徴 ―高師経由ヘルバルト派教授法の応用
  (1)研究組合報告の修身科教授法
  (2)研究組合報告の読書科・習字科教授法
 3.単級教授法の担い手としての教員 ―高度な専門性の要求

第4章:明治期帝国教育会の教員改良構想 ―日清・日露戦間期の公徳養成問題に注目して―

 1.公徳とは何か
  (1)共同体のルール遵守と公共事業の推進
  (2)社会構成員の生存幸福を保護増進する行為
  (3)憲法政治・産業経済を発展させる原動力
 2.公徳養成教材の開発
  (1)文部省諮問に対する帝国教育会の指導例検討
  (2)公徳養成方法に関する全国連合教育会の合意
  (3)帝国教育会における公徳養成唱歌の開発
 3.公徳養成指導の資質
  (1)教育者の参考書『公徳養成』の編纂
  (2)『公徳養成』の求める教員資質―倫理学知と公徳

      第Ⅱ部の小括

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学位論文の目次(第1部:教員改良の原点)

2014年09月04日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 鳥取県史ブックレット執筆のめどが立ってきました。原稿は9月末締め切り。

 以下、学位論文目次の続きです。


白石崇人「明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良―資質向上への指導的教員の動員―」(学位論文)

 

 第Ⅰ部:教員改良の原点

   はじめに

第1章:「師匠から教員へ」の過程における教員改良問題の発生

 1.「教員」の誕生
  (1)教員誕生過程における師匠の克服対象化
  (2)師匠から教員へ
 2.地域教育改革の主体としての教員―自由民権運動のなかで
  (1)学習活動としての自由民権運動
  (2)地域教育の模索への教員の参加
  (3)教員の民権運動離れ
 3.明治10年代前半の教員改良政策の展開―「政治」から「学理」へ
  (1)品行による自己制御的教員像
  (2)小学校教員心得における学習する教員像
  (3)文部省示諭における教員改良構想の提示
  (4)国家隆替に関与する普通教育の実践者への改良
  (5)「政治」から「学理」へ

第2章:東京教育会における官立師範学校卒業生の動員 ―東京府教育の改良―

 1.東京教育会の組織構造
  (1)本社員と通常社員
  (2)東京教育会の運営者たち
  (3)『東京教育会雑誌』の担い手
 2.東京教育会の活動実態
  (1)東京教育会の結成
  (2)活動の活発化
  (3)東京府学事を担う当事者としての活動
 3.「自由」教育令期における小学試験法改正への関与
  (1)「保護教育」論
  (2)東京教育会の小学試験法への姿勢
  (3)小学試験法と公立小学試験規則
 4.教育令期における小学教則編成への関与
  (1)小学教則改正への東京府の動き
  (2)東京教育会原案起草委員と小学教則草案取調委員

第3章:明治13年東京教育会における教師論 ―普通教育の擁護・推進への視点―

 1.東京教育会における教師論の出発点
  (1)何のための論か―思慮的・自立的思考とその共有
  (2)教育方法の担い手としての教師論
  (3)教員軽視への問題意識
 2.普通教育の擁護者を求めて―明治13年夏
  (1)反普通教育説への直面
  (2)明治13年夏の東京府会における普通教育費削除問題
  (3)中学費の審議過程
  (4)削除された教育費と予算通過した教育費
  (5)三次会における中学費・師範学校費の再議
  (6)東京府会の教育費削除決議への批判―普通教育の擁護
 3.普通教育の推進者を求めて
  (1)普通教育推進のための教員と教育行政官との協同
  (2)教師・教育行政・学者の役割分担論
  (3)「普通教育」概念の考究―大日本教育会への道

第4章:東京教育学会から大日本教育会へ ―全国教育の進歩を目指して―

 1.東京教育学会の活動実態
  (1)東京教育協会の全国志向
  (2)東京教育学会の全国志向の発展
  (3)なぜ「学会」であったか
 2.大日本教育会結成の背景
  (1)東京教育学会会員と文部省高官の交流
  (2)「教育」を中心概念とする同業者意識
  (3)大日本教育会結成への胎動―地方教育会的機能の分離
  (4)対決すべき「教育ノ退歩」と目指すべき「教育全体ノ進歩」
 3.大日本教育会結成に対する期待
  (1)全国職能団体的教育会による自主的施政翼賛―辻新次の期待
  (2)教員改良施策の補完―西村貞の期待
  (3)衆議による合理的判断・合意形成―外山正一の期待

第5章:明治期大日本教育会・帝国教育会と指導的教員

 1.明治期大日本教育会・帝国教育会の組織
  (1)組織的活動による教育の普及・改良・上進を目指して
  (2)常に検討され続けた事業規程
  (3)1,600名以上の教育普及・改良従事者の入会
 2.明治期大日本教育会・帝国教育会の幹部組織
  (1)代表―皇室・外国・政界・学界との結節点
  (2)役員―文部官僚・高師教員・小学校教員ほか
 3.明治期大日本教育会・帝国教育会の組織における指導的教員
  (1)幹部組織における指導的教員
  (2)地域の指導的教員の入会―広島県会員を事例に

   第Ⅰ部の小括

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学位論文の目次(序章)

2014年09月03日 23時55分55秒 | 教育会史研究

白石崇人「明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良―資質向上への指導的教員の動員―」(学位論文)


序 章


 1.本研究の目的
 2.先行研究の整理
  (1)明治期小学校教員史に関する先行研究
  (2)明治期教育会史に関する先行研究
  (3)1950年代における明治期大日本教育会・帝国教育会に関する先行研究
  (4)1960~70年代における明治期大日本教育会・帝国教育会に関する先行研究
  (5)1980年代における明治期大日本教育会・帝国教育会に関する先行研究
  (6)1990年代以降における明治期大日本教育会・帝国教育会に関する先行研究
 3.本研究の課題と方法
  (1)本研究の課題
  (2)本研究の対象・史料・構成

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学位論文の構成(章)

2014年09月01日 23時29分51秒 | 教育会史研究

 先回、覚悟を決めて半日もたたないうちに予想外のお仕事が飛び込んできました(笑)。覚悟を決めていたので、なかなかじっくり冷静に考えて動けています。この感じを維持したいです。

 さて、紹介できてなかった昨年度の研究業績を紹介します。学位論文の構成です。今はこれに少し章を加筆中です。


学位論文

明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良
―資質向上への指導的教員の動員―

序 章

第1部: 教員改良の原点

第1章: 「師匠から教員へ」の過程における教員改良問題の発生
第2章: 東京教育会における官立師範学校卒業生の動員 ―東京府教育の改良―
第3章: 明治13年東京教育会における教師論 ―普通教育の擁護・推進への視点―
第4章: 東京教育学会から大日本教育会へ ―全国教育の進歩を目指して―
第5章: 明治期大日本教育会・帝国教育会と指導的教員

第2部: 国家隆盛を目指した教員資質の組織的向上構想

第1章: 大日本教育会結成期における教員改良構想 ―教職の専門性への言及―
第2章: 明治23年前後における教員改良構想 ―教職意義の拡大と深化―
第3章: 大日本教育会末期の教員改良構想 ―単級教授法研究組合報告と高等師範学校附属学校編『単級学校ノ理論及実験』との比較から―
第4章: 明治期帝国教育会の教員改良構想 ―日清・日露戦間期の公徳養成問題に注目して―

第3部: 教員講習による学力向上・教職理解の機会提供

第1章: 夏季講習会による教員講習の開始
第2章: 大日本教育会による教員講習の拡充 ―年間を通した学力向上の機会提供―
第3章: 帝国教育会結成直後の教員講習 ―教員の学習意欲・自律性への働きかけ―
第4章: 帝国教育会による教員講習の拡充 ―中等教員講習所に焦点をあてて―

第4部: 輿論形成・政策参加による自己改良への教員動員

第1章: 討議会における教員の動員 ―「討議」の限界性―
第2章: 「研究」の事業化過程 
―輿論形成体制の模索―
第3章: 「研究」の事業化における西村貞の理学観 ―教育の理学的研究組織の構想―
第4章: 研究組合の成立 ―教育方法改良への高等師範学校教員の動員―
第5章: 全国教育者大集会の開催背景 ―輿論形成体制への地方教育会の動員―
第6章: 学制調査部の「国民学校」案 ―輿論形成・政策参加への教員動員―
第7章: 全国小学校教員会議の開催 ―指導的教員による専門的輿論形成・政策参加―

結 章: 明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良とは何か


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1940年代日本における全国教育団体の変容と再編

2014年08月17日 16時14分14秒 | 教育会史研究

 みなさん、お盆休みはきちんと取りましたでしょうか。しっかり仕事をするためにも、しっかり休みましょう。
 私は、幸いに比較的うまい具合に休めました。明日から今まで以上に超多忙な日々がやってきますが、なんとかスタートは切れそうです。

 さて、研究論文業績一覧に挙げておきながら、紹介していない論文がもう一つありました。24番の「1940年代日本における全国教育団体の変容と再編(年表解説)」(教育情報回路研究会編『近代日本における教育情報回路と教育統制に関する総合的研究』 日本学術振興会科学研究費助成事業(基盤研究(B))中間報告書(Ⅰ)、東北大学大学院教育学研究科内教育情報回路研究会、2012年、1~10頁)です。2013年3月付で発行された梶山雅史氏代表の科研グループ報告書に掲載された小論(解説3頁・残り年表)です。

 本論文は、1940年代日本における全国教育団体の変容と再編とについて作成した年表について、その概要を解説したものです。年表は、1940年代を中心に1950年代初頭までを対象時期にして、中央教育会(帝国教育会・大日本教育会・日本教育会・日本教育協会・日本連合教育会)の組織再編にかかわる事項と大規模事業、および1940年代後半以降は日本教職員組合の結成にかかわる事項と大規模事業、都道府県教育会の解散、都道府県教職員組合の結成について整理しました。なお、教組の結成年月については、異説がありすぎるので、とりあえず『日教組十年史』に依拠しています。ですので、完璧な年表ができたとは思っていません。
 解説部分の構成は以下の通り。

 はじめに
1.1940年代前半における教育会の統合再編と教育職能団体の形成
2.1940年代後半における教員組合の勃興と教育会(教育職能団体)の解体・再編
 今後の課題

 1940年代を前半・後半に分けて、教育会の組織再編と教職員組合の勃興との関連に注目して、全国教育団体の変容過程を概説しました。
 1940年代前半における全国教育団体の変容・再編は、1930年代以来の教育団体の統合と、文部大臣を頂点とした全国の全学校教職員を包摂する一大職能団体の誕生を同時に実現させました。1940年代後半には、このように成立した中央教育会が解体されます。1940年代後半における中央教育会の解体は、全国・学校種をカバーする職能団体の解体にほかなりませんでした。解体に至った背景には、中央教育会の連合単位であった地方教育会の解体・不安定化があります。1940年代後半には、日本教職員組合が結成される一方で、いくつかの地方教育会の連合によって中央教育会としての日本教育協会がつくられました。
 しかし、日教組・日本教育協会は、ともに職能団体として教員の職能向上機能を十分展開することはできませんでした。教員の待遇改善が叫ばれるなか、教育会の解体と教職員組合の勃興によって、ある意味で「後回しにされた」職能団体的機能は、どこがどのように担うようになったか。そのあたりを明らかにするには、1950年代の教育団体史研究が必要です。

 とまあ、こんな感じの解説です。ちなみに、「後回しにされた」職能団体的機能に関する研究は、1940年代後半以降の各種教育研究団体・校長会などの勃興や、教職員組合の教育研究活動の開始(1951年~)などが重要な検討課題だと思っています。もちろん、戦後に「生き残った」教育会や、1970年代以降に「復活した」教育会(日本教育会やその支部など)についても、気になる課題です。そもそも「職能団体」という言葉の同時代的意味や歴史的意義もしっかりとらえなければなりません。

 今までの戦後日本教育団体史は、教職員組合中心史(とくに待遇改善中心史)または個別団体史ともいうべき様相を呈していましたが、その直前まで巨大な組織規模を誇っていた教育会の歴史と連続させて、その歴史像を再構築することは大事なことだと思います。とくに、日本の現状において教職員組合の衰退・課題が大きく取りざたされるなか、教組だけでない教育団体・教員団体の将来のあり方を考えるうえで、教育団体史の再構築は重要な研究課題なんじゃないでしょうか。そのためには、もちろん冷静・客観的な教組史研究も大事ですね。いろんな意味できわめて難しい課題ですけども。
 戦後の中央教育会史研究については、2009年に一度発表しました(口頭発表業績一覧の20番)。しかし、その成果は凍結したままですので、そのうち「解凍」・再検討して活字化しようと思います。

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明治期大日本教育会の教員講習事業の拡充

2014年08月11日 23時39分10秒 | 教育会史研究

 お盆前に少しでも研究進めておきたいので、がんばってます。お盆前にゼミ生指導について気にかかることがありましたが、お盆明けないとどうにもならないのでいったん置いておきます。

 さて、このブログも放置気味なので、何か(あまり時間をかけないで書ける)話題はないかなと思案しておりましたところ、1年半くらい拙稿紹介をしていないことに気づきました。まあ、テキスト出版と学位論文執筆に追われていてそれどころではなかったのですが。PDF公開のない論文も多いので、論文構成を示すのも意味があるかなと思いまして、ちゃちゃっと紹介します。

 昨年度はほとんど論文を活字化できませんでした。唯一活字化したのは、中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)第59巻(2013年、533~538頁)に掲載された「明治期大日本教育会の教員講習事業の拡充―年間を通した学力向上機会の提供」です。論文構成は以下の通り。

 はじめに
1.「講義」から「学術講習会」へ
2.明治27~29年の夏期講習会の実態
 (1)夏期講習会の定着
 (2)夏期講習会後の自主学習の手引き
3.学校教員対象の各種講義の開講
 おわりに

 本論文の目的は、明治期大日本教育会の教員講習の拡充過程を検討して、小学校教員に学力向上の機会がいかに提供されたかを明らかにすることです。私の論文を読んだことがある人はおなじみですが、明治29(1896)年に大日本教育会が帝国教育会に改組されました。その改組の際、「学術講義会」という事業が主要事業化されています(主要事業化された新事業はほかにもありますが)。これは、明治24(1891)年から毎年8月に開いていた夏期講習会を含む事業なのですが、なぜ「講習」でなく「講義」と名付けたか、従来だれも調べたことはありませんでした。また、大日本教育会における「講習」という言葉に注目してみると、なかなか興味深い意味があったことがわかったのですが、これも誰も調べたことのないことでした。そのあたりを明らかにした論文です。
 明治27(1894)年に始まった大日本教育会の学術講義は、社会教育的事業というより、明らかに教員講習事業でした。これが年間を通して開講されました。これにより、それまで8月限定だった教員講習が、年間を通して開かれるようになったわけです。また、夏期講習会と合わせてその講義内容を見ると、さまざまな学問分野を専門的に取り上げています。また、課外講義にも気になる事実を発見しました。明治20年代の教員講習に関する先行研究では、ヘルバルト主義教授法の普及に関する意味が強調されてきましたが、どうもそれだけではない事実が明らかになりました。
 本論文は、中央教育会研究として重要な論文になりましたが、教員講習そのものが、日本教員史研究(というより日本教員養成史研究か)のなかで最近注目されてきた新しい研究対象ですので、そういう意味でも大事だと思っています。
 なお、この論文ではきちんと言及できませんでしたが、帝国教育会では「夏期講習会」を主要事業化したのは明治40(1907)年のことです。この意味については、できれば今度の学会で発表しようと思っています(すでにまとめ済み)。明らかにできたのは、字義的な意味変容ではなく、事業展開上の事情と講習対象者としての小学校教員の位置づけの変化とですが。

 本論文は、今では学位論文の一部になっていますが、そこそこ手を入れましたので同じ文章ではありません。

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明治期における道府県教育会雑誌の交換・寄贈

2012年09月03日 19時50分01秒 | 教育会史研究

 諸事情あってなかなか報告できませんでしたが、最近、拙稿「明治期における道府県教育会雑誌の交換・寄贈―教育会共同体の実態に関する一考察」と題した論文を活字化しました。広島大学教育学部日本東洋教育史研究室発行の『広島の教育史学』第3号の掲載です。私の出身研究室に鈴木理恵先生が着任されて、1年後に創刊された紀要です。研究室所属の学生の卒業論文を活字化し、関係者へ研究室の活動を共有することを主な活動としているため、あまり出回らない紀要です。私は、この紀要の質がより高まり、同研究室の活動がより活発になればと思っているので、執筆しました。

 さて、拙稿「明治期における道府県教育会雑誌の交換・寄贈」は、明治期の道府県教育会が行っていた雑誌(機関誌)交換・寄贈に注目し、その交流関係(教育会共同体)の実態について検討することを目的としています。論文構成は以下の通り。

 はじめに
1.明治20年代前半における教育会雑誌交換・寄贈の範囲とあり方
 (1) 機関誌を有する道府県教育会
 (2) 教育会雑誌の積極的な交換―大分県共立教育会の場合
 (3) 教育会雑誌交換関係の範囲―信濃教育会の場合
 (4) 教育会雑誌の交換・寄贈頻度―広島県私立教育会の場合
2.明治30年代以降における教育会雑誌の寄贈―佐賀県教育会・山口県教育会の場合
3.交換・寄贈された教育会雑誌の活用
 (1) 機関誌交換・寄贈に対する教育会の意識―情報交換と関係形成
 (2) 機関誌掲載の教育情報の転載
 (3) 教育会と教育雑誌社との雑誌交換・寄贈―教育関係者への地方教育情報の間接的提供
 (4) 教育会員・地域住民に対する他府県教育会雑誌の公開
 おわりに

 戦前期の小学校教員たちは、教育会雑誌の共同体的読書(回し読みなど)によって「地域社会の一員としての意識」を培ったと言われています(永嶺重敏 ※商業的教育雑誌も同様の役割を果たしているという)。つまり、教育会雑誌は教員の共同意識形成に関わるものであり、その流通実態は教員の共同体を認識しうる一視点ともなりうると考えられます。本稿では、教育会を介して形成される、教育会員(教員を含む)の共同意識や社会関係を「教育会共同体」と仮称しました。
 教育会共同体は、明治期以降、全国・地区・都道府県・郡市・町村ごとに独自にネットワークを形成し、それぞれ複雑に絡みあって機能したと考えられます。教育会共同体の有り様は、まず、連合会議の開催や教育会の組織改革の過程から認識することができます。ただ、この点のみを強調すると、教育会共同体は、連合会議のような一過性の交流や、教育会の組織改革のような事件性のある交流のみによって形成・維持されていたように錯覚してしまうおそれがあります。教育会の間には、もっと連続的・日常的な交流はなかったのか。この問題意識にもとづき、雑誌交換・寄贈という連続的・日常的交流をとりあげて、教育会共同体の実態にせまってみよう、というのが本稿の趣旨です。
 なお、梶山雅史氏の「教育情報回路」に特にまつわる問題としては、教育会雑誌の交換・寄贈を検討する際には、単に交換・寄贈の行為が重要だったのか、交換・寄贈される雑誌掲載の記事・情報が重要だったのか、といった問題にかかわると思っています。

 対象時期は、主に、雑誌交換・寄贈の慣習が形成されはじめる明治20年代半ば(明治20年~25年)です。史料としては、全国網羅することはできませんでしたので、大分・長野・広島・佐賀・山口の5県教育会を事例として取り上げました。本文ではあまりはっきり述べませんでしたが、大分・長野については県教育会雑誌が活発であった県の事例として、広島は雑誌発行が途切れ途切れだった県の事例となっています。佐賀は明治20年代に形成された交換・寄贈慣習がどのように展開したかを示す事例として、山口は明治30年代に交換・寄贈慣習の形成が始まった特例として位置づいているように思います。
 第3節では、具体的な雑誌活用事実の整理をしました。うえの5県以外の事例も用いています。

 団体機関誌の交換・寄贈は今でもよくやりますが、その感覚でいくとすべての道府県教育会へ配られていたように思いがちです。また、明治24(1891)年に全国教育連合会(翌年全国連合教育会)が開催されたことを知ると、それを境に、全国的に画一均質な教育会共同体ができたような歴史イメージを持ちがちです。しかし、本稿での研究により、かなり教育会ごとに交換・寄贈関係に差があることがわかり、そのような歴史像は見直す必要があることがわかりました。ともかく、雑誌交換・寄贈関係から、連合会議だけでは認識できない、教育会間の豊かで多様な関係性や共同意識を見て取れました。

 私のもっている教育会への興味は様々ですが、その最も重要なものの一つに、近代日本における教育社会(教員社会)の形成過程にかかわるものとしての興味があります。そのような興味をもつのは、日本における教員・教育関係者の専門性の特質にかかわる問題だと思うからです。日本において教員の専門性がいかなる「場」で形成されたか、この拙稿で直接考えることはできませんが、そんな問題にせまっていくための基礎研究として重要な論文を活字化できたと思っています。
 ちなみに拙稿は、口頭発表業績13番の「明治期における教育会の情報交換」(全国地方教育史学会第29回大会、2006年5月発表)を大幅に改稿したものです。学会誌に投稿するには広すぎるテーマであるため、ずっとお蔵入りしていたのですが、ようやく活字化できました。6年もしまったままになっていたのは驚きです。

 なかなか手に入らない紀要に載せましたが、必要な方は私(siraisi☆ns.cygnus.ac.jp ☆を@に変換して送って下さい)へ連絡をとってみてください。私のところにもまだ残部があります。
 なお、拙稿以外の掲載論説は、田中沙弥「東京高等師範学校出身者による新教授法実践の広がり―『英語の研究と教授』の分析を通して」(2011年度卒業論文)、鈴木理恵「明治16年『広島教育協会雑誌』第6・7号」(史料翻刻)の2本です。

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[1893~96]大日本教育会の教育研究団体化

2011年01月31日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 寒いです。日が出ている日中に、マイナスの気温なんて…

 さて、さらに旧HPテキストの補完です。旧HPの連載「大日本教育会・帝国教育会とは」は、以下のテキストを最後に無期限休止になっていました。その理由は、研究が停滞していたからです。諸事情により、このあたりの時期に関する研究方針や解釈がなかなか定まらず、この続きを書くことができませんでした。その後、研究をまとめた成果が、「研究論文業績一覧」にリンクを貼っている論文の12番です。HPに書いてから論文にまとめるまで、3年かかったわけですね。前回と同様、今書くとかなり違った書き方ができそうです。
 ちなみに、下の方に貼り付けている図4の大日本教育会事務所には、向かって左の門札に「大日本教育会書籍館」とあります。これは、大日本教育会が、明治20(1887)年3月21日に開館した書籍館です。一説によると、日本初の民間図書館らしいのですが、本当でしょうかね。同書籍館には、ボアソナード文庫などの貴重コレクションも併置されていました。


 3,大日本教育会の受難~政治運動から学術研究へ~
 
[明治26(1893)年~29(1896)年]

 ようやく安定してきた大日本教育会でしたが、再び試練が待ちかまえていました。明治26(1893)年10月の文部省訓令第十一号訓令(いわゆる「箝口訓令」)の発令です。この訓令の全文は、次のような内容でした。

 「教育は政論の外に立つべき者たるに因り、学校教員たる者は明治二十二年十月九日文部省訓令・明治二十五年十二月十五日内訓の旨を注意することに怠らざるべし。教育会の名称に於ける団体にして、純粋なる教育事項の範囲の外に出て教育上又は其他の行政に渉り持論を論議し、政事上の新聞雑誌を発行するは一種の政論を為す者と認めざるを得ず。因ては其の団体は、法律上の手続を履み、相当なる政論の自由あると否とに拘らず、学校教員たる者の職務上の義務は此等団体の会員たるを許さざる者とす」([下線・]句読点・濁点は白石が付記)

つまり、政論を為す教育会には学校教員は入会・参加を禁止する、という内容でした。そもそも学校教員の政論禁止を指示する訓令は、これが初めてではありませんが、第十一号訓令は政論を為す団体として「教育会」を名指ししたことに独自性を持っていました。この訓令によって、大日本教育会を初め、各地の地方教育会にも影響が及び、大幅に会員数を減らす結果を引き起こしました。
 第十一号訓令発令の背景には、明治25年来教育界で盛り上がっていた小学校教育費国庫補助運動の過激化があったようです。この運動の中心は、先述の全国教育者大集会の過程で結成された国家教育社という団体が実質的に担っていました。大日本教育会はこの運動に対して最初は不干渉の姿勢を取っていましたが、運動の加熱に及ぶと学術研究の側から参加するようになりました。時の文部大臣・井上毅も教育費国庫補助は重要だと認識しており、7月の第十回総集会席上で国庫補助の必要について言及しました。しかし、当時の日本政府は軍事力整備を最優先していましたから、教育にまわすお金はあるはずもなく、井上文相も国庫補助について消極的になってしまいました。そしてついに明治26年9月9日、創立第十周年記念会席上にて、役員たちによる井上文相の批判を含んだ演説に発展しました。また、同日の評議員会にて、従来の政論に及ぶことができない出版法準拠の機関誌『大日本教育会雑誌』を、政論に及ぶことのできる新聞紙条例準拠にすることが決定しました。さらにその後、辻新次会長と伊沢修二国家教育社長が、伊藤博文の政敵であった大隈重信にそろって面会したという風聞が現れます(『教育時論』によると、三者同時面会は事実だったようです)。10月18日、大日本教育会名誉会員であった伊藤博文以下当時の内閣関係者8名が脱会、25日には大日本教育会総裁を務めていた有栖川宮熾仁親王が総裁職辞退という、大変な事態が起きてしまいました。そして、愛知県で開かれた国家教育社第三回総集会の第一日目に合わせて、文部省訓令第十一号訓令が発令されてしまったのです。大日本教育会は訓令発令直後に評議員会を開き、機関誌の新聞紙条例準拠の件を廃案、政論に及ぶ研究調査を担当していた委員会を廃止、「教育上の学術会」であることを確認しました。
 大日本教育会会員は、大部分が学校教員であり教育行政担当者も多く、この対応はやむをえない対応でしたが、運動から撤退したことに対して教育雑誌や新聞は辛辣な批判を始めます。教育雑誌や新聞は第十一号訓令とは関係ないのですから、ある意味むごいことですが、大日本教育会批判は当時における教育費国庫補助運動そのものの重要性を示すものともいえましょう。さらに、大日本教育会の対応は早かったのですが、大勢の退会者を出したと同時に幹部クラスの人物の退会に及んでしまいました。ある地方では属官に対して教育会に関わらないように指示したといいます。大日本教育会は、当初は無干渉であった政治運動に大々的に参加したために、世間的にも組織的にも大打撃を受けてしまったのです。
 第十一号訓令後の大日本教育会の組織改革は、極めて迅速に、そして徹底されました[研究団体化が迅速に進められたのは、訓令第十一号だけがこの時期における組織改革の原因ではなかったからだと思われます。『教育学研究』掲載の拙稿12番を参照のこと]。嘉納治五郎や能勢栄などの教育学研究の充実を望む人々が役員を占め、組合という研究調査機関を設置しました。結果、計7つの組合(単級教授法研究組合・国語科研究組合・初等教育調査組合・説辞法研究組合・漢文科研究組合・児童研究組合・理科教授研究組合)が会員の手で創設され、さまざまな学術的研究調査を行いました。明治27年6月の第十一回総集会席上で起きた教育費国庫補助に関する採決(提案代表者は有力教育雑誌のリーダー)に際しても未採択を貫き通し、「政論に及ばず学術研究を行う」という方針は貫かれました。この判断についても雑誌新聞上では激しく非難されましたが、大日本教育会の方針は揺るぎませんでした。そして次第に、組合による研究調査が成果を上げ始めました。各地の地方教育会の機関誌は組合の研究調査を転載するようになり、学術研究の方針はうまく進んでいるように見受けられました。

図4:明治26年頃の大日本教育会事務所正面
 東京市神田区一橋通町にあった大日本教育会事務所。出典は『大日本教育会雑誌』132号所載の画像。元々は宮内省から借用していた土地・事務所であった。下賜を請願し、明治25年2月5日に許されて大日本教育会の持ち物となった。画像の建物は明治26年春に改築したもの。正面につるされた表札を見ると、さまざまな団体に利用されていたことがわかる。この建物の中でさまざまな事務が行われ、組合の会合もここで行われ、建物内の講堂ではさまざまな学説が唱えられた。帝国教育会と改称した後も、しばらくこのままであった。しかし、まさか、この土地と建物が国家教育社とのトラブルの一因となるとは、下賜直後は誰も考えなかっただろう。

  (以上、2005年1月頃に作成、同年12月19日に最終改訂したもの)

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[1883~92]大日本教育会の結成と模索

2011年01月29日 21時04分35秒 | 教育会史研究

 とりあえず、本日、大仕事終了。今日明日はもう何もしない方がよさそう(疲れがピークに到達)。2月末にもう一つ大仕事、3月中旬には論文〆切。来週からがんばることにする。

 さて、引き続いて、旧HPテキストの補完です。明治16年から25年の大日本教育会について述べています。「研究論文業績一覧」にリンクを貼っている論文の5番・9番・11番は、このあたりの時期を取り扱っています。近著の『続・近代日本教育会史研究』(梶山雅史編、学術出版会、2010年)に掲載した論文「全国教育者大集会の開催背景―一八八〇年代末における教育輿論形成体制をめぐる摩擦」も、このあたりの話です。
 このテキストを書いて5年。あれから研究がかなり進んだので、今書けばだいぶ違ったことが書けるような気がします。


2,日本初の全国的教育団体~大日本教育会の四苦八苦~
 明治16(1883)年~明治25(1892)年

 大日本教育会は、明治16年9月9日の常集会で文部大書記官・辻新次(後に文部次官)を会長に選出しました。ただ、元東京教育学会長であった西村貞の役員就任辞退を発端として、辻は会長就任を辞退して副会長となり、しばらく会長不在の状態にありました。明治17(1884)年に文部少輔・九鬼隆一を会長に選出、初代会長となりました。しかし、九鬼はすぐに公務によってアメリカに滞在することになり、再び会長不在の状態が続きます(代わりに辻副会長が会長事務を取り扱いました)。明治19(1886)年4月、再び辻新次が会長に選出されるに至り、辻は明治29(1896)年10月まで会長を務め続けました(途中辞任して空白時期がありましたが)。
 上記のように結成当時の大日本教育会は組織的に不安定でしたし、活動自体も軌道に乗ったとはいえませんでした。役員になっても給料が出るわけではなく(書記は有給)、全くのボランティアでしたので、がんばっていたのは一部の人だけ。役員になっても公務の都合で出席できなかったり、地方転任などで東京から離れたりと、あまり安定した運営ができません。一般会員も、お金を出すならまだよいほうで、多くの会費未納者まで現れました。退会・入会を繰り返す人も、中にはいたりします。また、毎年一回総集会を開いていましたが、会員数3,000名以上を数えながら一般参加者を入れて数百名程度の参加者数でした。さらに、毎年のように改正される大日本教育会規則、機関・事業の小刻みな改廃などを見ても、運営に苦労したことがわかります。人手も足りない、お金も足りない、しかも日本には前例がない、という八方ふさがり状態の中、結成当時の大日本教育会は四苦八苦しておりました。日本初の全国的な私立教育団体でしたから、運営する側(役員)も支える側(一般会員)も、すべてが手探り状態で要領を得なかったと言えましょう。
 しかし、このような状況の中でも、演説会開催(結成~)、『大日本教育会雑誌』発行(明治16年11月~)、教育関係書の出版(明治18年6月~)、討議会開催(明治19年4月~)、継続的な学術講義の開催(明治19年9月~)、附属書籍館(現教育図書館の前身)の設立(明治20年3月開館~)などを実施していきました。明治21(1888)年以降は研究機関を設置して文部省から諮問を受けるほどになり、明治23(1890)年ごろまでに基礎的な組織体制が確立してきました。明治23年5月には全国教育者大集会を主催し、日本全国から800名以上の教育関係者を集めました。さらに、翌明治24(1891)年には現在の日本連合教育会の前身ともいうべき全国教育連合会(翌年には全国連合教育会と改称)を開催し、全国各地の府県教育会から代表者を集めて教育問題を審議しました。また、委員会を組織して著名・有力な教員などに各種問題を研究調査させ、明治25(1892)年には、現在でも資料的価値の高い『維新前東京市私立小学校教育法及維持法取調報告書』を発行しました。さらに、明治24年から、教育に功労のあった人に対する顕彰活動を開始しました。

図3:大日本教育会・帝国教育会会章
 明治22年7月20日の第六回総集会で初めて用いた。色は『大日本教育会雑誌』89号624頁の記述に従って白石が彩色。中央の曲玉の周りにある輻射状のものは、三つ又のものが光線、一つ又のものが剣を擬したもの。

 (以上、2005年4月頃に執筆)

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[1879~83]大日本教育会の前史と結成―東京教育会・東京教育協会・東京教育学会

2011年01月27日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 今日も大変でした。そして、明日の夕方からあさってにかけて、今年最初の山場です。

 再び、旧HPのテキストの貼り付け。大日本教育会の前史と結成までを書いたものです。見れば見るほど書き直したくなりますが、手を加え始めるとキリがないのでそのままにします。内容的には、当時にしては比較的まとまっている方かな。
 ちなみに前史・結成期に活躍していた人の一部は、私の別ブログ「大日本教育会・帝国教育会の群像」を参照のこと。現在作成している範囲では、東京府会員ファイル1、5~7、9~16がその人々に当たります。…「群像」も更新したい。時間がほしい…


 1,東京から全国へ ~東京教育会・東京教育協会・東京教育学会~
 明治12(1879)年~明治16(1883)年

 明治のはじめごろ、学校制度による公教育が開始されるに至り、文部省や各地方官たちは学校教育の普及・改良を求めて数々の試行錯誤を繰り返しました。この試行錯誤は民衆においても繰り返され、多くの人々が教育の普及・改良を目ざしました。記録に残っているのは公立の教育会議が多いですが、当然、教員自身が自発的に組織した会議も存在しました。次第に継続的に会合するものも現れ、組織体として活動を始めるものも現れました。その活動は、当時隆盛を誇っていた自由民権運動の影響を強く受けており、演説や討論によって新しい教育のあり方を模索しました。
 明治12(1879)年1月、東京府日本橋区本町にあった常磐小学にて、教育に関する演説討論会が開催されました。これは、東京府師範学校(現東京学芸大学の前身の一つ)の教員四名が連名で開催したものでした。その内の一人・津田清長を会主として、この演説討論会は開かれ、仮規則が配布されました。これが、大日本教育会・帝国教育会[につながる前身]の最も初めに現れた組織体でした。この会は、同年4月に東京教育会と改称し、府立第一中学や上野公園内にあった教育博物館を会場として演説討論会を開いていました。明治13(1880)年になると小学校教員など72名が会員となり、東京府学務課幹部の田邊貞吉を主幹(会長)とし、東京府内の優秀な教員が役員となって活動しました。この年には、東京府学務課や府師範学校と連携して活動を活発化し、小学試験法改正や小学教則(カリキュラム)改正について諮問などを受け、教育現場の判断をより重視する内容の法令制定に関与しました。また、8月には懇親会を主催し、東京府の学事関係者と懇親を結びんでいます。しかし、明治14(1881)年以降は次第に活動を衰退させ、明治15 (1882)年には機関誌『東京教育会雑誌』を休刊してしまいました。
 東京教育会が活動していた同時期の東京府には、東京教育協会という団体が活動していました。これは、学習院(華族子弟対象の学校)の教員などが中心になって明治13年8月(明治12年とも)[に]結成した団体でした。明治14年ごろ中心になって活動していた人物には、能勢栄・城谷謙・財満久純(いずれも学習院教員)がいました。12月には、文部省が地方官を召集したのを期に、東京教育協会が仲介役となって懇親会を開き、大勢の地方官と東京教育協会会員が交流しました。その中には文部省少書記官の吉村某の姿もありました。勢力を衰退させつつあった東京教育会と比べて、東京教育協会は勢いにのりつつありました。そのような状況の中の明治15年2・3月ごろ、両会合併の話が持ち上がったのです。両会の中心人物は、東京師範学校(東京高等師範学校、現筑波大学の前身の一部)の卒業生であり、先輩後輩関係の人々が多くいました。そのため、それほど抵抗はなかったのでしょう。明治15年5月、両会が合併し、東京教育学会が成立しました。
 東京教育学会は、文部省所管体操伝習所主幹の西村貞を会長として結成されました。同会は、1討論会による教育実務の審査・2演説会による学説や実験成果の交換・3国内外教育の調査・4雑誌刊行・5各地の教育会や教育者との交流を行いました。同会においてすでに、後の大日本教育会における活動の基礎を形作ったのです。明治15年12月、文部省主催の学事諮問会を期に教育懇話会を主催し、各地の学事関係者や文部省の幹部官僚たちと交流しました。そして、明治16(1883)年7月、後の大日本教育会・帝国教育会会長となる、文部大書記官の辻新次が入会しました。このころから、東京に限らない、さらに大きな活動範囲を持つ団体へと成長するため、組織改革の動きがあったようです。
 明治16年9月9日、東京教育学会常集会にて、大日本教育会が結成されました。東京教育学会規則の改正、という手続きを踏んでの組織再編でした。これによって、日本初の全国的な私立教育団体が成立したのです。以上のように大日本教育会は、東京府師範学校教員の発起の会より始まり、文部省や地方官と交流を重ねながら結成された団体であったのです。

図2:明治10年代前半の学習院校舎
 出典は『女子学習院五十年史』(凸版印刷、1935年)。学習院は華族子弟子女のための学校。ここで働いていた教員たちが東京教育協会を結成した。毎月の演説討論会などもここで開かれた。また、東京教育学会も集会会場として利用し、大日本教育会でも明治17年1月まで常集会会場として利用していた。

  (以上、2005年1月頃に作成、同年12月19日に最終改訂したもの)

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大日本教育会・帝国教育会の系図

2011年01月24日 23時55分55秒 | 教育会史研究

図1:大日本教育会・帝国教育会沿革図
 『帝国教育会五十年史』等を参照して作成。(2005年1月作成)

 

 バリ忙しいです。なんだか100名以上の方が毎日見に来てくださっているようなので、更新したいところなのですが…
 と思っていたら、旧HPのテキストと画像がまだお蔵入りになっていたのを思い出しました。書き直そうと思って、しまってあったのですが、どうもそんな余裕はないようなので、ここに投げ出しておきます。
 私の本当の専門分野は日本教育史でして、とくに明治期の大日本教育会・帝国教育会という団体の研究を中心的なテーマとしてきました。以下の文章と本記事冒頭につけた図は、2005年に作成したものです。駆け出しも駆け出しの頃に作成したものですので、図は中途半端な出来ですが、まあわかりやすい部類かと。日本教育協会と日本連合教育会の成立年だけ元号なのは、私の詰めの甘さを象徴する失敗です(苦笑)。直そうかと思いましたが、成立の月がわかる資料が手元になかったので、そのままにしています。

 ちなみに「教育会」って何?という方は、こちらの記事をご覧ください。→「教育会は現在の教育委員会の前身か?」(2010.3.21記事)


 大日本教育会・帝国教育会とは、戦前日本において活動していた私立の教育団体です。両団体ともに日本教育の普及・改良・上進などを目的として活動しました。両団体は別団体ではなく、前身・後身団体の関係にあります。
 両団体の全体的な沿革を図にしたのが図1(筆者作成[本記事の画像])です。両団体は、明治12(1879)年に東京の小学校で開かれた教育演説討論会(教育演説会とも)を最も最初の前身団体としました。ついで東京教育会と東京教育協会が合併して東京教育学会となり、明治16(1883)年に大日本教育会と改称しました。明治29(1896)年に帝国教育会に改称、その数日後に国家教育社と合併しました。昭和19(1944)年に各地にあった地方教育会を支部として、大日本教育会(ここでは便宜上、後期大日本教育会と称します)となりました。昭和21(1946)年に日本教育会となり、昭和23(1948)年に解散を決定しました。教育会館を始めとした財産は日本教職員組合に引き継がれ、支部となっていた地方教育会はそれぞれの道を歩み始めました。昭和24(1949)年にはいくつかの地方教育会が日本教育協会を結成、昭和27(1952)年には日本連合教育会となりました。現在、財産は日本教職員組合が保有しておりますが、一方では日本連合教育会が大日本教育会・帝国教育会の正統を継ぐと宣言しています。ここでは、この問題について論じることは避け、日本教育会までの沿革と特徴について紹介していきたいと思います。
 両団体の財産は日本教職員組合が引き継ぎましたが、同組合が所蔵している両団体の資料は残念ながら限られています。同組合が所蔵している資料は、現在確認しているところでは、機関誌『大日本教育会雑誌』『教育公報』『帝国教育』『日本教育』『教育界』の原本、および旧附属教育図書館所蔵の約千冊の文芸書とのことです。数度の移転、関東大震災による倒壊・火災などによる資料の紛失があったようです。
 それでは次項から、前身団体の成立から日本教育会の解散までの沿革・特徴等を書きつづっていきたいと思います。1項につき一ヶ月を目安に少しずつ連載していきますので、しばらくおつきあい願います。
 なお、日本教職員組合所蔵の資料調査では、日本教職員組合附属教育図書館のスタッフに多大なる協力を得ました。ここに篤く御礼申し上げます。
 (以上、2005年1月頃に作成、同年12月19日に最終改訂したもの。2011年1月25日、明らかな間違いを1点修正)

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全国教育者大集会の開催背景―1880年代末における教育輿論形成体制をめぐる摩擦

2010年11月30日 20時56分30秒 | 教育会史研究

 ちょっとは楽になったかな、と思ったらそんなことはなかった。相変わらず記事にできないことばかりで(本務)、一日が終わっていきます。もう明日には12月になってしまう…。

 さて、本日は、拙論の紹介を簡単にしておこうと思います。
 去る11月25日に、梶山雅史編『続・近代日本教育会史研究』(学術出版会、2010年、定価6,400円)が発行されました。これは梶山雅史編『近代日本教育会史研究』(学術出版会、2007年)の続編です。全体の構成などは、学術出版会HPの広告を参照してください。ただ一言感想を言わせていただくと、今作は(いや、今作も)各論攷の内容が充実しているなぁ、というのが正直な感想です。自分も関わっている本のことをそう言うのは変な感じですが、教育会史研究の発展を願っている一人としてはとてもうれしい内容になっています。私の論文を読め、と言うのはおこがましいですが、明治期の教育会に興味がある人には、ぜひ第2章・第3章・第4章の連関(明治中期の教育会運動の全体像が見えてくる)は読んでほしいと思います。他にも面白い章ごとの連関がありますので(例えば第9章・第10章・第11章の連関)、自分なりの読み方を見つけてみて下さい。私も、読む時間ができたら(…)、全論文をもっとちゃんと読みたいです。

 さて、同編著の第3章に所収された拙稿「全国教育者大集会の開催背景―1880年代末における教育輿論形成体制をめぐる摩擦」(109~132頁)の概要について、簡単に説明したいと思います。論文構成は、以下の通り(漢数字は半角数字に、章節の通し番号は自分流に修正しております)。

  はじめに
1.1880年代末の教育社会における輿論形成体制の整備
 (1) 教育社会における輿論形成論の勃興
 (2) 大日本教育会における輿論形成体制の整備
2.大日本教育会の輿論形成体制の問題
 (1) 教育会組織の統合をめぐる論争
 (2) 地方会員の不満の顕在化
 (3) 輿論形成体制に対する不満の構造
3.大日本教育会の方針転換―地方教育会との連携
 (1) 関西教育大懇親会の開催
 (2) 関西教育協会結成に対する賛否両論
 (3) 教育会相互の関係づくり―全国教育者大集会の開催へ
  おわりに

 拙稿は、上記の構成にもとづいて、明治23(1890)年5月に東京で開催された全国教育者大集会の開催背景(主催:大日本教育会)として、1880年代末における教育輿論形成体制をめぐる論争と動向を明らかにしたものです。明治23年に予定された帝国議会開設を見据えてこの時期におこった、教育関係者間における対立とその克服が、以後の教育会を担い手とした全国運動の展開を準備した、という立場から書きました。なお、副題の「輿論(よろん)」という言葉は、「世論(せろん)」と一応区別しています。「輿論」(公論)は公開討議された合理的意見を指す言葉、「世論」は大衆の感情的雰囲気を指す言葉として使っています。(なお、この使い分けについては、佐藤卓己『輿論と世論―日本的民意の系譜学』新潮選書、新潮社、2008年を参照。とても面白い本です。おすすめ。)

 本当はもう少しちゃんと紹介したいのですが、今日はこの辺で。教員を含む教育社会の形成過程や、専門的職業としての教職の確立にも関わる研究だと思っています。もしよろしければ、手に取って読んでみて下さい。

コメント
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