教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教育会は現在の教育委員会の前身か?

2010年03月21日 23時55分55秒 | 教育会史研究
 S先生主催の日本東洋教育史研究会に出席するため、広島に行っておりました。
 さて、前回の記事に青隼さんから「教育会は、現在の教育委員会の前身のようなものか?」と質問がありました。教育会研究を専門としている私としてはしっかり答えたいですし、同じく教育会研究をしている研究者もたまにこのブログを見ており、私の答えにツッコミを入れたくなるかもしれませんので、独立記事を設けます。

 さて、戦前の教育会は、現在の教育委員会の前身でしょうか? 今回の質問だけでなく、以前私もそういう風に理解している人に会ったことがあります。教育会研究者としては、答えなくてはならない問いでしょう。なお、教育会とは、明治10年代以降、都道府県郡市町村を結成単位とし、各地の教育行政官・教員・名望家などを構成員として、各地における教育の普及・改良のために教育諮問・答申や教員研修、教育研究・教材開発などを担った私立教育団体です。明治23(1890)年には、全国に700余団体の教育会が結成され、会員10万人に達したといわれています。
 私は、教育会と教育委員会とは似ているが、性質上異なるものであり、歴史上の直接の連続関係はない、と答えたいと思います。教育委員会は、「地方教育行政行政の組織及び運営に関する法律」に規定された各地方公共団体ごとに設けられた教育行政機関であり、管轄区域内の学校の設置・廃止や教職員人事・研修などのさまざまな担当しています。教育会は、たびたび法制化の希望はありましたが、結局、直接対象となる法的規定はとくに設けられていない私立団体です。教育会は、都道府県・郡区町村といった行政区域ごとに結成されることが多く、活動区域はたしかに教育委員会に似ています。しかし、教育委員会は教育行政機関であり、教育会は私立団体かつ特別な法的規定はありません(明治前中期ごろの公立教育諮問会議としての教育会、いわゆる「学事会議」は例外)。
 現在教委が担っているさまざまな役割は、戦前においては各自治体がそれぞれ役割分担して担っており(都道府県知事・郡区町村長・学務課・視学・学務委員など)、教育会が担当していたわけではありません。ただし、本来なら各自治体が行うはずの教育行政事業について、教育会が代わりに担当することはありました(たとえば、教育諮問答申、教員研修・養成、社会教育事業、教育調査など)。ですので、教育会の役割は、地方教育行政の補完であっても地方教育行政そのものではありません。そのため、教育会と教育委員会との歴史的連続を主張するのは、無理ではないかと思います。
 ただ、教育委員会の目的は、法律によれば、教育の機会均等、教育水準の維持向上、地域の実情に応じた教育の振興です。教育会の目的は、各教育会ごとに微妙に異なりますが、基本的には教育の普及・改良であり、現在の教委が掲げている目的と意味合いは似ています。また、ほとんどの地方教育行政関係者が教育会の運営にかかわっており、現在なら教育委員に選出されるような地方の有識者・教育者も教育会に入会し、活動していたことが多く、人的構成からあまり区別がつきにくいのも確かです。さらに、教育会の実質的組織は、教員人事にかかわっていた教育行政官や有力校長を中心に構成されていましたので、教員人事などに影響力を持っていたのではないかと、ささやかれることもあります。教育会と教育委員会とは、ある意味似ている、とは言えるかもしれません。
 今の人々が教育会とは何かと興味をもっても、現在のものにイメージして例えるものがなくて、理解しにくいのは確かです。戦後、教育会は総力戦体制に積極的に協力していたことから糾弾され、その結果ほとんどの教育会が解体され、その財産(教育会館など)を教職員組合が引き継ぎました。戦後引き続き存続し、実質的な活動を行いえた教育会は、信濃教育会・山口県教育会など数えるほどしかありません。教育会と教職員組合とでは、歴史も目的も組織・活動内実もまったく違います。戦後、多くの地域では教育会が解体されたままで代替する組織も現れないまま、戦前の教育会が担っていた役割は失われてしまったのではないでしょうか(今も失ったままのところも?)。そのため、現在の人々が例えるものが見当たらないのだと思います。

 なお、資料はまだ目にしていませんが、戦後、教育行政官がしばしば教育会がなくなったことを嘆いていたという話をよく聞きます。教育会は、教育行政に密着していたために問題も多かったようですが、戦前の教育行政を補完するなくてはならない存在であったと思います。教育会は当時においてもさまざまな矛盾・問題を抱えていたため、そのまま今に適用するわけにはいきませんが、今でも各地域で教育を組織しようとするときに学べることはあるのではないかと思います。教育会研究は、各地域の教育の実際を支えていくために、行政から現場までひっくるめて組織化・実践するあり方を考えるときに一考する価値ある、重要な方法だと思います。それは、自分たちが実際住んでいる地域で、かつて自らの先祖や先達たちが実際に経験し、実践してきた事実から学ぶことなのですから。
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明治10年代後半、不況期において小学校教員に求められた意識と態度

2009年12月10日 22時52分23秒 | 教育会史研究
 そういえば、以前発表した論文について紹介していなかったので、改めて。
 平成21年3月18日、中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)第54巻が発行され、同誌に掲載した拙稿が活字化されました。題名は「明治10年代後半の大日本教育会における教師像―不況期において小学校教員に求められた意識と態度」です。その論文構成は、以下の通り。

  はじめに
1.明治10年代後半の『大日本教育会雑誌』における教員記事
2.明治16年末~18年前半における理想的教員像
 (1)理学知識の蓄積
 (2)各科教授法の原理的理解と熟達
3.明治18年後半~19年末における理想的教員像
 (1)村民と誠実に交流する態度
 (2)教職意識と社会貢献の態度
  おわりに

 節タイトルに出ている時期区分は、資料の『大日本教育会雑誌』に掲載された教員関係記事の傾向から導き出したものです。
 明治10年代後半の制度上からみた教師像は、儒教道徳を基礎として学識と技術との熟練を目指すものが主流だったとされていますが、大日本教育会では、もう少し現実問題へと対処する方向で教師像が提示されていました。とくに明治18年後半以降になると、明らかに、提示される教師像に変化が現れます。どのように変化したのかは、上述の論文構成を見てもらえばわかるように工夫しました。
 当時の小学校費は町村負担であり、町村支出の少なくない割合を占めていたため、松方デフレによる不況の影響をこうむった町村では、小学校費を削減し始めます。そのような状況下では、教員は座して学校費削減を見ているわけにはいかず(学校費の大半は人件費、すなわち教員の俸給)、村民と交流する必要性を生じました。また、教職の重要性・公益性を高め、自覚し、行動に移していく必要性も生じました。当時の『大日本教育会雑誌』上の教員関係記事を読むと、当時の教員に差し迫った問題を解決する方向性を示す内容が見られます。そこからは、教員は変わらなければならないという意識が、私にははっきりと感じられました。
 このような内容の論文を1年前に書いて発表しました。

 ちなみに、中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)は、審査なしで基本的に自由に書けるので、私はよく投稿します。来年3月発行予定の巻にも、また投稿します。ただ、この紀要は、同学会員以外は手に入れにくいという難点をかかえた媒体です。中国四国内の学者・院生による多彩な内容の教育学論文が多数掲載されているので、外部者からはネット公開を切望されることも多いのですが、乗り越えなければいけない障害もなかなか多く、しばらくそのままではないかと思います。ひとまず、昨年内の実行は無理でした。拙稿を読んでみたい方は、図書館の相互サービスなどを利用して、手に入れてみてください。
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明治人の距離感覚と大日本教育会

2008年10月16日 20時08分22秒 | 教育会史研究
 腰の調子は相変わらずです。しかし、5年前は一度何ともなくなるまで治ったので、リハビリを続けていればいつかは治るものと考えています。
 さて、腰のケガによって長時間の移動に不安があるため、最近どうしても行動範囲が狭くなってしまいます。長時間の移動といえば(強引(笑))、明治人の距離感覚のこと。
 教育会は、直接交流の難しい人々が意思疎通を図るために結成されたとも考えられます。「群像」で書いた町田の愛媛教育協会結成への思いを参照すると、なるほどそうかもしれんと思ってもらえるのではないでしょうか。このような教育会結成の意味をよりリアルに理解するためには、どうしても明治人の距離感覚をイメージせざるを得ません。距離感覚をつかむ資料として、地図以外に、とりあえず今は旅にかかった時間を考えています。前回の記事のような旅程の資料は、そういうイメージ喚起を助けてくれます。
 例えば、明治19年9月22日に横浜から汽船に乗って23日に神戸に着いた、という旅程。私が移動する時なんかはよく電車や新幹線を使いまして、長時間の乗車も気にならない方ですが、それでも丸1日も乗っていたらどうにかなってしまいそうです。丸1日神戸に留まって、25日に出発した町田の気持ちもわからなくもないですね(単に用事があっただけかもしれませんが)。今では成田空港からパリまで12時間で行けるみたいですが、明治19年の横浜-神戸間はその約2倍の時間がかかるわけです(きっかり24時間かかったわけではないと思いますが…ここではそういうことにしておいて、と)。横浜-三津浜(松山)間にいたっては、移動時間だけでも現代人がパリに行く時間の約4倍の時間がかかっていたわけです(きっかり48時間かかっ…以下略)。
 パリは昔に比べて近くなったとはいえ、外国です。私は海外旅行をめったにしないので、パリより遠いところって…想像できないです。想像したとしても、交通手段の発達していない外国だろうな、という程度のぼんやりとした想像しかできません。ようするに、明治19年の横浜にいた人が神戸や愛媛松山のことを想像することは、現代の日本人がパリよりもうんと遠いところを想像するようなものだったわけです。
 そう考えると、全国画一の普通教育を実施しようとした明治5年の学制は、本当に荒唐無稽な政策だったように思えてきます。また、こんな距離感覚を持たざるを得ない当時の人々が、明治16年に大日本教育会を結成して全国の教育を普及・改良しようとした事実には、心底驚くと同時に、心底スゴイ!と思わざるを得ません。だって、今で考えたら、世界規模で教育を普及・改良しよう、と言っているようなものなのですから。

 あ、そういえば、「群像」更新しました。「岡五郎」氏を追加。この人も、明治20年代くらいまでに福井→東京→徳島→宮城→東京と転々としています。文部官僚のなかでもあまり注目されない方の人だと思いますが、その業績も調べてみればやはりスゴイ人です。
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大日本教育会結成時の幹部組織の特質

2008年06月17日 22時29分57秒 | 教育会史研究
 「大日本教育会・帝国教育会の群像」を連日更新。理由は、ノってきたので(笑)。とくに核心をついた研究ができているわけではありませんが、研究というのはこういうノっているときが一番楽しいです。なお、少し補足説明をすると、この「教育史研究と邦楽作曲の生活」は生活のためのブログですが、「群像」は研究のためのブログです。「教育史研究と~」でも研究について書きますが、これは、研究が私の生活のなかでとても重要な行為だからです。

 さて、今日までの三日間で、大日本教育会結成時の幹部組織に占める「学習院系」とでもいうべき1グループの記事を書き終えました。3名とも、略伝・自伝が見あたらないので調べるのにちょっと苦労しました。例えば同じ小学校教育に携わっていても、華族の子どもを相手にするのと、一般民衆(さらに言えば上流・中流・下層の生活レベルの家庭)の子どもを相手にするのとでは訳が違うだろうなぁと容易に想像がつきます。また、教育現場である学習院・小学校と文部行政・東京府行政機関では、構成員の間で培われる教育観もそれぞれ違うだろうなぁとも思います。
 幹部組織の構成は団体の問題意識や意志決定に大きな影響を与えるので、私にとっては非常に重要な研究対象です。そこで、基礎研究(考えるきっかけを作る研究)として、ちょっと当時の幹部組織を分類してみたいと思います。なお、大日本教育会結成時(明治16年9月9日時点)の幹部組織は、辻新次、中川元、大束重善、丹所啓行、武居保、日下部三之介、生駒恭人、佐野安、並河尚鑑、庵地保、西村貞、長倉雄平の12名で構成されていました。
 まず出身前身団体(東京教育会・東京教育協会・東京教育学会・外部)で分類してみましょう。まず、会長には、文部省の高級官僚であり、結成直前に入会した辻を戴いています。副会長には、前身団体の東京教育学会長である中川(文部省官僚でもありますが)でした。そして、実質的な運営を行う幹事には、東京教育会系の大束・丹所・日下部・武居と、東京教育協会系の生駒・佐野・並河、東京教育学会系の庵地・西村、でした(この分類法では長倉の位置は不明です)。なお、東京教育会・東京教育協会・東京教育学会の活動の全容が知られているわけではないので、まだ幹事構成の分類をするのはちょっと無茶な分類です。
 次に、所属機関で分類してもわかりやすいかもしれません。まず、辻・中川・西村を擁する文部省系は、等位順に辻(会長)→中川(副会長)→西村(幹事)に並んでいるようです。そして、残りの幹事には、丹所・武居・日下部を擁する小学校系、および佐野・並河を擁する学習院系、大束・庵地・長倉を擁する東京府学務課系、生駒(一人だけで派閥もないですが、言ってみれば学習院系に近い東京師範学校系?)が、それぞれポストを占めています。なお、小学校系・学習院系・学務課系・東京師範系の幹事9名は、文部省系の支配下に収まっているようにも見えますが、西村も同じ幹事であることにも注意しなくてはならないと思います。しかも、実際のところ、西村は一般会員として会務に協力することを求めて幹事就任を辞退しており、結局は辻が副会長、中川が幹事となっています。このように文部省系の勢力は、大日本教育会が実際に活動し始めた時には、若干権力を弱めていました。
 もうこれでいいのかもしれませんが、もういくつか分類を試してみましょう。まだ群像ファイルにまとめていない人もいるのでだいぶ勇み足ですが、当時までに各人が歩んできた主な経歴で分類してみたいと思います。まず、辻・中川・西村を擁する文部省官僚系ですが、これは今までの分類と変わりません。そして、小学校教員経験者をまとめて小学校教員系という枠を作りますと、大束・丹所・武居・日下部・生駒・佐野・並河の7名という大勢力となります(細かく分類すれば、東京府小学校教員系は大束・丹所・武居・日下部、学習院系は生駒・佐野・並河)。残りは東京府学務課員系で、庵地(長倉も?)となります。
 次に、最終出身校およびその関係者で見ても面白いかもしれません。まず大勢力の官立東京師範学校卒業生・関係者は、卒業生の大束・丹所・武居・生駒・佐野・並河の6名で、とくに生駒は現役の職員です。次に、大学南校卒業生・関係者は、卒業生の中川・西村、中退者の庵地、教職員の辻となります。他府県教員養成機関修了生は、日下部となります(長倉はまだ不明)。

 以上、4つの分類を試してみました。それぞれがいつも同じグループとは限らないので、おそらく実態としてはこれらの仲間意識が複雑に絡み合い、時には静かに摩擦しあっていたのではないかと想像します(「派」で分類したいところですが、まだ派閥争いがあったかどうかわかりませんので「系」で分類しました)。今回の分類に挑戦してみてわかったことは、以下の3つです。
 1つ目には、所属機関別の分類の上ではそれぞれの勢力が拮抗していたことです。つまり、数の上では文部省や東京教育協会派が組織を牛耳っていたとは言えないので、幹部構成で大日本教育会結成時には「大日本教育会=文部省」や「東京教育協会本位の合併(拙著「東京教育学会の研究」参照)による力関係のまま大日本教育会結成へ移行」といった結論は導けないと思われるのです。
 2つ目には、小学校教員現職者または経験者が多いことです。つまり、実践に関わっている(いた)者が組織運営の大部分を担っており、大日本教育会の組織に実践的な問題意識(?)が存在した可能性が高いということです。数の上だけで考えると、文部省よりも小学校教員の抱いていた課題の方が重要だったかもしれない、などという妄想もできます。(事実を誤認する可能性もあるので、数だけで考えてはいけないとも言えますが)
 3つ目には、所属機関・分野または出身・関係校の範囲が狭いところに固まっていたことです。つまり、文部行政・東京府教育行政・教員養成・小学校教育・華族初等教育の5種類、または文部行政と東京府教育関係者、および官立東京師範と大学南校の2種類というように、幹部人材は、広いとはちょっと言えない分野・経歴にから輩出されていたので、大日本教育会の目指していた「教育」や「全国」の内容に偏りがある可能性が高いということです。
 気まぐれに幹部組織の構成を分類してみましたが、意外に興味深い仮説が出てきました。
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教育団体論・教育会研究の意義?

2007年05月07日 18時40分58秒 | 教育会史研究
 今日も、登校後すぐに速読トレ→『教育学研究』の読書。今日は藤田晃之「2006年の教育改革案・調査報告等」(日本教育学会編『教育学研究』第74巻第1号、2007年、49~62頁)を読みました。この内容は、2006年に特に目立った教育問題の発生と、各方面の対応をまとめた年表です。昨年の教育に関する動向について、最低限押さえておくべき内容がまとめられています。この年表は、教育に関する動向を捉えるにあたって、政府・文部科学省・日本教職員組合・政党・教育委員会の動向に注目し、主に政治的動向を捉えたものと言えます。
 しかし、教育に関する政治的動向を押さえるには、これらの組織・機関だけに注目していていいのでしょうか。たとえば、教育団体の動向を日教組に代表させるのは、再考の余地が十分にあると思います。現代日本では、日教組とは理念や歴史を違える無数の教育団体が活動し、独自に政治過程へ関与しています。文部省対日教組の対立が大きな政治的影響力を持っていた時代ならばいざ知らず、現在の教育に関する政治的動向は、多様な教育(関係)団体の動向に注目しなくてはならないと思います。
 読書後、「今、教育会とは何か」というテーマで教育会のHPを調査。今日は、全国団体(日本連合教育会・日本教育会)とその他の全国教育団体(全国連合小学校長会など)を調査。なんとなく今の教育会を取り巻く状況がわかってきましたが、依然ピンとこないのは、この無数ともいえる教育団体の中、教育会はどんな役割を果たしているかという点です。
 全国的教育会に限って、各教育会自身が自らの特色をどのように語っているかというと、日本連合教育会は、明治以来の教育会の伝統に連なっているという点をとくに強調しています。日本教育会は、異なる学校種別(幼小中高など)やPTA関係団体等を横断的に組織している点を強調しているようです。あえて整理するならば、教育会独自の特色とは、明治以来の教育会の伝統と学校種別・教育関係団体の横断的組織、といったところでしょうか。ただ、これは組織上の特色であって、役割上の特色ではありません。教育会の役割は、表面上よくわからないままなのです。
 結局、他の団体にできなかったことのうち、教育会は何をしてきたのか、ということがハッキリしないと解明されない問題なのでしょう。無数の教育団体がひしめく現在、教育会の役割が不明確なのは、もしかしたら仕方ないことなのかもしれません。しかし、明治期の教育会結成が相次ぐ時代はどうでしょうか。明治期には教育会以外にも教育団体がありましたが、今ほどではありません。結成期の教育会を研究することで、今の教育会が果たすべき役割もわかってくるのかもしれませんね。
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「教育会=利益団体」論

2007年04月25日 23時55分55秒 | 教育会史研究
 今日は博論構想の仕上げ。プリントアウトして、先生に手渡す。ついでに、週10時間くらいバイトを始めた件と、求人公募に応募して就職活動を始めることも伝える。就職活動については、あくまで今は研究活動メインなので、ぼちぼち始める予定。提出書類をそろえる練習のような気持ち。もちろん落ちるつもりで書くわけじゃないけど。大学への就職はそう簡単にはいかないと思うので、数年は学生でいなくてはいけないと覚悟してはいます。ただ、私は、もう三十路が見えてきた年になったわけだし、学振からお金をもらっている間に扶養控除もはずれたし(今は収入ほとんどないけど)、親はすでに定年退職した後だし。親は生活費や学費を援助してくれるとは言ってるけど、余裕があるわけじゃないし、いつまでも甘えているわけにはいかない。バイトについては、学会参加などの旅費や飲み会などの交際費等に充てていく予定。公募については、チャンスがあれば、どんどん挑戦していこうと思います。なお、PDについては、業績面で無理なのがわかってるので、今年はやめておく。
 博論構想を先生に手渡した後は、地方教育会に関する論文をコピる。時間になったので、バイトへ行く。
 
 バイト後、伊藤光利「利益団体」(伊藤光利・田中愛治・真渕勝『政治過程論』第Ⅲ部「政治過程における組織化」、有斐閣、2000年、166~192頁)を読む。国民の社会・経済生活に根ざし、かつそのあり方に大きな影響を及ぼす「利益団体」は、さまざまな政治的現実をダイナミックかつ実証的に分析する「政治過程論」に重要な要素です。「利益団体(interest group)」は、政治に関心をもつすべての集団のことです。とくに「組織化された利益団体(interest association, organized interest、単に利益集団とも呼ぶこともあるみたい)」と呼ぶ場合は、職業的・生活的利益をもとに人々が組織化された集団を意味します。利益団体が自らの利益の保守・推進のために議会・政府に働きかける場合は、「圧力団体」と呼ぶことがあります。ただし、ほとんどの利益団体は政治に働きかけ、その働きかけが中立的か否定的かどうかは論者の主観によるので、利益団体と圧力団体を区別する積極的な理由はないそうです。この本では、教育団体も利益団体です。戦後日本の教育団体は、政策による分配で利益を得る「政策受益団体」であり、圧力活動の標的は議会(政党)より行政に向いているんだとか。
 この論文を読んでわかったことは、利益の種類と政策決定に関わる政治状況によって働きかける対象が違うということ。教育団体は、市場の利益とはあまり関係ありませんが、政府が教育重視の政策を採用する場合、経済団体・労働団体などの他の団体とは違って、直接に利益(もちろんお金だけを意味しているのではない)を得るわけです。だから、教育団体も利益団体として政策決定過程に関係してくる。戦前日本の教育政策決定の場合、帝国議会や組織化されていない世論より、文部省や政府が強大な影響力を持っていました。教育団体は、問題(とくに財政問題)によっては、政党に働きかける必要があったと思いますが、基本的には、政党よりも文部省に働きかけるのが当然といえば当然。だからこそ、教育関係者をある程度組織化し、行政機関へ諮問答申や建議によって働きかけた教育会は、戦前の教育政策決定過程を深くダイナミックに理解する上で重要な存在となるように思います。
 教育政策決定過程の分析において、文部省や政府だけにスポットをあてることは、国家機関中心史観を生み、極端に言えば政策決定は政府の仕事といわんばかりの現実認識を生みかねません。それを問題視して、政府に対する対抗勢力として政党を登場させるのもいいでしょう。しかし、納税者勢力である政党は、教育に対して大きな意義を感じている時以外、教育にかける予算の増大を歓迎しないはずです。教育の拡大を国民全体が重要視していた国民国家形成期の政党はいざしらず、明治初期の自由民権運動を見ればこれは一目瞭然だと思います。政党は、教育の利益を守り推進する利益団体とは基本的にいえないのでは。ではでは、教育の利益拡大を目指す教育世論が、教育雑誌などのマスメディアによく見られるので、世論を政策決定過程に登場させるのはどうでしょうか。しかし、世論は、つかみどころのない未組織の意見であり、直接的な政治的影響力は持っていません。世論は、そのままで政策決定過程に登場できる性質のものではないのです。そうなると、一定の利益拡大を要求するような世論を組織する存在、すなわち利益団体に注目するのが重要になってきます。教育会は、政党とつながらない限り議会に姿を現しませんが、代わりに行政機関へ直接働きかけていきました。教育会の場合、教育会の政策決定過程への関与は法制化されませんでした(公設の教育会を除く)。教育政策決定過程における教育会は、国家機構や行政機構のみに注目していては、姿を現してきません。しかし、教育会が諮問答申を通して、教育政策決定過程に一定の影響力を持っていたことは知られています。教育政策決定過程の分析にあたって、教育会は無視できる存在ではないはずです。
 問題は、教育会の影響力がどれほどだったのかを実証すること。ただ、そのときの評価基準は、行政や議会の成案をどれだけ改訂したかという基準より、背景とする教育関係者の要求をどれだけ反映し、実現させたかという基準こそ、ふさわしいもののように思います。教育会は、政策の執行を行う行政機関でなく、政策執行のための予算決定や法律立案を行う立法機関でもなく、教育(関係者)の利益を守り推進する利益団体なわけですから。

 なにやらゴチャゴチャしたことを書き殴ってしまいました。以上、利益団体論を読んで考えたこと、でした(笑)。
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大日本教育会および帝国教育会における教育研究活動の展開

2007年04月17日 22時39分09秒 | 教育会史研究
 本日、4月17日は私の誕生日。
 28歳になってしまいました。三十路が近いことをじわじわと実感。
 ただ、こんな日もなかなか起きられず。うーん…
 こんな調子なので、話題が次々出てきても消化できない。「ゆとり教育」と学習意識の関係とか、教育史学会編『教育史研究の最前線』の出版とか、話題はあるのに。

 今日は博論を書こうと思っていたのですが、5月の某学会出席のための旅行日程を考えているとどんどん時間が経ってしまいました。唯一よかったのは、法経学部のどこかの講義の教科書に指定されていた、伊藤光利・田中愛治・真渕勝『政治過程論』(有斐閣アルマ、有斐閣、2000年)という本に出会えたこと。政治過程論とは、政治学の一領域で、政治アクター(政治を動かす主体?、政治家・政党・官僚・利益団体・市民など)の相互作用の動態を説明するアプローチのこと、だそうです。政治過程論は、政治的装置や法制度の説明だけではなく、現実の政治において何が起こっているかを説明しなくてはならない、という考えから、とくに利益集団の活動に注目して政治の実態を明らかにする研究とのこと。考え方そのものは、とくに最近出てきた考え方ではなくて、100年以上前からあったものです。ただ、これこそまさに、私が教育史研究においてやりたかったことを、学問的に意味づけてくれたもののように思いました。べつに「政治過程論という学問分野がある!云々」といって、大上段から説明するような大袈裟なものではないですが。
 私の教育史認識は、「教育史の主体(教育の歴史を動かす者)は人間であり、その集団である」という認識を基礎としています。もちろん、今現在の教育の動きに対しても同じように認識しています。教育史を実際に動かした者は、森有礼文相・沢柳政太郎などといった一個の人格を持った人物や、文部省・帝国大学・○○小学校・××会などといった現実に存在した組織・集団です。教育史の主体は、国家機関や学校だけではないし、「国家」「民衆」「社会」「教師」「生徒」「地域住民」などの抽象的概念でもありません。そう考え、教育会のことを知ったとき、この団体は、近代日本(とくに戦前・戦中まで)において教育史を動かす主体として具体的に認識できる対象なのではないか、と思ったのです。いろいろと調べるうちに、その思いはますます強固なものとなっていきました。
 個々の先行研究には、具体的な歴史過程を明らかにする過程で、すでに多くの集団が歴史的主体として現れています。そのなか、教育会は、巨大な組織規模を持ったにもかかわらず、行政組織とほぼ同一視されてほとんど顧みられていないか、一地域に限られた主体として認識されるにとどまっています。しかし、教育会は行政と意見を異にすることもあったし、日本全国にわたるネットワークを持っていました。教育会は、近似したところはあっても行政組織とは区別すべき主体であり、一地域の教育史の主体ではあっても同時に近代日本教育史の主体だと思うわけです。だから私は、文部省と教育会の関係を「御用団体」として切り捨てずに問い直し、教育会の全国的ネットワークの中央にあった大日本教育会・帝国教育会を研究しているのです。
 ちなみに、私が両教育会における教育研究活動に注目しているのは、両教育会が中央教育会となっていく過程で主要事業中の筆頭事業であったために、両教育会の中央教育会化に重要な役割を果たしたのではないかと仮説しているからです。中央教育会化とは、全国の教育会を組織化しその中央組織となることであり、国家の中央で行われる教育の政治過程(中央教育政策決定過程)における主体・利益団体(圧力団体)となることです。ただ単に「我々は中央教育会だ!」と宣言しただけでは、地方教育会も文部省も相手にするわけがありません。両教育会は全国連合教育会を開きましたが、ただ漫然と開くだけで20年以上(明治24~25年・明治30年~大正6年)も続くわけがありません。そうなれば、地方教育会や文部省をひきつける何かが、両教育会にはあったはずだ、と考えるのは当然です。皇族がパトロンだったとか、有名人が名誉会員や組織幹部になっていたとかいうことも大事ですが、何もしていない団体に文部省が諮問するわけありませんし、地方教育会も頼りにしません。そのため、地方教育会や文部省をひきつける何かは、おそらく組織構造だけではなく、恒常的に行っていた活動なのではないかと思うのです。そうなれば、その活動とは何か、なぜその活動が行われたのか、どうしてその活動は維持されたのか、などを考える必要があるでしょう。
 以上のようなことを、最近、「大日本教育会および帝国教育会における教育研究活動の展開」という私の博士論文のテーマについて、考えています。近代日本教育史(とくに政治過程)を動かす重要な主体として、教育会を浮上させる重要な研究だと考えているわけです。国家機関・学校中心または国家対民衆の単純化された対立構造で近代日本教育史を捉える歴史認識では、「今、実際に行われている」歴史を正しく認識することはできないと思います。歴史を正しく認識し、現在を正しく認識するために、近代日本教育史の歴史的主体として集団を出現させることは重要です。そのために重要な研究の一つとして、教育会の歴史研究は位置づくと考えています。

 いつのまにか長々と書いてしまいました。誕生日なのに… まぁ、今の私には研究が生活であり生き甲斐なので、そんな私としては記念日らしい話題なのかもしれません。
 あぁ~あ、博論構想、これでOK出ないかなぁ…
コメント (4)
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