横浜のほほん

横浜のはずれで、のほほんと暮らす男の見聞、考察、感想をつれづれに記す

泉岳寺

2009-03-24 08:30:35 | 近所

増上寺を出て桜田通りを南に行くと右手に、学問のすゝめ という看板が目に入った。


文銭堂という店の最中だった。

ぼんやりしていて、何故こんな名前なのか分からなかった。


しばらく行くと慶応大学の東館(東門)があった。
なるほど福沢諭吉なのだ。



キャンパスには入らなかったが、外周にフキノトウや春の草花が見られた。



しばらく行ったところに御田八幡神社というのがあった。
三田は御田と表記したこともあったらしい。
この神社は和同2年(709年)牟佐志国牧岡に東国鎮護の神として祀られた延喜式内稗田神社がはじまりで、
その後、寛弘8年(1011年)この地に遷座され、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。
羅生門の鬼退治で有名な渡辺綱の産土神(うぶすなかみ)として「綱八幡」とも呼ばれたそうだ。



高輪神社は高輪一円の鎮守社で、お宮詣りの家族の姿が見られた。
撮るからこっちを見てねと、おじいちゃん。


高輪まで来ると立ち寄りたいのは泉岳寺。


江戸城松の廊下での刃傷事件により切腹させられた主君浅野内匠頭の恨みを晴らそうと、
1年9ヶ月の苦難の末に吉良上野介義央を討った47人の赤穂浪士たち。


吉良邸のあった本所松坂町(現両国)から10kmぐらいだろうか、
雪の止んだ朝の道を歩いて泉岳寺までやってくる。


そこに浅野内匠頭長矩の墓があったからだ。


上野介の首を、この井戸で洗って主君の墓前に供えたとされている。


ここには切腹した46人の墓と、
討ち入り後に離脱したとされる寺坂吉右衛門及び討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓が並んでいる。


大石内蔵助良雄の墓。
浅野内匠頭の墓のすぐ隣といえる場所にある。


堀部弥平金丸の墓。
行年77歳、最年長だった。
子供のころ中山安兵衛が高田の馬場で伯父の仇討をする映画を見た。
たまたま居合わせた堀部弥平が襷を貸し、安兵衛は仇討を果たすというのをワクワクして観た。
のちに娘の婿養子に迎え一緒に討ち入りすることになる。