東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 城南 宿井の市周辺の史跡を散策

2015年07月27日 | 歴史探訪他ウォーキング

 別所薬師堂の次に、宿井の市に行きました。そして、元町長のK氏にお逢いしました。この周辺のお堂や石碑などの史跡について教えていただくためです。
 最初に奇兵隊士だった田村知義の石碑について教えていただきました。その時、面白い逸話をお聞きしました。K氏の御尊父は明治15年生まれで、子供の時に富永有隣に逢ったことがあるとのこと。年寄り二人に連れられて行き、有隣に田村知義の碑文を考えてもらおうとしたそうです。すると有隣は「死んでもいないのに碑文は書けない。」と断ったとか。変わり者の有隣だったそうです。なお、富永有隣は明治33年に、そして田村知義は明治34年に亡くなっています。田村知義は初代城南村長になりましたが、有隣はいっさい官職につきませんでした。
       
     田村知義の石碑を説明するK氏          道の反対側に移設した戎様
 

 田村知義の石碑の台座は、不安定だったため取り替えたそうです。取り替える前の台座が石碑の傍においてあります。そして石碑近くにある丸い石二つが置かれた石室は、戎様だそうです。かつては道の反対側に置かれていたそうです。また、宿井の下市と上市のそれぞれに安置されたお地蔵様2体は「火避け地蔵」であることが分かりました。昔、この付近で火事が絶えなかったために安置されたとのこと。また、紙芝居に出てくる「・・・・お抜かれごすん」の民話にかかわる神事で、神輿を置いた御旅所についても教えていただきました。さらに、この近くに観音堂とお寺があったそうです。

     光喜庵の説明        棺桶を置いた石         田村知義の墓地
  

 続いて、K氏と一緒に光喜庵に行きました。この庵には昭和15年まで尼さんがいたそうです。尼さんの生活の糧などについて、いろいろ教えていただきました。お爺さんやお婆さんが亡くなった家に、葬式後毎月のように尼さんが拝みに行ったそうです。拝みに行く家のリストがあったとか。その時に一合程度のお米をもらっていたようです。そして、そのお米をお金に換えて生活していたそうです。私が記憶にある尼さんは、頭などの悪い所を撫でまわしながら祈っていました。その時、一緒に行った祖母が尼さんに何か渡していたように記憶しています。昭和30年代のことです。
 宿井の史跡について他にもいろいろ教えていただいたK氏に感謝します。ありがとうございました。

             宿井の史跡について教えていただいた元町長K氏(中央)


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