9日午前中は草刈りをしましたが、午後は周防大島に行ってきました。この島は古事記にも記述があり、しかも日本でも指折り数えられるほど面積が大きい島です。一つの島に四つの町があります。本州から橋で島に渡りました。昔は橋が無くて、大畠と小松に渡船場があり船で渡っていました。
本州から周防大島に架かる橋
周防大島に渡る橋ができたのは私が高校生の頃だったように思います。橋が完成した当初は有料でした。一度は歩いて渡ったこともありました。橋の下を見下ろすと、潮の渦が巻いているのがよく見えました。大昔、この海峡は船の事故が多発していた船の難所だったそうです。
橋を見下ろして、柳井,大畠,岩国方面を望んで
この周防大島を散策したのは3年ぶりのことです。その時は散策途中でバイクが故障してあわや家に帰れない事態に陥りました。今回、バイクが快調に動いてくれたおかげで周防大島の外周をすべて走破しました。
久賀町街を見下ろして 大島町を眼下に
今回は夏にも関わらず空気が綺麗で、遠くの島影まで見通すことができました。普通は冬の快晴の方が空気が綺麗なのですが、今回は日本を高気圧が覆う猛暑が続いているので空気が綺麗なのかも知れません。
瀬戸内海を見下ろして、島影がよく見通せる
橋を渡って大島町街のバイパスを抜けました。子供の頃、昭和30年代でしょうか、この大島町はとても賑やかな町でした。特に、錦鯉の養殖が盛んで私も父に連れられてこの黄金の錦鯉なるものを見ました。とても大きな部屋の中にたくさんの錦鯉が飼われていました。
周防大島から伊保庄をみて 橘町の海水浴場
大島町の賑やかさは、本州と周防大島を渡す橋ができてから衰退したように思います。橋ができる前は島民は船を使って一日がかりで柳井や岩国に買い物に行っていました。日用品は大島町で買っていました。しかし、橋ができた今では1時間程度で都会に買い物にでかけることでできます。
橘町にそびえる尖った高い山、パラグライダーが盛ん
橋ができてから、大島町の商圏が柳井や岩国に吸収されてしまったようです。本州側対岸の大畠も橋ができてから賑やかさがなくなったように思います。橋ができる前の昭和30年頃、人々を満載したフェリーが大畠と小松を往復する光景をいまだに思い出します。
沖ヶ室島に通じる立派な橋 沖ヶ室島で休憩中、東の海を見て
大島町の次に橘町に行きました。この町の向こうに沖ヶ室島があります。不思議に思うのは、こんな小さな島にどうしてたくさんの人々が暮らしているのかです。よくは分かりませんが、江戸時代より昔は瀬戸内海は陸よりも交通の要所でした。古代に編まれた万葉集にも瀬戸内海の要所がよく出てきます。このため昔は、この島は船交通の要所だったのかも知れません。橋で沖ヶ室島に渡り、しばし休憩しました。
シーボルト上陸の記念碑 近代的な、若者向けビーチ
沖ヶ室島で休憩した後、シーボルト上陸記念碑や近代的なビーチを見ながらバイクを走らせました。次に、周防大島の山伝いに走る舗装道路を通って東和町に入りました。そして、周防大島の最東端に到着しました。何の変哲も無い場所ですが、何台かの車がここでUターンしていました。
周防大島の最東端、目を凝らすと四国方面がよく見える
周防大島の最東端に到着した頃、小雨が降ってきました。雨具を持って来なかったため急いで帰宅することにしました。途中、戦艦陸奥を祭る陸奥記念館に立ち寄りました。この戦艦はこの周防大島沖の海で謎の爆沈をしたそうです。1000名近くの船員は、戦闘で亡くなったのではなく謎の爆沈(事故?)で亡くなったのです。この記念館は過去に何度も行ったことがあるので今回は入館しませんでした。休憩しただけで、小雨の中を急ぎながら家に向かいました。
陸奥のスクリューと砲塔 陸奥記念館
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2 コメント
コメント日が
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- Unknown (Unknown)
- 2010-08-16 09:56:49
- 町村合併の話は数年前帰省したときに聞いたような気がします。合併したんですね。教えていただきありがとうございます。
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- Unknown (taka)
- 2010-08-15 23:19:57
- 現在、周防大島は四町が合併し周防大島町の一町となっています。
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