東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

平生町 楽しかった宇佐木,田布路木方面の史跡探訪ウォーキング(1/3)

2016年02月22日 | 歴史探訪他ウォーキング



 心配していた天気、昨日は大雨でしたが今朝から快晴でした。晴れ男や晴れ女が多くいるので晴れたのでしょう。平生町のMaxValuを10:00にスタートしました。
 最初の目的地は、江戸時代の平生町地図に掲載されているお地蔵様です。かつてはお地蔵様だけが安置されていましたが、いつの頃か屋根が建てられました。雨風が当たって地元の方が可哀そうに思って屋根や壁を建てたのでしょう。そのような逸話が残っています。

平生町MaxValuをスタート      秀巌寺に到着       前ご住職から解説
  

 続いて、秀巌寺に行きました。このお寺は元々、大野毛利家の女性方の菩提を弔うお寺だったそうです。本堂で、前ご住職より大野毛利家創設に関わる吉見家についてその歴史を解説していただきました。いろいろお話しを聞かせていただき、ありがとうございました。吉見家は田布施町麻郷の高塔に屋敷がありました。吉見家があった高塔に住む私としては、とても興味がある解説でした。

          現ご住職より、大野毛利家や吉見家などについて解説


 次に秀巌寺の西側高台にある、大野毛利創設に関わる津和野城主吉見広頼の五女他の墓石を見学しました。吉見家は戦国時代に毛利家と戦ったそうです。結局吉見家は毛利の臣下になったそうですが、その後謀反の疑いなどで毛利家と騒動があったとのこと。その騒動後、吉見家が絶えないように吉見広頼の五女に吉川家の次男就頼が入りいったん吉見家を継ぎました。その後、その就頼が吉見家を出て初代大野毛利を創設したのです。

   秀巌寺手水観音堂      大野毛利家墓所に向かう    大野毛利家墓所
  

 続いて、秀巌寺裏にある手水観音堂に行きました。秀巌寺を出た後、海前寺跡にある大野毛利墓所に向かいました。海前寺跡には立派な石垣が残っていました。かつては、さぞかし立派なお寺だったことでしょう。ちなみに、海前寺は大野毛利城主を弔い、秀巌寺は奥方などの女性を弔いました。明治以降に海前寺が廃寺になってから、秀巌寺が海前寺跡にある城主の墓地も弔うようになったそうです。以上、吉見家,毛利家,吉川家,秀厳寺などの話は、その歴史をちゃんと整理しないとなかなか覚えられません。

   子安地蔵とお稲荷さん     万徳寺に到着          万徳寺の本堂
  

 海前寺跡や大野毛利墓所を見学すると、子安地蔵とお稲荷さんに行きました。子安地蔵は平生町の紙芝居になっています。お地蔵様とのことですが、形が変わった奇岩です。その石のある個所がお乳とのこと。昔はお乳が出なくて苦労した母親の話があります。このお地蔵様の前で、赤ん坊が無事育つように、お乳がよく出ますようにとお祈りしたのでしょう。また、お乳が出て困る母親と、逆にお乳が出なくて困る母親の出会いの場所でもあったのではないでしょうか。

             万徳寺様のご厚意により、万徳寺内で昼食休憩


 子安地蔵を見学すると、一路万徳寺に向かいました。万徳寺ご住職様の奥様のご厚意により、この本堂隣りの部屋で昼食休憩をさせていただきました。ご厚意感謝いたします。
 このお寺は4年前に建て替えたとのこと。最初は寺門だけを建て替える予定だったそうです。ところが、創建後400年経っていた本堂も傷んでいることが分かり、本堂も一緒に建て替えたとのこと。400年後の人々は、建て替えられた2012年の史実をどうふり返るでしょうか。

        今回歩いた、平生町の宇佐木、田布路木方面ウォーキングコース


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