東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 波野周辺のウォーキングルートを探索

2013年07月29日 | 歴史探訪他ウォーキング

 今回は、田布施町波野周辺を探索しました。田布施川沿い史跡巡りの6回目コースを決めるための初期探索です。最初に、後井古墳への距離を確かめるため交流館から田布施川を上流に瀬戸地区方面に行きました。後井古墳に寄った後、今度は長合地区に行き田布施農業高校の裏道に行きました。ここから、円満寺八十八番個所がある山に登りました。

       田布施農業高校の裏道              八十八番個所への登り道
 

 木が生い茂る山道を10分位登ると、八十八番個所がありました。ただし、参拝する人が少ないのかあまり手入れがされていませんでした。田布施から大和に向かう県道を作った時に、この八十八発番箇所ルートがあった山に大々的な工事があったようです。その工事の碑が立っていました。
 碑の近くに、県道をまたぐ歩道の陸橋(お大師橋)がありました。その陸橋の下を見ると県道が通っていました。そして、陸橋から北に石城山がよく見えました。元々は山だった場所を県道を通すために削り、その県道をまたぐように陸橋を作って八十八番個所を以前のように回れるようにしたのでしょう。

        歩道陸橋(お大師橋)から、眼下に県道を見下ろし、北に石城山を見て


 陸橋を渡ると、小さな祠がありました。また、陸橋に続く小道には八十八番のうちの四十番目のお地蔵様やそれに続くお地蔵様が並んでいました。おそらく円満寺に一番個所があり、八十八番個所が山の上にあるようです。なお以前この近くに火葬場があったので、火葬場とこの八十八番個所や祠に何らかの関連があったのかも知れません。

     陸橋を渡ってすぐ、小さな祠              四十番個所のお地蔵様
 

 歩道陸橋を過ぎてしばらく歩き長合と上ゲの境付近にある高台に立つと、目の前に行者山がよく見えました。この行者山の頂上からは、波野や上ゲなどが眼下に良く見えます。この行者山もルートに含めるかどうか検討中です。この頂上で昼食休憩できたらと思います。

               長合と上ゲの境付近の高台から見た行者山


 次に、円満寺前を通りました。おそらくこのお寺内に一番個所があると思いますが、今回は急いでいるため訪問しませんでした。なお、この近くに国木田独歩の波野英学塾がありました。しかし、私はその場所をはっきり知りません。ところで、麻郷高塔の我家のすぐ近くに、国木田独歩の仮寓跡があります。明治時代の彼の作品「帰去来」に麻郷高塔での生活が生き生きと描かれおり「高塔」の記述がでてきます。

             円満寺、この近くに国木田独歩の波野英学塾跡


 次に、専福寺に向かいました。専福寺に来たのは、4月にこの付近をミニウォーキングして以来です。ここは、第二奇兵隊が一時駐屯していた場所です。その碑がお寺に入口に立っています。専福寺を確認すると、田布施街に向かいました。山陽本線の小さな踏切を渡って、すぐそばの高台にある大内公園に行きました。この場所は、小学生の遠足で来たことがある場所です。今は、子供達の遊び場にもなっているようです。

  第二奇兵隊が一時駐屯していた専福寺            山陽本線の小さな踏切
 

 大内公園内はとても静かでした。広場の北にひっそりと忠魂碑が立っていました。戦時中、この広場からたくさんの方々が出征したのでしょう。私が子供の頃、この公園北側から山陽本線を通る汽車を見下ろした記憶があります。大内公園を下りると、大恩寺の飢民碑を見学しました。豊かな今の時代、この田布施で飢え死にする人がいたとはとても想像できません。田布施町史や平生町史を読むと、当時亡くなった方々のおよその人数や推移がお寺の過去帳に記録されています。

    広々とした大内公園と忠魂碑           飢民碑がある大恩寺
 

 10月初めに、田布施町の歴史を昔から探求されている方々と波野付近をご一緒させていただきます。田布施地方史研究会の三回史跡探訪とのことです。その時に訪れた史跡を合わせて、ウォーキングルートを決めようかと思っています。今回は、ざっと回ってみただけですので、見落としている個所がたくさんあると思います。
 しかしながら、猛暑の中をあちこち探索するのは疲れます。まだまだ知らない田布施がたくさんあります。

              今回、いろいろ探索して回った田布施波野周辺

コメント (1)
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