正林寺御住職指導(R1.6月 第185号)
富士山は広宣流布の根源といわれる理由は、宗祖日蓮大聖人の『日蓮一期弘法付嘱書』に、
「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。」(御書1675)
との広宣流布の暁を見据えられた相伝があります。
また第二祖日興上人の『富士一跡門徒存知事』に、
「広宣流布の時至り国王此の法門を用ひらるゝの時は、必ず富士山に立てらるべきなり」(御書1873)
との大聖人から相承された教えがあります。
さらに第二十六世日寛上人も詳細を『六巻抄』の『文底秘沈抄』に、
「富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり」(六巻抄68)
との根拠からであります。
つまり、「根源とは(中略)本門戒壇の本尊是れなり」との理由から、富士山は広宣流布の根源といわれています。
その富士山は霊山浄土に似たらん最勝の地であります。日寛上人は『文底秘沈抄』に、
「問う、霊山浄土に似たらん最勝の地とは何処を指すとせんや。答う、応に是れ富士山なるべし、故に富士山に於て本門の戒壇之れを建立すべきなり。」(六巻抄61)
と、最勝の地は富士山であります。
さらに『文底秘沈抄』には、
「三大秘法の随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り、故に富士山は即ち法身の四処なり、是れ則ち法妙なるが故に人尊く、人尊きが故に処尊しとは是れなり。」(六巻抄64)
と、奥底には大聖人の出世の本懐である本門戒壇の大御本尊が、富士の山下に在すからであります。ゆえに大聖人は『開目抄』に、
「文の底にしづめたり」(御書526)
と御指南であり、富士山の言葉の意味には、本門戒壇の大御本尊との意が存すると拝します。
『産湯相承事』に曰く、
「日蓮は富士山自然(じねん)の名号なり」(御書1709)
と。
日蓮正宗の法華講衆として、富士山は広宣流布の根源であることを片時も忘れてはならない、心肝に染めるべき大切なことであります。
大切な根源を見失った広宣流布は有名無実であり、本当の広宣流布とはいえません。その意味からも第六十六世日達上人は、
「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。」(達全第2輯6巻295)
との有名な御指南には、富士山は広宣流布の根源であるとの意義が存すると拝します。
ゆえに「日蓮正宗の教義」とは「富士山は広宣流布の根源」との元意、出世の本懐である本門戒壇の大御本尊が存すると拝し奉ります。
残念ながら現在、創価学会が推進する広宣流布は、肝心な根源を失った、人間主義と言われる、人材をもって城となす、根源よりも人を中心とする世界広布であり、元意である富士山は広宣流布の根源とは明らかに違う、御書根本と主張しながら、矛盾が伴う大聖人の教えから遠のいた有名無実論となった印象があります。
そして、創価学会での永遠の指導者、池田名誉会長も、大切な根源を重要視しない世界広布を指導する姿があります。池田名誉会長は、広宣流布の暁、世界広布完結とも言える最終的な戒壇建立に当たり、過去には「従の従の問題、形式の形式の問題」との見解があり、現在と未来も、過去と同じ指導なのでしょうか。門外漢ながら理解できませんが、もし、それ以外の構想が指導にはあり、本部職員が中心となる会員奉仕局の協力のもと第一庶務の方が周到に準備されているのでしょうか。
もしくは広宣流布の暁を迎えることなく、人間主義の集大成ともなる総体革命を掲げた組織力を誇示し、根源から隔離され宙に浮いた状態、まさに宇宙のリズムと合致することなど、その合致が絶対条件として調うと、大聖人の御書にも文証として皆無な未来の経典に説かれるとする創価学会仏になることを目的としているのでしょうか。その創価学会仏は八相作仏をどのように振る舞いとして示していくのでしょうか。特に出家を創価学会仏は現じていくのでしょうか。五事をどのように観じていくのでしょう。門外漢ながら特異な疑問が生まれます。
そして創価学会員さんは、未来広布である広宣流布の暁に何をすべきか、現在の聖教新聞等に報道される途中経過ではなく、暁の時に行うべき具体的な方向性が池田名誉会長の指導の元に定められているのでしょうか。広宣流布の暁を目的とするよりも、八相作仏に疑義のある創価学会仏になることが最重要目的なのでしょうか。
宗門と創価学会の広宣流布定義の大きな違いは、富士山は広宣流布の根源とするか、どうかであります。宗門は根源として大切にし、創価学会は根源としない大謗法の地と断定した立場です。さらに創価学会では、信濃町を「世界総本部」(会憲)とする構想があり、富士山は広宣流布の根源との構想は皆無です。その違いを確認するには、昭和時代と大きく異なる報道、平成三年以降から近年の聖教新聞や創価新報を確認すれば一目瞭然です。
爪上の土の如く希少な宗門の僧俗には多くの疑問と、根源を忘れた異質な創価流広宣流布との印象が強く残ります。
大切な根源を見失った姿は、まさに大聖人が『松野殿御返事』に、
「魚の子は多けれども魚となるは少なく、菴羅樹(あんらじゅ)の花は多くさけども菓になるは少なし。人も又此くの如し。菩提心を発(お)こす人は多けれども退せずして実(まこと)の道に入る者は少なし。都(すべ)て凡夫の菩提心は多く悪縁にたぼらかされ、事にふれて移りやすき物なり。」(御書1048)
と仰せの御書にお示しのように、富士山は広宣流布の根源であり、根源に向かって泳ぐ魚は少なく、富士山は広宣流布の根源との、その根源からの栄養分を菓とした果実は少なく、富士山は広宣流布の根源との自覚を持ち退せずして実の道に入る者は少ないのが現実ではないでしょうか。まさに菩提心を発され御授戒を受けた創価学会員さんは多くいましたが、現在の創価学会は「事にふれて移りやすき」宗教団体との印象があり、会則変更には事にふれて移りやすき姿が如実に現れているのではないでしょうか。
菩提心をたぼらかす悪縁となる創価学会からの偽造本尊(ニセ本尊)があります。その本尊は、根源を忘れ離れたために、血脈がながれ通わない功徳を失った偽造本尊(ニセ本尊)といいます。それは、富士山は広宣流布の根源との、その根源から流れ出る栄養分を菓としないためです。
まだ、昭和時代に総本山大石寺へ登山されて積まれた、大御本尊からの有難い功徳と赤誠の御供養により、命の片隅、仏性に現存している徳が勝るため、稀に創価学会からの偽造本尊(ニセ本尊)を所持していたとしても、害毒が現れにくく悪い現証が出ない方もいます。しかし、大聖人は『開目抄』に、
「順次生(じゅんじしょう)に必ず地獄に堕つべき者は、重罪を造るとも現罰なし。」(御書571)
と仰せであり、現証がないことは今世だけで、十二因縁の上から未来世(順次受業・順後受業)に清算されます。さらに大聖人は『呵責謗法滅罪抄』に、
「始めは緩(ゆる)やかに後漸々(ぜんぜん)に大事なり。謗法の者は多くは無間地獄に生じ、少しは六道に生を受く。人間に生ずる時は貧窮下賤(びんぐげせん)等、白癩病等と見えたり。」(御書711)
と仰せであり、昭和時代と平成初頭までに積まれた尊い大御本尊の功徳と御威光により、「始めは緩(ゆる)やかに」なるため謗法の害毒の現証はわかりにくく、「漸々」とお示しのように、少しずつ過去の徳を失いながら、同時に罪障を積んでいくとのことです。
その結果、昭和時代と平成初頭までに積まれた尊い大御本尊の徳が完全に失われた時、同時に平成三年頃から積まれた平成時代の罪障が、大御本尊の徳よりも勝り、悪い現証が明らかに目に見える姿で顕現される因果応報です。創価学会員さんも機根が千差万別であるために、現証が目に見える時期も千差万別でしょう。その現証は依正不二との法則から国土世間である環境にも影響があります。
現在の創価学会が認める本尊は、何処が根源なのでしょうか。大謗法の地と断定した、富士山は広宣流布の根源から隔離され宙に浮いた状態、つまり宇宙のリズムが根源でしょうか。創価学会の偽造本尊(ニセ本尊)を所持する限り、富士山は広宣流布の根源との実の道に入ることは不可能です。創価学会の偽造本尊(ニセ本尊)を手放さない限り、富士山は広宣流布の根源との実の道に入ることはできません。ゆえに創価学会の偽造本尊(ニセ本尊)には、根源から引き離させる魔の通力が働いています。大聖人は『唱法華題目抄』に、
「但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず。」(御書233)
と仰せであります。「法門をもて邪正をたゞす」うえで、邪正を正す基準となり、大事な富士山は広宣流布の根源よりも、「利根と通力」を優先した人間革命を目指す人間主義や人材をもって城とすることが重要なのでしょう。そして、一人ひとりの人間革命が成就すると、創価学会仏となる構想なのでしょうか。
そのような現実からも富士山は広宣流布の根源であることは難信難解であります。大聖人は『四条金吾殿御返事』に、
「法華経の文に『難信難解(なんしんなんげ)』と説き玉ふは是なり。此の経をき(聞)ヽう(受)くる人は多し。まことに聞き受くる如くに大難来たれども『憶持不忘(おくじふもう)』の人は希(まれ)なるなり。」(御書775)
と仰せであります。
創価学会員さんお一人お一人は、人間主義や人材をもって城となすとの一切衆生の恩を重んじた、お世話になる周囲の創価学会員さんの顔色を見て判断されることなく、第二代戸田会長は、宗門外護の精神のもと、昭和二十六年(1951)十二月十八日、創価学会の「宗教法人」を取得するに際して、宗門に対し、三原則を遵守するとの約束。(※聖教新聞 昭和26年12月20日付に詳細)
一、折伏した人は信徒として各寺院に所属させること。
二、当山の教義を守ること。
三、三宝(仏・法・僧)を守ること。
の、三つ目にある「三宝を守ること」、三宝(仏宝・法宝・僧宝)の恩を最重要視することではないでしょうか。そして、実際に三原則が掲載された当時の聖教新聞を目にされた創価学会員さんは、何人いるのでしょう。
創価学会で永遠の指導者とする池田名誉会長は、三原則を遵守せずに反故してしまい、第二代戸田会長が宗門外護のために三原則を遵守されましたが、池田名誉会長には戸田会長と違背する姿が明らかにあります。池田名誉会長は、昭和26年12月20日付の聖教新聞を拝見したことがあるのでしょうか。
大聖人が『如説修行抄』に仰せの、
「所詮仏法を修行せんには人の言を用ふべからず、只仰いで仏の金言をまぼ(守)るべきなり。」(御書671・全集502)
との法四依の依法不依人を根拠に、人の言となる池田名誉会長の指導、お世話になる周囲の創価学会員さんの言葉を用いず、日興上人が定められた御書に文証として存在しない、人間革命との言、人間主義という言、人材をもって城とする言など「人の言を用ふべからず」との金言を守り、純粋に三宝の恩を重んじた日蓮大聖人(仏宝)の「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書全集1600)との御指南、仏の御金言を守り伝えられた第二祖日興上人(僧宝)の「広宣流布の時至り国王此の法門を用ひらるゝの時は、必ず富士山に立てらるべきなり」(御書全集1607)との御指南、さらに第二十六世日寛上人(僧宝)の「富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり」(富要3-96・六巻抄 聖教新聞社105)との御指南を守ることが、創価学会の宗教法人設立時の原則となる「三、三宝(仏・法・僧)を守ること」に通じるでしょう。
三宝の仏宝とは日蓮大聖人を守ること、三宝の法宝は本門戒壇の大御本尊を守ること、三宝の僧宝は第二祖日興上人已来の御歴代上人を守ることが、創価学会の宗教法人設立時(昭和二十六年)の絶対的な戸田会長と交わされた宗門との条件でありました。
また、二つ目の「当山の教義を守ること」の「当山の教義」とは、先の日達上人が「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。」との「日蓮正宗の教義」のことです。
平成二年(1990)の暮れから戸田会長と約束された宗門との大事な絶対的三原則が遵守されなくなったため、まずは自主的な創価学会の解散を促す解散勧告書を翌年の平成三年(1991)十一月七日に宗門から勧告されました。その後、創価学会は、かえって反発し、御法主上人猊下並びに宗門に対して、ますます悪質な誹謗中傷を重ねたため、日蓮正宗として、創価学会が、信徒団体としての存立の目的・基盤を自ら破壊し、本宗の法義・信仰に著しく背反し、また宗教法人としてのあり方、三原則からも大きく逸脱して、御法主上人猊下・宗門からの、たび重なる教導(時局協議会等)・制誡に対しても、一片の反省懴悔すら示さなかったため、これ以上、本宗信徒団体として放置しておくことはできず、日蓮正宗からの破門を通告することになり、宗教法人の団体である創価学会は平成三年十一月二十八日に破門となりました。
しかし、その後も創価学会員の一人ひとりは日蓮正宗の信徒としての資格を平成九年(1997)十一月三十日まで残しておりましたが、現在は日蓮正宗の宗規の上から信徒資格を失っております。
創価学会員さんには、大聖人が『松野殿御返事』に、
「名聞名利を捨てゝ某(それがし)が弟子と成りて、我が身には我不愛身命の修行を致し、仏の御恩を報ぜんと面々までも教化申し、此くの如く供養等まで捧げしめ給ふ事不思議なり。」(御書1046・御書全集1381)
と仰せである、今世での名聞名利を捨て、極理の師伝を重んじた御書を根本とし、創価学会宗教法人設立当時の信心に戻ることが、平成時代から令和時代になり、今一度求められています。
さらに大聖人が同抄に、
「在家の御身は、但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか。」(御書1051・御書全集1386)
と仰せのように、信徒資格を失った創価学会員から、大聖人が命名された法華講衆として、信心の原点にかえり、本門の本尊を信じて本門の題目を唱える再出発すべき時ではないでしょうか。
以上のことを五十展転のように、法華講員さんが折伏される際、縁ある創価学会員さんにお伝えいただければ有難いです。特に、当時入会していなかった創価学会員さんや生まれていなかった学会員さんには、是非、仏縁を結んでいただければと存じます。
ちなみに、天母山戒壇説を主張し、昭和49年に解散処分に付された元妙信講の冨士大石寺顕正会も、有名無実論の広宣流布を標榜する宗教団体であり、日蓮正宗とは一切関係のない新興宗教です。
最後に、富士山は広宣流布の根源との表現は、日本乃至世界広布を見据えて、富士山は日本において知らない人はいません。世界においても日本の山では有名な山です。さらに世界遺産にもなりました。その素晴らしい山の麓に、宗祖日蓮大聖人の出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊が在すとなれば、一切衆生救済の観点から化導する過程でも相応しい霊場になります。
第二祖日興上人は『富士一跡門徒存知事』に、
「富士山は是日本第一の名山なり」(御書1873・御書全集1607)
と御指南であり、富士の立義が存すると拝します。
ゆえに、日寛上人が『文底秘沈抄』に、本門戒壇の大御本尊が富士の山下に在すために、富士山は広宣流布の根源となります。その本門戒壇の大御本尊は、令和時代、総本山大石寺の奉安堂に御安置されて、第六十八世御法主日如上人猊下が唯授一人の血脈相承の上から御所持あそばされております。そのため日蓮正宗の僧俗は、血脈相承あそばされた、時の御法主上人猊下を尊崇申し上げます。
この機会に、富士山は広宣流布の根源であることを今一度冷静に自問自答いただき、信仰の寸心を改めて日蓮正宗寺院に参詣下されば幸いであります。
宗祖日蓮大聖人『開目抄』に曰く、
「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然(じねん)に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。つたな(拙)き者のならひは、約束せし事をまことの時はわするゝなるべし。」(御書574)
