正林寺御住職指導(R2.6月 第197号)
新型コロナの緊急事態宣言は解除されました。しかし、信頼できる治療薬・ワクチンが開発されるまで先行きの見えない状況が続いており、様々な分野に甚大な影響を残しています。
安心して使用できる新薬(治療薬・ワクチン)が完成するまで、いくつもの段階を踏まなくてはならないようです。まず、薬の候補選びからはじまり、一般的に基礎研究には約2~3年が必要とされています。次に動物で効果と安全性を確認されます。信頼性を高めるために約3~5年の確認作業を要します。次に「治験」と呼ばれる段階になり、人に対して投与し効果や安全性を調べます。臨床試験とも呼ばれ、約3~7年を要します。以上の試験段階をクリアされた場合に、厚生労働省の審査を受けることができる承認申請が可能となり、審査と承認は約1~2年を要します。厚生労働省で承認されてはじめて多くの患者さんへ医薬品として使用が認められます。ふつうは薬が完成するまで、約9~17年かかるといわれています。さらに製造販売後も効果や安全性に注視しながら実績データをもとに薬の改良や開発に活かされていきます。
ところが、今回の新型コロナには異例のスピードで承認される流れがあります。国民の健康と生活を守るため、経済を失速させないため、来年の東京オリンピックのためなど様々な要因が重なり、異例のスピード承認へと新薬の開発が世界的に進められています。今現在も昼夜関係なく寸暇を惜しんで研究開発に取り組んでいる医療関係者がおられます。
以上が世間一般での新型コロナ対策へ最良な解決策と考えられています。一秒でも早く新薬(ワクチン)が開発されることを御本尊へ御祈念させて頂き、安心して多くの方へ早く届くように祈りましょう。
宗祖日蓮大聖人は『曽谷殿御返事』に、
「やくびゃう(疫病)はぐち(愚癡)よりをこり」(御書1386)
と仰せであります。疫病の新型コロナは、仏法の観点から貪瞋癡の三毒である愚癡が原因であります。
それは、どのようなプロセスからかといいますと、感染者が咳ではなく、口から他人へ何気ない愚癡を吐けば、言葉と同時に目には見えないマイクロ飛沫が口から出て空気中に漂います。同じ空間にいた人は、知らぬ間に飛沫を吸い込みます。疫病のウイルスは飛沫による感染経路があると考えられているからです。そのため口から出る飛沫を防ぐ目的でマスクの着用や三密の回避、外出自粛が必要になります。
大聖人の御在世当時は、現在と異なる衛生・医療の両面が著しく乏しい現実がありました。そのため疫病対策には、まず口から愚癡を発しないこと、九思一言が先決であるため「疫病は愚癡よりをこり」と明言あそばされ警鐘されたと拝します。たとえウイルスは地球上に存在しても人から人へ感染しない限り疫病とはならないからです。まさに、人の身口意の三業にわたる振る舞いが、ウイルスの運搬役となるからでしょう。ゆえに、何気なく発する愚癡が疫病を引き起こすことになります。感染経路には、接触感染・飛沫感染とがあり、飛沫(口)から接触(身)へと感染は拡大していくために、大聖人は「疫病は愚癡よりをこり」と拝します。
宗務院からの「疫病流行の真因を知り、たゆまぬ唱題と折伏を」には、
「世の人々は、仏法の正しい道理を聞いてもなかなか信じようとはせず、間違った教えや我見に執着し、ますます謗法を重ねるばかりです。こうした謗法による愚癡蒙昧の心と行為が、ウイルスを拡散させていると言っても過言ではないでしょう。」(令和二年四月十八日)
とあります。
「謗法による愚癡蒙昧の心と行為」に相当する、創価学会や顕正会による日蓮正宗への蒙昧な誹謗中傷も、疫病に拍車をかけていることは疑う余地がありません。法界に多大な影響があります。その一例ともいえる、創価学会は世界192ヶ国・地域に広がり正しいと自負しています。正しいのであれば、五濁悪世の法界は浄化されて新型コロナの疫病は世界各国にパンデミックなど起こらないはずです。法華講員80万人体勢を目指す宗門よりも、創価学会や顕正会が正しく多くの人が信じているのであれば、依正不二の原理により疫病が流行し生活への影響はないはずであります。
第六十六世日達上人は、
「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。」(達全第2輯6巻295)
と御指南であります。また、人の多さを根拠に正しさを主張する他のあらゆる宗教と仏教にも該当することであり、邪宗邪義の害毒が法界(依報/国土世間)に人口比率的(正報/衆生・五陰世間)にも蔓延している証左です。
しかし改心して、愚癡である創価学会や顕正会の宗門に向けられた誹謗中傷が皆無になり、他のあらゆる宗教や仏教も信仰の寸心を改めることが現実になれば、新型コロナの疫病等の影響も大御本尊の御威光により法界が動き、はやく終息に向かいます。創価学会が宗門に顕著な誹謗中傷を続けて、平成2年(1990)から約30年になろうとしています。顕正会が主張する国立戒壇は、日達上人が使用しないことを弾訶・淘汰の上から明言あそばされて50年の節目であります。それぞれの節目の時代に疫病が蔓延り、社会に影響することは、まさに大聖人は『聖愚問答抄』に、
「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。」(御書403)
と仰せである、謗法のみ多き邪宗邪義が原因です。
さらに、
「人の多きを以て本とすることなかれ」(御書402)
と仰せであり、広宣流布の根源を忘れた謗法のみ多い、創価学会員や顕正会員の多さに目がくらんではいけません。『呵責謗法滅罪抄』には、
「始めは緩(ゆる)やかに後漸々(ぜんぜん)に大事なり。謗法の者は多くは無間地獄に生じ、(中略)貧窮下賤(びんぐげせん)等、白癩病等と見えたり。」(御書711)
と御指南であり、予測される新型コロナの第2波・第3波による謗法罪障の果報に用心すべきです。
また、大聖人は『観心本尊抄』に、
「癡かは畜生」(御書647)
と仰せのように、愚癡を言う境界は畜生界という生命状態になります。仏法的には愚癡を言わないことが感染防止になります。愚癡を言う人と同座をすれば感染予防にはなりません。悪口雑言も愚癡に相当します。感染予防は御在世当時と現在も同じであります。また、こちらから愚癡を発する場合も感染予防にはなりません。これでは、いくら手洗いや咳エチケットなどを徹底しても感染は防げない場合があります。
このような状況を見据えられた大聖人の「疫病は愚癡よりをこり」との御指南とも拝します。
さらに愚癡から怒りへとエスカレートしかねない場合があります。外出自粛では怒りが爆発しかねない環境にあります。
大聖人は同抄に、
「瞋るは地獄」(御書647)
と仰せであり、怒(瞋)りは仏法的に地獄界の生命であります。疫病が原因となり愚癡が起これば地獄界の生命、怒りの感情が出やすくなります。まさに二次的問題発生へつながる負の連鎖の原因ともなります。
そのような状態になる前に感情を安定させるために御本尊への勤行唱題が必要となります。愚癡や怒りは御本尊に聞いて頂き、愚癡と怒りの扱い方を教えて頂いて、一家和楽できる道を開いていくことが大切でしょう。
一家和楽の「一家」は、一つの国家とも広い意味でいえるのではないでしょうか。日本の国民すべての人が、御本尊へ勤行唱題を現実に行うことができれば、愚癡や怒りの命が浄化され、新型コロナ感染症もスピード感ある終息につながるはずであります。
第二十六世日寛上人は『法華取要抄文段』に、
「心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや。十界互具、百界千如、一念三千、事行の南無妙法蓮華経これなり。」(御書文段545)
と、一家和楽の道理を仏法の観点から御教示であります。
さらに、ウイルスとも一家和楽を共有するため、人間と共存しながら生きていく道(ウィズコロナ)を模索する上で必要となる仏法的な見方では、新型コロナウイルスも仏法の視点から衆生であります。他のウイルスも同様です。
大聖人は『顕謗法抄』に、
「一切衆生悉有仏性」(御書291)
と、涅槃経に説かれていることを仰せであります。「一切衆生ことごとく仏性あり」と読み、すべての衆生に仏性(仏界)が平等に具わっていることであります。三因仏性の正因仏性に当たります。縁因・了因仏性は、大御本尊への絶対信と御法主上人猊下に対し奉る師弟相対の信心により具わります。
その教えのもとに新型コロナウイルスも仏性を具えているということになります。ところが、新型コロナウイルスが猛威を振るう姿(変異等)は、仏性が冥伏している姿であり、明らかに地獄・餓鬼・畜生・修羅の姿でしょう。それは仏・菩薩の振る舞いとはいえません。
しかし、愚癡を口から発するのではなく、御本尊に題目を唱えることで境界が開かれて、「妙とは蘇生の義なり」(御書360)との道理から仏性が蘇り、妙法の良薬を服することにより、疫病のウイルスに具わる仏性が開かれて、免疫力を具えた人間と共存しながら生きていく道が開かれていくことを確信いたします。まさに、医学的には抗体・集団免疫などと関連があり、仏法的には縁因・了因仏性が具わり開かれることでウイルスの境界が変わるということです。四悪趣への変異から、人間生活に馴染むため変毒為薬された仏菩薩の境界へとウイルスが変位する道理です。日頃から御本尊に題目を唱えている人の生命力は、あらゆる臓器が過去世からの罪障を保有するために、それぞれの臓器の健康状態に温度差があるなかにおいても、信力行力により御本尊に具わる仏力法力に触れて、ウイルスに具わる仏性が開かれて四悪趣から脱却できるということであります。疫病のウイルスに生まれることも十二因縁からは過去世からの罪障であります。また、免疫細胞の暴走が起こる場合があり、本未有善のため過剰な防衛作用がウイルス以外の健康な臓器には因縁により作用するため注意する必要があります。
第67世日顕上人は、
「一切を開く鍵は唱題行にある」(大日蓮・平成11年1月号5㌻)
と御指南であります。
その開く道が、末法のあるべき仏道修行となる自行化他であります。口から発せられる言葉が、愚癡であるか、題目であるかで、生命も浄化されて免疫力もバランスを維持しながら向上し疫病の蔓延を防止される働きがあり、さらなる六根清浄の功徳を積むことになります。
大聖人は『御義口伝』に、
「南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり」(御書1801)
と仰せであります。御本尊へ題目を唱える時の大歓喜には、免疫力を向上するためと免疫力の過剰な働きをバランス良く維持する作用があります。その体験は多くの法華講員さんが経験されておられ、宗門の機関誌「大白法」等に紹介されています。
その現証ともいえる例証として海外では、日本での新型コロナ感染者数と死亡者数が、欧米と異なる少人数に様々な憶測が議論されています。WHO=世界保健機関のテドロス事務局長は、日本の新型コロナウイルスの封じ込めについて「成功している」と、今後も感染者を発見するなどの措置を続けていく必要があると見解され、評価する考えを示しました。日本では専門家会議の見解として、国民の高い健康意識や積極的なクラスター対策がウイルスの封じ込めに寄与したと評価されています。iPS細胞研究で有名な山中伸弥教授は「ファクターX」を提唱されて、日本人には諸外国の人と異なる何かが存在することを「ファクターX」と呼称されています。
日蓮正宗の僧俗の立場からは、宗祖日蓮大聖人が御誕生あそばされ、立宗宣言後からはじまる七百六十数年前から令和時代に至るまでの折伏による逆縁成仏の功徳との現証と拝します。世間からは難信難解ゆえに理解しがたいことでしょう。
未だ、入信や勧誡に至らない人の命にも、聞法下種という十二因縁の上から過去世・現在世の日蓮正宗僧俗の下種折伏が毒鼓の縁となり、一生成仏させて頂けるチャンス(金剛宝器戒等)が確実に残されています。
まさに御法主日如上人猊下は、
「末法の本未有善の衆生は、三大秘法の南無妙法蓮華経の御名を聞いて仏縁を結び、これが因となり、成仏得道に至ることができるわけでありますから、
『とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり』(御書1316)
と仰せのように、謗法の者に対しては、とにかく強いて妙法を説き、下種折伏をしていくことが肝要なのであります。
なぜなら、今、末法は謗法が充満し、ために多くの人々が知らず知らずのうちに悪縁に誑かされ、邪義邪宗の害毒によって不幸の境界から脱することができずにいます。こうした人々を救済していくためには、正像過時の如き摂受ではなくして、破邪顕正の折伏をもってすることが最善であり、折伏こそ末法の一切衆生救済の最高の慈悲行であります。
特に、昨今の騒然とした国内外の様相を見る時、私どもはその原因がすべて邪義邪宗の謗法の害毒にあることを知り、今こそ持てる力のすべてを出しきって、一人ひとりの幸せはもとより、全人類の幸せと全世界の平和実現のため、一天四海本因妙広宣流布達成を目指して、破邪顕正の折伏を断固として実践していかなければならないと思います。」(大日蓮 第881号)
と御指南であります。その実践の結果として、現証としても、日蓮大聖人の出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊が在す日本国であり、七百数十年かけて「東土」(御書678)の三世間が浄化された尊い仏果(冥益)であることを確信いたします。
信心の上から「ファクターX」とは、日蓮正宗僧俗の弛まぬ折伏実践、たとえ折伏成就には至らなくとも確実に「法華経を強ひて説き聞かすべし」との逆縁成仏の成果が日本国土にあることを法華講衆は誇りとすべきでしょう。そして、さらなる御命題達成に向けて精進することであります。
今後、新型コロナも第2波・第3波が懸念されています。この懸念を払拭させるためにも、御法主上人猊下が御指南である「三大秘法の南無妙法蓮華経の御名を聞いて仏縁を結び、これが因となり、成仏得道に至ることができる」ことを確信して妙法を説き、下種折伏していく決意を新たにしましょう。
最後に、来寺の際は感染防止の取り組みとして、宗務院からの「新型コロナウイルス感染拡大予防ガイドライン」に遵守していただきますよう、ご協力の程お願い致します。現下では、支部講中の僧俗一致・異体同心を確立する過程で大事な取り組みにもなります。その取り組みは、今後の総本山へ登山させて頂く上にも活かされることにつながります。
宗祖日蓮大聖人『立正安国論』に曰く、
「倩(つらつら)微管(びかん)を傾け聊(いささか)経文を披(ひら)きたるに、世皆(みな)正に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相(あい)去り、聖人所を辞して還らず。是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる。言(い)はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず。」(御書234)
