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日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

創価学会参議会副議長 柏原ヤス女史の指導を破す

1991-08-07 | 時局資料

  新潟県婦人部活動者会(1991年・平成3年2月)における
   創価学会参議会副議長 柏原ヤス女史の指導を破す

              時局協議会文書作成班3班

 『法華経陀羅尼品第二十六』に、
「説法者を悩乱せば 頭破れて七分に作(な)ること 阿梨樹(ありじゅ)の枝の如くならん」(開結645)
と説かれている。柏原ヤス女史の指導をみると、その内容が支離滅裂である。これは、臆面もなく御法主上人を非難し、三宝を破壊することによってもたらした、「頭破作七分」の現証というべきであろう。
「林檎だの何だのってのは、みんな『置き場所』みたいなもんです。(笑い)みんなが欲しがらないように、御本尊様にあげてんです。(笑い)」
 これが、最高幹部の指導であろうか。開いた口が塞がらないとはこのことである。また、これを聞いている多くの学会員は、漫才でも聞いているかのように笑っているが、日蓮正宗の信仰をする者として、何ら「おかしい」と思わないのだろうか。
 牧口門下生と称するように、信心歴も長く、また学会の参議会副議長といういかめしい役職を肩書きとしてもつだけに、さぞ立派な指導をするのであろうと思っていたら、とんでもないことであった。本宗の信心の基本すら弁えず、池田創価学会の御都合をごり押しするために、ただ単に全体を通して品性のなさを露呈しているだけの話(指導というには程遠い)である。
「私だって50年信心してんだよ、これでも…、自慢するわけじゃないけど。(笑い)」
と、50年の信心を自慢げに話しているが、むしろ長い間に慢心が女史の心に遍満し、清らかな信心をどんよりと濁してしまったのであろう。つねに己心の魔と闘っていないと、こういう結果になるのである。50年間信心しても、なお恥さらしの指導をしている女史が、本当に哀れである。
 ところで、今回の柏原女史の指導は、大きく4つに分けることができる。これは、創価学会首脳が、かねて宗門に、「お願い」としているところの、
 開かれた宗門であってほしい。
 信徒蔑視をやめていただきたい。
 少欲知足の僧であってほしい。
の、3項目を骨子としたものである。創価学会は、表面上、いつもこのように紳士的であるかのような言葉を使うが、実際は、御法主上人をはじめとする宗門僧侶や寺院に対する軽視等々、池田大作氏が信仰の基本すら弁えずに放言しつづけたことを、単にすり替えたものでしかない。当然、柏原女史も、こうしたすり替えを基として、宗門を侮蔑した内容の指導をしているのである。すなわち、世界宗教、信者蔑視、僧侶の堕落などを挙げ、我見・慢心による捏造によってそれらを述べ、最後に質疑応答を設けて終わっている。そこで、以下、4つの項目に分けて破していくことにする。


1.「世界宗教になってほしい」について

 柏原女史は、「日蓮正宗が世界宗教になってほしい」などといっているが、実際に話した内容は、まことにお粗末なものであった。
 その中で、「真言亡国・禅天魔」(実際は「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」の順でいい習わしている)云々と仰せられた大聖人の四箇の格言が時代後れであり、その教えに従う宗門人を「猿マネ」とまでいっている。そして、
「正直ってのは、嘘つかないってことじゃないですよ!」
と悪態をつく始末である。
「イラク・クウェ-ト戦争に池田大作氏が三度の提言をしたから凄い!」(趣意)
とか、更には、
「日蓮正宗の猊下っていう人は何も言わないんだねー。」
などと、御法主上人の尊厳性を蔑ろにする発言をしている。
 これは、目に見える表面の行動ばかりに気を奪われて、法の御祈念の尊さを知らない無信心の者の言葉である。
 総本山の御歴代上人は、700年間、1日も欠かさず世界の平和と一切衆生の幸福と成仏とを願って、丑寅勤行を奉修してこられたのである。すなわち、政治・経済の改革というよりも、日蓮大聖人の正しい仏法による平和・幸福を第一とされているのである。その尊い御祈念と、僧俗一致による広宣流布の実践とによって、今日、世界の平和と人類の幸福がなされつつあるのである。
 したがって、信徒の方々が世界の平和と人類の幸福のために、政治・経済などのあらゆる分野で活躍することは、まことに結構なことであるが、それにからめて逆に御法主上人を非難することは、おかど違いというものである。これは、日蓮大聖人の教えの根幹を知らない愚者のなすことである。


 (1)四箇の格言に対する暴言

 柏原女史は、
「権威を振りかざして民衆の上に君臨する宗教は、それは宗教ではない。こういうものがのさばっている限り民衆の幸せはない。牢獄だ! こういうふうに(大聖人は)おっしゃったんです。」
と述べている。しかし、宗祖大聖人は、こんなことを根本問題とされたのではない。民衆が、なぜ苦しんでいるかといえば、
『立正安国論』に、
「広く衆経を披きたるに専ら謗法を重んず、悲いかな皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る、愚なるかな各悪教の綱に懸って鎮に謗教の網に纏る、此の朦霧の迷彼の盛焔の底に沈む豈愁えざらんや豈苦まざらんや」(全集32)
と仰せのごとく、正法に背き、謗法を重んじているからである。つまり、邪法が不幸の原因なのである。したがって、大聖人は、邪法を退治し、正法を立てることの大切さを指南されたのである。
 更に、女史は、
「それを、またね、真言亡国・禅天魔なんてさあ、いう必要ないんですよ。大聖人様は、『なんだ、猿マネすんな』と、『もう、わしが切ってるのに、何、時代遅れじゃないか』」
と述べている。宗祖大聖人の四箇の格言を、何と心得ているのか。大聖人は、衆生を救うために邪宗破折をされたのである。本因下種の仏法は、大聖人の滅後、唯授一人血脈付法の御法主上人を中心として流通する師弟子の法門である。したがって、師匠たる御法主上人の御指南をもとに、折伏弘教を実践することが大事なのである。
 第2祖日興上人は、日蓮大聖人に常随給仕をして、その御精神を受けつがれたのである。また、第3祖日目上人も、大聖人に7年間、常随給仕をされている。
 『日興跡条条事』に、
                甲 州
「十七の才日蓮聖人の所に詣で   御在生七年の間常随
              身延山
給仕し云云」(聖典519)
と仰せである。その日目上人が、42度も国諌をされた御功績は、あまりにも有名である。その42度目の国諌の途上、伊吹おろしの美濃の垂井の地で、御遷化されたのである。日目上人は、御遷化の夕べに至るまで、御遺命達成のため、四箇の格言の御精神を貫きとおされたのである。
 この御精神は、第4世日道上人、第5世日行上人以来、代々の御法主上人に伝えられてきたのである。
 その御精神を伝える化儀が、毎年、御大会(ごたいえ・末寺の場合はお会式〈えしき〉という)で奉修される、『立正安国論』と『申状』の奉読である。それを「猿マネ」と発言するとは、宗祖大聖人、日興上人、日目上人の御精神を冒涜するものであって、まさに本因下種の仏法に対する反逆行為と断ずるものである。
 『日興遺誡置文』の、
「一、富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」(全集1617)
との御遺誡を、よくよく肝に銘ずるべきである。


 (2)正直についての暴言

 柏原女史は、
「正直ってのは、嘘つかないってことじゃないですよ!嘘つかなきゃ生きて行けませんよ! そうじゃないの!(笑い)今日1日は嘘つかないで暮らそうと思ったって、ちっとももたないわよ。(笑い)嘘をつかないってのが正直ってんじゃなくて、正しい正法を信じることが正直。」
と暴言を吐いている。これが、世界宗教になるための条件だろうか。これなら、テ-プレコ-ダ持ち込みを禁止することも、容易に理解できる。この創価学会首脳の歪んだ姿、考え方を世の中の人が知ったら(その体質は、現在、知られつつあるが)、誰も創価学会を信用しなくなるだろう。
 「正しい正法を信じることが正直」と、さも正論を述べているようであるが、そもそも正法を正しく信じていないのが、創価学会首脳の現実の姿ではないか。正しい法を正しく信じていたら、今回のような問題は起こるはずがない。当家の三宝を正しく拝せず、かえって非難しているようでは、到底、正法を正しく信じているとはいえないのである。
 また、仏法においては、小乗教においてすら、正直を旨とすることが説かれているのである。まして、「仏法は体、世間は影」との道理からして、世間法においても、やはり正直を旨としなければならないことは、理の当然であろう。それを、「嘘をつかないってのが正直ってんじゃなくて」などと、大勢の面前で、恥ずかしげもなく放言しているのであるから質(たち)が悪い。これならば、「創価学会というものは、嘘を平気でつき、嘘を塗りたくって自らを美化し、また嘘をもって他を攻撃する団体である」と評価されても、何らおかしくはない。いや、実際に宗門や脱会者に対して、口コミなどをもってなされる誹謗悪口の数々が、まさに嘘ばかりではないか。その嘘のために、どれほど多くの人々が苦い思いをしているか、知っているのだろうか。
 こうした言葉を聞くと、やはり1億7千万円入り金庫の遺棄事件や、ルノワ-ルの絵画疑惑事件などにおける学会首脳の釈明は、やはり嘘ではないかと勘ぐりたくもなる。


2. 会員蔑視 

 柏原女史は、池田氏や他の大幹部と同様、虚偽捏造をもって苛烈に僧侶を侮蔑しながらも、それを僧侶の信徒蔑視へと姑息にすり替えている。
 例えば、
「信者を好き勝手にさ-、こき使ってさ-、働かせてね、御布施をさせてさ-、『持ってこい!』っていうんだから、凄いじゃないの。」
と、僧侶が信徒に対して威を張ってこき使い、まるで金づるでも捕まえたかのように、信徒に御供養を強要しているように放言しているのである。このような態度をとっている僧侶が、一体、どこにいるというのか。いるというのならば、挙げてみればよい。それとも、女史自身が、実際にこのような僧侶に接したというのか。嘘もいい加減にすべきである。寺院に参詣しない、いや参詣しようともせず、本宗の信仰の基本すら弁えていない女史のような無信心の輩に、本宗の僧侶のことなど判ろうはずがないのである。その証拠に、本宗でいう御供養を、女史は平然として「御布施」といっているではないか。このような輩に、宗門のことを云々する資格などない。
 また、上記の発言について更にいえば、それは、まさに現在の創価学会の姿そのものに当たるであろう。金集めの中でも特別財務は、その最たるものである。全国の一般会員から、年間、一般常識では考えられないほどの巨額なお金を、数日にして集めるといわれている。しかも、去年までは言葉巧みに「御供養の精神で」などと意義付けをしたり、(週刊誌に掲載された竜氏の指摘によれば)大病で入院し、困窮している会員にすら、寄付を強要していた者もいるといわれているではないか。ある学会内部からの報告によれば、その多くは池田氏を中心とする学会首脳幹部の活動や会館建設、そして職員等の給料に使われるというのである。したがって、女史のこの発言は、そのまま女史並びに学会首脳にお返しするものである。
 なお、このような学会自身の金集め体質を、あたかも宗門僧侶の体質であるかのようにすり替えて、宗門僧侶を誹謗し、一般会員を洗脳せんとする柏原女史の果報は、必ず無間大坑(だいきょう)にあることを思い、恐れるべきである。


 (1)御供養への暴言

 柏原女史は、また、
「南条時光が大石寺に膨大な土地を御供養しているんです、ね。東西500メ-トル、南北2キロ、これ計算しますと30万坪ですね。そういう広大な土地を御供養してんのよ。みんな信者が、御供養してんです。坊さんが稼いだわけじゃないのよ、また稼がなくていいけどさー。(若干笑い)」
とも述べている。女史は、このような暴言を吐いて、日興上人に申しわけない発言をしてしまったと思わないのか。日興上人は本宗の僧宝であり、大聖人より唯授一人の血脈を相承された本門弘通の大導師にまします方であることを忘れてはならない。南条殿にしても柏原女史の発言は心外に違いない。
 日興上人は、正法正義を守るため、正応2年春、大聖人から付嘱された身延の地を、万感の思いを懐いてやむをえず離山されたのである。若き南条時光殿は、清らかな求道の信仰心と大法護持の信念とによって、喜んで日興上人をお迎え申し上げ、大檀那として大石寺を建立寄進され、外護の任を全うされたのである。南条時光殿の生涯を拝すれば判ることであるが、「大石寺は我々信徒が御供養してやったのであって、坊さんが稼いで建てたわけじゃない」などというような傲慢な気持ちは、いささかも感じられない。この南条時光殿の純粋な正しい信心による御供養の精神を、女史は上記の発言をもって、現在の池田氏をはじめとする学会首脳の御供養の精神と、いたずらに一致させているのである。これは、まさに南条時光殿の信心を冒涜するものであり、その真心を踏みにじるものである。
 また、柏原女史は、
「それで、このたびは、開宗(開創?=筆者注)700年というめでたい本山のお祝いがあったでしょう? 全部、創価学会の御供養でやったんじゃないのよ。」
と述べている。治生産業に生きる本宗の信徒が、本因下種の三宝に御供養申し上げることは、その信心の表われとしてむしろ当然であり、その信心に功徳が具わるのである。同様に、浄心の御供養でなければ、当然、その功徳も具わらない。信心の基本が狂っているから、このような発言になるのである。
 また、本宗の法要行事の一切が、信徒の純粋な御供養によって執行されていることは、女史の上記発言のとおりである。しかしまた、元来、謗法の施を受けない宗門に、創価学会員が御供養をすることができるのはなぜか。それは、学会員である前に、日蓮正宗の信徒だからである。いわば、本宗のよき信徒であることが、学会員の誇りでなければならないのである。学会員は、このことを冷静に考え直さなければならないであろう。
 日興上人は、『日興遺誡置文』に、
「一、謗法の供養を請く可からざる事」(全集1618)
と仰せである。謗法の徒は、御供養をしたくともできないのである。日蓮正宗の信徒であるからこそ、本因下種の三宝に御供養することができるのである。三界六道に流転する身であった者が、たまさか人身を得て、正法に巡り遇い、仏道を行ずることができたのである。このように考えたとき、現在、こうして下種三宝に対して、御供養のできる我が身を幸せと感ずることこそ、信心ある者の証(あかし)である。もし、柏原女史が、このように感じたことがあったならば、「みんな信者が、御供養してんです。坊さんが稼いだわけじゃないのよ。」
などとは、間違ってもいえないであろう。
 また、宗祖大聖人は、『衆生身心御書』で、
「ひへのはんを辟支仏に供養せし人は宝明如来となり・つちのもちゐを仏に供養せしかば閻浮提の王となれり」(全集1595)
と、阿那律と徳勝童子・無勝童子の故事を引かれ、真心による御供養の大切なことを述べられている。
 阿那律は、わずか1杯のひえの飯ながら、辟支仏に対する、全てを捧げた真心の御供養の功徳により、普明如来となったのである。また徳勝童子・無勝童子は、土の餅を仏に供養して、後に大王と生まれることができたのである。
 柏原女史のような信心歴の長い人が、このような御供養の基本的な精神を知らないとは、何とも悲しい限りである。しかも、柏原女史の発言には、「御供養をしてやったのだ」という気持ちが、ありありと表われているのである。このような、功名心や恩をきせるためのものであるならば、それは単に慢心を露呈しただけであって、決して御供養とはならない。婦人部の最古参の指導者であるならば、御供養の大小をもって自慢するのではなく、本因下種の三宝に対する真心の御供養が大切であるということを指導していただきたいものである。
 ともあれ、もともと御供養は、信徒各位の信心によるものであって、三宝から強要されるものではない。したがって、無信心により、慢心を起こして悩乱した池田氏や柏原女史などのような輩は、下種三宝への御供養などする必要はない、いや御供養する資格自体がないことを、ここで述べておくものである。
 なお、蛇足ながら、「全部、創価学会の御供養」と述べているが、法華講員もいることを忘れてはならない。真心は、皆、平等なのであるから……。


 (2)11・16テ-プ訂正の曲解

 柏原女史は、
「すぐ取り消しましたけども、『こういった、あーいった、あーだとかこうだとか』ケチつけて、それで池田先生の総講頭の首を斬るって理由にした。ね、それで間違ったことをテープから聞き出して、インチキテープ聞いてんだもの。『そんなテープでねー、先生のおっしゃったことを聞いているんじゃ駄目です。ちゃんとしたテープがありますから、それをみんなで聞きましょう。それで、あなたたちが考えていってるのと、どこが違うか、正しいか。それをキチッとしなければ話になりませんよ』っていったって、『そんなこと、やだ』っていうんです。やだっていうか『必要ない』って、ね。」
と述べている。嘘をいうのはやめなさい。昨年12月13日の連絡会議の折、「創価学会の保存テープと聴き比べてはどうか」ということを提案したのは、宗門の側である。それに対して、当初、秋谷会長以下学会首脳は、「スピーチの折には記者が注意しながら筆記しているから、テープは録っていない」とか、「ビデオテープもない」などと嘘をついたではないか。それでも、結局、秋谷会長はいい逃れをしきれずに、最後はしぶしぶ録音テープの存在を認めざるをえなかったのである。
 柏原女史といい、山田徹一氏といい、どうも学会では、学会保守のために、嘘ばかりつける人間が、参議に名を列ねることになるらしい。信仰組織の参議に名を列ねるならば、最低限、事実の確認くらいはして、正直に事実を述べるべきである。信心をしている者が、このような事実を覆い隠して捏造するという非倫理的なことは、見苦しいのでやめなさい、といっておきたい。
 さらに女史は、
「それから後になって聞き方間違っていましたから、『訂正します、訂正します、訂正します、訂正します』って、全部訂正しちゃった。それで、池田先生を総講頭をやめさせるっていうんなら、やめさせるっていうことを訂正しなきゃなんないでしょ? そうじゃない?」
と述べている。
 ここでも、「全部訂正しちゃった」と、平気で嘘をいっている。「お尋ね」においては、確かに4箇所の反訳の相違があった。しかし、それらは基本的に質問内容と関わりのない箇所であるか、あるいは反訳の相違によって池田氏の発言内容が変わるようなものではない。したがって、本来、これらの質問は全て有効なのである。なお、伝聞箇所については、証人の立場を考えた上で撤回したのである。
 ところが、学会では、宗務院の誠意ある訂正を、平成3年1月15日付の『聖教新聞』の第1面で、「テープの誤り認め質問撤回」などと、ことさら針小棒大に取り上げたのである。このように、反訳の相違点のみを取り上げて、宗門の非をあげつらうのは、まさに学会特有の姑息なすり替え戦術によるものなのである。また、森田理事長は、「公式謝罪を強く要求」との見出しで、
「事の重大性からみれば、名誉毀損等の告訴や裁判も考慮しなければならない問題ですが、名誉会長からは、我々の目的は、どこまでも僧俗和合の推進にあることから、寛大にとの意向もあるので」
などと、白々しく述べているのである。
 もし、ここまでいえるのならば、なぜ総監からの文書(1・1回答への指摘)の全文を掲載しないのか。その答えは簡単である。全文を掲載すれば、質問を全面的に撤回したのではないこと、宗務院入手のテープが改竄テープでないこと、したがって学会の非が明らかになってしまうからである。
 それを、『聖教新聞』には、上記のように載せ、まるで「お尋ね」自体が、宗務当局の策略であるかのように仕立てたのである。これは、逆に宗門を陥れ、一般会員を欺瞞する策略である。森田理事長は杉並ビクトリー勤行会で、世間の識者が創価学会を「人間に優しい」団体といっていると紹介しているが、このような現実を目の当たりにすると、優しいどころか、人権を侵害するのが、創価学会首脳の本当の姿であると判るのである。(なお、このことに関しては、時局協議会文書作成班4班による“学会からの事実歪曲の「宗門『お尋ね』文書事件についての見解」を破す”に詳しい。)


 (3)御法主上人への暴言

 柏原女史は、
「猊下ってね、不勉強じゃないのかしら? ね、不勉強なんてもんじゃないですよ、何かどっか、おかしいんじゃないの?(笑い)不勉強なんていうのはね、まだね、そんな馬鹿なことはさー、いわないわよ。『おかしいんじゃないのー』っていいたくなるじゃないの! そんなこと、私はいいませんよ。(爆笑)ウン? 本当に、そういう、フフフね?(会場より「いってるじゃないか!」との声あり)」
と述べている。何たる暴言か。柏原女史には、御法主上人の御指南をたまわるという、信仰の基本姿勢は微塵もない。
 『日興遺誡置文』の、
「一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事」(全集1618)
との御遺誡を、何と心得ているのか。本宗は、相伝の仏法を信受するところに、信仰の要があるのである。相伝の仏法を所持される御法主上人を、「不勉強じゃないの」「おかしいんじゃないのー」とは、信徒にあるまじき発言である。本宗では唯授一人血脈付法の御法主上人に対する、師弟相対の信心を教えるが、学会では人生の師匠と師弟不二の境涯になることを教えているらしい。女史の不遜な精神構造は、池田大作氏の精神構造と全く同じである。そういえば、「そんなこと私はいいませんよ」との発言は、まさに池田大作氏の発言とそっくりではないか。たまりかねた出席者から、「いってるじゃないか!」との声があがる始末である。女史は、学会の最高幹部の一人として、己の身の誤りを深く反省すべきである。そして、嘘で固めていく人生を歩むことは、直ちにやめるべきである。
 また、女史は、
「坊さんの中には変な坊さん、いるかも知んないけど、猊下さんには、そういうことは、ね、学会のことを良く仰せくださる猊下様ーと思ってましたよ。そうじゃないの?ただ、段々段々その、裏切られてくるから、ね。もうここで私達がしっかりしなきゃダメだ。ね、この信者を奴隷のように、ね、考えてる、そういう考え方は、大聖人様の御精神から外れてんじゃないか?」
と述べている。しかし、日蓮正宗の信仰から大きく逸脱して、御本尊を利用し、大聖人を欺き、御法主上人を裏切ったのは、他でもない、池田大作氏ではないか。
 かつて、昭和52年路線の誤りを、率直に認めたはずではなかったのか。いわゆる6・30、11・7でお詫びをすると同時に、翌年4月下旬に至って、池田氏は一切の責任を取って、総講頭職と会長職を辞任したのである。御先師日達上人は、池田氏が院政を敷かないということも含めて、創価学会のそれまでの誤りを許されたのである。その翌昭和55年4月2日、池田氏は『恩師の23回忌に思う』と題する随筆の中で、
「永遠に代々の御法主上人猊下を仏法の師と仰ぎ奉り、強き広宣流布の戦士たる誇りも高く、さらに日蓮正宗の信徒として、いっそうの外護の任を全うしてまいる決意であります。」
と誓ったではないか。
 しかし、池田氏をはじめとする学会首脳幹部は、これらを裏切って、敷いてはならない院政を敷き、破ってはならない決意を破ったのである。その証拠が、11・16における、御法主上人並びに宗門僧侶に対する非難中傷ではないか。
 こうした池田氏の慢心を、既に御法主上人は見破られていたからこそ、あらゆる機会において善導されようと、種々御注意をされていたのである。それは、池田氏もさることながら、その影響下にある一般信徒を思われてのことである。それを「信者を奴隷のように」などと、よくもいえたものである。もっと清らかな信仰心を持つよう、心掛けるべきである。


 (4)戸田会長の指導に背反

 柏原女史は、
「『本山はこういう有り様だから、1年間に1世帯50円の御供養を本山にできないでしょうか? お願いしたい。』お山が呼びかけた。
 そしたらね、『かしこまりました』っていう人、1人もいなかった。逃げちゃった、みんな。『集めたお金が、また無駄になるから。使ったお金が、ちゃんと使われるかどうか判らないから。』そんなこといって、みんな逃げちゃった。ね、その時に池田先生(戸田先生の間違いか-筆者注)がですね、決然と立ってね、『御供養をするのは信徒の務めだ。何に使われようと、御供養はもう出したものなんだから、お山がどんどんお使いになっていただければいい。仮に、不正に使ったらば、その使った僧侶が罰を受ける。地獄に行くんだから。そんなこと、一々私達がいう必要はない、いう必要はない』っていってね、『私達は、清らかな御供養をしましょう』っていうことになったわけ。」
と述べている。まことに立派な戸田会長の信心を見る思いである。
 ところが、今はどうか。「これでいいのか塔婆供養」「これでいいのか正宗の御講」などという記事を連載し、嘘を折り混ぜて、宗門攻撃をしているではないか。個人のプライバシーまで踏み込んで、財産はどのくらいあるかとか、挙げ句の果ては何を買ったかまで、こっそり調べあげる陰湿さは、学会組織の体質を如実に物語るものである。民主を口ずさみする人達のすることかと思うほど、平気で破廉恥なことを行なっているのが、学会の実状であろう。これが、「人に優しい」団体のすることかと疑うものである。このようにして得た情報に嘘を折り混ぜて、公称数百万部といわれる『聖教新聞』や『創価新報』などで、悪態をついてせせら笑っているのであるから、創価学会首脳幹部は、その表と裏の顔の相違を、世間一般にまざまざとさらけ出しているのである。
 一般の学会員も、首脳部の方針と違う行動をとれば、いつ同じようなことをされるか、判らないのである。実に恐ろしい団体である。
 さらには、邪宗の新聞『中外日報』まで使って宗門攻撃をし、それをわざわざ、各寺院に贈呈までしているではないか。信心の基本が狂っている証拠である。戸田会長は、さぞかし嘆いていることだろう。


3.僧侶の堕落について

 創価学会においては、柏原女史の指導に限らず、本年初頭から今日までの長期にわたり、ひたすら真実をねじまげた報道を行なって、御法主上人並びに宗門僧侶のイメージダウンを謀っている。
 公称発行部数が数百万部といわれる『聖教新聞』、並びに何百人もの信徒を前にしての学会最高幹部の一人の女史の指導であれば、その発言が、微塵も真実をゆがめるものであってはならないはずである。しかるに、女史の発言にも見られるように、現状は真実を捏造した僧侶堕落論であり、宗門僧侶蔑視の発言である。その言動の帰趣するところは、有髪・背広の幹部を主体とした、「学会は主、宗門は従」の在家仏教の確立である。これは、日蓮正宗の血脈相承の大事、並びに当宗の三宝を破壊する謗法行為であると断ぜられるものである。
 翻って、総じて創価学会並びに女史の発言を見るとき、そこには大聖人及びその教えに対する、軽視・蔑如の意識が存在しているのである。すなわち、それらは、真実の捏造にことよせた僧侶堕落論・僧侶蔑視論であるが、その僧侶蔑視論が、実は仏法を軽んじ、仏法を蔑如しているのである。我々は、これを看過することができない。
 宗祖大聖人は『聖愚問答抄』に、
「仏法は強ちに人の貴賤には依るべからず只経文を先きとすべし身の賤をもって其の法を軽んずる事なかれ」(全集481)
と御教示である。確かに、末寺僧侶の中には、若輩にして非才の者もあろうが、その身の至らざるを誇張し、捏造して、大勢の会員の前であげつらい、『聖教新聞』や『創価新報』などに掲載するその姿は、大聖人の法を軽んずる謗法行為につながるのである。『持妙法華問答抄』には、
「然らば則ち其の人を毀るは其の法を毀るなり其の子を賤しむるは即ち其の親を賤しむるなり」(全集466)
と御教示されている。僧侶蔑視とは、大聖人の仏法そのものの破壊であり、同時にその親たる大聖人に対しての誹謗なのである。大聖人は、また『四信五品抄』に、
「国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ(乃至)蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ、妙楽の云く『若し悩乱する者 は頭七分に破れ供養すること有る者は福十号に過ぐ』」
(全集342)
と御教示である。我れ賢しとの驕りと、自己の非を省みない独善体質をもって、大聖人と大聖人の法とを汚していく。その無慚無愧な心根を一日も早く改めなければならない。『日女御前御返事』には、
「法華経をば経のごとく持つ人人も・法華経の行者を或は貪瞋癡により或は世間の事により或は・しなじなのふるまひによって憎む人あり、此は法華経を信ずれども信ずる功徳なしかへりて罰をかほるなり」(全集1247)
と御教示である。これまでに積んだ功徳の尽きないうちに、いや無間の果報を受ける前に、正道に立ちかえることを切に祈るものである。
 以下、女史の指導に対し、(1)僧侶妻帯を非とする邪説、(2)本宗と邪宗を同一視する無信心、(3)本宗の婚礼への勝手な解釈、の3点について、更に破していくこととする。


 (1)僧侶妻帯を非とする邪説

 柏原女史の指導を見るに、
「それから、徳川幕府が終わるまで、明治維新になる時まで、僧侶は奥さんを貰っちゃいけないってことになってた。邪宗であろうと、何であろうと。そのことについてさー、先生が、日蓮正宗のは奥さん貰って子供産んでどうのこうのっていったらさー、あの宗務総監がさー、池田先生がそういうふうにおっしゃたことをさー、池田先生の考えは小乗教の考えだ、小乗教の戒律の中では奥さんを貰っちゃいけないとか何とかっていうことはあるけれども、そんなことをいってるのは池田先生は小乗教の感覚で程度低いって、こういうふうにいってるんだ。なあにいってんだっていうだ、この。」
との発言に代表されるように、とても組織の最高幹部の指導とは思えない、低俗にして品性のない発言ばかりである。「なあにいってんだっていうだ、この」という指導を聞いた会員さんは、さぞ驚愕するとともに、落胆されたことであろう。
 更に、男女平等をうたう民主主義の世の中に、妻帯が汚らわしく低俗なことであるかのように表現しているのである。このような女性蔑視の発言を、女性である柏原女史が行なうことは、学会首脳が得意になって利用する「識者」の人達も、さぞ驚くことであろう。
 大聖人の仏法を、現代に脈々と活現する日蓮正宗で、化儀の時代即応があることは当然であろう。封建時代の女性差別が終焉した現代で、小乗戒律を標榜しない本宗が、妻帯を許して何の不可があろうか。それとも、創価学会では、宗門に対して、小乗教に変身して「教条的にヤレ!」とでもいうつもりなのであろうか。女史は、現在、全く寺院に参詣することがないとみえて、全くこのようなことも考えず、「珍妙な指導」を弄しているのである。文字どおり小乗戒律的、かつ低次元な仏教観の開陳である。


 (2)本宗と邪宗を同一視する無信心

 柏原女史は、更に、
「ね、そういうふうに信者を奴隷のように思って、そして権力と権威の上にのさばっている寺・坊主、そしてその陰には幕府の権力ってものがちゃんとあるんです。ね、じゃ日蓮正宗の中に、そういうのがないかっていうと、そんなことはない。同じよ、同じです、ね。」
と発言している。こと、ここに至っては、まさに信徒にあるまじき暴言と断ずる。本宗と他宗の正邪は御書に明らかである。日蓮正宗と邪宗とを同レベルとする発言が、よもや本宗信徒の口から公式の場でなされるとは、呆れてものがいえない。女史の「私だって信心50年やってんのよ」という50年、本宗信徒として何を信心し、学んできたのだろうか。信心50年の結晶がこの指導であるならば、女史が信じた50年の間の信仰は、断じて日蓮正宗の信仰ではない。
 また、更に
「だから、ね、私達の見解は、そういう信者を軽蔑する信者蔑視、信者は奴隷の如く自分の思いどおりになるっていう、その御僧侶の考え方を、反省していただく、やめていただく、大聖人様の御精神にもう一遍立ち戻って、日蓮正宗の繁栄のために、不幸の人を救うための日蓮正宗であっていただきたい、御僧侶御自身が。」
と、事実捏造に基づいた僧侶蔑視の発言をもって、僧侶のイメージダウンを洗脳しようとする。宗門には、信者を奴隷のように思いどおりにするような僧侶は、一人もいない。今の時代、そのようにされるような信徒もいるわけがない。それにもかかわらず、女史がこのようなことを放言するのは、それが事実を捏造してのイメージダウン作戦だからである。だからこそ、単なる感情論に陥ってしまうのである。

 (3)本宗の婚礼に対する勝手な解釈

 更に問題なのは、この感情論に基づいて、本宗の化儀を改竄しようとする作意である。すなわち、柏原女史は、
「私はね、自分の家の御本尊様の前で結婚式をやるのが一番良い。ね、こんなにありがたい御本尊様を、我が家に御安置して、それで、結婚式をすべきじゃないか。」
と発言する。これは、従来、寺院で行なっていた結婚式を、明確に否定する発言である。「自分の家の御本尊様の前で結婚式をやるのが一番良い」という指導が、大聖人・日興上人・御歴代上人の御指南に存在するのだろうか。
 更に、また女史の指導が正しいとするなら、従来、寺院で婚礼を行なった人々は、「一番良い」化儀以外で行なったことになる。それでは、今までの創価学会員は、ウソを教わり、ウソを同志に教え、ウソを自ら行じてきたことになる。まさに支離滅裂な女史の発言というべきである。
 また、女史は、前発言に引き続き、
「それで本人が、『本当にそうだ』と、『大事な、年中、拝んで…自分の拝んでる御本尊様の前で、結婚式をやろう。死んだお父さんの前でやろう。』っていうんでねー、やったのよ。とってもね、みんなね、爽やかでね、そしてね、タダ!(笑い)お寺でやれば、30万、50万って払わなきゃなんない。
 それで後は、皆さんに御披露するっていうときは、今度はちゃんとしたところへ、場所を設けて、それでそこで中華料理を御馳走するとか。引き出物を、きちっと、それこそ安上がりなんだからさー。」
と発言する。まずもって驚くことは、「御本尊様の前」イコール「死んだお父さんの前」という、女史50年の信心に基づくところの無信心な発言である。祖霊信仰を廃することは、本宗信徒にとって当然である。“御本尊イコール亡父”とは、開いた口が塞がらない。
 まして、女史のいうように、創価学会員の婚礼での御供養が、30万円、50万円などとは、宗内でも聞いたことがない。その上、婚礼の御供養を、経費のごとく「タダ」とか「安上がり」などというに至っては、信徒の風上にもおけない暴言と断ずるものである。同時に、御供養とは何たるかを、50年かけても理解できない女史の信心に、哀れみさえ覚えるものである。この程度の信心・理解力しか持たない者が、最高幹部として学会内に君臨できるとすれば、創価学会という組織の在り方そのものを疑わねばならない。


4. 質疑応答 

 以上、見てきたように、柏原女史の指導は、はっきりいって支離滅裂である。当然、質疑応答の内容も支離滅裂である。その中、敢えて論折しなければならない点としては、 三宝に対する不認識、及び三宝破壊の暴言、 血脈相承の御法主上人と自分ら信徒とを同等とする大増上慢の発言、が挙げられる。
 女史は、質疑応答の中で以下のように答えている。
 「柏 原 そして僧宝は、日興上人。いいですか?そこだけ、
   そこが、あんた間違っているのよ。
質問者 じゃあ、日興上人だけだとおっしゃるんですか?
柏 原 そんなこといいませんよ。そんなこと、私は一言
   もいわない。日顕上人は血脈を受け継がれた67代
   の大事な方だ、っていう感じですよ。
質問者 その、血脈をどうして、いわれないんですか?
柏 原 いいんでしょう。そういうこと、あんた!それが
   判れば、僧宝というのは日興上人。いいですか?
質問者 日興上人様と、歴代御法主上人猊下様は、一緒で
   しょう?
柏 原 日興上人!そこだけを覚えなさいよ!(笑い)ね、
   じゃあ日興上人と日顕上人と同じかっていったら、
   違うじゃない? 日顕上人は67代の猊下様よ。
質問者 日達猊下様も・・・
柏 原 そうです!私達と、ちっとも変わらないわよ、同
   じよ。あんたは、僧宝を日興上人と、そういうよう
   に覚えていかないと、あんた、信心狂っちゃうよ。
   いい? そこを心配するのよ。あんた、…っていう
   から頭おかしくなるよ。まあ、ならなきゃまだいい
   けど。ね、いいですね?もし、判んなかったら、ま
   たあとで残って、よく教えてあげるから、ね。」
 質問者は、僧宝とは日興上人を随一として、総じて代々の御法主上人が僧宝にましますという正しい認識の上から、御当代日顕上人を尊信しなければならないと主張しているのである。
 しかし、これに対して、柏原女史は、僧宝の総別を知らないためか、あるいは知った上で、わざと歪曲せんとするためか、僧宝を日興上人のみとし、日目上人以下の御歴代上人は、一般信徒と同じ立場であると無理に強説しているのである。
 この誤まった三宝観については、既に『大日蓮』号外等で破折されているから、多くは述べないが、
「代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(『御本尊七箇相承』・聖典379)
「南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師」(『当家三衣抄』・六巻鈔347)
との宗門伝統の僧宝観より拝せば、女史の説は明らかに僻説である。女史の発言は、まさに日蓮正宗の三宝を、私に曲解する三宝破壊の暴言である。
 そして、その暴言の根底をなすのは、上記の「私達と、ちっとも変わらないわよ、同じよ」との発言に明らかなように、御法主上人をして信徒に同ずる女史の、否、池田大作氏以下学会首脳全体の大増上慢である。大聖人の仏法の法義に則って拝すれば、唯授一人の血脈相承という大事において明らかなように、御法主上人と一般信徒が同等であるわけがない。これは、人種や階級などの差別でも何でもない。大聖人制定の仏法法義上の差別である。あくまで同等であるといい張るなら、女史自身が、御本尊を認(したた)めることができるかどうか、血脈の上から考えてみるがいい(過去に類似のことを行なった大謗法の輩がいたが……)。そうすれば、上記の発言が、まことにもって御本尊・大聖人を恐れない大増上慢をもととすることが明らかになるであろう。
 柏原女史には、自らの言動が、いかに罪深い謗法であるかを一日も早く気づき、日蓮正宗の信仰の正道に帰られんことを祈るものである。

  以  上