正林寺御住職指導(R4.2月 第217号)
宗祖日蓮大聖人は『妙法比丘尼御返事』に、
「疫病(やくびょう)月々におこり」(御書1260)
と仰せの如くに、一昨年から新型コロナウイルス感染症は、第1波から数ヶ月ごとにおこり、現在は第6波の最中であります。仏法上、邪宗邪義が蔓延る総罰のため新型コロナ感染症のオミクロン株が猛威を振るい、感染者も第5波を大きく上回り先行きに様々な懸念があります。特に、感染者が増加して医療機関に止まらず、社会経済活動の機能不全となることが危惧されています。オミクロン株は、過去に感染が広まったデルタ株などに比べて皮膚やプラスチック表面での生存が長時間にわたることも感染拡大の一因との見解もあります。
世間では、年頭から他宗の「本尊に迷へり」(御書554)と大聖人が断定された、人々が多く集う寺社への初詣等の祈りが止まないため、三大秘法の大御本尊への帰依とは異なる、祈りが横行するために、「鬼神乱るゝが故に万民乱る」(御書249)との現証がコロナ禍であります。すでに他宗での本尊に迷える祈りでは、限界であることを物語っていますが、今尚続けられているのが現実であります。
大聖人は「種々の御祈祷(きとう)有り。爾(しか)りと雖も一分の験(しるし)も無く、還りて飢疫等を増長す」(御書367)と仰せであります。2月は、さらに増長させる他宗派での節分会でも謗法罪障を積むばかりであり、恵方巻きを食したところで一時的な幸福感は得られても、立正安国の教えからは解決できる問題ではありません。
御法主日如上人猊下は「令和4年1月度広布唱題会の砌」に、
「今日、新型コロナウイルス感染症の蔓延によって、日本をはじめ世界中が騒然として、各所で様々な支障と混乱をきたし、大きな障害となっておりますが、かかる時にこそ、私どもは『立正安国論』の御聖意を拝し、一人ひとりがしっかりと自行化他の信心に住して、妙法の広大無辺なる功徳を拝信し、たとえいかなる困難が立ちはだかろうが、決然として仏国土の建設を目指して、破邪顕正の折伏を行じていかなければならないと思います。」(大日蓮 令和4年2月号 第912号)
と御指南であります。
さて、大聖人は『撰時抄』に、
「南無妙法蓮華経と唱ふる癩人(らいにん)とはなるべし。」(御書838)
と仰せであります。「癩人とはなるべし」とは、必ずなりなさいとの命令ではなく、末法時代でなければ値い難い妙法への渇仰恋慕から、癩人の身であっても三大秘法の大御本尊へ身軽法重・死身弘法の御精神を御指南下された御書と拝します。その上から癩人であっても宿縁深厚を重んじ御本尊への知恩報恩が必要である激励的な御指南と拝します。
大聖人は、癩人の身にある人に対し病が治癒されるよう『妙法曼陀羅供養事』に、
「癩(らい)病の中の白癩(びゃくらい)病、白癩病の中の大白癩病なり。末代の一切衆生はいかなる大医いかなる良薬(ろうやく)を以てか治すべきとかんがへ候へば、(中略)末法の時のために、教主釈尊・多宝如来・十方分身(ふんじん)の諸仏を集めさせ給ふて一の仙薬をとヾめ給へり。所謂妙法蓮華経の五の文字なり。」(御書690)
と、仙薬となる本門の本尊を信じて本門の題目を唱えることで治癒されることを仰せであります。まさに『中務左衛門尉殿御返事』の、
「疫病は阿闍世王の瘡の如し。彼は仏に非ずんば治し難し。此は法華経に非ずんば除き難し」(御書1240)
と仰せであり、その果報として『蒙古事』に、
「現身に改悔(かいげ)ををこしてあるならば、阿闍世王(あじゃせおう)の仏に帰して白癩(びゃくらい)をや(治)め、四十年の寿(いのち)をのべ、無根の信と申す位にのぼりて現身に無生忍をえ(得)たりしがごとし」(御書1379)
と仰せであります。改悔して諸宗の本尊に迷える祈りではなく、御法主日如上人猊下は、
「万民一同が謗法の念慮を断ち、三大秘法の大御本尊に帰依することが、国土を安んずる絶対不可欠な要件である」(大日蓮 令和2年4月号 第896号)
との御指南に、極まります。
大聖人の「文の底にしづめたり」(御書526)との御教えから、一往である「癩」との病名の文字には、再往元意から拝させて頂くと、今世で罪障消滅するために経験するあらゆる心身の病や怪我等がすべて当てはまり、仙薬である是好良薬の妙法を唱える人とはなるべしとの御教示と拝します。
今、健康であっても生老病死の理からは逃れることはできません。大聖人は『太田左衛門尉御返事』に、
「本より人身を受くる者は必ず身心に諸病相続して五体に苦労あるべし」(御書1221)
と仰せであります。また現在、何かしらの病を抱え、この先の人生に不安を抱えていらっしゃる方は、妙法を唱える人となり、病と向き合って上手に付き合いながら生きていくことができます。それが御本尊からの有り難いお力です。消滅されていく経緯を心身に体験させて頂くことで「大歓喜なり」(御書1801)との歓びが生まれ、その歓びを伝えることが折伏成就へとつながります。さらには大果報として『瑞相御書』に、
「人の悦び多々なれば、天に吉瑞をあらはし、地に帝釈の動あり。」(御書920)
と仰せの「国土を安んずる」仏国土へとつながる明らかな現証があります。「人の悦び多々なれば」との「悦び」は「大歓喜なり」との意と拝します。恵方巻きを食した時の一時的な悦びとは天地雲泥した比較にならない瑞相のことです。当然ながら他宗の本尊に迷える祈りでは、皆無な瑞相になります。今年も今から夏場の豪雨や忘れたころにやってくる地震等の災いが危惧されます。しかし、他宗から信仰の寸心を改めた大御本尊への帰依により「天に吉瑞をあらはし、地に帝釈の動あり」との仏果があることを確信すべきであります。
その瑞相へとつながる第一歩に、病と向き合うためには、まさしく末法にあるべき仏道修行、自行化他にわたり向き合うことが必要であります。「人の悦び多々なれば」との現実化に必要不可欠な方法です。
自行化他以外、「今の世は(中略)無用なり」(御書403)となるため実現はありません。まさしく、諸宗の迷える本尊や法華経以外の読誦と般若心経等の写経による修行、また天台の観念観法、その他に、いろいろと工夫された座禅などの修業も難行苦行等の修練も、末法では無用となります。
では、末法に相応しい修行法の自行において、病が生じることで過去遠々劫の罪障消滅が御本尊への祈りにより叶えられていく、確実に叶えるためには、大聖人の「法華経を余人のよ(読)み候は、口ばかりことば(言)ばかりはよ(読)めども心はよ(読)まず」(御書483)と教え下されたことを誡めて、法華経を読む時には、ただ口や言葉だけではなく、心で読むだけでもなく、心で読むことがあっても身で読まないことでもない、色心不二の上から身と心で読むことこそが貴いのであります。つまり、「正を立てて国を安んずる生活様式」であり、それにより叶えられる道理です。その場合には、「始めより終はりまで弥信心をいたすべし」(御書1457)との仰せを心肝に染めましょう。「始めより終はりまで」とは、始めて知った時から最後臨終をむかえるまでのことであります。特に、日蓮正宗の信心を知った時に、御授戒を頂戴した時点から「始めより」との意味になります。
この自行により、御本尊に祈ることで健康になることは「病即消滅」(御書1222)の御教えから当然であります。ところが、次に申し上げる心得方が心中に有る無しにより、また「信心の厚薄」(御書1388)にもより果報に違いがあります。その心得とは、病にかかることは入信以前の悪業が消滅される過程で膿として心身から出されている現証であるとの認識です。これは後生善処、つまり末法万年尽未来際にわたり健康な心身になるため、今世一時的な「灸治のごとし」(御書1397)である通過点となります。その上から消滅されているとの実感が生まれ、知恩報恩の悦びにつながります。苦しい闘病との現実に全集中するのではなく、今世の未来と命終後の未来世を見据えて希望を持ち続けていくとの心得方になります。その心得が「大歓喜」へと通じていきます。
今世での人生数十年間で、「隔生すれば即ち忘る」(御書1112)との経緯から、過去世の記憶を思い出せない生死を果てしなく繰り返した過去遠々劫のあらゆる罪障を消滅させ切り、未来世からは自受法楽の境界のもと末法万年尽未来際まで病魔等に冒されず、御本尊のお導きにより後生善処を満喫させて頂ける境界であります。まさにそれは「真剣な勤行・唱題で歓喜の行動」により実現します。自身の罪障消滅は当然ながら、大聖人が『土篭御書』に、
「父母・六親・一切衆生をもたす(助)け給ふべき御身なり。」(御書483)
との仰せにもつながります。それは折伏により、折伏された人は「色心二法共にあそばしたる御身なれば」(御書483)との境界へと変わり、「積功累徳の人生」を堅固に「正直の信心」のもと実現可能であります。恵方巻きを食べたところで体験できる小さな境界ではありません。
なお、御法主日如上人猊下は「令和元年度 第16回法華講夏期講習会」の砌に、
「身心の苦悩を治す大良薬が法華経寿量品の事の一念三千である」(御書要文 三 P89)
ことを詳細に御講義なされ、心身の諸病の良薬である題目を唱えて、化他の折伏をするよう御指南あそばされました。
次に化他においては、「衆生無辺誓願度」の観点から、あらゆる病の経験が一切衆生救済のためにリサーチ(研究・調査)として活かされていきます。同じ病を経験している人に、励ましや勇気を与え三大秘法の御本尊により心身が健康になることを教えていきます。つまり折伏であります。これは「僧俗一致の折伏で広布へ躍進」につながります。
病も向き合い方により心身への負担は軽減されます。まさに転重軽受の護法の功徳力であり、御本尊に具わる力です。
ゆえに大聖人は『妙心尼御前御返事』に、
「病によりて道心はおこり候か」(御書900)
との御指南に由来されると拝します。信心をされて病気になることは恥ずべきことではなく、むしろ「癩人とはなるべし」との教えから病を機縁に菩提を求める心、仏道を信奉する心がおこり、化他・折伏行へとつながります。
さらには『法華題目抄』に、
「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり。(中略)妙の一字を持ちぬれば、いれる仏種も還りて生ずるが如し」(御書360)
と仰せのように、健康な心身へと境界は向上します。病によって道心が起こり、御本尊への唱題行により心身は蘇生されてよみがえることに確信を持って話すことが化他の折伏には肝心要です。
同時に、罪障多き身であることを知り、生老病死の理を知って、教えていくことも必要となります。つまり、六根の「衰」(御書1117)です。人の寿命は限られているために、十二因縁を十分に理解して、化他である折伏や育成には教えていく使命があります。
さらに、その自行化他を充実するためには「御報恩の登山と寺院参詣で人材育成」の実践が欠かせません。支部行事の活動対策会議にて、現コロナ禍中でも安心安全を心がけ創意工夫された方法を提案し、異体同心した共通意識のもとに推進啓発することが必要です。すべての心身の病は、大御本尊への絶対的確信のもと祈るところに「蘇生の義」があります。それが、御報恩の登山になります。また、過去遠々劫からの身心の病気が治る寺院へ参詣し、寺院に御安置の御本尊から身心が蘇生される是好良薬を頂くことができます。まさに、寺院参詣で人材育成には不可欠なことであります。
大聖人の「南無妙法蓮華経と唱ふる癩人とはなるべし」との御指南は、新型コロナウイルス感染症のようなウイルスが蔓延する時に、折伏弘教をどのように心得て活動していくべきかとの、凡智では計り知れない甚深の文意が存すると拝信申し上げます。
そして、いまだ信心されていない方で、邪宗邪義の害毒により感染症に悩まされている方、また、感染症に悩まされなくとも、周囲の感染症により経済面を不安視されている方に、信仰の寸心を改めて三大秘法の大御本尊を信じ、「南無妙法蓮華経と唱ふる癩人とはなるべし」と、一切衆生救済の観点から、大聖人は折伏弘教の「師子吼」(御書685)であると拝し奉ります。
最後に、今月は2月であります。伝統の2月と言われる理由には、宗祖日蓮大聖人の御誕生会、第二祖日興上人の興師会が奉修されるところが起源となり、日蓮正宗法華講の自行化他へと「報恩躍進」する道理、そして富士の立義からであります。
宗祖日蓮大聖人『土篭御書』に曰く、
「日蓮は明日(あす)佐渡国(さどのくに)へまか(罷)るなり。今(こ)夜(よい)のさむ(寒)きに付けても、ろう(牢)のうちのありさま、思ひやられていたは(痛)しくこそ候へ。あはれ殿は、法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば、父母・六親・一切衆生をもたす(助)け給ふべき御身なり。法華経を余人のよ(読)み候は、口ばかりことば(言)ばかりはよ(読)めども心はよ(読)まず、心はよ(読)めども身によ(読)まず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ。」(御書483)
