妙教 2004年2月(第136号)転載
大石寺と北山本門寺の歴史・第十五話
二箇の相承書の意義
二箇の相承書とは、『日蓮一期弘法付嘱書(いちごぐほうふぞくしょ)』と『身延山付嘱書』の二通の付嘱書のことです。日蓮大聖人が御入滅を間際にした時期に、御生涯をかけて開示・弘通された三大秘法の仏法の一切を、一門の棟梁(とうりょう)と定めた日興上人に付嘱され、広宣流布に向けての前進を遺命されたものです。
以下にこの二書を掲げます。
『日蓮一期弘法付嘱書』
日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此(こ)の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂(い)ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午(みずのえうま)九月 日 日蓮花押
血脈の次第 日蓮日興
『身延山付嘱書』
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当(べっとう)たるべきなり。背(そむ)く在家出家共の輩(やから)は非法の衆たるべきなり。
弘安五年壬午十月十三日
武州池上
日蓮花押
初めに挙げた『一期弘法付嘱書』は、日蓮大聖人が御入滅を前にした時期、弘安五年九月八日に身延山を発(た)たれますが、その前後にしたためられたものとされています。
「日蓮一期の弘法」とは、御生涯をかけて弘通された三大秘法の仏法、すなわち極(きわ)まるところ本門戒壇の大御本尊のことで、さらに大御本尊に具わる化儀化法の一切が日興上人に付嘱されたことを明らかにされています。その日興上人のお立場を「本門弘通の大導師」と定められ、御入滅後の一門の棟梁として、三大秘法の弘通を命じられています。
さらに、この弘通を進めていく中で、国主が帰依(きえ)をして広宣流布の様相が現われたならば、富士山に本門寺の戒壇を建立せよとの御遺命(ゆいめい)を示され、それまでは折伏弘通をしつつ時を待つべきである。「事の戒法」、すなわち本因下種仏法における戒法(受持即持戒を旨とする)とは、富士山に本門寺の戒壇を建立することであり、我が門弟・僧俗はこの状を守らなくてはならないと結ばれています。
日付の後に、唯授一人の血脈の次第として、大聖人より日興上人へ付嘱されたことを改めて示されています。
御当代日顕上人は、『一期弘法付嘱書』の付嘱を、法華経における神力品(じんりきほん)別付嘱の意義に準(なぞら)え、また次に掲げた『身延山付嘱書』にある「釈尊五十年の説法」の付嘱は、嘱累品(ぞくるいほん)総付嘱の意義に準えて、説示されています。
*「地涌の菩薩は神力品において結要付嘱を受け、さらに嘱累品において釈尊一代仏教のすべてを付嘱され、その内容をお持ちでありますから、その結要付嘱の意味においては『日蓮一期の弘法』という意味が示され、さらにまた嘱累品の釈尊仏法全体の上からは『釈尊五十年の説法』をお持ちなのであり、その上に『日興に之を付嘱す』と仰せになっておると拝せられる」(『大日蓮』平成一二・七P49)
次に『身延山付嘱書』については、御入滅の日である弘安五年十月十三日、武州池上右衛門大夫邸において、重ねて日興上人への付嘱を明らかにされたものです。「釈尊五十年の説法」を日興上人に相承される文に続き、日興上人を身延山久遠寺の別当に任じられ、一門の在家・出家において日興上人へ信順なき者は非法の衆であると、誡(いまし)められています。
この付嘱書について、「釈尊五十年の説法」すなわち釈尊の一代仏教を、日興上人に相承するとある箇所について、古来疑義を出す者がありますが、日顕上人は上に触れたように、「釈尊五十年の説法」とは、釈尊仏法の総付嘱の意味に同ずると示されています。さらには、日蓮大聖人の一期の弘法により、釈尊の一代仏教はその中に開会(かいえ)され、三大秘法を弘通する上の流通分(るつうぶん)の用(はたら)きをなす旨も、教示されています。
*「大聖人様が御出現になって、『内証の寿量品』の本義たる久遠元初証得の妙法蓮華経を弘宣あそばされると、一切の序分(釈尊の一代仏教を指す)はことごとくそこに入っておるわけですから、今度は序分の一切がそっくり、この妙法を弘通するための流通分となるのです。したがって、序分の一切は妙法蓮華経の体の内に納まって開会されたのであります。
要するに、釈尊一代五十年の説法は、この文底下種の妙法である三大秘法を広宣流布するための分々の助けとして流通を成ずるのであります」(『大日蓮』平成一三・三P64。括弧内筆者)
すなわち、『一期弘法付嘱書』と『身延山付嘱書』の両抄は、二書がそろってこそ総別の付嘱が調(ととの)い、正しい意義が顕われるということです。
封建時代に家督(かとく)を相続するのに、惣領(そうりょう)だけではなく庶子(しょし)にまで分割(ぶんかつ)して相続した者は「田分(たわ)け者」と言われ、愚(おろ)か者の代名詞となりました。所領が一族の命綱(いのちづな)であった時代に、分割相続をすることは、一家・一族の力を衰(おとろ)えさせることになるので批判されたのです。
仏法の付嘱も同様であり、釈尊は迦葉(かしょう)に付し、天台は章安(しょうあん)へ、伝教は義真(ぎしん)へと、何れもただ一人に付嘱されたのであり、日蓮大聖人が六老僧に分割乃至平等に付嘱するなどということは有り得ないことです。
二箇の相承書伝承の跡
宗門史上、現在は行方不明とされている二箇の相承書ですが、古くからの文献には様々な箇所に引用され、また写本類も伝えられて、その存在をうかがい知ることができます。これについて、宗内ではいくつかの研究論文も発表されており、それらの成果をふまえた上で、二箇相承書の伝承を、ある程度確実とされる文献に絞(しぼ)った上で訪ねてみることにします。
まず二箇の相承書に触れた文献として古いものを挙げれば、重須二代学頭の三位日順師が書いた『日順阿闍梨血脈』(延元元年・一三三六・聖滅五五年後)と、同じく『摧邪立正抄(さいじゃりっしょうしょう)』(貞和(じょうわ)六年・一三五〇・聖滅六九年後)があります。初めの『日順阿闍梨血脈』の方には、 「次に日興上人は是(これ)日蓮聖人の付処(ふしょ)本門所伝の導師也。禀承(ぼんじょう)五人に超え紹継(しょうけい)章安に並ぶ」(富要二巻二二) と見られます。また『摧邪立正抄』には、 「日興上人に授(さず)くる遺札(いさつ)には白蓮(びゃくれん)阿闍梨と云々」(富要二巻五○) とあります。初めの『血脈』の方だけではすぐに判らなくても、『摧邪抄』を合わせ見れば、両書が二箇の相承書を指していることに気がつきます。ちなみに『摧邪抄』にある「白蓮阿闍梨」とは日興上人の阿闍梨号ですが、宗祖御在世中にこの号を見るのは、二箇の相承書を除けば、御入滅間近の十月八日、六老僧選定の時しかありません(宗祖御遷化記録・新一八六三)。したがって「日興上人に授くる遺札」とは、二箇の相承書を指していることは明らかです。
次に、大聖人滅後一八七年のことですが、応仁(おうにん)二(一四六八)年十月十三日、京都要法寺の前身である住本寺十代日広(要法寺歴代としては十六代)が、重須寺(後の本門寺)に詣(もう)で、二箇の相承書を謹写している事実があります。この奥書に日広が、 「富士重須本門寺に於いて御正筆を以て書し奉り畢(おわん)ぬ、応仁二年十月十三日」 と書いた後に、日在(要法寺十八代)が、 「私に云く先師日広富士山へ詣(もう)で玉(たま)う時此(か)くの如く直(ただち)に拝書し給う也」 と、自山先師の行蹟であることを明記して伝えています。
なおこの写本をさらに大遠坊日是(亨保七年寂)が転写したものが、今日まで大石寺に所蔵されています。
要法寺ではさらに十九代広蔵院日辰が重須を訪れ、弘治(こうじ)二(一五五六)年七月七日、時の住持八代日耀(にちよう)に二箇の相承書を臨写(りんしゃ)せしめたことは、以前にも触れました(現在西山本門寺藏)。臨写とは正本(原本)を横に置いて、行数・字配り・字形に至るまで忠実に模写(もしゃ)することです。ゆえに臨写本は、大聖人が日興上人へ授けられた正本の形態をもっとも正確に伝えていると言えます。そして、日辰はこの臨写本をさらに転写した上で開版頒布(はんぷ)したということで(夏期講習録二巻9)、それが宗内で刊行された『法華経の原理一念三千法門』(小笠原慈聞著・昭和二十五年刊)巻頭に収録されています。
日亨上人もこの臨写本によって、二箇の相承書御正本(原本)の雰囲気を、いささかなりとも偲(しの)ぶに足りると評されています(興詳伝一五二)。
この臨写本の奥に、日辰は自ら由来を書き添えています。 「我(われ)日誉等と弘治二丙辰(ひのえたつ)年七月五日、駿河国富士郡重須本門寺に至る。同七日己午(つちのとうま)二刻此二ヶ御相承並本門寺額安国論等を拝閲せしめ畢(おわん)ぬ。後証の為住持日耀(にちよう)上人をして之を写さしめ、以て隨身上洛に備える。時に同月廿二日也 弘治三丁巳(ひのとみ)八月朔日(ついたち) 日辰(花押)」(原漢文) 以後、話しを進めていくなかで、この臨写本を仮に「日辰所持本」としておきます。
これまで、日蓮正宗で編纂(へんさん)されてきた御書全集が数種類ありますが、日亨上人が編纂された従来のもの、現在刊行されている『平成新編御書』、さらに『昭和新定御書』『平成改定御書』の何れについても、二箇の相承書は日辰所持本と大差のない内容であることが判ります。すなわち、成立の由来も明らかな日辰所持本は、かなりの信頼性をもって扱われてきたと言えます。
二箇の相承書写本の中でも、たとえば日有上人の晩年、尊門より大石寺に帰依した左京日教の著した『類聚翰集私(るいじゅかんしゅうし)』と『六人立義破立抄私記(りゅうぎはりゅうしょうしき)』中に、二箇の相承書が引用され、日付が『身延山付嘱書』を九月十三日とし、『一期弘法抄』は十月十三日と、日辰所持本とほぼ逆転して写されています(これと同様、逆転した日付となっているものに、他門本成寺日現の『五人所破抄斥』がある)。しかし以上の例は正本を見るのが不可能な状況における誤りと思われ、これ等の写本が存在しても、日辰所持本の正確さを揺るがすものではありません。
また日付について、前項に紹介した日顕上人御教示に基づいても、神力品に準(なぞら)える『一期弘法付嘱書』が先となり、嘱累品に準える『身延山付嘱書』が後に来てこそ、理(り)に称(かな)っていると言えます。
日辰所持本で一点問題となるのは、『身延山付嘱書』の文中、「身遠山久遠寺別当」とある箇所です。つまり本来なら「身延山久遠寺別当」でなくてはならないということです。
これについて、大聖人の御正本に「遠」となっていたのか、あるいは日耀が模写(もしゃ)する際に間違えたのか、その他の可能性も考えられますが、模写の際に日辰以外の者が拝見していたという由来書きがあること、さらに日辰は三年後の永禄(えいろく)二(一五五九)年一月十二日にも再度御正本を拝見しているので、模写の誤りというより、御真書そのものが「遠」となっていたと見る方が自然です。
こう考えるもう一つの裏付けとして、大石寺に所蔵されてきた第十四世日主上人の写本にも、「身遠山」となっていることを考慮しておく必要があります。
大石寺に蔵されている二箇の相承書として、現在最古の写本は日主上人のものです。同上人が御法主に就(つ)かれていた期間は、天正(てんしょう)元(一五七三)年より慶長(けいちょう)元(一五九六)年の間です。すなわち日主上人は、重須重宝強奪事件(天正九年)の最中に大石寺御法主に就かれていたのであり(重須の事件に大石寺はもちろん無関係)、その御登座期間における相承書筆写について、富士年表では一応「天正年間」としています。問題は、日主上人が果たして二箇の相承書を写されるに当たり、その元本としたのは何(いず)れであったかということです。
日主上人の頃、大石寺は重須と親交があったようには思われず、日主上人が、日辰のように重須に出向いて二箇の相承書を写されたとは考えにくい状況です。もちろん、二箇の相承書御正本が重須にあったことを前提とした論考です。
いわゆる、日目上人が晩年おられたのが大石寺であるゆえに、日目上人への付嘱の書である『日興跡条々事(にっこうあとじょうじょうのこと)』御正本が、大石寺に所蔵されてきたのと同様、二箇の相承書の御正本は日興上人が生前ずっと所持され、御遷化を迎えた重須に蔵されてきたと考えるのが自然です。とは言え、大石寺にはそれまで、二箇の相承書の写本が全く伝えられていなかったとは考えられず、日目上人への付嘱を内々に定められていた日興上人であれば、御存生の時代における古写本(現在は伝わらないが)はすでに大石寺日目上人の許(もと)に存し、日主上人はそれをもって写されたのではないかと推考するものです。
ちなみに日辰所持本と日主上人写本(『諸記録』掲載の写真による)を比べてみると、『一期弘法抄』は字配(くば)りや字形等ほぼ同一で、最後の「日蓮在御判」「血脈次第 日蓮日興」の二箇所に違いが見られるだけですが、『身延山付嘱書』については文字数、字配り、行数までが異なり、それぞれ写した時の元本は別々のものであったことは明らかです。
しかし、先述した通り『身延山付嘱書』の「身遠山」とある箇所は双方同じであることから、御正本がそのようになっていたという可能性はいっそう高まります。
紛失後の二箇の相承書
江戸時代になると、二箇の相承書のことが徳川家関係の文献に登場しています。
まず、慶長十六(一六一一・聖滅三三〇)年十二月十五日、『駿府政治録』『駿国雑志』『古老茶話』によれば、家康の側近として流通経済の確立に尽力したとされる、江戸金座の頭役後藤庄三郎が、二箇の相承書を家康の面前に披露(ひろう)したことが記されています。この時、重須重宝強奪事件よりすでに三十年がたっています。『駿府政治録』によれば、 「今晩富士本門寺校割(こうわり)(引渡しの意)二ヶの相承日蓮筆後藤庄三郎御覧に備う。其の詞(ことば)に云く釈尊五十年の仏法日(白)蓮阿闍梨日興に之を附属す云々」(『諸記録』四巻三二・原漢文。括弧内筆者) とあり、続いてこれを拝した家康が、 「日蓮は爾前経を捨てなかったことはここに分明ではないか。後の末流に至って、僅(わず)かに『四十余年未顕真実』の一語を以て爾前教を棄捐(きえん)(捨てること)すべきと主張するのは、祖師(大聖人)の本意ではない(取意)」 と述べたと言うことです。
また『駿国雑志』によれば、以上の家康の発言を記した後、慶長十六年十二月十日、仏法相承について家康の下問があり、時の住持日健は眼病のため、役僧養運坊が十五日駿府城に登城、後藤庄三郎が案内して家康と対面、二箇の相承書と本門寺額を進覧したところ、上に挙げた発言が家康より発せられたと、やや詳しく説明しています。
この折りに、二箇の相承書は幕府の手で筆写され、その写本を林羅山(はやしらざん)(道春)より借りて金地院崇伝(こんちいんすうでん)が日記中(本光国師日記)に記録しており、両相承書とも日辰所持本と全く同じです(「身遠山」を含めて全同。『諸記録』四巻三二)。
はたして、重須より家康に拝覧せしめた二箇の相承書は御正本か写本か。明記はなくとも、写本であればその旨書かれるはずで、家康並びに幕府側の認識では、御正本と思っていたように記録されています。『徳川実記』の同日の項にも、 「駿州富士郡本門寺の什宝宗祖日蓮の真蹟二幅。後藤庄三郎光次持参して御覧に備ふ」 と、「真蹟」と記しています。そうであれば、家康の指示で重須の重宝(二箇相承を除く)が返還された天正十一(一五八一)年二月二十六日以降、この慶長十六(一六一一)年までの間に、二箇の相承書は発見され、重須に返されたとも考えられますが、そのような記録は宗門内外何れにも残されていません。ただし先の『駿府政治録』に「富士本門寺校割(こうわり)」とあれば、幕府が発見した二箇の相承書は、「校割」つまり重須側に引き渡されていたとの意で取ることは可能です。
さて、二箇の相承書を家康の台覧(たいらん)に供してから六年後、要法寺二十四代日陽が、元和(げんな)三(一六一七)年四月二十五日、重須において二箇の相承・本門寺額等を拝見、すべて御正筆であることを念記しています(『祖師伝』富要五巻六O)。
さらに妙観文庫本『興門口決(こうもんぐけつ)』には、扉の部分に、信領坊日體(にったい)(下条妙蓮寺三十九代)が、北山本門寺の御風入(かぜいれ)(虫干(むしぼ)し)の折に二箇の相承書の御真筆を拝見したことを、以下のように書き付けています。 「明治十年六月十三日北山本門寺に而(て)御風入之節御相承御直筆奉拝也 信領坊日體」
*『興門口決』全十巻は、妙蓮寺二十七代日立が、宝暦元<一七五一>年に編した、興門の化儀・化法に関する書。
こうして二箇の相承書紛失後の行方を追っても、まことに不可解で謎に包まれたとしか言いようのない結論に至ります。しかし、以上のことを整理しつつ考え直すならば、紛失の時に当住日殿が甲州奉行に再三訴え責任をとって断食憤死(だんじきふんし)までしていることを考えれば、保田側の資料にもあるように、重須重宝強奪事件そのものが事実であったことは動かせません。
では、重須より持ち出された二箇の相承書は、果たして御正本であったのでしょうか。と言うもの、日殿が小泉より横滑(よこすべ)りした貫主であり、重須の重宝について認識が十分ではなく、写本であった可能性が考えられなくもありません。日殿等は武田兵と西山衆徒の強奪に驚き、甲府の奉行に返還を訴えることに熱中し、事件後に正本・写本を確かめる余裕が無かったかもしれず、もしそうであるならば、重須には当初から二箇の相承書は存在していたということになります。
では、なぜそれほど富士門流にとって重要な文書の存在を、明らかにできないのか。
考えられることは、身延日蓮宗等五老僧の末流にあって、二箇の相承書が現存することは、自らの門流の正当性を否定するに等しいものです。ゆえに、近代に至って身延と合同した北山本門寺として、たとえ御正本があっても公言できないという事情が考えられます。そのような重須側の姿勢を具体的に示すものとして、昭和五十七年に刊行された『本門寺並直末寺院縁起』には、天正九年の重宝強奪事件について、「日殿申状の案」等を史料として掲載しても、二箇の相承書には触れないようにしています。
あるいは御真書は重須より持ち出され、武田家滅亡とともに不明となり、その後同地を支配した徳川家の手にわたり、久能山讃明院にある可能性が、宗内で古くから語られてきました。この場合慶長十六年、家康が目にしたのは写本であったということになります。何れにしても、二箇の相承書が晴れて天下に姿を現わす日の来ることを願うばかりです。
