goo blog サービス終了のお知らせ 

日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

学会からの事実歪曲の「宗門『お尋ね』文書事件についての見解」を破す

1991-02-12 | 時局資料

 学会からの事実歪曲の

  「宗門『お尋ね』文書事件についての見解」を破す

                時局協議会文書班4班 

(大日蓮 平成3年4月号 第542号64頁 転載)

 創価学会は、(1991年・平成3年)1月30日付をもって、「宗門『お尋ね』文書事件についての見解」という文書を、宗門へ提出してきた。これは、先の1月16日付、同17日付の学会の抗議文書に対し、指定した10日以内に宗門から回答がなかったため、学会の公式見解として発表したものである。
 しかし、学会は、宗務院の「お尋ね」に対して、満足な回答を示しておらず、僅かな反訳ミスのみを取り上げて、さも「お尋ね」の全てが成立しないようなすり替えをして、鬼の首でも取ったかのように、「さあ返事をしろ」と抗議をしてきたのである。このような不正直にして不遜な抗議書などには、まともに答弁する必要のあろうはずがない。だからこそ、宗務院は黙殺してきたのである。
 「見解」の内容を検討してみると、「学会は主、宗門は従」という体制にもっていこうとする学会首脳の、野望と欺瞞をもととした、作為的な捏造文書であることが、明らかに判るのである。以下、「見解」の一々について、その欺瞞性と不当性を明らかにするものである。

 1・30の「見解」では、
「宗門の『お尋ね』文書中には反訳ミスがあり、宗門はその部分と、さらに伝聞事項に関する質問とを撤回しました
が、その撤回部分は『お尋ね』文書の根幹部分をなすものであります。故に、これは、『お尋ね』文書そのものの根
拠が全面的に崩壊したことを意味するのであります。よって、宗門の公式謝罪と不当な措置を全面撤回するよう求め
たものが、前記抗議書であります。」(趣意)
としている。すなわち、「お尋ね」には、その根幹となるところに、反訳のミス、またはテープあるいは反訳の改竄があるから、全面的に成立しないというのである。
 しかし、1・16や1・17の文書と、今回の「見解」でいうところの、
「『お尋ね』文書そのものの根拠の全面的崩壊を意味する」
などの言辞は、まことに無慚なごまかしといわねばならない。すなわち、池田名誉会長が、御法主上人に対して不遜な誹謗をしたことを、一切認めようとせず、枝葉末節にあたる反訳のミスをあげつらった、理不尽極まりない言い回しなのである。
 「お尋ね」における根幹部分、すなわち問題の本質は、いわゆる「猊下というものは云々」との法主軽視の発言や、「宗門から散々やられ云々」との宗門敵視、また52年路線への無反省の発言、「俺偉いんだ、お前ども、信者ども」との誣告発言などである。このように、池田名誉会長が暴言を吐いたことは、厳然たる事実である。本来、信仰心を高めるための会合で、このような暴言を吐き、多くの会員を洗脳していくことは、純真な信徒を、池田名誉会長個人の誹謗行為の道具にしようとすることであり、絶対に許されない所業である。
 これらのことに、何の反省もせず、問題の本質をすり替え、反訳の相違に論点をおいて全てをごまかし、宗務院の責任を追及しているのである。

 ここで、学会が1・17文書で主張するところの、「お尋ね」の根幹部分であるとする5箇所(反訳の相違箇所と伝聞箇所)について、本当に質問として成立するかどうかを、再度検討する必要がある。なぜならば、このことが、学会の主張の根幹となっているからである。学会は、
(一)の第三番目 (四)の前半部分 (五)の全部
(一)の第五番目
の4箇所と、伝聞箇所の1箇所を挙げている。

 (一)の第三番目の引用に関しては、「それがいけないって言うんですよ(中略)おかしいよ」の部分が、確かに相違しているが、前半の「文化は要らないと、謗法だ。もうわけがわからない、ね。なんにも苦労していないから。本当のことを、社会を知らないから、折伏もしていないから」との発言に関しては、何ら反訳に相違などない。ということは、「お尋ね」文書の(一)の第三番目、「御法主上人は、いつ、どこで、仏法を基調とする平和文化運動を否定し、謗法だなどと言われていますか、お伺いいたします」との質問は、この前半の発言に対するものであるから、後半の部分的な反訳の相違があったとしても、何ら問題はないといえる。したがって、本来、この質問は有効であって、学会の主張は、論点をすり替えたものであるといわざるを得ない。

 次に、(四)の前半部分に関しては、「日淳上人が一番よく分かっています」を「日蓮正宗で、いなかったんです」と反訳したことに対する批判である。
 しかし、池田名誉会長の「七百年間折伏がそんなに出来なかったんですよ。今はもう当たり前と思ってね。威張っている人がいる。とんでもない」との発言は、日蓮正宗の弘教の歴史への冒涜と、宗門僧侶を誹謗したことは明らかである。宗門僧侶の中で、いつ、だれが威張ったというのか。これは、明らかに池田名誉会長の言い掛かりである。創価学会が広宣流布を進めたことは事実であるが、創価学会とて、元を辿れば法華講の三谷素啓氏の折伏によって、正法に縁をもつことができた団体である。
 また、折伏は「創価学会がやった」というのではなく、御仏意と時によって御奉公させていただいたとの、謙虚な姿勢が大事なのである。そこには、当然、時の御法主上人から活動をお許しいただいたことと、宗門の協力があったわけであるから、信仰者として、深い報恩感謝の念をもつべきである。
 なお、この項の「まったく」と「そんなに」とは、どちらも否定の副詞であって、「700年間折伏出来なかった」という意味は全く変わらない。学会は、「まったく」と「そんなに」との違いのみに視点をあてて非難し、回答を避けているのである。
 なお、「お尋ね」では引用していないが、他の箇所でも、日淳上人のお言葉を引用した後で、「布教が大変だ、折伏は大変だ。700年間出来なかった。ちゃんと知ってらしたんです。今は当たり前だと思ってるけども、とんでもないことです、本当は」という発言がある。このように、「宗門は700年間折伏出来なかった」旨を、一度ならず二度までも発言すれば、「そんなに」では済まされなくなるのは、むしろ当然である。したがって、本来、この質問も有効なのである。

 (五)に関しては、池田名誉会長の発言が聞き取りにくいために、「朝起きて」との発言が反訳できなかったことについて、宗門の悪意による、意図的なものと決め付けているのである。
 しかし、たとえ「どうしたら折伏出来るか」という前置きがあろうとなかろうと、また「朝起きて」という日常性を表わす語句があろうとなかろうと、発言の趣旨は変わらない。大聖人の四箇格言を、笑い話の材料にすること自体が間違いなのであり、池田名誉会長の不遜極まりない信仰姿勢を露呈したものである。まして、「真言亡国・禅天魔」等の語句の前に、「朝起きて」という日常性を表わす語句があれば、なおさらであろう。したがって、この質問も、宗務院から指摘したとおり、有効である。
 なお、本来、平和運動も文化運動も、日蓮正宗の信徒団体として行なうならば、全て御当代上人の御指南に則ることが筋道であり、それを誓ったのが、11・7のお詫び登山だったはずである。あの誓いを受納された日達上人の御意志は、本宗の血脈法水の意義において、現御法主上人の御意志に在すのである。したがって、52年当時の逸脱に対する反省と誓いをよく思い出し、初心に戻って行動すべきである。

 次に、(一)の第5番目の質問、すなわち(一)4の引用については、「ますよね」が「下さる、ね」であることについての言い掛かりである。この「ますよね」が「下さる、ね」であっても、やはり、この節のスピ-チの意味するところは、少しも変わるものではない。同様に、「方軌は出来上がってるんです。不思議なことです、御仏智というものは」との発言をつけようとつけまいと、全体の意味が変わるわけではない。すなわち、代々の御法主上人は、学会を守って下さるが、御当代上人は守ってくれない、という意味であることは明らかである。もし、そうでないというのなら、なぜ御歴代上人の名前を挙げる中に、御当代の日顕上人を入れないのか。日顕上人が御登座されて、すでに11年が過ぎているのに、不自然である。ごまかしもいい加減にすべきである。
 したがって、(一)の第五番目の質問も成立しないとする秋谷会長の主張は、他の質問と同様に崩れるのである。
 なお、伝聞事項による質問は、事情により一応は撤回したが、1月12日付の宗務院からの指摘で述べているとおり、決して捏造ではないことを、はっきりと述べておく。

 これらの検討により、この「見解」を解説した1月30日付の聖教新聞紙上の、
「伝聞事実にもとづく質問部分を含めると、合計『五箇所』の質問が本来、成立しなかった」
「その五箇所の部分は法主批判、教義違背という『お尋ね』文書の根幹部分であり、これにより文書の根拠そのものが
崩れた」
とする記事は、全て悪意による事実歪曲であり、策略的にすり替えた記事といわざるを得ない。日蓮正宗の信仰の筋道を伝えるべき聖教新聞において、このような、作為による捏造、歪曲の記事を掲載し、純真な信徒の目を真実からそらそうとすることは、まことに卑劣な陰謀以外の何ものでもない。さらに、同記事では、
「テープの誤りは、単に聞きづらかったと言うだけでなく、意図的な改ざん部分があった」
などと主張しているが、一体どこから、このような言が出てくるのだろうかと、呆れるばかりである。今まで述べてきたように、全て、反訳に相違があろうとなかろうと、発言の内容や質問の内容が変わるものではない。それを、無理に「意図的な改ざん部分があった」とすることこそ、発言の意味内容や質問の論点を改竄するものといえよう。
 以上、今回の学会の「見解」の根拠は、全面的に崩壊したと断言するものである。
 なお、宗務院としては正直を旨とする上から、たとえ部分的なものとはいえ、反訳の相違は相違として認め、それに基づいた質問を、あえて撤回したのである。したがって、学会首脳は、このような宗務院の配慮に、本来、非難すべき立場でないことを、よく肝に銘ずるべきである。

 さて、1・30の「見解」の欺瞞性を、流れに沿って明らかにしてみよう。
 「見解」でいうところの、「今回、宗門からの回答がなかったことは、学会側の右両書面の指摘がすべて真実であり、宗門がこれに対し全く反論し得ないことを公に認めたものと断ぜざるを得ません。」
とか、
「『お尋ね』文書が、テープもしくは反訳の改ざんをはじめとする悪意と策謀に満ちた文書であり、今回の宗門の一
連の主張と措置の根拠が全面的に崩壊し、もって、学会の主張の正当性とその正義が厳然と証明されたことを、宣言
するものであります。」
「宗門においては、宗教者らしく、学会、名誉会長への公式謝罪と、藤本総監の辞任をもってその責任を明らかにさ
れることを、強く求めるものであります。」
などの言は、従来述べたように、その根拠が、全く成り立たないのであるから、陰湿にして姑息な策謀的「見解」と断ずるものである。
 全国の会員を前に、何の根拠もなく御法主上人を批判し、いわれなく僧侶を侮蔑したのは、ほかならぬ池田名誉会長である。これは、信徒の代表たる総講頭として、あるまじき言動である。信仰の命脈たる御法主上人への尊信を忘れ、会員を法主批判、宗門軽視へと導いた池田名誉会長こそ、仏法破壊者として糾弾されるべきである。したがって、池田名誉会長並びに学会首脳は、御法主上人と宗門に対し、そして全世界の純真な日蓮正宗信徒に対して、責任をもって懺悔し、公式に謝罪しなければならない。

 また、「見解」では、
「今回の宗門の大失態は、第六十七世日顕上人の時代において、日蓮正宗七百年の歴史に痛恨の一大汚点を残すもの
となってしまいました。」
と主張しているが、今回の問題において、宗門に失態などあり得ないことは、前述のとおりである。むしろ、御法主上人と宗門を誹謗し、和合僧を破っているのは、池田名誉会長であるから、これを放置したならば、確かに一大汚点を残すものとなろう。その大失態を残さぬよう、今、池田名誉会長や学会首脳の誤りを、挙宗一致して糺しているのである。
 ともあれ、今回の池田名誉会長の増上慢による大失態は、大石寺開創七百年の佳節を汚した痛恨事であり、取り返しのつかない大罪を犯したものといえよう。このままでは、日蓮正宗の信徒団体としての存立基盤すら危うくし、転落への道を歩んでいくものといわねばならない。

 さらに、「見解」では、
「日蓮大聖人御遺命の一閻浮提広宣流布をめざし、あまねく世界に正法を弘め、今日百十五か国にまで妙法を唱える
メンバーをみるに至るなど、七百年の宗史のなかでも未曾有の大興隆を築き、日蓮正宗を文字どおり、世界に宣揚し
たのは、法の偉大さは当然として、まぎれもなく不惜の法戦を貫いた池田名誉会長であります。また、正本堂をはじ
め総本山が今日のように荘厳され、全国の寺院が整備建立されたのも、池田名誉会長の宗門外護の赤誠の信心による
ものであることは言うまでもありません。その宗門にとっての大功労者であり大恩人である名誉会長に悪感情を抱き、
陥れようとした事件が、今回の『お尋ね』文書事件であります。」
と述べている。
 池田名誉会長の、今日までの功績は、御法主上人をはじめ奉り、宗門の誰もが認めていることである。したがって、御先師日達上人は、池田名誉会長の52年路線の教義逸脱に対する反省を受納せられたのであり、日顕上人は、池田名誉会長を総講頭に再任せられたのである。しかるに、ここにきて、再び日蓮正宗の根本命脈たる血脈付法の御法主上人を軽視し、批判したのである。そして今回の問題が公になってからは、御法主上人の御指南に信順するどころか、反対に創価学会の全組織を動員して、誹謗し、反逆するという、正宗信徒として、決してあってはならない暴挙に出たのである。いかに宗門に功労があろうとも、御法主上人に背く謗法は、断じて許されないのである。
 そもそも、仏法における供養とか功績は、三宝に対しての御奉公として成り立つものである。したがって、あくまでも三宝にお仕えさせていただいたことを、深く感謝すべきである。それを自ら誇ったり、まして、信徒の側から宗門に感謝を要求したりすることは、池田名誉会長並びに学会首脳が、自らの傲慢な心を露呈したものであって、信仰者として、清浄な基本理念すら弁えていない証拠であるといえる。「慢は高き山の如し、雨水止まらず」の箴言を心すべきである。

 また、次に、
「権威・権力からのあらゆる難をうけながら、広宣流布のために、折伏に励み、立正安国を願って戦っている私たち
信徒を、宗門は、傲慢な特権意識と狭量な独善の眼で、蔑み、利用し、切り捨てようとしているのであります。」
「この大聖人の御精神を踏みにじり、信徒をかくまで蔑視した僧の罪はどれほどかと、私たちは嘆くものであります。
いわんや、日蓮正宗を外護する稀有の信徒の代表である池田名誉会長を陥れるような愚行は絶対に許せないことであ
ります。」
と述べている。
 今回の問題は、本来、あくまで池田名誉会長一人の発言に関わる事件である。したがって、一般の会員を宗門と対立関係において議論しようとすることは、学会首脳の策謀による問題のすり替えであり、ごまかしである。信徒を蔑み、利用しているのは、本当に宗門なのか、それとも池田名誉会長なのか、よくよく考えなければならない。世界広布の美名のもとに、新聞には、自分の写真と自慢話を一面に大げさに載せ、全国の主要会館には自分の名前を付けるのみならず、広布基金や財務の名のもとに、会員から、多額の金銭を吸い上げているのが、現実の創価学会の姿ではないか。聖教新聞では、「名誉会長のスピーチ学習会」などの活動方針は大々的に掲載されるが、「御法主上人の御指南を根本とする」などの記事は、絶えて見ることができない。見ることができるのは、陰湿な宗門攻撃だけである。これで、本当に日蓮正宗の信仰を高めるための新聞といえようか。
 これらの問題の実質的な責任者は、池田名誉会長である。多くの会員を、まるで自分の信者のごとくにして、本仏日蓮大聖人の信徒を、本当に大切にしているといえようか。そして、口を開けば「仏子、仏子」と持ち上げるなどは、その言行不一致の嫌らしさに、猛烈な憤りを覚えるものである。会員が一番恐れているのは、御法主上人や寺院、僧侶ではない。まさしく創価学会の組織である。本宗に君臨する権力者は、他ならぬ池田名誉会長自身であることは、おのずと明らかである。
 したがって、大聖人の「我が末弟等を軽ずる事勿れ」の御聖訓を、よくよく拝すべきは、池田名誉会長並びに学会首脳である。大聖人の御精神を踏みにじり、宗門、僧侶を蔑視した学会首脳の罪は大きく、まして御法主上人を陥れようとした反逆行為は、断じて許してはならない。

 また、
「破和合僧を助長し広宣流布を阻止するような行為を聖職者が行ったなどということが、仏法三千年の歴史の中でい
まだかつてあったでありましょうか。もし、あるとするならば、是非お示しいただきたいと、強く申し上げます。」
との強言については、そのまま創価学会へお返しする。

 本宗の信心は、戒壇の大御本尊と、血脈法水の御法主上人を中心とする和合僧団であることはいうまでもない。この和合僧団を破り、広宣流布の根本である血脈の法体を傷つける行為を、信徒が行なうなどは、本仏大聖人以来、本宗の歴史上、未曾有の大不祥事といわねばならない。また、仏教史上においても、在俗の立場で、仏教興隆に尽力した功労者は、数多くいるであろう。しかし、その中に、大衆の面前で、僧団の指導者を侮蔑した者がいたであろうか。さらに、訓戒を受けるや、同信の信徒を動員して、一般僧侶はおろか、伝法の導師にまで、誹謗悪口のかぎりを尽くした在家居士が、かつて存在したであろうか。まさに「見解」の言は、噴飯ものである。

 さらには、
「今や、富士の清流に濁流が混じた、まことに悲しむべき事態であります。少欲知足を忘れた一部僧侶が、私利に溺
れ、贅沢奢侈に走り、信徒を罵り、かつ和合僧を破壊する姿に、宗門暗黒時代の兆しがあらわれていると言わざるを
得ないのであります。」
「一千万の信徒が悲しんでいます。一部の僧侶の恫喝と無慈悲と傲慢の言動に苦しんでいます。泣いています。それ
をお救い下さるのが、御法主の大慈大悲と信じております。」
「なにとぞ、御法主におかれましては、一切の阿諛諂佞の徒輩に耳を傾けることなく、清純な私ども信徒の真実の正
論と真実の声をお聞き下さるよう、伏してお願い申し上げます。」
などといっている。この言こそ、作為による讒言と言うべきである。富士の清流とは、七百年の間、唯授一人血脈付法の御法主上人を中心として、末法下種の法体たる本門戒壇の大御本尊を厳護申し上げてきたことを指すのである。この清流は、本来、変わるものではない。しかし、学会がいうように、現在は、この「清流に濁流が混じた」状態となっている。その濁流とは、まさに池田名誉会長並びに学会首脳の、傲慢不遜な体質そのものであると断ずるものである。
 また、「信徒を罵り」「一部の僧侶の恫喝と傲慢の言動」とは、一体いつ、どこにおける出来事であろうか。今回の事件は、池田名誉会長一人の法主誹謗などの発言に起因することであり、宗内僧侶は、誰一人、一般会員に咎ありとして、これを罵ったり、恫喝したりした者はいない。
 「宗門の暗黒時代」を心配するなどといっているが、大きなお世話である。そのような余計な心配をしなくとも、宗門は、もとより御法主上人のもとに一結し、磐石である。それよりも、名聞名利に狂奔する池田名誉会長に率いられた純真な創価学会員が、正道から逸脱して、顧みることができなくなっている、今の状態こそ、我々は心配するのである。
 御法主上人に反逆する謗法の大罪の徒輩は、大御本尊から、厳しい叱責と悪果を受けるのである。池田名誉会長並びに学会首脳は、自らの手で成仏の道を閉ざしいることに気づき、速やかに反省懴悔して、正宗本来の信仰に帰さなければならない。

 また、最後の、
「これは決して宗門を批判しようとして申しているのではありません。世界の日蓮正宗にふさわしい宗門になるため
にも、その根本の元凶である信徒蔑視の権威的体質を改めてほしいとの念願以外ないのであります。これこそ真の宗
門外護であると、御本尊に誓って固く信ずるものであります。
 これからも、いろいろと申し上げていきたいと思います。奴隷のごとく追従することは、僧俗和合でも外護でもない
と確信するからであります。
 どうか、宗門は、今回の事件の意味するところを、深く反省、自戒し、いま一度、感情ではなく、賢明なるご処置
をとられんことを切に望むものであります。ともに、学会は、何があろうと、富士の清流を守るために、これからも
理非を明らかにして、ひたすら日蓮大聖人の御遺命たる広宣流布に進みゆくことを、ここに改めて表明するものであ
ります。」
との言こそ、無慚極まりないものといわねばならない。
 あれほど口を極めて誹謗しながら、「批判ではない」とは、何たる無恥の言であろうか。また宗門を「信徒蔑視の権威的体質」とは、何たる不知恩、増上慢の言であろうか。むしろ、世界広布にとって「根本の元凶」は、御法主上人を蔑み、僧侶を見下す学会首脳の謗法体質にあるというべきである。
 この一凶があっては、正しい僧俗和合など、とても望むことはできないし、世界へ広宣流布することもかなわないであろう。
 また、信徒だけではなく、僧侶をも含めて、御法主上人に信伏随従することは、決して「奴隷のごとき追従」なのではなく、成仏の肝要たる師弟相対という随順の信心なのである。学会では、ここ数十年、世間的な権力と、仏法の師弟相対の法門とを勘違いしているのではないだろうか。
 日蓮正宗は、もともと、針金宗門と呼ばれた昔から、権力による「宗体」への干渉を、つねに防いできた実績と誇りがある。したがって、学会から、いかに誹謗中傷されようと、この護法の信念は少しも揺らぐことはない。今後とも、魔の手先となった学会首脳の横暴などには、御法主上人の御指南のもと、一歩も引くつもりはない。

 以上、創価学会の「宗門『お尋ね』文書事件についての見解」について、その内容の実に無慚なる所以の一端を述べた。我々は、正道の侶として、このような牽強付会の、非道な文書を罷り通すことは、断じてできない。大聖人は「体曲がれば影斜めなり」と仰せである。策謀的な言論による暴力行為を、強引に押し通そうとする学会首脳の姿勢こそ、信心の体が曲がっている証拠である。ここに、池田名誉会長並びに学会首脳の、傲慢不遜にして不信の体質をあばき、厳しく糾弾するものである。

以  上