平成22年9月度 広布唱題会の砌
(於 総本山客殿)
(大日蓮 平成22年10月号 第776号 転載)
皆さん、おはようございます。
本日は、九月度の広布唱題会に当たりまして、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。
本年「広布前進の年」も既に九月に入り、いよいよ残り四月となりました。
全国的に折伏の達成状況を見ますと、既に百三支部が誓願を達成しており、その他の支部も八割、九割を達成して、残りあとわずかという支部も多くあります。このように全国的に折伏の気運が高まっていることは、まことに喜ばしいかぎりであります。
いつも申し上げていることでございますが、平成二十七年・三十三年の目標を達成するためには、初年度に当たる本年度を必ず勝利することが極めて大事であります。本年を勝てば、あらゆる困難や障害を乗りきって折伏誓願を達成した充実感と歓喜と功徳によって講中全体に勢いがつき、明年以降も大躍進を続けていくことができるからであります。
まだ誓願を達成していない支部も、残りあと四月あります。四月・百二十日間あれば、何事もできないことはありません。「断じて敢行すれば、鬼神も之れを避く」という言葉もございます。どうぞ、未達成の支部は、残り四月、師子奮迅力をもって必ず誓願を達成されますよう、心からお祈りをする次第であります。
さて、法華経見宝塔品を拝しますると、
「此の経は持ち難し 若し暫くも持つ者は 我即ち歓喜す 諸仏も亦然なり」(法華経354㌻)
とあります。
この御文は、同じく見宝塔品において「六難九易」が説かれたのち、続いて説かれた偈文でありまして、仏の滅後に法華経を受持することがいかに困難であるかを示されたものであります。
六難九易と申しますのは、六つの難しいことと九つの易しいことで、仏滅後、法華経を受持することの難しさを、六難と九易とを対比することによって説き示したもので、九易は普通は大難事ではあるが、法華経受持に比較すれば容易なことであるとされています。 そこで、このうち代表的なものを三、四、挙げれば、例えば、
一、足の指で大千世界を動かして、遠く他国に擲げ置くことは難事中の難事であるが、これはまだまだ難事としない。
二、有頂天に立って、量り知れないほどの余経を演説することは難事中の難事であるが、これはまだまだ難しいとはしない。仏の滅後に悪世のなかで、法華経を説くことは最も難事である。
三、枯れ草を背負って、大火のなかに入っても焼けないということは難事中の難事ではあるが、しかし、これはまだまだ難しいとはしない。仏の滅後に悪世のなかでこの法華経を持ち、一人のためにも法華経を説くことは最も難しいことである等々と仰せられております。
つまり、仏の滅後、悪世中に法華経を持つことがいかに難事であるかを、様々な例を挙げてお示しあそばされているわけであります。
では、なぜ仏の滅後、悪世中において法華経を持つことが難事であるのか。法華経が難信難解と言われる所以はなぜなのか。大聖人は『後五百歳合文』に『法華秀句』を引かれ、
「秀句の下に云はく(中略)『当に知るべし、已説の四時の経、今説の無量義経、当説の涅槃経は易信易解なり、随他意の故に。此の法華経は最も為れ難信難解なり、随自意の故に。随自意の説は随他意に勝る』」(御書256㌻)
と仰せであります。
すなわち、法華経は随自意の説なるが故に難信難解であり、余経は随他意の説なるが故に易信易解、信じ易く解し易いのであると仰せであります。
また、その随自意・随他意については『新池殿御消息』に、
「如来の聖教に随他意・随自意と申す事あり。譬へば子の心に親の随ふをば随他意と申す。親の心に子の随ふをば随自意と申す。諸経は随他意なり、仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に。法華経は随自意なり、一切衆生を仏の心に随へたり。諸経は仏説なれども、是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず。法華経は仏説なり、仏智なり。一字一点も深く信ずれば我が身即ち仏となる」(同1365㌻)
と仰せられています。
すなわち、法華経は衆生の機根にかかわらず、仏が自らの悟りをそのまま説き示された真実の教え、随自意の教えであるが故に難信難解であり、これに対して、爾前権経は仏が真実の法門に誘引するために、衆生の機根や好みに合わせて説かれた方便の教え、随他意の教えであるが故に易信易解であります。
難信難解の法華経と、易信易解の諸経とを比べれば、まさしく「諸経は仏説なれども、是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず。法華経は仏説なり、仏智なり。一字一点も深く信ずれば我が身即ち仏となる」との仰せの如く、成仏、不成仏の差は歴然としているのであります。
故に、先程の経文には「若し暫くも持つ者は 我即ち歓喜す 諸仏も亦然なり」と仰せられ、法華経はたしかに「此経難持」、「此の経は持ち難し」の教えではありますが、しかし、暫くでも持つ者があれば、その功徳はまことに大きく、釈尊一仏のみならず、十方三世の諸仏も喜び給うところであると仰せられているのであります。
もちろん、ここで法華経と仰せられているのは、文底に約せば、文上の法華経ではなく、文底秘沈の大法たる南無妙法蓮華経のことであります。また、釈尊一仏というのも、脱益の釈尊ではなく、下種の御本仏日蓮大聖人様のことであります。
つまり、今、末法において妙法蓮華経を持つことはたしかに難事ではありますが、しかしながら、逆に難事なればこそ、この妙法を持つ功徳は計り知れないものがあり「則為疾得 無上仏道」(法華経355㌻)は疑いないのであります。
「則為疾得 無上仏道」とは「則ち為れ疾く 無上の仏道を得たるなり」と読みます。すなわち仏滅後の末法において、妙法蓮華経を持つ者は速やかに無上仏道を得ることができるとの意で、疾得とは、速やかに仏果を得ること、「速疾頓成」と同義でありまして、即身成仏のことを指すのであります。
つまり、一切衆生が文底秘沈の大法たる妙法蓮華経を信じ、仏道修行に励むところ、凡夫即極、そのままの姿で仏道を成ずることができるのであります。
ただし『四条金吾殿御返事』には、
「此の経をき(聞)ヽう(受)くる人は多し。まことに聞き受くる如くに大難来たれども『憶持不忘(おくじふもう)』の人は希(まれ)なるなり。受くるはやす(易)く、持つはかた(難)し。さる間成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値(あ)ふべしと心得て持つなり。『則為疾得無上仏道(そくいしっとくむじょうぶつどう)』は疑ひ無し。三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを持つとは云ふなり。」(御書775㌻)と仰せであります。
すなわち、本来、御本尊を受けること自体が難事ではありますが、ことに持ち続けることはそれ以上に難しく、受持のなかでも持つこと、すなわち「持」に重点が置かれていることを、我々は銘記しなければなりません。
さらに、ここで大聖人様は、御本尊様を受持する者には必ず難が起こると仰せられ、その難に振り回され、、信心を続けていくことが困難であるが故に、特に「持つはかたし」と仰せられているのであります。
しかし、振り返ってみますると「さる間成仏は持つにあり」と仰せのように、いかなることがあっても御本尊様を持ち続けていくところに、難を乗り越え、何ものにも代え難い絶対の幸せを築くことができるのであります。
大御本尊様に対する絶対の確信を持ち、一心に題目を唱え、いかなる難に対しても怖れず、立ち向かっていくところに、三障四魔をはじめあらゆる難も、これを打ち砕くことができるのであります。
故に大聖人は『椎地四郎殿御書』に、
「大難来たりなば強盛の信心弥々悦びをなすべし(中略)大難なくば法華経の行者にはあらじ」(同1555㌻)
と仰せられ、いかなる難が惹起しようが、その難を乗りきる強盛なる信心こそ即身成仏の要諦であることを御教示あそばされているのであります。
今、宗門は平成二十七年・三十三年の新たなる目標に向かって、僧俗一致して前進をしております。この時に当たり、我らは異体同心・一致団結して、掲げた目標はなんとしてでも達成しなければなりません。
今日の混沌とした世の中を見るとき、邪義邪宗の謗法の害毒にむしばまれている多くの人々の救済は大聖人様の仏法以外にはなく、そのために折伏を行じていくことは、本宗僧俗のなすべき、最も大事な使命であります。
そのためには、一人ひとりが難を乗り越える強盛なる信心に立ち、大御本尊様への確信を持って、いかなる困難・障害が前途に立ちはだかろうが、勇猛精進して一人でも多くの人に下種結縁し、折伏を行じていくことが今、最も肝要であります。
どうぞ、皆様には必ず本年を勝利すべく折伏に励み、一層の精進、御健闘を心からお祈り申し上げ、一言もって挨拶といたします。
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