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日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

『僧俗平等論』の誤りを破す

1991-04-08 | 時局資料

      『僧俗平等論』の誤りを破す    

              時局協議会文書作成班5班  

 創価学会は、宗門より指摘された「第35回本部幹部会」における池田名誉会長のスピーチの不遜さ、傲慢さ、信心のなさを、隠蔽し、問題の焦点をぼかそうとして、さまざまなキャンペーンを連日繰り返している。これらのキャンペーンは、いずれもすり替えや欺瞞に満ちたものであり、無慚極まりないものである。
 聖教新聞に掲載された、青年学術者会議からの質問書「宗門に僧俗の基本的認識を問う」も、「総監の珍妙な教学を笑う」も、「化儀抄を拝して」も、全く同趣旨のもので、仏法の本義に迷い、論点をすり替えた見当違いの我見・迷妄をふりまわしているだけに過ぎない。
 これらは、形の上では、平成2年12月16日付の、宗務院から学会へ宛てられた「お尋ね」に抗するものである。しかし、一読して、この機会に乗じて、かねてより公に主張したかった、いわゆる宗門無視・宗門不在の「在家仏教の展開」という学会の本音が、その背後に潜んでいることを読み取ることができる。
 また、最近の創価学会は、「民主的」という語を頻繁に使用して、いかにも「宗門は非民主的で、学会は民主的である」との印象を、読者に植え付けようとしている。何が民主的で、何が非民主的なのか、その概念さえ明らかに判っていない人たちが、一方的に、自分たちは民主的で宗門は非民主的だと、声を大にして叫ぶこと自体、笑止千万である。
 意図的に、本宗の真実の法義を隠蔽して、僧俗平等論を展開している創価学会の狙いはどこにあるのか。衣の下に隠された鎧の存在を、我々は見逃してはならない。独特な情報操作を繰り返し、仏法の尊厳さえも無視するような所業は、破仏法の因縁の最たるものと弾劾するものである。卑劣極まりない池田名誉会長並びに学会首脳の人間性が、宗門に対するあらゆる抗議にそのまま謄写され、日蓮正宗の正法正義に随順する信心の在り方を失った「逆賊の徒」の姿が、創価学会全体に露呈している。宗門をないがしろにする言動は、そのまま正法及びその付嘱の法体に対する誹謗背反に通じるのであるから、このことを深く恐れなければならない。
 以下、学会が主張する「僧俗平等論」なるものについて、その昏迷を破すものである。


1. 総監の指摘

 創価学会は、幹部が筆を執り、また謗法を信仰する識者たちにまで頼み込んで、総監の指摘に対し猛然と反発をしている。

しかし、「お尋ね」において、藤本総監が学会に指摘したのは、11・16のスピーチにおける池田名誉会長の誤りや慢心であり、「僧俗の上下関係」をことさらに述べたものではない。このことは、「お尋ね」を読めば一目瞭然で、誰にでもすぐ判ることである。
 つまり、その中で、藤本総監は池田名誉会長の誤った僧俗観を糺すために、日顕上人の御指南、北条会長の反省と誓い、日有上人の化儀抄などを引用して、僧俗のあるべき姿を述べているのであって、何ら本宗の法義にもとるところはない。
「みんな信者だ、御本尊のよ、坊さんだって。違いますか、坊さんだけほか拝んでんのかよ。」
という池田名誉会長の発言こそ、僧侶に対する蔑視発言以外の何物でもないことを指摘しているのである。在家仏教の推進者として、世間に対し、また会内に対して美辞麗句を並べ、世界をリードする文化人を気取る池田名誉会長の、傲慢性、欺瞞性、偽善性、短見を、藤本総監は指摘しただけなのである。
 これに対し、池田名誉会長のスピーチが犯した誤りは、日蓮正宗信徒として致命的なものであることを、本人も学会首脳も熟知しているために、窮余の一策として、焦点ボカシとすり替えのため、かねてよりの野望「宗門支配」のための前段階
として、「僧俗平等論」を、大々的に展開しているといえる。
 「平等」「民主」「自由」ということは、基本的人権を最大限尊重することであるが、これらが一番等閑にされているのは、まさに創価学会である──という学会員の声を、しばしば耳にし、ときには悲痛な叫びとして訴えられる。学会自らが達成してもいない「民主化」「平等化」を宗門に要求する。このような手口は、歴史の古今に登場する謀略革命集団の、常に用いる卑劣な手口と全く同じものである。

 学会が主張する「僧俗平等論」を破すにあたり、まず創価学会の欺瞞性、独善性を指摘しておく。
 創価学会は、今回の問題に関し、さまざまな論陣を張っているが、宗門からの指摘に対して、何一つまともに答えていない。
それどころか、一方的に問題をすり替えて、逆に宗門を非難し、攻撃しているのである。学会が、今主張している僧俗平等論もその例外ではない。
 学会側の論点のすり替えを認識するために、藤本総監が「お尋ね」で指摘した内容(大日蓮号外・学会問題の経過と往復文書25~27頁)を、今一度読みなおすべきである。その上で、果たして藤本総監が、聖職者の権威や権力をふりかざし、信徒を軽視し蔑視しているかどうか、しっかりと判断して頂きたいものである。
 学会側は、藤本総監の指摘を、「平等観」「民主」という論点にすり替え、おかど違いの非難中傷を繰り返しているに過ぎない。これは、踏まれてもいない足を「踏まれた」「蹴られた」と大騒ぎをしているようなものである。このようなやり方を、「言論の暴力」とか「言論の詐欺」というのであろう。しかも、いかにも宗門の体質が、時代錯誤の「権威・権力至上主義」にあるような印象を、純真な信徒や社会に与えているのである。しかし、このような悪質極まりない魂胆は、今や明白となっている。創価学会も宗教団体を名乗るのであれば、正直を旨として、節度を充分にわきまえる必要がある。
 それさえもかなぐり捨てて、宗門を攻撃しなければならなくなったのは、「お尋ね」の指摘が仏法の道理の上から正当であったからであり、創価学会がこれに対して「進退きわまった」からであろう。


2.「僧俗平等論について」

 僧俗の立場において、どちらが上でどちらが下かという、きわめて「差別的視点」から論を展開しているのは、実は創価学会である。
 日蓮正宗には、もともと差別偏重の教義や意識はない。仏法は空理空論を弄ぶものではなく、真実の妙法を身をもって信受し実践修行していくことである。そこにこそ、本仏の御意に適い、成仏の道が開かれるのである。その見地から、今回の問題を通して、創価学会が喧伝している無軌道な「僧俗平等論」の誤謬を破すものである。

 (イ)「僧俗の不二」について

 堀日亨上人は「化儀抄註解」に、
「竹に上下の節の有るがごとく其ノ位をば乱せず」
との御文を、僧俗平等の義・差別の義、常同常別・二而不二と釈されている。
 日蓮大聖人が説かれた「僧俗の立場」の御教示は、結論を先に述べるならば「二而不二」、すなわち「二にして二ならず」という関係である。立場・役割の現実的な相違は、否定し得ないものであるから「二而」である。また、御本尊に対し奉る信仰面で捉えるならば、「平等」であり「不二」である。
 仏法には、このような拝し方をすべき法門が多々存する。例えば、「色心不二」「因果不二」「依正不二」「仏凡不二」など、「二而不二」の義で示され、その立場から拝さなければ、到底真実義に至ることのできない教説は、多岐にわたって存するのである。
 藤本総監が、「お尋ね」の中で指摘した「上下関係」は、僧俗の立場について、日有上人が示された「僧俗の礼儀」について述べられたものである。これは、そのまま一般の社会秩序にも通ずるものである。したがって、もしこれを否定するのであれば、社会秩序の崩壊をも招来するのである。
 藤本総監は、日有上人の御教示をそのまま紹介されて、池田名誉会長のあまりにも野卑な「僧侶蔑視」の発言を忠告し、たしなめたのである。それに対して開き直り、さらに非難したのが、「総監の珍妙な教学を笑う」という、一連の低俗なシリーズである。これは、創価学会の「狂った教学」と「過剰防衛的体質」を知る上で、格好の材料となるものである。
 さて、論の展開上、僧俗の立場における「不二」について、先に記すと、
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」(「生死一大事血脈抄」)
と示されるように、御本尊を拝する信心の上で、「僧俗は全く平等」であるということは日蓮正宗の宗是であり、藤本総監も「お尋ね」の中で明確に述べていることである。そのことを、意図的に隠して、学会員や世間の人に、藤本総監が「僧俗上下論」「僧俗差別論」を展開しているようなキャンペーンを張っているのである。このような姿は、正法正義を意図的に隔離して師敵対した「逆路伽耶陀(ぎゃくろがやだ)」外道を想起するのである。仏法をねじ曲げ、破壊しようとする徒輩は、いつも同じ道を辿る。提婆達多が、釈尊に対し、意図的に卑劣・陰険に敵対したこともよく知られるところである。
 「お尋ね」以後、学会首脳をはじめとする幹部の言動は、ひとり藤本総監に対する、理不尽な中傷だけではない。すでに正法正義、富士の清流に対する冒涜であり、また陋劣(ろうれつ)にして醜悪な讒言者と化している。池田名誉会長並びに学会首脳は、虚心坦懐に我が身の邪悪さを反省すべきである。

 (ロ)「僧俗の二而」について

 宗祖大聖人の御書中に、僧俗に対するさまざまな御教示が拝せられる。
 その一つに、
「我が弟子等の出家は主上・上皇の師と為らん在家は左右の臣下に列ならん、将又一閻浮提皆此の法門を仰がん、幸甚幸甚」(「諸人御返事」)
 〔日本国一同に日蓮が弟子檀那となったときには、出家(僧)は主上・上皇(主権在民の現代では為政者の)師となり、在家は左右の臣下として列なるであろう。そしてまた、(立正安国の姿を見て)世界中がこの法門を尊崇するであろう。これほどの幸いがあろうか。まことにめでたいことである。〕
 この御文は、明らかに僧俗の間に、次第のあることを示されたものである。
 池田名誉会長は、かつては僧俗の「二而」を正しく認識していたらしく、つぎのように述べている。
「私どもは、全部猊下の家来でございます。このたび家来を代表させていただき、また、日蓮正宗の信徒を代表させていただきまして、日達上人を外護申し上げ、東南アジアの旅行に行ってまいります。」(渡印歓送会 S37・1・23)
「私も猊下の弟子として、法華講員の一員として、広宣流布のために、(中略)そして猊下のお心におこたえ申し上げたい。」(大坊落慶式 S37・3・3)
「遣使還告であられる御法主上人猊下は日蓮大聖人であります。」(第26回本部総会 S38・9・1)
 上記発言は、全て池田名誉会長の過去の発言である。この精神があったがゆえに僧俗和合があり、良識ある創価学会員が、池田名誉会長の指導に従ってきたのである。この信心を失った学会には、最早何の魅力もない。みな失望をしている。池田名誉会長並びに学会首脳は、このことを謙虚に反省懺悔すべきである。
 藤本総監は、本年2月9日の書面で、
「宿世の福徳によって人間と生れ、大白法にめぐり逢いながら、無慚な 慢心を起こし、多くの会員を巻き添えにして一生を終えたならば、阿鼻大坑に堕ちることは疑いありません。」
と指摘をしているが、この書面を見て、いまだ反省の心が起きないということは、「完全に信心が狂った」「悪鬼入其身」としか言いようがない。多くの純真な創価学会員のことを思うと、慨嘆に耐えないのである。


3.御法主上人と信徒代表の立場の相違について

 私どもは、世間の人種差別問題や基本的人権に関して、論を張ろうとしているのではない。人間一人一人は、互いに「自由」であり、「平等」であり、社会形態も「民主」であることに異論もない。むしろ、こういう社会形態であるが故に、「言論の自由」「信教の自由」が守られることを、心から賛同している。今、論じようとしているものは、「日蓮大聖人の仏法を奉ずる日蓮正宗という宗教団体における、僧俗の役目と立場の違いからくる存在意義と筋目の論」なのである。
 いかなる組織や団体にも、上下の関係(縦の関係)と平等の関係(横の関係)が存在する。その最も基本的な二つの関係を混同し、否、意図的に無視して論を展開しているのが、現在の創価学会首脳である。これは、まさしく「若悩乱者頭破作七分」の姿と断ずるものである。
 学会首脳がとっている因循姑息な宗門攻撃の裏に隠されているものは何か──これを明確にすることが、問題の真実を知り、問題を正当、かつ早期に解決することにつながる。その視点から、「御法主上人」と「信徒の代表であった池田名誉会長」との〔師弟の立場〕・〔上下の関係〕を明確にしておきたい。なぜならば、現在の学会問題は、この義に混乱したために惹起したからであり、また後代において、同じ轍を踏んではならないからである。

 さて、創価学会はその会則に、
「この会は、日蓮正宗の教義に基づき、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」
と規定している。故に、その原点に立ち返って、今回の問題に関する誤りを糺さなくては、その存立基盤さえ失ってしまうのである。
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」
と、宗祖大聖人が説き置かれたことは、日蓮正宗の信仰をする者なら、誰一人知らない者はいない。この仏法の相伝の一切は、御開山日興上人以来、御当代日顕上人に至るまで、「金口嫡々・血脈付法」によって継承されている。
 日蓮大聖人、日興上人が御所持あそばされた仏法の一切は、唯授一人の血脈相承により「日顕上人」が御所持あそばされているのである。これを否定する者は、日蓮正宗の信仰を放棄する者である。
「此の相承は日蓮嫡嫡一人の口決・唯授一人の秘伝なり神妙神妙」(「産湯相承事」)
「血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり、相構え相構え秘す可し秘す可し」(「本因妙抄」)
 宗祖大聖人自ら大事中の大事をこのように示され、さらに、

「背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり」(「池上相承書」)
とまで、厳しく訓告あそばされているのである。宗祖大聖人の仏法の一切を継承あそばされる立場から、時の御法主上人が、時代の状況の変化によって起こりくる教義上の諸問題の「裁定権者」たることも当然である。「日蓮正宗宗規」には、
「教義に関して正否を裁定する。」
と規定されている。
 宗祖日蓮大聖人の御教示のように、時の御法主上人には、一宗を教導すべき立場と責任がある。したがって、また日蓮正宗の信仰上、一切の僧俗を含めた上で「上一人」の立場にある。御法主上人自らが、「私が一番偉い」などと仰せになられたことは、ただの一度もない。しかし、「唯授一人・上一人」たることは、僧俗一同が拝受すべき厳粛な事実なのである。

 池田名誉会長自身も、また創価学会も、仏法の本義の上から、御法主上人を厳然と「師匠」であると拝し、またそうでなければならないと、広く会員に説いてきたのである。その例を幾つか示すと、
「御法主上人猊下は遣使還告で、日蓮大聖人と拝し奉るのです。このことは信心の上からはっきりしたものです。創価学会の会長を過大評価したりしてはいけないのです。」(巻頭言・講義集第3巻184頁、S39・6・12発行)
「あくまでも師匠は日蓮大聖人即御本尊様です。それから『遣使還告』あそばされる代々の御法主上人猊下です。われわれは全部その弟子です。」(学会伝統の「実践の教学」・会長講演集第6巻113頁、S37・7・20発行)
などである。池田名誉会長が指導しているように、いかに功績があろうと、文化人らしき姿で世界と交流し、勲章が幾つあろうと、仏法の次元では、御法主上人と池田名誉会長とは「師匠と弟子の関係」なのである。御法主上人は、代々の会長をはじめとする創価学会員の、広宣流布への偉大な戦い、また総本山外護の功績を、最大限賞賛あそばされてきた。また、日顕上人は、唯授一人のお立場から、過去に多大な誤りを犯した池田名誉会長を護り、宗開両祖の御精神を根本として、令法久住、広宣流布、世界平和の戦いに邁進するよう御教示もされ、願ってもこられたのである。同様に、多くの信徒に対しても、慈悲をもって、誠心誠意、接してこられたことは、宗内の僧俗一同の知るところである。
 法体を御所持あそばされ、僧俗一同の師匠である日顕上人に向かって、
「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。」
「全然、また難しい教義、聞いたって解んないんだ。誰も解らないんだ、ドイツ語聞いているみたいにね。それで『俺偉いんだ。お前ども、信徒ども、信者、信者』って。そんなのありませんよ、この時代に。」
と、まことに無慚極まりないスピーチを、池田名誉会長は現実にしたのである。「猊下というものは……」との箇所は、日達上人のお言葉を敷衍して述べたものであると、強弁して言い逃れようとしているが、そういうすり替えで、全てをごまかそうという姿勢は、やがて会員に伝染する。いや、すでに学会そのものが、こういう無慚な体質になってしまっている、との発言も多く聞く。

 血脈付法の御法主上人を見下し、悪しき権力と決め付けた池田名誉会長のスピーチは、本宗信徒としてあるまじき増上慢・不遜の言動である。しかも、指摘を受けながらも開き直る姿には、数々の謗法を犯して、日興上人に敵対した波木井日円の姿が、そのまま重なってくる。波木井日円が、日興上人に宛てた「最後の状・あざけりの状」とも称されている書状に、
「日円は故聖人の御弟子にて候なり、申せば老僧達も同じ同胞にてこそ渡らせ給ひ候に」
とある。自らの初発心の師であり、また宗祖大聖人の付嘱を受けられた日興上人に対し、日円は、
「自分も大聖人の弟子である。言うならば、六老僧も同胞である。大聖人の慈愛に浴することは同等・平等であり、日興上人から訓戒を受けるいわれはない。」
として反逆をしたのである。大聖人の仏法においては、師弟子の道を正してこそ、成仏得道が可能となる。五老僧や波木井日円も、根本の師弟子の道を違えたが故に、謗法と化し、外道に堕したのである。正法正義と根本の師に敵対した池田名誉会長並びに学会首脳は、本来ならば、自ら慚愧の念に堪えないはずである。自らの信心の誤りを反省し、大御本尊にぬかずいてお詫び申し上げねば、阿鼻大坑の苦は免れないことを断言するものである。


4.一般僧侶と信徒

 血脈付法の御法主上人と自分たちとは、信心の上で平等・同等ということは、さすがに表立っての表現はしていない。しかし、創価学会としては、その内面では、すでに下剋上の様相を呈していることが窺われる。その一例が「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。」
とのスピーチである。
 御法主上人に対して、このようにいうのであるから、一般僧侶のことになると、最早平等・同等という論は建前論であって、本音は完全に見下しているというのが実態であろう。
 卑怯なすり替え・欺瞞をもって、藤本総監をはじめとする僧侶に攻撃をしている姿は、完全に見下し敵視したものである。平等論も、実のところ、「在家が上」との持論展開の伏線と思われるのである。

 さて、一般僧侶と在家信徒との関係については、藤本総監が指摘しているように、
「貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何レも同等なり、然レども竹に上下の節の有るがごとく、其ノ位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」
との化儀抄の御教示は、従来、僧俗ともに何の異論もなく守り、従ってきた条目である。信心の上では、僧俗に全く差別はなく、平等たることは当然である。しかし、仏法守護のため、信徒の信行学増進のため、宗団維持発展のために、竹に上下の節があるように、礼節が必要なのである。この点が大切なところで、前述の「二而不二」の「二而」の義も、実はここにある。
 宗門は古来、日興上人の「遺誡置文」の、
「若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事」
との条目を守り、信心の化儀中にあっては、能化・所化、僧俗の分位、初信・後信の前後等から、上下の秩序を保ってきた。これは、日興上人の御教示であり、歴代の御法主上人が堅持せられてきた日蓮正宗の伝統精神である。
 今、学会首脳は、一元的に僧俗の平等を主張しているが、それでは在家同士の間柄はどうであろうか。全ての会員は上下の差がなく、平等であるというのであろうか。
 判りやすく創価学会の組織にあてはめると、池田名誉会長も、ある一人の本部職員も、末端の学会員も、御本尊に対し奉る信仰の面においては、全く平等で、何ら差別はないはずであり、またあろうはずがない。しかし、組織の維持発展のために、種々の役職が設けられているのは、そこに上下の秩序をたもつことが必要であるからにほかならない。信心の上では平等であるから、「俺にも池田名誉会長と同等の扱いをしてくれ、平等・民主の時代ではないか」「秋谷会長よりも、俺のほうが毎日長時間働いている。俺のほうが、よほど学会に貢献している。会長以上の待遇で報いてくれ」という要求を、創価学会では認めるとでもいうのであろうか。
 「民主」「平等」という、誰しもが抗することのできないであろう「語」を悪用し、宗門に刃を向けているが、実質的には、宗門より更に閉鎖的・非民主的な創価学会の在り方に対して、学会内部から刃が向けられる構図が、すでに見えはじめている。「還著於本人」とは、まさにこのことである。
 平成3年1月24日、御法主日顕上人は、僧侶の代表に、
「僧俗の関係は『二而不二』である。」
「『二而』にとらわれてもいけないし、『不二』にとらわれてもいけない。」
との御指南をあそばされた。
 この「二而不二」の原理が理解できなければ、創価学会の会員は、永遠に大聖人の仏法に敵対するであろうことを戒めておくものである。


5.化儀・化法のとらえかた

 創価学会では、日有上人が「化儀抄」に示された、
「竹に上下の節の有るがごとく其ノ位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」
の条目も、日興上人「遺誡置文」の、
「若輩為りと雖も高位の檀那より末座に居る可からざる事」
の条目も、化儀・化法のうち、化儀に属する教えであり、二次的なもので、宗祖大聖人の教えの根本は僧俗平等、すなわち化法にその根本の「僧俗平等」が説かれている故に、藤本総監の
「したがって、僧俗には大聖人の仏法に即した本来的な差別が存在する」との論は誤りである──と主張している。この点についての誤謬を破すこととする。

 化法とは日蓮大聖人の教義であり、たとえ時代や状況の変化があっても、何ら変わるものではない。したがって、絶対改変されてはならないものである。また、化儀とは化導の儀式、化法の現実化であり、宗祖大聖人の教えに照らして違うことがあってはならない。
 化法を、時代に即応した形で「指南する大権」を有するのは、時の御法主上人であり、一般僧侶でもなければ、ましてや信徒でもない。その立場から、日有上人が僧俗の立場、上下の関係を規定なされたのが「化儀抄」であり、日興上人の「遺誡置文」の御文でもある。
 化儀とは化法に準則して行ぜられるもので、そこには化法の命脈が生きづいていることを知らねばならないのである。化法と化儀を、都合のいいように切り離す妄説は、本宗の教義でも信心でもない。時代に即した化法・化儀の御指南は、唯授一人の御法主上人に相承された「大権」であることを、僧俗一同が深く認識し、片時も忘れてはならないのである。
 さて、学会のいう「僧俗平等論」は、御法主上人を除く一般僧侶と在家との平等をいうのか、御法主上人をも含めた僧俗平等をいうのか、現在の段階では、まだ鮮明ではない。しかし、学会員の中には、すでに「御法主上人と池田先生は対等だ」という暴言を吐く人もいる。この点については、すでにその誤りを指摘してあるが、「僧俗平等論」なる陳腐な論を展開した結果、仏法の本義までも破壊し始めた恐ろしい姿がある。天魔外道に魅入られた所為としかいいようがない。
 日蓮正宗の化儀は、化法に裏打ちされたもので、化法から独立しての化儀の存在はありえない。いうなれば「二而不二」なのであり、学会がいうような「二次的なもの」として、軽視し侮ってはならないものである。牽強付会の考え方は、次第に正法誹謗に至るしか道がないことを恐れるべきである。
 藤本総監が、1月12日付文書で記した、
「これは権威主義などというものではなく、仏法に定められた規範として、仏法流通の上の、僧侶に備わる本来のあ
るべき姿であります。したがって、僧俗には大聖人の仏法に即した本来的な差別が存するのは当然であります。」
という僧俗の関係は、上述した意義を含んでのものであり、大聖人の仏法に即した僧俗論として、僧俗ともに素直に受け止めるべき内容のものなのである。さらに、
「平等面のみを見て差別面を排するところには、九界即仏界も、差別即平等も一切なくなってしまいます。」
と、本宗の法義に照らして、理路整然と教示されているのであるから、一切の我見を捨てて再読し、藤本総監に、衷心より詫びるべきである。


6.識者の声について

 聖教新聞において、宗門を批判したり、池田名誉会長を誉め讃えたりするとき、「ある著名人は……」と書きだすことは、学会の常套手段であった。ところが、今回は、いよいよそれら著名人らしき人たちが、実名で登場するようになったのである。それにしても、これらの人たちは、学会側の主張だけは、よく理解されているようである。
 ただし、ここに登場する識者は、日蓮正宗の信心とは、今のところ無縁の人たちである。これらの人が、実際、どのような宗旨の信仰をされているのか、念仏宗か、真言宗か、キリスト教か、はたまた無神論者であるのか、定かではないが、日蓮正宗の信心をしていない人が、この問題を正しく認識することは不可能である。
 「民主化を阻む宗教の権威主義」「前世紀の遺物か宗門の古い感覚」「適正な手続きを欠く非民主的な宗門」「宗門に民衆救う精神が欠落」等々、学会擁護の論を展開しているが、肝心の池田名誉会長のスピーチに関して言及したものはひとつもない。ここに信心している者と信心していない者との、考え方の大きな差がある。あえて避けたのかも知れないが、今回の問題の発端であり、根本である三宝破壊につながる池田名誉会長の発言は、信心をしていない人にとっては、大きな意味を持たないのであろう。いずれにしても、謗法の学者まで動員して、宗門攻撃をする無慚無愧な姿は、まことに哀れを誘うものがある。
 日蓮正宗において、御法主上人は、大聖人以来の血脈法水を相承され、一身に所持あそばされている唯一人の御方である。したがって、御法主上人は、その権能の上から一宗を総理し、つねに令法久住、広宣流布への方途を示されるのである。故に、僧俗は挙って御法主上人の御指南を拝し、信行に邁進していくことが、日蓮正宗の信心の根幹をなすのである。
 このような尊い血脈法水を所持される御法主上人を、侮蔑した池田名誉会長の発言は、日蓮正宗の信心をする者にとって、到底見逃すことができない重大問題である。その重大問題は、大聖人の仏法を受持し、御本尊の功徳を心から信じ求める人でなければ、決して理解できるはずがないのである。
 「非民主的」「非近代的」「閉鎖的」「権威主義的」等々と宗門を批判しているが、宗門が民主主義を拒否し、また社会情勢などを何も知らないで、ただ古い体制に固執しているとでも思っているのであろうか。
 宗門は過去七百年の間、あらゆる時代のそれぞれの社会に適応しながら、日蓮大聖人の仏法と伝統を守り続けてきたのである。そして、そのための努力は、今後も、未来永遠に続けていかなければならないものなのである。ただ権威をふりかざしているだけでは、七百年の歴史を積み重ねることすらできるものではない。
 学会は、宗門が非民主的であると決め付け、社会に開かれた民主的な宗門となるよう、主張している。民主主義は大いに結構であり、決して否定するものではない。ただし、数をもって正義や真実の、全てを決することができないことも事実である。むしろ、愚かな多数決は、ときに正義を覆い隠し、真実をねじ曲げることさえある。日蓮正宗では、すでに七百年前、日興上人が、数を頼んで仏法を決することの非を御教示されている。
日興上人の「遺誡置文」の、
「衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事」
の条文である。最近、学会では、同じ「遺戒置文」の、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」
との条文のみを、曲げて用いたがっているようであるが、この二つの条文は、合わせて拝していくところに、日興上人の御意があると拝すべきである。
 何かというと「一千万信徒が……」といって、数こそ正義とばかりに、宗門に圧力をかけようとするが、数は必ずしも正義とはなり得ない。
 今回もそうであるが、池田名誉会長並びに学会首脳は、自分たちがいかに立派であるかを知らしめるために、世界の著名人、知識人を使うことを常套手段としている。池田名誉会長と多くの著名人との会話が、単なるプロパガンダ(宣伝)にすぎないことは、聖教新聞や聖教グラフで、あれほど池田名誉会長や学会を褒めたたえていたそれらの人々が、その後、入信したという話を聞いたことがないことからも明らかである。
 同じことは、今回の識者の方々にもいえることである。みな一様に学会の活動を支持し、賛同の意を表しながら、しかもなお信心をしていないのである。
 重ねていうが、今回の問題は、いかに知識人といえども、信心をしていない人には、宗祖大聖人が、
「当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(「草木成仏口決」)
と仰せのように、理解できるべくもない事柄である。同時に、このような識者を自慢げに用いる学会の体質が、そのまま「謗法与同」の誤りを重ねていることを知るべきである。


7.正しい僧俗の在り方

 問題が惹起してから、学会首脳が犯した正法に対する背反は、余りにも多く、一文をもっては指摘しきれない。日蓮正宗信徒として、余りにも情けない哀れな心根を見せつづけられている学会員や、池田名誉会長や学会組織の弾圧が怖くて、正論を発言できない学会幹部が、多数存在することも熟知している。
 しかし、ことは、まことに重大な事態に至っている。会員一人一人の一生成仏か、阿鼻大坑か、いうなれば「生か死か」を選ぶような真剣さで、仏法の正邪を選ばねばならないほどの局面を迎えたからである。

 昭和55年11月26日、創価学会創立50周年記念幹部登山の砌、御法主日顕上人は「僧俗の進むべき方途」を、大慈悲心のお立場から御指南された。すなわち、
  創価学会創立以来の折伏弘教と総本山・末寺の外護は、偉大な功績を有するもので、感謝し尊敬する。
  創価学会50年の広布の歴史を「果」ではなく、人類の幸福のための「因」と捉え、新たなる発足をして戴きたい。
  52年路線の「学会の誤り」は、日達上人の御慈悲により、学会の反省と努力を前提に、一切が収束された。
  法主は、血脈を継承する上から、一宗を嚮導すべき立場と責任がある。
  創価学会に、宗門の宗旨を蔑ろにするような底意はなかったと信ずるが、仏法は正法及びその付嘱の法体に対しての、
      信伏随従か誹謗背反かである。誹謗背反は、大謗法・大悪の行為である。
  正信会僧侶の処分に関連して、学会にも指導者にも誤りはなかったという発言は許されない。学会に逸脱があったことは事実である。
〔僧俗に関して〕
  在家中心の考え、僧侶・寺院軽視の在り方は改めるべきである。令法久住・広宣流布において、僧俗は一体の使命をもつものである。
  僧侶は、とくに「令法久住」、在家は「広宣流布」に、それぞれ重大な使命がある。真実の僧俗和合のもとに前進がなされなければならない。
  信徒団体としての基本を忠実に守り、その上で適切な会員指導をして戴きたい。
[指導者中心の在り方]
  会長中心の団結と組織、会長への信頼と尊敬が大折伏の要因でもあるが、それがいわゆる神格化に繋がっては、当門流の教義からの逸脱となる。今後は、かかることが微塵もないよう徹底し、即身成仏の大直道を、堂々と進んで戴きたい。     (以上取意)
と、宗開両祖の血脈を継承遊ばされる立場から、甚深の御指南をせられたのである。
 僧俗が、ともに本分を全うし、仏祖三宝に御報恩謝徳申し上げることこそ、弟子檀那の最高の道であることを御指南下さったのである。しかも、池田名誉会長並びに創価学会の誤りを、
「浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし、重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし」(「阿仏房尼御前御返事」)
の御文を引かれ、御慈悲溢れる御言葉をもって、教え諭されたのである。
 僧侶に対しても、「上求菩提・下化衆生」という厳しい訓戒をつねに説かれて、「祖道の恢復」をはかってこられたのである。従って、我々僧侶も、理想的な僧俗和合は、御当代日顕上人の代にこそ実現を──と、大きな期待をもち、実践に励んできたのである。

 池田名誉会長も、御法主上人のこの御指南に先立つこと半年前の4月2日に、「恩師の二十三回忌に思う」との所感を発表し、6・30、11・7を踏まえた、まことに殊勝な反省懺悔と、仏法流布、仏法外護の決意を述べている。すなわち、
  戸田会長の日蓮正宗厳護と忠誠、広宣流布への命懸けの戦いの在り方の尊さを賛嘆し、創価学会の宗教法人設立に当
たっての日淳上人、日達上人及び御先師上人の鴻恩に深く感謝申し上げること。
  52年路線の問題は自分の指導に発端があったこと。その起因するところは、

1本山に正本堂を御供養申し上げることができたが、全国の会館の整備がいまだしであった。
2在家団体としての基盤確立と、社会に開いた教学の展開をはかった。
3宗門・僧侶が会員を見下したり、信徒を隷属させることのないよう厳しい態度で臨んだ。
このことが、僧侶・寺院の役割を軽視し『学会主・宗門従』の創価学会中心主義的な『独善性』を生んだ。この主客転
倒は、ひとえに我が身の信心未熟故の慢(増上慢)と、大御本尊に心より懺悔申し上げるものである。
  代々の御法主上人は唯授一人・遣使還告の御立場であられると尊崇申し上げるものである。
  代々の会長の神格化は、絶対あってはならない。とくに私自身、罪業深き、過ち多き身であることをよく知っている。
  今日の種々の問題は、私の指導性の不徳のいたすところである。
  創価学会の存立基盤に立ち戻り、あくまで外護と布教の根本を主体とし、社会的存在としての文化活動を推進して行きたい。 (以上取意)
と、犯した誤りと、自らの増上慢を反省懺悔するとともに、本宗信仰の命脈たる戒壇の大御本尊と、血脈付法の御法主上人を根本として、信徒として、信徒団体として、その本分を全うすることを誓ったのである。
 しかしこの、
1、御本尊への御誓い。
2、御法主上人への御誓い。
3、創価学会員への誓い。
の、その全てを、今回、見事に裏切ったのである。これほどの「虚言」が、宗門史上、かつて存在したであろうか。「第一義天に慙ず」と「法華文句」にあるが、まさに天をも恐れぬ所業とはこのことをいうのであろう。
 僧俗の在り方は、すでに御当代日顕上人が、余すところなく御指南せられている。僧俗ともに真摯に拝受し、実践したならば、理想の僧俗和合は、大きく築かれていたであろう。全ての僧俗が望んだ僧俗和合を破壊し、多くの純真な学会員を苦しめた池田名誉会長並びに学会首脳が犯した罪業は、余りにも大きい。

 また、唯授一人の御法主上人の御宸襟を悩まし奉った罪障は、我ら凡慮の計り知れないものである。
 願わくば、虚心坦懐、潔く反省懺悔し、宗史に残る大汚点をわずかなりとも、洗い浄められんことを。

 以 上

 

 


第35回本部幹部会における  池田名誉会長のスピーチの「お尋ね」以外の問題点

1991-04-08 | 時局資料

   第35回本部幹部会における
   池田名誉会長のスピーチの「お尋ね」以外の問題点

              時局協議会文書作成班1班

(大日蓮 平成3年5月号 第543号105頁 転載)

1.「勝たねばなりません。仏法は勝負です。勝負には必ず敵がいます。敵がいないようだったら勝負できません。相撲でも、剣道でも、何でも。最後、勝つか負けるかです。」

 池田名誉会長は、「仏法は勝負」ということを、スピーチの中でよく使用している。
 この「仏法は勝負」ということは、恐らく『四条金吾殿御返事』の「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」、また「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つものなり」などの文が依拠となっていると思われる。したがって、「仏法は勝負」ということ自体は、何も間違ったことではない。ただ、池田名誉会長の解釈が問題なのである。
 御書の中で仰せの「仏法は勝負」とは、道理を根本とすることが大前提となっている。それは、理・文・現の三証の上からも明らかである。つまり、正しい道理と文証とによって正邪を判じ、そして現証によって決するのである。したがって、道理の上から一切の教法や思想をみれば、おのずとそれらの高低、浅深の相違が判別される。このように、さまざまな教法や思想に高低、浅深の相違があるならば、必然的にそれらを基とした一切の主張や価値観にも、現実的な勝劣、正邪の別が顕われてくる。したがって、特に道理をもって根本とするのである。
 大聖人の仏法における道理とは、教理的には五重相対であり、従浅至深して顕わされた文底下種独一本門が、一切の道理の根本となる。また、信仰的には、文底独一本門の所詮である本門戒壇の大御本尊、及び大御本尊と二而不二である唯授一人の血脈に対して、深く信順することが道理の本である。
 同抄では、たとえ主君(ここでは四条金吾殿の主君である江間氏)が威圧し、弾圧しようとも、文底下種の妙法を固く受持していくならば、封建的な主従の世界にあっても、道理の上からおのずと勝負は決すると示されたのである。つまり、当抄の意は、四条金吾に対して、主従の秩序を無視し、主君と対等に渡り合って勝負を決せよなどというような、低次元の御指南ではない。主従の道は貫きながらも、各々の持つ教法の浅深が、道理の上から、宛然として現実世界に顕われてくることを説かれたものなのである。
 つまり、仏法では、まず道理の上から妙法は勝、その他の一切の教法や思想は劣と判じて、勝法である文底独一本門の妙法を受持することが大本であり、それを「仏法は勝負をさき」とお示しなのである。更にいえば、仏道修行における敵とは、正法に背く邪法邪師の邪義であり、それを粉砕して正法を宣布し、平和な国家を建設することにあると知らなければならない。
 ところが、池田名誉会長のスピーチにおける「仏法は勝負」の意味内容は、全く異なっている。すなわち、上記のスピーチのように、概ね「仏法は勝負であるから、仏法を行ずるには必ず敵がいて、その敵と勝負をする。そして、勝負である以上、勝つか負けるかであるから、必ず我々は勝たねばならない」というものである。つまり、相撲や剣道のように、仏道修行にも必ず敵を想定するのである。そして、「勝つ」という一念のもとに、その敵と戦い、そして必ず勝っていかねばならないと解釈しているのである。換言すれば、現象世界、すなわち目に見える表面的視野における勝負を意味するのである。
 池田名誉会長は、他のスピーチの中でも、「仏法、信心は、永遠に前進であり、永遠に闘争である」「勝負とは絶対的なものである。勝つか負けるか。中間はない」「勝ってこそ仏法、勝ってこそ信心なのである」「“仏法は勝負”であり、『勝つ』ことが正法の証明となる。また、勝ってこそ新しい『歴史』はつくられる」「正義は歴史が証明する」「私は一切に勝った」などと発言している。

 これらからも判るように、池田名誉会長は、現象世界の一面が、物事の全てであると考えている。つまり、池田名誉会長は、精神よりも表面的な事象、心法よりも見てくれの色法を大事とし、また執拗に執着しているのである。したがって、「仏法と申すは道理なり」との仏法の大前提は、池田名誉会長には全くない。故に、この「仏法は勝負」をいう場合も、「勝てば官軍」が第一義であって、それによって真実の宗教になると考えているのである。そのため、一切の事象においては、創価学会として、また池田氏自身として、決して負けてはならないのである。
 更にいえば、表面的に勝つためならば、たとえ裏工作であれ、謀略であれ、手段を選ばないという創価学会の思想も、ここに窺われるのである。同時に、小説「人間革命」や様々な著作、スピーチなどでも判るように、歴史の改竄やすり替え、歪曲をすることなども、あえて厭わない。全てが、池田氏自身の、絶対化を指向するための擬装である。
 要するに、池田名誉会長の、「仏法は勝負」に対する解釈は、元となる道理を等閑にし、かつ、皮相的な現象面に執われ、戦闘的に一切を制覇していくことにあるという、全く異質のものなのである。このような思想は、広範な仏教中に説かれていない。ましてや、大聖人の文底仏法の考え方であろうはずはない。まさに池田教の思想であり、それによって歪曲された解釈というよりほかにないであろう。

 

2.「我々こそが、本当の『歓喜の歌』をね、歌う資格があるんだもん。『南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜』だってね、それで『歓喜の歌』って何ですか。よう歌えないで、しょうがない。」

 「お尋ね」の(六)に関連することであるが、「歓喜の歌」を歌う証拠として、『御義口伝』の「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」との御文を挙げていることに、当然ながら問題がある。ベートーベンの第9交響曲の合唱、すなわち信心の会合で「歓喜の歌」を歌うことについては、「お尋ね」および1・12の指摘で、その非を指摘している。したがって、ここでは触れない。
 問題なのは、「歓喜の歌」でいう「歓喜」と、『御義口伝』の「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」における「歓喜」とを、同一レベルに述べていることである。
 「歓喜の歌」は、旧約聖書やギリシア神話などの外道の典籍を基にした歌詞である。その歌を歌うのに、なぜ「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」との御文を持ち出すのか。これでは「歓喜の歌」イコール「南無妙法蓮華経」ということになってしまう。このような、池田名誉会長のこじつけ教学は、まさに法を下げるものであり、内外一致の外道礼讃であり、日蓮正宗の仏法を弘めていく指導者として、基本的な面から失格であるといわざるを得ないものである。

 

3.「それでまた、ずーっと23区のねぇ(会場に展示してある多数の作品を指して言っているらしい)、パチンコの景品じゃない、ありゃ何だ、ありゃーなぁ。チンドンヤの展示会!なん、なんつったらいいかな。芸術作品!失礼しました。芸術の文化の秋。すばらしい。全部1点1点拝見し、新聞に出ると思いますが、これはもう上野の近代美術館に出しても絶対恥ずかしくないような真心込める、込もるすばらしい作品が、ずーっと並んでおって、あー東京もよくやるなぁ、よくやるなぁ、大したもんだなぁ、変わってきたなぁ。ぜんぜん関西にはかなわないけどさあ。よくやったなぁ、こう思って、感激と、ああ感激は、登場とありゃぁさぁ。あの、拝見して、一生懸命ボタン押したら、みんな電気切れなんです。動かない。ちょうど。ともかくおめでとうございました。ご苦労さまでした。」

「秋谷会長も偉くなったなぁ。青木君も偉くなったなぁ。森田一哉君も偉くなったなぁ。うちの奥さんも、もともと偉いけどさっ。」

 これらの発言は、みなジョークであるから、それぞれの発言の合間に、笑いなども入っている。つまり、学会内の権威者であり、権力者である池田名誉会長ならば、いかに会員を小馬鹿にしたようなジョークを述べようと、それは許されてしまうのである。現に、出席している会員のほとんどが、無条件で受け入れ、笑っているのである。それは、数十年にわたって、学会の組織、並びに会員を、そのように洗脳してきたからにほかならない。
 しかし、少しでも冷静にみた場合、また傍からみた場合は、とてもジョークでは済まされない内容である。多くの会員が真心込めて作成したものを、冗談とはいえ、「パチンコの景品」「チンドンヤの展示会」などといって蔑み、また反対に「芸術作品!」「これはもう上野の近代美術館に出しても絶対恥ずかしくない」などと持ち上げ、挙げ句の果てには「あー東京もよくやるなぁ、よくやるなぁ、大したもんだなぁ、変わってきたなぁ。ぜんぜん関西にはかなわないけどさあ」
と、讃めているのか、けなしているのか、さっぱり判らないことをしゃべっているのである。しかし、結局は、自らの権威において、会員の真心を、はなから馬鹿にしているのである。

 同様に、本来ならば、引退し、第一線を退いていなければならないはずの池田名誉会長が、多くの会員を前にして「秋谷会長も偉くなったなぁ。青木君も偉くなったなぁ。森田一哉君も偉くなったなぁ。」などと、現役のトップ幹部を見下す発言をしているのである。恐らく、ここでいわれている、秋谷会長以下のトップ幹部自体が、わざと馬鹿に徹し、笑って聞き流しているのであろう。しかし、このようなことは、道義的にも、また社会的にも、決して許される発言ではないはずである。
 これ以前のスピーチでは、多くの会員の面前で、学会の長たる秋谷氏が、罵倒されたことさえある。池田名誉会長はもとよりおかしいが、秋谷会長をはじめとする学会首脳も、このような状況下で、平気で笑いを装っていられること自体、その精神を疑うものである。しかし、あるいはこれが、現在の学会精神なのであろうか。
 ともあれ、これらのジョークにおいても判るように、池田名誉会長の心の中では、独占的権力欲や名誉欲が、猛烈に働いているのである。つまり、すべてを見下し、すべてを思いのままにしていく、という大きな慢心が、池田名誉会長の考え方の基本になっているのである。

 

4.「皆さん方も、御本尊もった学会っ子です。仏勅を蒙った、人です。ただごとじゃない地涌の菩薩です。自分がいるかぎり、何の心配もいらない、最高に富める者である。依正不二でみんな富める者である。そして見てください。こういう気概で、信心しなければ、何のための信心か。何のための人生か、ということをまず申し上げておきたいと思います。」

 ここでは、自分たちは「地涌の菩薩」であるといいきっている。これは、明らかに6・30違反であり、僭越至極にして、不遜極まりない発言である。
 6・30の質問と回答を追ってみるべきである。

 

5.「『深く深く敬意を表する次第であります。』ということで、ずっとずーっと褒めているんですよ、創価学会を。布教が大変だ、折伏は大変だ。700年間出来なかった。ちゃんと知ってらしたんです。今は当たり前だと思ってるけども、とんでもないことです、本当は。それで、その日淳上人、それはもう先師であり、ね、師匠ですよ、宗門の。」

 「お尋ね」の(四)の前半の質問に関する発言である。学会の1・1回答では、「日蓮正宗では700年間折伏をしなかった」という発言内容に対する質問には、あえて回答を避けており、「お尋ね」で「そんなに」を「まったく」と解したことに対する疑難をするのみであった。
 しかし、時局協議会文書作成班4班の指摘のごとく、この意のものは、「お尋ね」で引用した発言のみではなく、上記のように、他の部分でも同様に発言しているのであるから、「そんなに」では済まなくなるのは当然である。

 

6.「会館つくんだって、今大変ですよ。もう、こっちに反対がある、こっちに反対がある。ねぇ、それで今度は友好を、こう結ばなければならない。それから、また、あのー、えー、ビラを配られたりなんかして、大変。お寺も同じですよ。たくさん造っているけれども。そういう苦労わからないんですよ。もう簡単なように200箇寺が出来ると。どれほど秋谷君やね、森田君が苦労しているか、ぜんぜんわかってやしない。会館もずいぶん遅れるとこありますけども。そりゃそりゃ大変です。」

 もともと、200箇寺は、当初の計画として、東京23区内に毎年1箇寺ずつ、計11箇寺が予定されていた。そして、初年度には、順調に江戸川区に大護寺が建立された。しかし、2年目以降、都区内には一向に建立されず、6箇年が過ぎた平成2年秋になっても、何の進展や連絡もなかったのである。そのため、平成2年11月14日の宗務院・学会の連絡会議において、藤本総監が、その状況について質問したのである。それに対して、学会は、宗門からそのようなことを質問すること自体が不遜であるようないい方で、宗門側をまくし立ててきたのである。この時の状況については、平成3年2月7日発行の『大日蓮』号外〔創価学会問題について(一)〕に詳しいので、追って見るべきである。
 ともあれ、このような経過の上から、宗務院に対する批判として、上記のような発言がなされたのである。それは、また学会からの「お伺い」文書によっても明らかである。
 なお、「どれほど秋谷君やね、森田君が苦労しているか、ぜんぜんわかってやしない」との発言は、財務勧募の手前、学会だけが苦労しているということを、吹聴したかったのであろう。しかし、秋谷会長や森田理事長が、役目柄、何らかの苦労をしたとしても、土地の選択や買収、さらに建物の建設などに関しては、一切を三菱商事が請け負っていることは、当日の会議でも、「直接三菱商事に聞いていただいたほうが、納得していただけると思います」と、秋谷会長が言っていたことから判るのである。もし、秋谷会長や森田理事長が苦労しているとすれば、池田名誉会長が気に入るように、200箇寺の土地をいかに安く買い、建物をいかに安く建てるかということであろうか。
 事情はどうあれ、多くの会員の前で、200箇寺の寺院建設を恩着せがましくいうことは、御供養の精神に反するものであることを知らなければならない。

 

7.「体裁なんてものはすぐ判っちゃいます。本物か本物でないか。真実は隠せません。創価学会の真実のこの実績、これは隠せません。本山の繁栄も創価学会の外護です、全部。真実は隠せません。ね、それを隠して、ねぇ、『学会改革の時代だ』そういうことは言わせません。御本尊が裁きます、それから世間が何と言おうが全部歴史が裁きます。真実は隠せない。」

「日達上人は昭和46年9月1日、法華講の富士会館で、富士会館は私がつくってあげたんですよ、法華講は。『今、幸いに宗教の自由が許され、本当に民主的時代になった今日(以下略)」

 上記の発言からは、小乗仏教ですら否定する我欲を、池田名誉会長は、自らに限って肯定していることがよく判る。すなわち、池田名誉会長の大きな慢心が、大変よく表われた発言なのである。
 そもそも、三宝の御宝前を荘厳することは、清浄な信心に基づいていなければならないのである。したがって、それに伴う御供養なども、三宝への喜捨としてなされるべきで、見栄や自慢のためにしたり、あるいは功績・褒賞を求めてすべきものではない。

 このような観点から、上記の発言は、信仰者としての基本的な姿勢を心得ていない池田名誉会長自身の、我慢偏執の本心を露呈したものと断ずるものである。
 また、「真実は隠せません」「真実のこの実績」などと、「真実」の語を無造作に連発しているが、池田名誉会長は、一体どのような意味で、この「真実」の語を使用しているのか。
 宗教用語として捉えた場合、「真実」の語の意は、大聖人の仏法では、当然三大秘法に当たるが、また、信行に約せば、三大秘法の受持成仏を遂げるための、行者の堅固な信心に当たる。
 しかし、上記の発言からは、到底そのような殊勝な心は感じられない。とすると、池田名誉会長のいう「真実」の語の意は、「ほんとう」「偽りのないこと」「嘘ではないこと」というような、一般用法における事実という意味である。確かに、表面上の事実としての実績をいえば、池田名誉会長や創価学会には、多大な実績の事実がある。しかし、事実の中には「真実」もあるが、偽りの心を表面上で覆い隠すための事実もある。その場合、それは事実であっても、「真実」ではなく「虚偽」である。つまり、池田名誉会長の外護や供養の実績は、確かに事実であっても、外護や供養に対する意識は、上記の発言どおり、我欲に満ちたものであるから、三宝に対する「真実」の供養ではなく、「虚偽」の供養なのである。したがって、池田名誉会長は、このような発言の中で、本来、「真実」などという語を使用できる立場にはないのである。

 

8.「『解決するには仏教の宿業論、仏教で、仏教では誰が間違っているか、ね、どちらに罪があるかを問題にするのではない。すべての人に共通の宿業がある。それを転換することを教えている。』宿業転換、宿命転換、これが正しい。これはすごい思想であります。『ただ私は三点、質問がある』これ、これからやるんだけどねぇ、『1、悪い業の、悪い業の本質というものは何か。2、善い業というものはどういうことをいうのか。3、善い業の方へ悪い悪業を転換するにはどうすれば良いのか。』人間革命読めばいいんだけどさぁ。」

 仏法の考え方を知りたいという識者の意見を取り上げて、「人間革命読めばいいんだけどさぁ」などと、平気でいえる傲慢さ、不遜さには、正宗の信徒とは思えないものがある。純真な信徒であれば、御書を繙いていくのが筋である。あるいは、また「人間革命は現代の御書である」とした、52年路線の再来であろうか。
 ともあれ、信仰者として、あるまじき傲慢不遜な言動であり、池田名誉会長の信仰の狂いが、如実に表われた発言といわなければならない。

 

9.「それで終わりに、もう少しいいですか。(はい!)また、あの日達上人の話ですね、これはやっぱり本山できちーっと将来のね、僧俗の問題として私言っておきたい。日達上人は昭和46年9月1日、法華講の富士会館で、富士会館は私がつくってあげたんですよ、法華講は。『今、幸いに宗教の自由が許され、本当に民主的時代になった今日、ここに幸いにして、我々の法華講の大指導者』、池田先生ですよ。『が出現せられたのでございます』とね、『出現』ですよ。『まことに今日、この指導者が出たということは、恐らくこの時代に広宣流布をさせんがために、仏様がそうした』、そのままの文ちょっとね、あのー、文、あんまり論理的だったけど、『仏様がそうした、大聖人様がそうなさった、と推測するのでございます。』法主ですよ。『私ども(私どもも私も)、本山において全面的に、この指導者に』そうですね、『外護を依頼し、すべて信頼して、本山もますます盛んになり、本宗の各寺院も盛んになり、年々寺院も増加して(年々として寺院も増加していく)、有り難い時代となったのであります。(ございます。)』
『この法華講総講頭という大指導者を得た今日、皆一致して、そして広宣流布へ邁進して、大聖人(大聖人様)の御意を達成していただきたいと、っていただきたいと思うのでございます。』この猊下の言葉に反した人は僧俗共に、これは猊下に対する師敵対ですから。これは明解といえましょう。」

 池田名誉会長の常套手段として、御歴代、とくに日淳上人や日達上人のお言葉を巧みに利用して、自身や学会を正当化する場合がある。上記の発言も、その例に漏れず、日達上人のお言葉を意図的に引用し、自身の本心を強調しているのである。とりわけこの部分は、池田名誉会長が、実際に何を考え、何を志向しているのか、その本性がよく表れている部分である。

 上記の中で、「出現せられた」とか、「仏様がそうした、大聖人様がそうなさった、と推測するのでございます」という日達上人のお言葉に対して、ことのほか思い入れが激しいのは、池田名誉会長の本心を発露するために、非常に都合のいい媒介となるお言葉だからである。つまり、池田名誉会長は、自身こそ、本仏大聖人から仏勅を被った大指導者である、あるいは本仏の再誕として生まれた大指導者であるということを、ことさら強調するとともに、御法主上人をはじめとする僧侶や、信徒の一切に、決して左右されない立場にあるということをいいたいのである。
 ここで、池田名誉会長が根本的に考えていることは、まさしく池田本仏論であり、また俗上僧下(換言すれば学会は主、宗門は従)という、僧俗対等よりも、さらにひどい僧俗観である。これらは、まさに慢心そのものの表われで、破仏破法の典型というべきである。何が「あんまり論理的だったけど」なのであろうかと疑うものである。
 しかも、「法主ですよ」と、あたかも日達上人が、このことを認定したかのように、すり替えて自慢し、また「この猊下の言葉に反した人は僧俗共に、これは猊下に対する師敵対ですから」と、さも自分が一番偉いのだから、自分に従わない者は師敵対であると断言するなどは、まさしく愚の骨頂にして、思い上がりの極致を露呈したものというべきである。まさに現代版の大慢婆羅門である。

 

10.「まっ、トルストイの話しも、この間したけども、死の準備のために言っておく、家を出て永遠の生命を求めよう、仏教の考え方ですね。それでは小乗的考え方。我々は家を出る必要ない、出される人はいるかもしれないけど、酒飲みすぎで。家を出た。本当は、出家というものは富や快楽や虚飾から離れた少欲知足でなければならないんです。出家は。」

 ここに2点ある。
 1点は、トルストイの考え方が小乗仏教の考え方だということである。
 家を出て永遠の生命を求めることは、六師外道などをはじめとして、仏教以外の多くの宗教教団で説くことである。問題は、それぞれの宗教が、何を価値観として、どのような法を説いているかということである。
 仏教では、一般に解脱(成仏)を説き、その行法として、三観三諦などの観法を説くのである。小乗では空観のみであるが、どうしてトルストイの出家の考えが空の考え方につながるのであろうか。内外混乱もはなはだしい。
 2点目は、「本当は、出家というものは富や快楽や虚飾から離れた少欲知足でなければならないんです。出家は」との発言である。これはごもっともな発言であり、出家は本来、少欲知足でなければならない。しかし、煩悩即菩提を旨とする末法の大聖人の仏法において、それこそ小乗仏教で説くような「富や快楽や虚飾から離れ」ることが、果たして是といえるであろうか。それも、そうすることが末法の僧侶の本義であるかのように、「本当は」という語句を冠して述べているのである。ここに、池田名誉会長の、宗門僧侶に対する僻み的な批判が窺われるのである。
 このような宗門僧侶批判を、多くの会員の前で行なうことは、明らかに宗門僧侶を陥れる行為であって、僧俗和合のためには、決してよいことではない。なぜなら、聞く者が、みな僧侶不信に陥るからである。もし、具体的に僧侶としてあるまじき行為をする者がいるとしたならば、それこそ連絡会議などの話し合いの場でなされるべきである。ここに、池田名誉会長の破和合僧の姿が顕われている。

 

11.「あのー、大聖人の死後、ね、在家の身としての、あなた、在家の身、信者って言わないです。在家の身としてのあなたとねぇ、あの野郎なんて言いませんよ。大したことないのにね。」

 「お尋ね」の(三)に関連するが、池田名誉会長が「信者」という語を、とても嫌いな証拠である。しかも、宗門僧侶の誰もがいわない「あの野郎」などの言葉まで挙げているのである。あるいは、「なんて言いませんよ」といっていることから、本当は御法主上人や宗門僧侶を指して「あの野郎」といっているのかもしれない。どちらにせよ、池田名誉会長は、その言動においても、非常に野卑な人物であることが、よく判るのである。
 このような池田名誉会長のスピーチを聞いて、学会首脳はおかしいと思わないのだろうか。それとも思ってはならないと思い込んでいるのだろうか。不思議な集団である。

 

12.「全宇宙がもう、いろんな歌を作ったって、その元は宇宙にあるんですから。どんな花ったって全部宇宙の中に種があるんだから。全部あるんですから。」

 池田教独特の妙法観である。妙法即大聖人であり、即大曼陀羅本尊であるべき大聖人の御教えは、池田教にはない。池田教では、妙法は宇宙にあるというのである。したがって、他のスピーチなどでは、成仏は大我である宇宙と、小我である自身とが一体になったところにあるといい、御本尊は宇宙と自身とをつなぐ「幸福製造機」の役目であるというのである。まさに池田教による妙法観であって、全く日蓮正宗の教義ではない。

 

13.「死ということは究極の、ね、民主主義、どうしようもない。これは決定的な1つの民としてね、人間として経なければならない道なんです。」

 池田名誉会長は、非常に民主主義という言葉が好きなようであるが、「死」が究極の民主主義であるということは、何をもっていえるのであろうか。
 民主主義というものは、人類の歴史的発展の中で芽生えた、主権在民の政治形態のことであり、絶対君主制や貴族政治、あるいは社会主義などと区別されるものである。
 一方、「死」というものは、生老病死の四苦の一つであり、生あるものの誰も逃れられないものである。これは、人類のみならず、有情界の一切にわたるものであり、成住壊空という大きな視野から見れば、情・非情の一切に訪れるものなのである。「死は一定」と大聖人は仰せであるが、この一定ということをもって、究極の民主主義であるというのは、全くの認識違いか、全くのこじつけか、あるいは池田教による生死観であって、決して民主主義の考え方でも、仏教の考え方でもない。世間の失笑を買うだけである。
 もし、平等観が民主主義であり、それが仏法の考え方だとすれば、それこそ生老病死などの四苦八苦は、全民衆に、喜んで肯定されなければならないであろう。しかし、人生のすべては仏智によるものではあっても、その長短は各々違っているのである。これは差別であって、平等ではない。死に方も、人それぞれであって様々である。これも差別であって、平等ではない。また、性別も、顔も、身長も、体重も、境遇も、考え方も、みな様々である。これも差別であって、平等ではない。すべては縁起であり、因果である。したがって、差別即平等、平等即差別であって、二而不二なのである。学会は「不二を見て二而を見ず」にほかならない。
 差別界にいる我々は、平等に即した差別の上で、信仰生活をすることが大事なのである。したがって、当項とは別問題であるが、僧俗にも上下の別が存するのである。これを外して、一切を平等のみで追うと、秩序を失い、規範が乱れ、道徳が滅し、人類は畜生に同ずることとなってしまうであろう。
 このような、池田名誉会長の常軌を逸した思想に対して、東大や京大などの一流大学を出ている学会首脳は、何らおかしいと思わないのだろうか。先にも感想を述べたが、全くもって不思議な集団である。

  以 上