正林寺御住職指導(R3.4月 第207号)
新型コロナによる影響は、1年が経過しても完全な終息の兆しは見えることなく、いまだに不安が世の中を覆っています。
自受法楽とは、謗法厳誡を大前提とした上で、自ら法楽を受ける意であり、仏が自らの悟りの内容を深く味わい楽しむこと。転じて、法悦にひたることをいいます。
コロナ禍にあっても御本尊に題目を唱えるところに、仏が悟られた境界に至ることが叶い、その境界を深く味わい楽しむ法悦に浴していくとの教えであります。
宗祖日蓮大聖人が立宗宣言あそばされた理由には、末法に生まれた一切衆生に自受法楽の境界へ到達することができるようにとの宣言でもあります。
4月28日は宗旨建立会であります。末法時代での自受法楽は南無妙法蓮華経であり、「いかなる智人善人なりとも」(御書1262)の境界から爾前諸経や文上の法華経では一時的な満足は「喜ぶは天」(御書647)との境界から経験できたとしても、現当二世につながる自受法楽の境界へ到達することはできません。
ゆえに大聖人は『上野殿御返事』に、
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。」(御書1219)
と仰せであります。
大聖人は『四条金吾殿御返事』に、
「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽なきなり。経に云はく『衆生所遊楽』云云。此の文あに自受法楽にあらずや。」(御書991)
と仰せであります。
自受法楽である「衆生所遊楽」とは、法華経『如来寿量品第十六』の『自我偈』に説かれる文で、「衆生の遊楽する所」と読みます。これは私たちの住むこの娑婆世界が、そのまま仏の国土、すなわち寂光土であり、衆生が遊び楽しむ所である、という意味であります。
「衆生所遊楽」は『自我偈』の、
「園林諸堂閣 種種寳荘厳 寳樹多華菓 衆生所遊楽(園林諸の堂閣 種種の寳をもって荘厳し 寳樹華菓多くして 衆生の遊楽する所なり)」(法華経441)
という一偈の中の一句であります。
この偈文は直前にある、
「我此土安穏 天人常充満(我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり)」(法華経441)
の文を受けたもので、本門の仏の所有である常寂光土の荘厳と、その安楽の相を説き明かしています。
まさに大聖人は『法華経二十重勝諸教義』に、
「一乗に乗じて四方に遊び大自在を得」(御書1191)
と仰せの自受法楽の境界であります。
自受法楽とは一家和楽の信心を構築する方途でもあります。
つまり、大聖人は『松野殿御返事』に、
「天(そら)より四種の花ふり、虚空に音楽聞こえて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、娯楽快楽(けらく)し給ふぞや。我等も其の数に列なりて遊戯(ゆげ)し楽しむべき事はや近づけり。」(御書1051)
と、また『経王殿御返事』に、
「法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。(中略)いかなる処にて遊びたは(戯)ぶるともつヽ(恙)があるべからず。遊行(ゆぎょう)して畏れ無きこと師子王の如くなるべし。」(御書685)
と仰せであります。この御指南のもと、大聖人は『御義口伝』に、
「難来たるを以て安楽と意得べきなり」(御書1763)
と、また『四条金吾殿御返事』に、
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給へ。」(御書991)
と仰せの御指南が存する道理であり、御本尊への祈りは護法の功徳力により転重軽受の用きがあります。
自受法楽について、御歴代上人の御指南を拝すると、総本山第65世日淳上人は、
「聖祖既に大真理と大信念とを提示遊ばさる。弟子檀那此処に於て以信代慧の門により不自惜身命の信念に住するが肝要である。若し然らば過去の業障忽ち滅し自受法楽の境たちどころに現前せん。」(日淳上人全集27)
と御教示であります。大聖人の大真理となる三大秘法と、大信念となる御書を心肝に染めて、日蓮正宗の僧俗は仏道修行の道場となる寺院において以信代慧の門により不自惜身命の信念を構築することが最も必要であり、因果応報のもとに過去遠々劫の罪障は消滅して自受法楽の境界に至る現証があるとの教えであります。
第67世日顕上人は、
「久遠元初の仏法に下種を受けて信心修行したなかの順縁、すなわち、謗法を犯し退転することのなかった衆生は、当座に即身成仏の大益を得て、法界を極楽と開き、そこにおいて自受法楽する生命となります。
これに対し、退転や逆縁により背き反する衆生は、その罪によって六道、特に地獄、餓鬼、畜生等の三悪趣に長く苦しんだのち、釈尊等の仏の化によって次第に機を調え、善心を養われて方便の仏教のなかで功徳を積み、ついに法華経を聞いて久遠の当初に受けた成仏の種子たる妙法蓮華を覚知し、成仏得道なしえたのであり、釈尊在世の衆生がこれであります。この上から、釈尊の化導は、久遠元初に始まり、正像二千年に終わったと判ぜられるのであります。
次の末法の時代は、既に過去に仏種を受けていない荒凡夫が出生する時機であり、この衆生のために、結要付嘱の妙法を釈尊より付嘱された上行菩薩が日蓮大聖人として出世し、一往は上行菩薩の再誕、再往、久遠元初自受用身の内証を顕し給い、一切衆生に妙法を下種されるのであります。」(大日蓮 第598号 H7.12)
と御教示であります。久遠元初より末法の今日までの始終を観点に、自受法楽の境界に至ることができない退転や逆縁について、六道輪廻の境界で苦しむ衆生を救済するとの教えであります。
第68世御法主日如上人猊下は、
「『自受法楽』とは自分自身に法楽を受けるという意味です。法楽というのは法の楽しみですが、その反対は欲楽、つまり欲望の楽と言います。これは、我々には五欲などの欲望が色々とありますが、そういうものに支配された楽しみのことです。(中略)欲望的、快楽的な欲楽に対して、『法楽』すなわち法の楽しみとは何かというと、広大無辺なる妙法蓮華経の正理を悟る楽しみ、それを自らのものとする楽しみのことです。つまり、仏法を味わって善を行い、徳を積んで自ら楽しむこと、これが自受法楽ということであります。また、その教えを信受する喜び、つまり釈尊が悟りを開いたのち、自分の悟った法を回想して楽しんだことが、その原義であると言われております。(中略)自ら広大なる法楽を受用する仏身のことを自受用身というのです。ですから、我々自身が妙法を唱えて自受法楽していく、自受用身の境地に立つということが大切なのであります。(中略)至心に題目を唱え、御本尊と境智冥合した時、それは確立されるのであります。その確立された強い自己は、現実の苦楽を共に無上の喜びとして、自受法楽することができるのであります。この自受法楽こそ、人間の真実の幸福境地であります。
されば、『いよいよ強盛の信力』を起こして、成仏を期すことが肝要であります。」(信行要文四 P29~59)
と御教示であります。欲楽である「放逸著五欲」(御書1771)と、法楽である「不断煩悩 不離五欲 得浄諸根 滅除諸罪」(御書1798)の相違についての御指南と拝します。つまり、一家和楽の信心で頂く幸福境地(果報・仏果)のことであります。
自受法楽は自行化他にわたることが大事であり、自行の自受法楽、化他行の自受法楽を構築することが常寂光土である仏国土への実現につながります。(※依正不二)
化他行の自受法楽を構築するためには、まず折伏、折伏戦で必要となる武器を訓練して使い熟せるように鍛錬が必要となります。訓練の先は実践であり、実践の先は、確実に地涌の友も自受法楽の境界を築けるように育成して異体同心し、さらなる折伏戦に備えていく信心活動が求められます。
最後に宗旨建立会では、自受法楽を自行化他にわたり、未来広布の実現に向けた決意と実践すべきことを確認し誓い合う大切な行事でもあります。
宗祖日蓮大聖人『開目抄』に曰く、
「大願を立てん。日本国の位をゆづらむ、法華経をすてゝ観経等について後生をご(期)せよ。父母の首を刎(は)ねん、念仏申さずば、なんどの種々の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。其の外の大難、風の前の塵(ちり)なるべし。我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。」(御書572)
