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日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

「正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す」(※転載)


正本堂の御指南に対する

    創価学会の『再お伺い書』の問難を破す


                     日蓮正宗時局協議会

 


   発刊に当たって

 本年(平成3年・1991年)初頭の一月六日と十日の二回にわたって、全国教師の指導会が総本山において開催され、その際の御法主日顕上人猊下の御指南が『大日蓮』二月号に掲載された。
 この御指南中、二カ所が訂正されたことなどについて、創価学会の秋谷栄之助会長ほか十二名の連名により、二月二十七日付の『お伺い書』を、御法主上人宛てに送りつけてきた。これは『お伺い書』とは名ばかりの詰問状であって、しかも「十日以内」と日限を切り、御法主上人に対し奉って返答を求めたものであった。
 これに対し、御法主上人におかせられては、「一宗を教導する法主」としてのお立場から、大慈悲をもって、三月九日付書面をもって御教示あそばされ、回答とされた。
 しかるに、その三月九日付の『御指南』に対して秋谷会長以下は、さらに三月三十日付で『再お伺い書』を、御法主上人宛てに送付してきた。これは『聖教新聞』の四月一日付紙面から四月八日付紙面までを使って大々的に掲載したように、B4判紙百十五枚に及ぶもので、内容を十段に分かって問難している。
 日蓮正宗信徒としての信心を失い、邪教の徒となりつつあった秋谷会長以下の囈言(たわごと)に対し、一々これを取り上げる必要のないことは自明であった。しかしながら、御法主上人の『御指南』を賜ってなおかつ、誹謗・悪口の限りを尽くして堕地獄の因を積み重ねる愚挙を看過することはできず、文書作成班の有志により、五月一日付『大日蓮』号外において、総論的にその誤りを糾(ただ)したのである。
 さらに、同じく文書作成班有志によって、その謬見(びゅうけん)に対し、各論的に破折を加え、去る九月二十三日、秋谷会長宛てに送付した。
 そこで今般、これら総論と各論の両論を一冊にまとめて、宗内教師各位に配布するとともに、記録として後世に留めることとした次第である。
   平成三年十二月二十五日

                   日蓮正宗時局協議会

 


   目  次

総 論

 はじめに

 一、一月六日と十日の御法主上人の御指南について

 二、二月二十七日付の創価学会の『お伺い書』について

 三、三月九日付の『御指南』について                

 四、三月三十日付の創価学会の『再お伺い書』について

 おわりに

                                

各 論

  

                                  
 (一) 正本堂と創価学会                        

 (二) 広布達成の意識と慢心                     

 (三) 「戒壇建立は、従の従・形式の形式」との発言について

 (四) 「改訂」の語義について                     

 (五) 『訓諭』の「たるべき」への論難の破折

 (六) 「公式見解否定の責任論」に対する反論

 (七) 先師冒涜論に対する破折

 (八) 「日顕上人の解釈に落差あり」に対する反論

 (九) 「賞与御本尊」の論難への破折

 (十) 正本堂に対する御指南の真義

 むすび                                 

 

「はじめに」へつづく


はじめに

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)

総論


 はじめに


 創価学会の秋谷会長以下執行部は、三月九日付の御法主日顕上人の『御指南』に対して、三月三十日付で再度の『お伺い書』を提出してきた。
 これは本年の一月六日と十日の全国教師指導会の御法主上人の御指南が、大日蓮二月号に掲載され、その中で御指南の二カ所が訂正されたことに対して、秋谷創価学会会長外十二名の連名により、まず二月二十七日付で質問状が御法主上人宛てに提出されてきた。それは『お伺い書』とは名ばかりの詰問状で、当事者たる池田大作氏ではなく、その側近らによるもので、しかも十日以内に御法主上人に対し奉り返答を求めたものであった。
 御法主上人が僧侶に対して御指南されたことに対し、その部外者たる信徒が期限つきで返事を求めること自体、不遜(ふそん)極まりないものであり、当の指南を拝した僧侶一同は拝受納得しているのであって、かかる質問などに返答する必要もないことは当然であるが、御法主上人には「一宗を教導する法主」としてのお立場から、大慈悲をもって三月九日付で御教示、回答されたものである。
 今回、その三月九日付の御法主上人の『御指南』に対して、創価学会の秋谷会長以下執行部は「信の一字」で拝受することなく、さらに三月三十日付で『再お伺い書』を御法主上人に提出してきたものである。と同時に、同会の機関紙たる聖教新聞で「猊下の『正本堂ご回答』を拝して」と題して四月一日より四月八日まで大々的に御法主上人批判のキャンペーンを張ったのである。しかも四月一日の聖教新聞に至って、初めて三月九日付の御法主上人の「宗内僧俗に対する教示」とした『御指南』を掲載したのであった。御法主上人の御指南まで発表時期をずらして情報操作を行ったのである。それに加えて、三月九日付の『御指南』と同時に発表した『再お伺い書』の内容は、「拝して」とは名ばかりの、「何が何でも御法主上人を池田名誉会長に陳謝させる」という憎悪に満ちたものであり、およそ本宗の信仰をしているものとは考えられないほど卑劣なものであった。
 時の法主上人が「一宗を教導する法主」としての宗教的責務のお立場から発せられた御教示に対し、その御慈悲を深く拝することなく、揚げ足取りに終始し、なおかつ「再回答を求める」などとは、もはや創価学会の秋谷会長以下執行部には本宗の信仰の一分すら感じられず、おのずから今後の御法主上人の御指南を受ける資格を放棄したものと言わざるをえない。
 日蓮正宗の信仰は御開山日興上人が当時の信徒団体である法華講衆に、
  「この法門は師・弟子をただして仏になる法門にて候なり」
と仰せになられたところの法門であり、また日蓮正宗は時の法主上人を師として中心に結束してきた宗門である。仏法者の心得として、
  「師の教誡する所、常に須(すべか)らく随順すべく、違逆することを得ず」
との言葉もある。秋谷会長以下執行部は今一度、真摯(しんし)に一月六日、一月十日、三月九日の御法主上人の御指南を拝すべきである。


一、一月六日と十日の御法主上人の御指南について」へつづく


一、一月六日と十日の御法主上人の御指南について

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)


 一、一月六日と十日の御法主上人の御指南について

 一月六日と一月十日の教師指導会における御法主上人の御指南を要約すると、昨年十一月十六日の第三十五回本部幹部会の、池田名誉会長のスピーチに代表される創価学会の増上慢きわまりない体質は、昭和五十二年の創価学会路線の無反省に起因するものと考えられるが、その本源は正本堂の定義に関する経過より起こったものであると御指摘されたものである。
 そして当時、正本堂建立に当たって、宗門・学会・妙信講などの三者がらみの複雑な状況で、時の御法主日達上人が正本堂に関する定義を論ずる流れの中で、そこに齟齬(そご)があったため必然的に起こってきた不信感により、創価学会の昭和五十二年路線が起きたものと御指南されたのである。
 当時、教学部長として御先師日達上人に直接お仕えした御法主日顕上人は、昭和三十年代から四十年代の創価学会の果敢な折伏活動により、広宣流布の様相の一分をみせた宗内情勢のなかで、正本堂建立の機運がもちあがり、その中での戒壇堂の定義について、日達上人の御指南と発願主池田大作氏の発言を対比して、その本質を語られたのである。
 本宗の伝統教義を明らかにされた日寛上人は、戒壇について三位日順師の心底抄を引用して、
  「兼日の治定は後難を招くにあり、寸尺・高下註記すること能(あた)わず」
と仰せである。その御精神にしたがって、御法主上人は当時、日達上人にお仕えした一人として、広宣流布の様相に深い御慈悲を示された日達上人のお心を拝しつつも、その法脈を継がれた法主として、深い責務の上から、御自ら深い内省をこめられて現在における正本堂の意義について御指南あそばされたのである。
 その中で特に池田大作氏の昭和四十三年の正本堂着工式での挨拶は『三大秘法抄』そのものの御文を引いて正本堂を、
  「この法華本門の戒壇たる正本堂」
と定義づけしたものであり、それはのちに日達上人が、昭和四十七年の『訓諭』において、
 「三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇」
と御指南されたことに反し、その後、それに対する訂正のないことが、端的に池田大作氏の今日の、自分中心に本宗の教義を決定づける様を示すものと指摘あそばされ、また、昭和五十二年路線と今起こっている宗門批判の本質的共通性について、直截に御指南されたものである。
 その一月六日と十日の二回にわたる御指南の中で、二カ所の時期的な意味での補足があったため、大日蓮二月号に訂正され、しかも正直にその一月六日と十日の当日の御指南と訂正した箇所を明示して掲載されたのである。
 ここ平成一、二年にかけて池田名誉会長は数十回にわたってスピーチを行っている。その中で氏は、本宗の教義・信仰・教団論などについて、内・外道双方の出典をとりまぜながら引用して独裁的に解釈し、勝手気ままに発言を繰り返し、本宗の僧俗に違和感を与えてきたのである。先師上人方のお言葉を切り文にして何回も自己礼讃を繰り返し、権威・権力論で宗門を当てこすり、正信会に擬(なぞら)えて僧侶批判を行ってきた。十一月十六日のスピーチにおける、聖教新聞には掲載されなかった生のテープの内容は、ついに御法主上人をも見下してきたとの危機感を宗内僧侶に抱かせるに至ったのである。
 したがって一月十日の御法主上人の池田大作氏に対する、
  「最近の言動をみると、何か自分中心ということが仏法の上からの基本になっているように思えてならないのであります」
というお気持ちは、宗内僧侶が等しく身にしみて感ずるところであった。故に当然の如く、一月六日と一月十日の教師指導会に出席した僧侶達は、たとえ大日蓮二月号で二カ所の訂正があったとしても、御法主上人の御指南を拝信しているのである。御指南をされた方と受けた者双方がその通りと思っていることに、その場にいない創価学会の執行部が難癖をつけるのは見当違いも甚(はなは)だしいと言わざるをえない。


二、二月二十七日付の創価学会の『お伺い書』について」へつづく


二、二月二十七日付の創価学会の『お伺い書』について

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)


 二、二月二十七日付の創価学会の『お伺い書』について

   =陰湿きわまりない質問状=

 さらに二月二十七日付の創価学会秋谷会長外十二名の連名による質問状が三月一日に総本山に届いたが、まことに陰湿きわまりないものであった。表向き『お伺い書』の体裁をとっているが、十日以内に返事を求める詰問状であった。それより驚いたことには、その伺い書が本山到着の一日前の二月二十八日付の聖教新聞に掲載され、大見出しには「正本堂に関する猊下の『訂正ご説法』の真意を伺う」とあり、何と横見出しには「名誉会長へ陳謝の意を」と割りふってあったのである。昨年十一月十六日のスピーチに端を発して、宗内を混乱におとしいれたのは池田名誉会長である。にもかかわらず創価学会執行部は御法主上人に対して「名誉会長に謝れ」と掲げたのである。
 その内容は、一月六日と十日の御指南は二カ所の訂正によって成り立たないと結論づけ、撤回するように要求してきたものである。その中で本音として言いたいことを次のように述べている。
  「ともかくご法主のおっしゃったこと故、名誉会長も我慢に我慢を重ねてきたのでございます」
  「一月六日、十日のこの猊下のご説法により、宗内の僧侶から、名誉会長は昭和四十年代の前半、すなわち今から二十五年近くも前から許すべからざる増上慢であったとの、いわれなき数限りない非難・中傷を受け、侮辱されたのであります。これは名誉会長の人格・人権に対する著しい侵害であり、名誉毀損も甚だしい」
  「ご法主上人におかれましては、二度とこうした誤りで信徒を惑わされることのないよう云云」
とまで述べ、御法主上人を非難中傷してきたのである。

 =日達上人の御指南にも違背する学会の主張= 

 今日の混乱を生じた創価学会の平成二年路線は、先の昭和五十二年路線の無反省に起因するものである。昭和五十四年にその収束に当たられた日達上人は、同年五月三日の本部総会において、
  「どうか今後は信徒団体としての基本は忠実に守り、宗門を外護して頂きたいのであります。その上で、自主的な指導と運営で伸び伸びとご活躍を願いたいのであります」と、信徒団体の基本は忠実に守るようにとの御指南をされた。そして同年七月、日達上人の御遷化のあと、その法統を継がれた御当代日顕上人は、御先代日達上人の協調路線を継承され、昭和五十四年十月八日、『院達』をもって、僧侶に慈悲の精神をもって僧俗和合の協調路線に添うように指示するとともに、学会に対しても、
  「学会にあっては、六・三〇、十一・七につき、さらに全会員が充分その経緯と意義内容を理解し納得するよう説明徹底を怠ってはならない。そのためには、過去において正宗の化儀化法から逸脱した部分を明確にし、またそのような指導を行ったことについて率直に反省懺悔し、再び過ちを繰り返さぬことを誓う姿勢を忘れてはならない」(趣意)
と訓戒されて、宗門全体を統率されたのである。
 今回の宗内の悲しむべき混乱は、池田大作氏をはじめとする創価学会の執行部が、日達上人、日顕上人の御指南を、信の一字をもって拝していなかったことに根本原因が存するのである。二月二十七日付『お伺い書』の起草者の一人で、秋谷会長の次に位置する森田一哉創価学会理事長は、本年の三月、会合の席で自ら宗門問題に触れているが、その中で、
  「十年前は堂々とできなかった。一言も言えなかった。それで失敗しましたんで、(笑い)今度は堂々とやっている」
と述べ、昭和五十二年当時の学会首脳の本音を一般会員に示したのである。先師日達上人に対する、何たる背反の言動であろうか。十年前、学会首脳部は形だけの恭順の姿勢を示して、ひたすら反逆の機会が来るのを待っていたことが判る。御法主上人は一月十日の教師指導会で、昭和五十二年創価学会路線の復活を危惧(きぐ)されて、
 「今度は、本当か嘘かは知らないけれども、『五十二年路線で揚げ足を取られ失敗したから、今度は絶対に揚げ足を取られない』というように言っているという噂を漏れ聞きましたが、そのようなつもりで、絶対に尻尾を掴まえられないように会員全部を洗脳しつつ、それで自分の手下にして、宗門もその中に巻き込んでしまおうと考えているらしいのです。本当はこのような流れなのです」
とお話しされていることと、ぴったりと一致しているではないか。
 また、同会合で森田理事長は、本宗七百年の血脈伝持の歴史についても触れ、
  「世間では日蓮正宗のことを『針金宗教』と言った。針金の如く細々と七百年(笑い)まっ、しかしよく切れないで来たからいいようなもので(笑い)」
と、日興上人以来の血脈伝持の尊い歴史をあざ笑っている。日寛上人は『六巻抄』に、
  「清浄の法水断絶せしむることなし」
と述べられており、その尊い歴史を嘲笑(ちょうしょう)する森田氏は、すでに本宗の信仰に対する敬虔(けいけん)な心の一分も持ち合わせていないことを、自らあらわしているのである。

 =学会首脳の謗法与同= 

 さらに、本年の初頭より聖教新聞や創価新報と交互して日蓮正宗の批判キャンペーンを特集しているのは中外日報紙である。これは宗教専門の新聞社であるが、数年前、同社の創刊記念パーティが京都で開かれ、千五百人に及ぶ宗教関係の招待者があった。なんとその中に、仏教各宗各派の管長、新興宗教教団の幹部や神社の宮司、キリスト教の司祭らと混じって、創価学会より森田一哉氏、辻武寿氏等最高幹部が出席し、乾杯のコップを持った姿が写真入りで紹介報道されていたのである。
 なぜ一宗教新聞社の創刊記念パーティに、全国からあらゆる宗教関係者が中心に集まると判っているにもかかわらず、謗法与同を嫌う本宗の信徒団体たる創価学会の最高幹部が、十数名も大挙して参加しなければならないのだろうか。
 本宗の血脈伝持の尊い歴史を矮小化(わいしょうか)して侮辱し、昭和五十二年路線の収束に当たられた先師日達上人の御慈悲に背反し、さらに他宗教との交際をも行う森田一哉氏ら創価学会執行部に、『お伺い書』を提出する資格などありえない。また今後とも、御指南を受ける資格もない。
 一月六日と十日の御指南は、内容的に池田名誉会長の言動に対して御法主御自ら指南されたものであるから、池田大作氏自身が、「我慢に我慢を重ねる」ことなどなく、自らの信仰の良心にかけて、『お伺い書』を提出して御指南を仰げばよいのである。創価学会の執行部が秋谷会長外十二名の連名で質問してきたことは、
  「どんなことがあっても先生に指一本触れさせない」
との同会の体質を如実に顕し、池田名誉会長を論争の渦中から意図的に外そうとしているのであろう。そして、こともあろうに本来、御法主上人に対し、外護の赤誠を尽くすはずの学会が、逆に御法主をさらしものにしようとして、聖教新聞において大々的に法主批判キャンペーンを行ったのである。かかる森田一哉氏ら創価学会執行部のように、日蓮正宗の信徒でありながら、本宗の血脈伝持の歴史をあざ笑い、時の法主上人に陳謝しろと要求してきたことなど、日蓮正宗の七百年の歴史にあったであろうか。まさに許し難い大罪でなくして何であろう。


三、三月九日付の『御指南』について」へつづく

 


三、三月九日付の『御指南』について

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)


  三、三月九日付の『御指南』について

   =賞与御本尊裏書への不遜な願い出=

 御法主上人には、かかる創価学会執行部の誠意のかけらもない『お伺い書』にもかかわらず、昨年末より起こった宗内の混乱を深く憂慮あそばされ、こと正本堂に関する問題でもあり、「一宗を教導する法主」としてのお立場から、三月九日付書面をもって御指南されたのである。
 そこで御法主上人は、一月六日と一月十日の御指南の訂正箇所について触れられ、さらに池田名誉会長の正本堂着工式の挨拶、先師日達上人の御指南、正本堂の定義、『訓諭』の補足解釈などを述べられたのである。
 物事の本質を見るとき、時の流れに沿って状況を判断する場合と、結果として現在のありさま、様相を見て、その本質や原因、淵源(えんげん)を探る場合がある。
 今回、御法主上人はその『御指南』において、昨年十一月十六日の第三十五回本部幹部会のスピーチに代表される、あまりにも無軌道、無反省な池田大作氏の言動につき、まさしく昭和五十二年の狂気の路線に対する何らの反省懺悔もないところから来る所業であり、さらには、本宗教義の根幹をなす戒壇に関して、正本堂を『三大秘法抄』の戒壇そのものと言い切ったような慢心に、その源が存することを指摘せられたのである。
 そのことを物語る大きな事件として、昭和四十七年四月二十八日に正本堂の定義に関する『訓諭』が発布され、そして同年十月に正本堂が落成した二年あとの出来事があった。
 それは昭和四十九年正月、御先師日達上人より池田大作氏に賞与御本尊が授与されることになった時のことである。その賞与御本尊の脇書(わきがき)には、
  「賞 本門事戒壇正本堂建立
      昭和四十九年一月二日」
と認(したた)められ、八カ月後の、表装が出来上がったその裏書(うらがき)には、
  「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也
    昭和四十九年九月二十日
             総本山六十六世  日達 在判」
と書かれてある。
 それについて御法主上人は、当時の日達上人の苦衷を慮(おもんぱか)られ、三月九日付の『御指南』では、
  「池田氏の強い要望があって認められたと記憶する裏書に」
としか述べておられない。しかし、その頃の宗門と学会のやりとりは、藤本日潤総監(当時庶務部長)のメモ記録に緻密(ちみつ)に書かれている。外部でも「藤本メモ」と言われているもので、裁判などで証拠資料として提出されたこともある。そのメモによれば、
  「大奥
   昭和49年5月6日后6~7時
     総監・阿部・藤本・理事
  早(瀬)・今内事部談話室で、お目通りを終って来た会長と面談した。
   ①御本尊裏書の件(S48・8・23正本堂記念の御本尊)
    学会持参の原稿
    『此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也』
    このままでは直になってしまう、次のようにする。
  猊(下)『此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇であることを願って建立されたのを証明する本尊である』とする。
  授与書 『賞 本門事戒壇正本堂建立』」
と記録されている。また、内事部文書にもその当時の書類や写真が全部保存されているから間違いない。
 この記録によれば、明らかに昭和四十七年四月二十八日の『訓諭』の後、正本堂が落成され二年を経ても、なお池田大作氏は正本堂を『三大秘法抄』の事の戒壇とすることに固執し、日達上人に学会持参の原稿を持ってきて強要していたことが判る。賞与御本尊の裏書は、結果的に九月二十日付をもって、「願って」から「準じて」に変更されたが、日達上人の御苦衷ぶりを拝することができる。
 のちに三月三十日付学会側反論で、「準じて」の意味を、御法主上人の御指摘された「なぞらえて」の意ではなく「のっとって」と解釈すべきであると主張しているが、「準」はあくまで「準」であって「正」ではない。これらの経過を知悉された上で御法主上人は御指南されているのである。
 また、池田大作氏は昭和四十七年十月、正本堂落慶法要の時、法要が終わって下山する信徒に幹部を通じて、七百年前の大聖人の御遺命がここに達成された旨の言葉を伝えさせている。幹部諸氏の中には記憶している人もいるであろう。このように池田大作氏は、日達上人の御指南に背くことをものともせず、正本堂は『三大秘法抄』の御遺命の戒壇という意識に執著したのである。
 御法主上人は、この賞与御本尊の裏書の件と、落慶法要での池田大作氏の言動の二点を挙げ、三月九日付の『御指南』をあそばされたのである。つまり御法主上人は、「今にして思えば」と現在の創価学会の謗法背反の姿から、その原因を論及されて、昭和四十三年の着工大法要の池田大作氏の挨拶に一切が凝縮されているとして、池田大作氏の増上慢の本源は、本宗の大事中の大事たる戒壇の定義すら勝手に言明してしまう、その体質にあると指摘されたものである。そこから昭和五十二年路線への無反省も起こり、また本源的なものとして正本堂の定義づけに関し、時の御法主たる日達上人と池田大作氏との様々な経緯があると御指摘されたのである。
 それにしても、昭和四十九年五月、池田氏が日達上人に持参し、賞与御本尊の裏書に要求した原稿は、まさしく昭和四十三年の正本堂着工式での氏の挨拶とぴったりと文言も一致し、いかに池田氏が正本堂の意義につき「三大秘法抄に御遺命の事の戒壇たる」ことに執著したか、うかがい知ることができる。
 また、正本堂の意義づけに関しては、当時教学部長であられた御法主上人御自らも、深く反省すべきことがあると述べられている。そして特に、日達上人の昭和四十九年十一月の本門寺改称に関する御指南や、昭和四十五年時の御説法に触れ、「信」の一字をもって日達上人の御指南を拝するとき、この昭和四十五年時の御説法、特に四月六日の御霊宝虫払会御書講の御指南こそ、宗内僧俗の根本指南とすべきであると教示されたのである。
 その上で、昭和四十七年の『訓諭』について、
  「そして、広宣流布の暁には本門寺と改称され、御遺命の戒壇となることの願望を込めつつも、一切は純真なる信心をもって、御仏意にその未来を委ね奉り、事の広布並びに懺悔滅罪を祈念するところの大殿堂である」
との補足見解を述べられたのである。
 大勢の御信徒の赤誠外護のまごころによって落成した正本堂と、それをお認めになられ、色々な議論を経て「現時における事の戒壇」となされた日達上人の御心中と、賞与御本尊の裏書に見られる、当時の学会の圧力などを深く内鑑しての御指南と拝されるのである。
 それは日達上人より法脈を受けられたればこその御指南であり、御自ら、
  「全ては、時日の経過によって風化させてしまえばよいと考え、他人の真摯(しんし)な反省も茶番劇と嗤(わら)う無慚(むざん)さを憐れむものであります」
と御心境を述べて結ばれている。
 さらに補足して近年の御法主上人の御指南を拝するに、
 ① 昭和五十八年八月二十九日 全国教師講習会
  「宗門も戒壇問題が起こり、ある時期には種々の考え方が出ました。たしかにそのなかには、ある意味での行き過ぎがあったと私は思っております。総じて法門において、法門を間違えたならば大変なことでありますから、そういうことに関して今後、もし問題があれば、私の職を賭(と)してでも、やるべきことはやるつもりです。それだけにまた我々は、本当に法門を正しく命懸けで守っていかなければなりませんし、弘めていかなければなりません」
と仰せられている。
 ここに「ある意味での行き過ぎがあったと私は思っております」と、御自身の教学部長当時の説を含めて、宗内僧侶中に、行き過ぎた説があったことを反省あそばされている。
 また、昭和四十五年四月の御霊宝虫払会御書講での先師日達上人の御指南と相通ずることが拝される御指南がある。
 ② 平成二年七月二十九日 法華講連合会第二十七回総会のお言葉に、
  「事の戒壇とは、大聖人御一期の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊は、本仏宗祖大聖人の一切衆生救済の大慈悲を実際に一閻浮提総与として顕された御本尊なるが故に、そのおわします所が事の戒壇であります。そしてその事の戒法の究極的実相は、仏法と王法の不可思議な冥合の力によって衆生の邪法における執着が破られ、現実にその功徳が国土に顕現する旨を『三大秘法抄』にお示しであります。ただし、その事の戒壇の聖文は仏知仏見によるところであり、凡智をもって軽々しく浅識の解釈をなすべきでなく、信をもって未来永遠にわたる大法広布の実相として拝しゆくべきと思います」
と御指南され、昨年の大石寺開創七百年慶讃大法要本会の慶讃文では、七百一年を機にさらに正法広布へ邁進する根本指南として、次のように御宝前に奉読されている。
 ③ 平成二年十月十三日 総本山大石寺開創七百年慶讃大法要・慶讃文(本会)
  「其ノ当体ハ三大秘法惣在ノ本門戒壇ノ大御本尊ニシテ コノ大本尊マシマス処 是レ即チ本門事ノ戒壇 真ノ霊山 事ノ寂光土ナリ 即チ正本堂ハ未曾有ノ広布進展ノ意義ヲ含ム本門事ノ戒壇ナリ 而シテ宗祖大聖人ハ一期弘法抄ニ云ク
   国主此ノ法ヲ立テラルレハ富士山ニ本門寺ノ戒壇ヲ建立セラルベキナリ 時ヲ待ツベキノミ事ノ戒法ト云フハ是ナリト
   コノ深意ヲ拝考スルニ 仏意ノ明鑑ニ基ク名実共ナル大本門寺ノ寺号公称ハ 事ノ戒法ノ本義 更ニ未来ニ於テ一天四海ニ光被セラルベキ妙法流布ノ力作因縁ニ依ルベシ 然レバ吾等淳善ノ仏子トシテ コノ開創七百年ヲ機トシ一層ノ正法流布ニ邁進センコトヲ誓ヒ奉ル者ナリ」(傍線筆者)
と仰せられ、「事の戒法」によせて本門寺改称についても触れられ、それらは妙法流布の力作因縁によると宣言あそばされているのである。
 これらの御説法と併せて三月九日付の御教示を拝するに、それはまことに本宗の僧俗等しく、今後の一切の規範とすべきものと拝せられる。


四、三月三十日付の創価学会の『再お伺い書』について」へつづく


四、三月三十日付の創価学会の『再お伺い書』について

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)


  四、三月三十日付の創価学会の『再お伺い書』について

  =卑劣な学会のキャンペーン=

 三月九日付の御法主上人の書面による『御指南』は「宗内僧俗に対する教示」としてお書きになられたものである。創価学会の執行部は、それを二十日間経っても日刊の機関紙たる聖教新聞に掲載せず、御法主上人の御指南を一般会員に周知徹底しようとしなかったのである。かつて正信会が、彼等の機関紙『継命』に御法主上人の御指南を、自派に不利なため敢えて遅らせて載せたことがあったが、創価学会も同じ方法を用いたのである。
 その後、創価学会の執行部は三月三十日付書面(四百字詰原稿用紙、約二百七十枚相当)をもって、いわゆる再『お伺い』と称する反論書を宗務院宛てに提出してきた。と同時に、四月一日付の聖教新聞に初めて御法主上人の『御指南』を載せ、併せて同紙面に、「猊下の『正本堂ご回答』を拝して」と題して、二面抜きで大々的に反論を掲載したのである。その反論は四月八日まで連続して展開され、さらに他宗教の人々が読む宗教新聞たる中外日報に転載された。さらにまた、大白蓮華にまで載せるという執拗(しつよう)さであった。
 およそ日顕上人が「一宗を教導する法主」としてのお立場で御教示されたことに対して、『再お伺い』を立てるのも異常だが、その反論を自らの機関紙たる聖教新聞や、本宗と何ら関係もない、謗法たる他宗の人のための宗教新聞の、中外日報に転載するのも異常である。まるで創価学会や池田大作氏に逆らう者は、たとえ日蓮正宗の法主たりといえどもけっして許さないと言わんばかりの、使える手段のすべてを動員しての、すり替えに終始した卑劣な反論キャンペーンであった。
 このように、御法主上人の御指南を純粋な信心の姿勢で拝することのできない創価学会執行部の体質では、今さら何を言っても聞く耳もなく、また御指南の御慈悲を受ける資格もないと言えよう。

  =悪意とすり替えに満ちた聖教新聞の大見出し=

 しかしながら、聖教新聞を読む大勢の一般会員の方々がいるのだから影響も大きく、悩まれている方もあると思うので、その蒙(もう)を啓(ひら)くために次の点を指摘しておきたい。
① 創価学会の執行部が、およそ原稿用紙二百七十枚にも及ぶ三月三十日付の『再お伺い書』を提出してきたことは、伺うというよりはむしろ、宗門の言っていることはこれだけ矛盾があると思い込ませ、非は宗門、特に御法主上人にあるのであり、正は池田大作氏にあると、一般会員や他宗教の人々に示そうとしたのであろう。
 また、昨年末からの宗内混乱の根本原因は、十一月十六日の池田名誉会長のスピーチや聖教新聞の宗門批判の論調に代表される創価学会執行部の増上慢の体質にあるのだが、それをかくすために正本堂問題を大々的に取り上げたものと思われる。
② 次に、宗務院宛てに提出してきたワープロ打ちの書面では判らないが、本音で言いたい部分は聖教新聞の「大見出し」にあると思われる。なぜなら本年初頭から、聖教新聞はたび重なる宗門批判のために同紙の品格が著しく落ち、大勢の会員から顰蹙(ひんしゅく)を買って、読まれていないからである。そして、たまに読むにしても、毎回二面抜きでは長すぎて、一般会員は大見出ししか目を通さないのである。だから、何としてでも、これでもかという「大見出し」を掲げて会員の注意を引きつけたかったのであろう。今、その大見出しのみを挙げてみる。
a 重大問題をはらむ「宗門公式見解の否定」
   問われる宗教的社会的責任
   陳謝なき訂正は成り立つか            (四月一日付 聖教新聞)
b 〝慢心〟との決めつけ根拠総崩れ          (四月二日付 聖教新聞)
c 〝広布めざす信心〟に冷酷なのは大聖人の御精神に違背
                           (四月三日付 聖教新聞)
d 決定的になった猊下の「訓諭」の文法的解釈の誤り  (四月五日付 聖教新聞)
e 「訓諭」の解釈の変更は先師日達上人の否定につながる
                           (四月六日付 聖教新聞)
f 再び「訂正ご説法」の撤回と「陳謝の意」の表明を
   「陳謝」なき釈明は詭弁             (四月八日付 聖教新聞)
とあり、六回にわたって繰り返し御法主上人を批判している。
 そして結論的に言いたいことは、一月六日、一月十日、三月九日の御指南は成り立たないから、「日顕上人は池田名誉会長に謝れ」ということに尽きるであろう。四月一日付の初回と、四月八日の最終回の二回にわたって、御法主上人に対して池田名誉会長に陳謝するよう、要求をつきつけていることからも判る。


 =『訓諭』の解釈は御内証による=

③ その中で創価学会の執行部が一番ポイントとして挙げているのは、昭和四十七年四月二十八日の日達上人の『訓諭』中の「たるべき」の用語の使い方である。
 これは一月六日と十日の日顕上人の御指南中、この「たるべき」を「未定の意」に解釈したのに対し、学会執行部は二月二十七日付の『お伺い書』で、その解釈を、本宗の大事たる師資相承の書、「二箇相承」にからめて「当然」の意であると反論してきたのである。
 これに対して、御法主上人は三月九日付の『御指南』で、二箇相承は本宗の御相承の書であり、伝法の深義に約して絶対的命令があるのであり、『訓諭』中の「べき」と同等に扱うべきではない旨を教示され、さらに辞典の用語例を挙げて、色々あるが、御法主上人としては、「とくにこの場合は『広宣流布の暁』及び『一期弘法抄』の文義による『本門寺戒壇』という重大性に基づく未来の広布の様相に引き当てて深く考えなければならない」ので、「未定とか予定」の意もあると「達観すべき」だと諭されたのである。
 それに対して聖教新聞は四月四日付で国語学者、中田祝夫氏と阪倉篤義氏の談話をとりあげて、『訓諭』は「確定した将来」「『当然』『適当』の解釈が妥当」との大見出しを掲げて掲載したのである。そして翌四月五日付の同紙で「決定的になった猊下の『訓諭』の文法上の解釈の誤り」と、あたかも鬼の首をとったかのように反論してきたものである。 御法主上人の御指南は、一月六日と十日の御指南、さらに三月九日付の『御指南』を拝すれば明々白々である。日達上人より御相承を受けられた法主として、血脈付法の御立場から日達上人の『訓諭』を解釈せられたのであり、「達観せよ」と仰せである。文法上の用例は引いても、それは可能性をお示しになったのであって、その範疇(はんちゅう)にのみとどまるものではない。
 仏教には昔から「観心釈」という用語や解釈の仕方がある。また、本宗の宗学で使う「依義判文」とは、正法正義にのっとって文を判釈する、いわば「活釈」である。日達上人より血脈相承を受けられた御当代日顕上人が、その責務において判釈されて述べられたのである。国語学者の先生方の意見を求めたのではない。
 もっとも創価学会が、学者の用語の解釈を用いて御法主を批判するのは今に始まったことではない。先師日達上人の時にも、日興上人の遺誡置文の、
  「時の貫首(かんず)為(た)りと雖も仏法に相違して己義を構えば之(これ)を用う可からざる事」
と、
  「衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧(くじ)く可き事」
との両文の解釈を当時の学者に依頼して、日達上人を批判するための用意をしていたことがあった。先師の時には公表されなかったが、今回このように大々的に発表して反論の骨子としたということは、それだけ謗法背反の気持ちが強くなったことを意味するものであろう。

 

   =御法主上人の御慈悲を曲解する聖教新聞=

 

④ 次に、『再お伺い書』では問題表現として、「日達上人の時代に広布達成の意欲・情熱が慢心なのか」と詰問している。
 なんという揚げ足取りであろうか。一月六日、一月十日の御指南、また日顕上人登座以来十数年にわたる御指南を拝してみるがよい。広宣流布の情熱や、それを基とする浄業に何の慢心があろうか。そのような意味の仰せでないことは明白である。
 前後の脈絡もなく切り文でとりあげての反論は、ためにするだけのものである。御法主の御指南を拝するのに、「信心の眼」を失えば何でも言えよう。俗に「行間を読む」ということもあるではないか。深意を拝してその意とするところを理解すべきであろう。
 また、今回の御指南は『正本堂御供養趣意書』にそって何百万人もの信徒の尊い御供養によって建立されたまごころに背くものとする反論も、同類のすり替えである。だいいち、正本堂に安置される戒壇の大御本尊の内拝は、御法主によってのみ許可されるものである。戒壇の大御本尊に誓って、正本堂建立の大願業に背けようもなく、また弁護士らが言うように欺(あざむ)けるはずもないのである。
 御法主上人は御登座以来十数年、御先師日達上人の御遺志を継がれて、仏祖三宝への御報恩と、世界平和をひたすら祈念され、また御信徒方の謗法の懺悔(さんげ)滅罪を御祈念あそばされているのである。
 どれだけ多くの人々が御開扉を受けて積功累徳(しゃっくるいとく)したことであろうか。正本堂建立御供養の大浄業に参じた八百万信徒の功徳は永遠に称(たた)えられこそすれ、いささかも損なわれることはない。昨年十月の大石寺開創七百年慶讃大法要の初会、本会の御法主上人の慶讃文を、よくよく信の一字の眼で拝してみれば、かような反論など出ようはずがないのである。
 創価学会の大きな会合や聖教新聞等で、若手の弁護士などに発表させたり、談話を載せて、いたずらに御信徒の信仰心に動揺を与えようとしているのは、一体だれなのか。猛省すべきであろう。

 

 =学会の歴史に一大汚点を残す御法主批判= 

 

⑤ また、日達上人の『訓諭』以外に真実はない、として昭和五十年七月五日の「法華講青年部お目通り」の言葉を引用しているが、噴飯ものである。昭和四十五年における日達上人の御説法と御法主上人の御指南の共通性については先に挙げたとおりである。日達上人と御法主上人は血脈相承の授受のお立場であられる。御法主上人が御先代上人の御指南を補足解釈申し上げるのは、むしろ御法主の尊い責務ではないか。日達上人が元妙信講に述べたと主張する御内意と、御法主上人が「信の一字をもって」とされて、
  「私はここに日達上人の御真意があらせられたことを、常日頃の謦咳(けいがい)に接したこととも併せて、かく信ずるものです」
との血脈付法の御内証に照らされてのお言葉とは、内容も意味合いも違うのである。揚げ足取りもここまでくれば学会執行部への不信が募るだけである。
 御書にも、
  「仏説すでに大に分れて二途なり、譬へば世間の父母の譲(ゆずり)の前判後判のごとし、はた又世間の前判後判は如来の金言をまなびたるか、孝不孝の根本は前判後判の用不用より事をこれり」
と仰せられ、仏法においても世間においても、前に出された証文と後に出された証文の場合、後に出された証文、すなわち最終的な真意に依るべきと決判されておられるではないか。
 今回の三月三十日付『再お伺い書』は、日蓮正宗の信仰を忘失し、何が何でも創価学会の主張を通し、時の法主上人に対して池田名誉会長に陳謝させようとする怨念に外なるまい。組織から流されてくる誤った指示に悲しみ、寺院への参詣ができない一般会員の苦しみを真剣に考えたことがあるであろうか。今回の平成一、二年の宗門批判は、宗門始まって以来のことであり、創価学会六十年の流れにも大きな痛手を残した不祥事と言わざるをえない。
⑥ 賞与御本尊については、三月九日付の『御指南』で述べられたとおりである。創価学会執行部が、信の一字をもって一月六日と十日の御法主上人の御指南を拝し、昨年十一月十六日の本部幹部会における池田大作氏のスピーチの底にある、御法主侮蔑、宗門軽視の発言がなければ明らかにされない事件であったと思う。否、むしろすべての真実を明らかにして、真の本宗の僧俗和合の在り方を考えるべき時なのかも知れない。


「総論 おわりに」へつづく


「総論」おわりに

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)

    おわりに

 

 いかに創価学会が日蓮正宗の広宣流布のために尽くし、たとえ池田名誉会長が希有(けう)な指導者であったとしても、日蓮正宗の信仰の筋目からして、根本の師たる御法主日顕上人を蔑(ないがし)ろにしては、真の僧俗和合も正法流布への前進もありえない。世・出世双方にわたる信仰の基本の御指南は、血脈付法の御法主上人に仰ぐのが本宗七百年来の伝統の精神である。御金言に、
  「師に値わざれば邪慧、日に増し、生死、月に甚(はなはだ)し」
と仰せである。大勢の一般会員の悲しみが日々に増している姿に、創価学会執行部は早く気がついていただきたい。そして、いくら世界宗教への脱皮と創価学会が主張しても、根本に御法主上人の御指南を仰ぐ姿勢がなければ、それは邪教へと方向が曲がってしまうことに気がつくべきである。
 また、今日の創価学会のように、目的のためには手段を選ばないという行き方は誤りである。もし創価学会が正法正義の上の素晴らしい目的を目指していると確信するならば、その手段も、また方法も万人に賞賛されるものでなければいけないはずである。
 宗門に創価学会の主張が聞き入れられないからといって、今日の聖教新聞や創価新報の論調に見られるような、僧俗和合の破壊に走ることほど愚かなことはない。たとえ正義も方法論を誤ると正義でなくなることは、世間でもよくあることである。創価学会という在家の団体のみで、宗祖の御遺命たる広宣流布の達成ができるはずもないのである。
 今一度、御法主上人の一月六日、一月十日、三月九日の御指南を虚心坦懐(きょしんたんかい)に拝すべきである。今こそ創価学会執行部が自らの愚行に気づき、一日も早く、御法主上人に対し奉り反省懺悔するように祈ってやまない。


各論 序」へつづく


各論 序

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)


 各論

    序

 平成三年(1991年)三月三十日付の、創価学会からの『再お伺い書』については、五月一日付の、本宗機関紙『大日蓮』号外において、総論的にその誤りを糾(ただ)したが、今回、再度その謬見(びゅうけん)に対し、各論的に破折を加えるものである。
 その所以は、同『再お伺い書』においては、去る三月九日の御法主上人の『御指南』に対し、「『ご回答』の検証並びに『お伺い』」なる十箇の科段を設け、手前勝手な質問を構えているためである。
 本宗の信心においては、下種三宝に対する尊信を根本とし、時の御法主上人を師匠と仰ぎ、その指南に僧俗ともに随順し奉るのが、信仰の基本であることはいうまでもない。
 さる一月六日・十日、及び三月九日の御法主上人の『御指南』についても、一宗を教導遊ばされるお立場において、戒壇の本義を示されたものであり、その血脈法水に基づく指南は、御先師日達上人の御真意と少しも違わぬ一貫したものであることはいうまでもないのである。
 これに対し学会は、まず一月の御法主上人の御指南に対し、猊下の御指南は二カ所の訂正によって成り立たないと主張し、撤回するよう要求してきた。
 その内容は、およそ『お伺い書』とは名ばかりの、御法主上人を誹謗し、陳謝を要求した詰問(きつもん)状で、あたかも猊下の御指南に誤りがあるかのような印象を、会員に植えつけることを目的としたものとしか考えられないものであった。
 御法主上人には、信仰の一分も感じられないこのような『お伺い書』であっても、全信徒を教導遊ばされる大慈悲の上から、三月九日付をもって『御指南』を与えられたのである。しかし、学会側はこの『御指南』を拝信しないのみならず、あろうことか世間の学者まで動員して、二十日間にわたって反撃の準備をし、三月三十日に『再お伺い書』として、猊下に対し提出してきたものである。
 したがって、この猊下に対する『再お伺い書』は、信仰の上からはまともに取り合うべきすじのものではないが、それを放置すれば、創価学会首脳部の妄説を正論と思い込み、すでにその虜(とりこ)となっている多くの信徒を救うことができない。よって時局協議会文書作成班有志において、さきの『大日蓮』紙号外における破折につづき、『再お伺い書』の十段の問難に対し、個別的に破折を加える次第である。


(一) 正本堂と創価学会」へつづく

 


(一) 正本堂と創価学会

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)

 

  (一) 正本堂と創価学会

   「昭和四十三年十月の会長発言が、正本堂を三大秘法抄等の御遺命戒壇そのものと断定した典型の発言なのか」に答える


 御法主日顕上人猊下は去る一月六日・十日の教師指導会において、池田名誉会長の昨年十一月十六日の傲慢(ごうまん)極まりないスピ-チに関連して、次のように御指南された。
  「五十二年の問題の折に、『二度とこのようなことのないようにする』と誓ったにもかかわらず、十年たってまた法主・宗門批判が起こったのは、池田氏は大聖人の仏法を全部つかんでおり、今後の広宣流布の上で、法主の指示・指南を受ける必要はない、というような考えを元としている故であり、その源は昭和四十三年の正本堂着工大法要において、大聖人の御遺命の達成であるという意味で、正本堂を『三大秘法抄』の戒壇であると言い切ったような信徒としての慢心の体質に由来する」(趣意)
 この御指南は、池田氏に法主誹謗等の破和合僧の言動が見られるのは、過去における慢心の体質にその源が存することを述べられたものであり、特に昭和四十三年の正本堂着工大法要の氏の挨拶が、信徒として、重大なる御遺命軽視の発言であったと指摘されたものである。
 その後、日顕上人はこの御指南を『大日蓮』に掲載する際、二カ所の時期的な訂正をされた。
 これに対し学会は二月二十七日付『お伺い書』において、日顕上人が二カ所の訂正をされたことを取り上げて、
 ①昭和四十三年十月の池田名誉会長の挨拶が、『三大秘法抄』を用いて正本堂を御遺命の戒壇と定義した最初とか、独断的発言とはいえない。
 ②それを根拠に池田氏に「慢心」があり、それが今日の問題を生んだ根源との御説法は成り立たない。
 ③正本堂着工大法要での池田会長の挨拶を対象に論じた猊下の御説法は、二カ所の訂正により成り立たない。よって正本堂の意義に関する部分等は撤回されるべきである。との理由で詰問(きつもん)してきたのである。
 この学会の『お伺い書』に対し、御法主上人は三月九日付の『御指南』において、
 ①『大日蓮』での訂正とは、昭和四十三年の池田氏の発言以前に、『三大秘法抄』等を引用しての、正本堂に関する日達上人のお言葉があったという時期的な意味の訂正であり、「正本堂=三大秘法抄の戒壇」と断定したのは池田氏の発言である。よってこれらの論難は当たらない。
 ②正本堂建立に関しては、創価学会が広宣流布成就を願うあまり、大聖人の御遺命の戒壇を建立したという意識をもち、その意識から強まった「慢心」が正本堂の意義づけに関する問題、五十二年路線の問題、そして今回の問題を生んだ根源となっている。 
 ③最初の発言が誰であるかということとは関係なく、着工大法要の際の池田氏の言葉は誤りであるから、正本堂建立発願者という責任ある立場からも、進んで大聖人様にお詫び奉り、それを宗内に公表すべきである。(趣意)
と仰せられている。

 〔学会の問難の要約〕
 (一)段においては、初めに池田氏の昭和四十三年十月、正本堂着工大法要における、「日蓮大聖人の三大秘法抄のご遺命にいわく『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり』云々。この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要を血脈付法第六十六世日達上人猊下の御導師により、無事終了することができました。本日参加された皆さま方に対し、厚く御礼申し上げると共に、皆さま方の栄光を心よりお祈り致します。大変にありがとうございました」
との挨拶を全文挙げている。
 つづけて(学会側は)御法主上人の三月九日付『御指南』を要約して、正本堂を『三大秘法抄』の意義に関連して論じたのは、時期的な点からは池田氏が最初ではなかったので、その意味で訂正をしたが、内容の上から、正本堂を直ちに『三大秘法抄』の戒壇と断定したのは池田氏であり、その発言の不遜性(ふそんせい)はいささかも崩れないとの認識であろうとし、
  「猊下の、この会長発言へのご認識は、果たして昭和四十三年十月以前の宗内僧俗の、正本堂の意義に関する発言の上から妥当なのでありましょうか」
と述べて、以下のごとく三項目にわたり問難を掲げている。

 〔「宗門の正本堂に関する発言等」についての要約〕
 この項では日達上人・日顕上人を含め奉り、当時の宗門僧侶の正本堂に関する二十五の発言例を挙げたのちに、
  「池田会長が昭和四十三年十月の着工大法要で、三大秘法抄の文を引いて『この法華本門の戒壇たる正本堂』と述べた発言など、その存在と印象が薄くなるほど、宗門内では昭和四十年二月以降、正本堂=ご遺命の戒壇の実現、というストレートな発言が支配的であったということが分かります」
と述べ、池田氏の四十三年着工大法要の挨拶内容が、当時の宗門の正本堂に関する意義づけを逸脱してはいないという。

 〔「正本堂の意義に関する正しい経過史」についての要約〕
 この項においては、前項の検証により、正本堂の意義づけは日達上人の御指南が根本であることが歴史的な事実であるとし、昭和四十年二月十六日の、第一回正本堂建設委員会における、日達上人の御指南に則(のっと)って作成されたとする『御供養趣意書』に、「実質的な戒壇建立、広宣流布の達成」との文があることは、以前から宗内で、日達上人が正本堂建立が実質の戒壇建立、広宣流布の達成であるとのお考えをもっておられたことを証明するものであり、これを踏まえ、正本堂が実質的な本門戒壇であり、御遺命の達成であるとの考えかたが、宗内に浸透されていったのが事実経過であるという。
 また昭和四十年九月十二日の『訓諭』と『院達』は、正本堂が御遺命の戒壇であり、広宣流布がいよいよ事実の上で成就されるということを、宗内の僧俗に徹底したものであり、この意義のもとに、正本堂の御供養をよびかけたのであって、故にこの『訓諭』・『院達』の見解を後から安易に変更することは、御供養に参加した八百万信徒を欺(あざむ)くものであり、社会的・道義的責任は免(まぬが)れないという。
 そして正本堂の意義については、以上の流れの中でその意義の基本骨格が完全に定まったとしている。

 〔「突出していない四十三年会長発言」についての要約〕
 池田氏の、昭和四十一年の『立正安国論講義』中には、正本堂を三大秘法の完結としたストレートな表現もあったが、その他の池田氏の発言は言い過ぎたものではないとし、その例として、昭和四十二年の『発誓願文』中の文言を挙げ、それは正本堂の建立と広布達成時の本門戒壇とを、ただちに結びつけた発言ではないという。
 すなわち宗内の僧侶に、三秘抄の本門戒壇建立、とのズバリ発言が見られる中で、発願主の池田氏は、意義の完結を未来のこととして論じているのであり、四十三年十月の着工大法要の挨拶も、この認識のもとになされているという。その証拠として、前日の十月十二日の聖教新聞に前年の『発誓願文』を再掲載していることを挙げ、よって池田氏の発言は、『発誓願文』に込められた、正本堂と広布の未来における本門戒壇の完結、という認識のもとに発言されたものであることは明らかであり、故に着工大法要における池田氏の発言は、宗内で突出したものではないというのである。

 〔「ご回答」への「お伺い」〕
 次に学会側はここで(イ)~(へ)までの六箇の質問を構えているが、これについては反論とともに後述する。

 〔本段における学会の問難を破す〕
 学会は本段において、前記のような「検証」を行っているが、その主張の要点は、「正本堂を『三大秘法抄』等の御遺命の戒壇なりと最初に定義したのは池田氏ではない。したがってその責任を池田氏にありとして、氏の慢心の表れとした猊下の御指南は、事実誤認である」とするところにあるといえよう。
 確かに今回、日顕上人が訂正されたごとく、正本堂建設当初に、その意義に関して、日達上人の御指南が存したことは事実である。しかしながら、昭和四十年の第一回正本堂建設委員会における日達上人の御指南が、正本堂の意義に関する一切の根本であり、それ以前には、学会には戒壇に関して何の方針も、責任も存在しないかのごとき学会側の主張は、正当とはいえないのである。
 ここで創価学会が本宗の戒壇論、及び正本堂建立にどのようにかかわってきたかについて、戦後における本宗の戒壇論議の流れを検証したい。

 〔奉安殿建立と国立戒壇〕
 戦後、本宗は創価学会の破竹の折伏大行進により、教勢の急激な進展をみた。その結果、昭和三十年十一月二十三日、学会の寄進により総本山に奉安殿が建立され、戒壇大御本尊の御遷座が行われた。すなわち大御本尊は昭和四十七年十月の正本堂建立までの十七年間、奉安殿にましましたのである。
 この奉安殿建立に関し、当時創価学会青年部参謀室長であった池田氏は、昭和三十一年四月の『大白蓮華』五十九号に、「奉安殿建立とその意義」と題する一文を寄せ、
  「戒壇御本尊奉安殿設置は正しく広宣流布への第一実証を意味するのであります。国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります。即ち三大秘法抄に云く、『戒壇とは王法仏法に冥じ(中略)時を待つべきのみ事の戒法と申すは是なり』云云」
と述べ、つづいて、
  「なかんずく『時をまつべきのみ』と御予言なされて六百七十星霜・今ここに奉安殿建立とともに化儀の広宣流布の歴史的第一頁の段階に入ったわけであります」
と述べて、奉安殿建立が明確に国立戒壇建立の第一歩であるとし、化儀の広宣流布の時が到来したことを述べている。さらに『三大秘法抄』の、
  「三国並に一閻浮提の人(中略)踏みたもうべき戒壇なり」
の文、及び『富士一跡門徒存知事』の、
  「日興云く(中略)本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ。仍って広宣流布の時至り国主此の法門を用いらるるの時は必ず富士山に立てらるべきなり」
の両文を引文した後に、
  「しかして創価学会こそ、その仏意仏勅を蒙り(中略)闘争を成しゆく団体なのであります」
と述べている。このような発言から見て、「創価学会」においては、昭和三十年当時において、自らを主体的に国立戒壇の建立主と自覚し、『三大秘法抄』等の御遺命の戒壇建立を志したことが看取(かんしゅ)されるのである。
 奉安殿はその立場における化儀の広宣流布の第一段階であり、さらにこの意思の具体的展開が、十七年後の正本堂建立であったのである。
 ともあれここでは、奉安殿建立時にすでに「国立戒壇建立を学会が行う」との強固な意識があったことを指摘しておく。

 〔戸田会長は戒壇建立を重視〕
 次に創価学会第二代会長、戸田城聖氏の講演中に、本宗の戒壇に関する発言がある。これは当時、すでに本宗最大の信徒団体となっていた、学会の長としての発言であり、また後の第三代池田会長の戒壇に関する認識とも、密接な関係をもつ上から、重要な意義を含むものである。すなわち創価学会の弘教活動の目的として当時公けに強調されていたのが、「化儀の折伏・国立戒壇の建立」ということであった。
 すなわちこれにつき戸田会長は、
  「化儀の広宣流布とは国立戒壇の建立である」(巻頭言集・昭和三十一年二月一日)「国立戒壇の建立は、日蓮門下の重大使命であることを論じた。しかし重大使命であるとしても、もし、国立戒壇が、現在の状態で建立されたとしたら、どんな結果になるであろうか。一般大衆は無信仰であり、無理解である。単に国家がこれを尊重するとするならば、現今の皇大神宮や明治神宮の如き扱いを受けるであろう。しからば『かかる日蓮を用いぬるとも、あしく敬はば国亡ぶべし』との御聖言のように、国に災難がおこるであろう。ゆえに、国立戒壇の大前提として、本尊流布が徹底的になされなければならぬ。日本全国の津々浦々まで、この御本尊が流布せられ(中略)最後の国立戒壇の建立、すなわち三大秘法の本門の戒壇の建立は、本尊流布の遂行とともに、当然完成されることは、いうまでもないと信ずる。また、このことは至難事中の至難事であることも、いうまでもない」(傍線筆者) (巻頭言集・昭和三十一年五月一日)
  「われらが政治に関心をもつゆえんは(中略)国立戒壇の建立だけが目的なのである。ゆえに政治に対しては、三大秘法禀承事における戒壇論が、日蓮大聖人の至上命令であると、われわれは確信するものである」(傍線筆者) (巻頭言集・昭和三十一年八月一日)
  「国立戒壇建立こそ遣使還告の役目であり、地涌の菩薩のなすべきことと自覚するならば、化他にわたる題目こそ、唯一無二の大事なことになるのではなかろうか。そこに折伏の意義があり、学会の使命があるのである」(傍線筆者) (巻頭言集・昭和三十二年六月一日)
 以上の戸田会長の戒壇に関する発言からは、化儀の広宣流布、すなわち「御本尊流布」と「戒壇建立」こそが学会の至上の目的・使命であると会員に説いたことが明らかである。しかしそれと共に、時至らぬのに戒壇を建立すれば、国に難が起こる故に、徹底的に津々浦々まで「御本尊」の流布がなされねばならない、との言辞があることに注目すべきである。
 すなわち、たとえ宗祖の御遺命たる「戒壇建立」が重大事ではあっても、その戒壇建立の条件、すなわち、「事の戒法」としての「王仏冥合・広宣流布」がなされなければ、戒壇建立を行うべきでないと述べていることである。
 これによれば、戸田会長は「国立戒壇」建立を唯一無二の学会の使命とはしながらも、その実現に関しては、宗祖の御意思を慎重に拝しておられたことが窺われるのである。

 〔池田会長も当初は戒壇重視〕
 昭和三十四年一月一日付の『国立戒壇の建立と学会員の前途』と題する池田氏の総務時代の発言を見るに、
  「あくまで、本門の戒壇建立とは、大聖人様の至上命令である。そして、わが日蓮正宗創価学会のただひとつの目的であることは、論をまたない」(傍線筆者)
  「この戒壇こそ、末法万年にわたり、民衆を救済するものであると思う。したがって国立の戒壇建立は、全民衆の要望によって成就されるものであることを忘れてはならない」(傍線筆者)
  「国立戒壇建立の際には、大御本尊様が奉安殿より正本堂へお出ましになることは必定と思う」(傍線筆者)
  「宗教にあっても、最高の宗教が国民の幸福のために、国立戒壇として建立されることは、必然でなくてはならぬ」
と述べている。この時点における池田氏の戒壇論は戸田会長と同様、国立戒壇建立が宗祖の至上命令であり、仏法上の重大事であるとするものであるが、この発言中で特に注目されることは、国立戒壇建立の時は大御本尊が「正本堂」へお出ましになると述べていることである。因みに、「正本堂」という語句の出所は定かではないが、時期的に最も早く見られるのは、この池田氏の発言である。
 またこの時点における氏の戒壇建立に対する意識は、戸田会長と同じく、戒壇は広宣流布の暁に建立されるというものであり、それは、「全民衆の要望によって成就される」との語句からも推定し得るのである。

 〔正本堂へお出ましの時が広宣流布〕
 次の正本堂に関する記述は、昭和三十四年八月五日の、やはり池田氏の「創価学会の歴史と確信」との講義に見られる。ここで池田氏は、
  「さらに御法主上人様の深い御構想で、やがては正本堂と、どういう名前になるかわかりませんが(中略)そこへ奉安殿の御本尊様がおでましになるのです。そのときが広宣流布の姿、儀式なのです。そんなに遠くないような気もいたしますが、仏智はかりがたしです。それこそ、もうひとふんばり、ふたふんばりですね」(傍線筆者)
と述べ、先の一月一日の発言においては、正本堂へ大御本尊がおでましになるのは「国立戒壇建立の時」と言っていたものを、ここでは逆に「正本堂へ大御本尊がおでましになる」その時が「広宣流布」との考えに変わっている。そしてその時期も、「そんなに遠くないような気がする」と述べているのである。ここに創価学会における、戒壇建立の時期と条件に関する微妙な変化が看取されるのである。

 〔正本堂と本門戒壇堂を分離〕
 また昭和三十五年四月四日付の「戸田先生の三大誓願」と題する講演で、池田氏は大客殿の建立に関し、
  「『それが終わったならば、すぐに正本堂を造りなさい。いまの御影堂の裏に世界各国の粋を集めて世紀の建築をしなさい』と、このようにも(戸田)会長先生は御遺言なされております。とともに、戒壇建立のときには戒壇堂もでき上がるものと考えられます」(傍線筆者)
と発言している。
 これにより、学会としては、大御本尊が奉安殿からおでましになる本堂を「正本堂」と呼称していたことが判る。
 と共に昭和三十四年一月までは「国立戒壇」を「正本堂」と見なしていたものが、翌三十五年四月には「正本堂建立」と「戒壇建立」とを別個のものとする考えに変わったことが明らかである。ここに戒壇建立の意義に関する重要な変化の萌(きざ)しが見られるのである。
 また同三十五年六月の『大白蓮華』百九号には、「戒壇の研究」と題する記事が掲載された。これは仏教史における戒壇の史実と事跡が述べられ、さらに末法の本門戒壇を論じた二十六頁に及ぶ特集である。ここには、
  「今日の戦の仕上げは、戒の流布、すなわち、国立戒壇の実現であると決定された。ここに初めて、あと二十年後には、大聖人の仏法も完成をみんとするわけである」
  「創価学会は、今や、第三代会長池田先生のもとに、あと十九年、ひたすら国立戒壇建立に前進をつづけている(中略)正本堂戒壇堂とはどんな関係におかれるのか」 (傍線筆者)

との文がある。「二十年後に国立戒壇が実現、大聖人の仏法が完成」「あと十九年にて国立戒壇建立」等の文が何を意味しているか。同研究の内容によれば、いうところの国立戒壇とは、『三大秘法抄』『一期弘法抄』における「御遺命の戒壇」であることが明白である。とすれば、国立戒壇を二十年後に建立するということは、取りも直さず、二十年後に御遺命の戒壇を建立するということに他ならない。
 御遺命の戒壇建立を行うべく広布に精進するという、その志は尊いものであるが故に、代々の御法主上人には、深く学会を護られ、激励なされたお言葉が存するのである。
 しかし、「自ら」や「自らの団体」が、戒壇の建立主であることに固執(こしゅう)することは、我執と言うべきではないだろうか。後年において、日達上人や御当代上人の、一切を勘案(かんあん)されての御指南に素直に従えない原因は、この我執に存すると考えざるを得ないのである。

 〔正本堂建立のよびかけ〕
 正本堂に関しての発言としては、大客殿建立直後の昭和三十九年五月三日、創価学会本部総会の講演で池田氏は、恩師戸田城聖氏から、
  「大客殿の建立が終わったならば、ひきつづいて、すぐに正本堂の建立をしなさい」との遺言があった旨を述べ、さらに、
  「正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがってあとは本門戒壇堂の建立を待つばかりとなります」
と述べている。
 これは正本堂建立御供養を、具体的に会員に呼びかけた最初の発言であり、正本堂の意義づけに関して、重要な意味をもつものである。ここで池田氏のいう、「本山の体制としては正本堂が最後」、あるいは「あとは本門戒壇堂の建立を待つばかり」との発言が何を意味しているか。それは翌月に明らかとなるのである。

 〔池田会長による戒壇矮小化(わいしょうか)〕
 池田氏は昭和三十九年六月三十日の学生部第二十七回総会の講演において、国立戒壇論を否定し、続いて、
  「戒壇建立ということはほんの形式にすぎない。実質は全民衆が、全大衆がしあわせになることであります。その結論としてそういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます」
と発言している(三、「戒壇建立は従の従云云」の段、参照)。
 すなわち、この学生部総会の池田氏の発言と、前月の本部総会での「正本堂建立は事実上、本山における広布の体制としては最後」との趣旨の発言と照らし合わせてみれば、池田氏が正本堂重視、戒壇建立軽視の考えを持っていたことが明らかである。
 また、このたびの御法主上人の『御指南』のごとく、この池田氏の発言が、大聖人一期の大事たる戒壇の御法門を軽んずるものであることはいうまでもない。

 〔着工大法要に至る流れ〕
 以上の創価学会における「正本堂」及び「戒壇」に関する発言、定義づけの流れを概観する時、そこに含まれる問題はまさに重大なものと言わねばならない。すなわち池田氏の昭和三十九年五月三日の総会における講演、さらに一カ月後の六月三十日の学生部総会における講演は、まさしく正本堂をもって、事実上の御遺命の戒壇建立とする方針を示したものである。
 奉安殿建立以来の準備期間を経たのち、昭和四十年、正本堂建設が具体化するにともない、池田氏の発言も、いよいよ御遺命達成の意義を明確にしていった。
 すなわち昭和四十年五月三日の総会では、日達上人より同年二月十六日の第一回正本堂建設委員会で賜った御説法であるとして、
  「正本堂の建立は実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成を意義づけるもの」
と述べ、さらに昭和四十一年の『立正安国論講義』においては、正本堂が『三大秘法抄』等の御遺命の戒壇である意義が、直截的(ちょくさいてき)に述べられている。
 そしてこのような一連の発言の帰結として、昭和四十三年十月十二日の着工大法要における「断定発言」となったものである。
 これらの経過の中で、昭和四十二年の「発願式」を中心として、宗門の僧侶が正本堂建立に関して、精神的高揚(こうよう)により、「御遺命達成」に近い発言、なかにはそのものズバリの発言があったことは学会の指摘の通りであるが、これらの一連の戒壇に関する流れを概観すれば、正本堂の建立及びその意義について、最初に言及(げんきゅう)したのは宗門側ではなく、むしろ戦後の広布の展開の上において、学会側が強い意思により、建立を推進したものであることが文献的に明らかである。
 すなわち、当初学会側において、奉安殿建立を第一歩とする「戒壇建立」路線が志されたことを想起すべきであろう。
 昭和四十年二月十六日の、第一回正本堂建設委員会における日達上人の御指南は、このような日昇上人・日淳上人時代以来の学会の方針を、大慈悲により包容されたものであることが明らかである。
 したがって正本堂を御遺命の戒壇なりと最初に指南されたのは日達上人であり、正本堂建立に関する一切の責任が、日達上人にあられたかのごとき、学会側の主張は、単に表面的な姿を述べたものに過ぎない。
 当時の圧倒的な勢力を背景に、宗内に正本堂即御遺命の戒壇、との風潮を作り出したのは、池田氏・創価学会であることは、御本人が一番よく知っておられよう。

 

  〔両上人の御指南について〕

 

 御先師日達上人、御当代日顕上人の、戒壇に関する御真意は、『三大秘法抄』『一期弘法抄』に示される御遺命の戒壇建立は、未来の目標として拝すべきであるとのお立場であり、それが両上人のご信念であられることは、『訓諭』『御指南』等に明らかである。
 先師日達上人は、このようなお立場を基本とされながらも、池田氏並びに創価学会を中心とする全信徒の、広宣流布に対する大情熱を激励されるために、その戒壇建立に関する教義解釈については、厳粛・寛容自在の御指南をなされたのであり、これは御仏意による尊い御教導と拝さなければならない。
 しかして今日、日顕上人は、同様に御仏意の上から、今日の広宣流布の実情に即して、創価学会の慢心のもととなっている独善的体質を矯正(きょうせい)されるため、厳愛の御指南をされているのである。
 先にも述べたが、本宗の信心においては、その時々の御法主上人を師匠と仰ぐべきことが基本である。自らをお褒(ほ)め下さった猊下に対して、感謝し奉ることは当然であろう。
 しかしながら、御法主から賜(たまわ)る、称賛・叱責両様の御指南に対しては、いずれにしても信伏随従し奉ることが信心の基本である。本来であれば、かりに創価学会にとって厳しい御指南を賜ったとしても、これを信心で受け止めることが当然なのである。そのような、本宗の信徒であれば誰でも弁(わきま)えるべきことを忘れてしまう程、創価学会の驕(おご)り、昂(たかぶ)りはすでに常軌を逸してしまっていると言わねばならない。ましてや今回のごとく、御法主上人に対し奉り、あらんかぎりの悪口・誹謗の刃(やいば)を向けることは、「悪鬼入其身」と言わずして何であろう。
 御法主上人に誹謗の限りを尽くす、悪逆の破門団体と何処が違うというのか、よくよく自問自答してみるべきであろう。
 宗祖大聖人は戒壇建立の時に有徳王・覚徳比丘の姿が現出することを、『三大秘法抄』に、
  「有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」
と御教示されている。学会首脳部は、この有徳王が覚徳比丘を外道の攻撃から護るために、全身に矢を浴びて戦ったことを想起すべきである。末法の三宝を護持あられるところの、僧宝たる御法主上人に攻撃の矢を向けるような有徳王があろう筈はない。
 今日の「発願主」の姿からみても、正本堂が直ちに『三大秘法抄』の戒壇と断定できるものではないと言うべきであろう。
 しかし、正本堂は三大秘法惣在の大御本尊まします、本門事の戒壇としての大殿堂であり、この建立に寄与した八百万信徒の功徳は、いささかも変化なく大御本尊の御嘉賞(かしょう)を賜り、未来永劫に称(たた)えられるべきである。
 戒壇に関する猊下の深甚(しんじん)なる御指南に対し、「欺(あざむ)く」などということが、如何に無慚(むざん)なことかに気づかねばならないのである。御法主上人の御教導は常に本宗僧俗一同を正しく導くためになされるのであり、特に今回の正本堂に関する日達上人・日顕上人の御指南も同様の意義をもつのである。これをあえて宗門と八百万信徒を分離対立させて、あたかも御法主上人が「信徒を欺いた」かのような非難をすることは、無道心極まりないものと言わねばならない。

 

 〔問難に対する破折〕
 ここで以上の経過を踏まえて、問難の破折をしたいと思う。
 学会側は、「宗門の正本堂に関する発言例」と題し、池田氏よりも早い時期の僧侶の発言として二十五例をあげ、それをもって、池田氏の昭和四十三年の着工大法要における発言を正当なものと主張するのであるが、たとえ池田氏発言の以前に僧侶の発言例があったとしても、御遺命の戒壇建立が学会の奉安殿建立時以来の方針であったことは先にのべた通りである。
 このたび日顕上人は、どちらが先に言いだしたかという時期的な責任論ではなく、正本堂建設の主体的責任者たる建立発願主の立場において、大聖人の仏法の本義に照らし、その発言の誤りを、責任をもって反省されるよう仰せられているのである。池田氏はこの日顕上人の御指南を虚心坦懐(きょしんたんかい)に拝信し、深く反省すべきであろう。
 次に学会側は、「正本堂の意義に関する正しい経過史」と題して、正本堂の意義づけは、日達上人の第一回建設委員会の御指南が根本であり、その御指南に基づいて作成されたところの『御供養趣意書』も日達上人のお考えであるとするが、その第一回建設委員会の御指南とは、『一期弘法抄』の「本門寺戒壇建立」の文を挙げられた後に、
 ①御在世においては大御本尊は本堂に御安置されており、故に今日においても大御本尊は戒壇堂ではなく正本堂に御安置することが正しい。
 ②正本堂とは言っても未だ謗法が多いため、広宣流布の時まで蔵の形とする。
との趣旨の御説法をなされたものである。
 しかるに、この日達上人の御指南に基づいて作成されたとする『御供養趣意書』には、「かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかとなったのであります」
との文がある。この文中の「広宣流布達成」の語は、日達上人の御指南に相違していると言わねばならない。なぜなら、御指南には、「正本堂といっても未だ謗法が多いため、広宣流布の時まで蔵の形云云」と仰せられ、正本堂建立が直ちに広宣流布達成を意味しないことを御指南されているのである。
 それに対し、この『御供養趣意書』は、正本堂建立を直ちに広宣流布達成と称し、あたかも日達上人が、正本堂建立の時が直ちに広宣流布の達成である、と常々仰せられていたかの如く思わせる文面となっている。しかるに、日達上人の御真意がそこにはあられないことは、先の二・一六の『御指南』からも、また昭和四十七年の『訓諭』からも拝せられるのであって、その御指南は終始一貫されているのである。
 故にこの『御供養趣意書』は、宗門の承認があったことも事実であるが、昭和三十年代以来の戒壇建立路線にのっとり、まさしく創価学会が主導した内容であったことは否めない。
 またこの『御供養趣意書』の中の、
  「御遺命の戒壇建立・広宣流布の達成」
等の文言を日達上人が了承されたとしても、正本堂に関する御本意は、昭和四十五年の御指南、昭和四十七年の『訓諭』にあられると拝すべきであり、日顕上人は日達上人の御本意を深く鑑(かんが)みられ、内省の意を込めて、今回の『訓諭』に関する補足的御指南をなされたのである。
 また学会では、正本堂の御供養に関する『御供養趣意書』『訓諭』『院達』等の意義を後になって変更することは、御供養に参加した信徒を欺くものであり、社会的、道義的責任は免れないという。
 しかし日顕上人は今回の『御指南』において、
  「宗祖大聖人の御遺命の戒壇の重要性を考えるとき、本当の戒壇の正義に立ち還ることが、仏子としてもっとも大切であると思うからです」
と率直に御胸中を開陳(かいちん)されている。
 この日顕上人の御指南は、一切衆生の成仏を願い、過去の一切の経緯(いきさつ)を総括し、戒壇の本義を率直に示されたものである。これに対し日達上人・日顕上人の御指南を証文として持ち出し、社会的道義的な責任等を云々することは、信仰を失い、世法に偏した言動と言わねばならない。
 またさらには、現今の社会に於ける本宗僧俗の状態を見ても、一体何処に広宣流布達成の姿があるといえようか。結局は『御供養趣意書』の「正本堂建立は広宣流布達成」の言が誤りであったことを、道理文証よりも現証によって示しているのが現実の姿であることを知り、深く反省して、一日も早く僧俗異体同心して広宣流布に向かうべきなのである。
 次に学会側は「突出していない四十三年会長発言」として、昭和四十三年の池田氏の「正本堂=三秘抄戒壇」発言につき、正本堂の意義の完結は未来のこととして述べた証拠として、前年の発願式における『発誓願文』を、着工大法要の前日の聖教新聞に、再度掲載していることを挙げている。しかし同願文が、たとえストレートに三大秘法の完結との表現をしていなくても、何故そのことが翌日の「完結発言」を弱めていると言えるのであろうか。むしろ翌日に「完結発言」をしたということは、逆に前日の『発誓願文』も完結の意味で解釈していることとなるではないか。
 池田氏の着工大法要の発言をこのまま放置すれば、本宗の歴史の上で、それが戒壇に関する正式見解となる恐れがある。そこに今回、御法主上人が時を感じて御指南された理由があると拝さなければならないのである。
 当時の宗門僧侶の正本堂に関する発言だけをみると、昭和四十三年の会長発言が特に突出したものではないように思えるし、また池田会長が正本堂を『三大秘法抄』の戒壇と確定したのでもないように見える。しかし、昭和三十年代からの学会の戒壇建立の方針を検証するとき、事の真相は学会側の強い願望と働きかけにより、宗内に広宣流布達成、戒壇建立の世論が熟成されたことが明らかである。それらの中で、一連の僧侶の発言が起こったのちに、正本堂建立の発願者という責任ある立場の身として、公けの席でその意義を断定したのが、着工大法要の挨拶だったのである。
 このような断定発言は、池田氏及び学会の自己中心的な体質を、如実(にょじつ)に示すものであり、まさしく御法主上人が指摘なされるように、「慢心」をその根底においた仏法軽視の発言であったということが、爾後(じご)二十数年を経て、今日明らかになったものといわねばならない。

 

 そして本段の最後に、「『ご回答』への『お伺い』」として、次のような質問を設けている。これまでの考証で論じたものもあるので、概括的に回答する。
 (イ)「本文で見てきた通り、昭和四十三年十月以前に、三大秘法抄、一期弘法抄の文を挙げて正本堂が御遺命の戒壇の建立といった、日顕猊下の言われるところの〝ズバリ〟の発言をした僧侶が多数おられますが、日顕猊下はこれらの発言についてどのように思われますか」
 この件に関しては、たしかに昭和四十二年前後に宗門僧侶の発言があったが、しかし、そのはるか以前から、池田氏・創価学会は正本堂建立を推進したのであり、宗内にその意義づけが徹底されていった事実を踏まえて判断しなければ、僧侶発言の意味を正しく認識することはできないであろう。
 宗門僧侶の発言は、戦後の未曾有の広宣流布の進展と、壮大なる規模の正本堂建立を目の当たりにして、まさしく御遺命達成の近いことを確信して述べた讃歎の言葉であり、その責任を云々されるべき筋合いではないのである。ただし今回、日顕上人にはそれらの僧侶の発言を代表し、大聖人の仏法の深義に照らして、適当な発言でなかったと深く反省されたのである。その御心こそ尊く拝すべきであろう。
 (ロ)「そのような多くの発言をみると、昭和四十三年の会長発言だけが特に突出したいわゆる〝ズバリ〟発言ではないし、ましてや池田会長が正本堂を三大秘法抄の戒壇と確定したということにはならないと存じますが、いかがでしょうか」
との質問については、池田氏・創価学会は奉安殿建立時から、創価学会が戒壇を建立する、国立戒壇建立こそ創価学会の唯一の使命、と考えていたことが明らかであり、さらに正本堂を御遺命の戒壇としたいとの意思をもって、建設を準備し実行したことが資料により明白なのである。池田氏の発言は、このような正本堂建立発願主の立場における「断定発言」であって、その特殊性が考慮されねばならない。
 (ハ)「日達上人の昭和四十七年の『訓諭』で、昭和四十三年十月の会長発言が誤りであったことになり、訂正し、反省しなければならなくなったとするならば、日達上人や日顕猊下は、池田名誉会長に対し、そのような要請をなさったことがありますか。具体的にお示しいただきたいと存じます」
 この質問に関しては、まず「要請」という言葉であるが、師匠が弟子にするのは指南であって要請ではない。そのような仏法の基本すら失っているところに現在の学会の増上慢そのものの体質があるといえよう。
 御法主の信徒に対する教導は、甚深の御境界、すなわち御仏意によってなされるものであり、したがってその指南の時期を決められるのも御仏意によるのである。開創七百一年を迎えた今日の、日顕上人の御指南こそ、その時期が到来した故になされたものと拝するのが正しい信心の姿勢であろう。
 (ニ)「結論的にいうならば、昭和四十三年十月の会長発言はその前後の宗内の正本堂に関する発言等や、それ以後二十数年間に及ぶ経過に照らして、日顕猊下が言われるような誤った発言であると考えることは出来ませんし、まして、それが池田名誉会長の慢心のあらわれであるとして非難するなどということは、到底できないと存じますが、いかがでしょうか」
との文においては、学会側は、池田氏の断定発言と、その前後の僧俗の発言とを同列に論じて、池田氏に責任がない論拠としている。しかし池田氏の発言と、他の僧俗の発言とには、正本堂建立発願者としての言と、賛同的発言との厳然たる相違がある。まして池田氏の「断定発言」は、奉安殿建立以来の、創価学会の戒壇建立路線にのっとっているのであるから、戒壇建立を主体的に推進した経過の上の発言として、他の僧俗の発言と同列に論ずべきでないことはいうまでもない。
 今日の問題に付随して、御法主上人には僧侶を代表して、自らの過去の行き過ぎた発言を反省遊ばされたのである。大聖人の仏法の深義に照らして、〝誤りである〟との御法主上人猊下の裁定を賜ったのであるから、責任ある立場の身として、池田氏も、慢心の発言を反省すべきことは当然なのである。
 また池田氏の「断定発言」以来、二十数年が経過し、その間何の異議もなかったとの言は、時期的な面からはたしかにその通りである。しかし、宗祖の門下に対する御化導には、時機を鑑(かんが)みられての慎重な御配慮があられるところであり、御法主上人が信徒を教導されるのも御仏意によるものなのである。
 池田氏の「断定発言」から、今回の御指南までの時間経過が長期であったことをもって、池田氏の発言を正当化する根拠とはならないことは言うまでもない。このことを日顕上人は三月九日付『御指南』において、「全ては、時の経過によって風化させてしまえばよいと考え、他人の真摯な反省も茶番劇と嗤う無慚さを憐れむものであります」と仰せられている。
 創価学会が戦後草創の頃より懐いた戒壇建立の素志は、信徒として純粋なものであったと信ずる。しかし、自らの手で建立する正本堂について、御遺命の戒壇の「意義」を含むもの、との日達上人の御指南を超えて、信徒の立場において、『三大秘法抄』の戒壇そのものであると断定することは、「慢心」以外の何物でもない。
 いま日顕上人は、どちらが先に言ったなどという責任のなすりあいをすることなく、その発言そのものが重大な誤りであったが故に、その「慢心」の発言を反省するよう仰せられたのである。
 (ホ)「猊下は一月六日、十日のご説法では、当時の宗内僧侶の発言についても一応、配慮されていますが、それを当時の宗内の〝空気〟のせいにしようとされ、特に十日のご説法ではそうした空気を作った『一番の元』が、昭和四十三年十月の会長発言であるとされています。それが間違いと分かり『大日蓮』では『一番の元』を『(その)ような経過の中で大事なこと(は)』と言い換えられましたが、このように変更しても間違いは全く直っていないと思いますが、いかがでしょうか」
との質問であるが、結論から言えば、猊下の御指南は少しも間違っていない。猊下の指摘された、当時の宗内の空気こそ、池田氏・創価学会が主導し醸成(じょうせい)したものであり、池田氏の昭和四十三年の「断定発言」は、その御遺命戒壇建立との風潮が蔓延する中でなされた、諸々の「断定発言」の締めくくりともいえるものであった。猊下が「一番の元」を「そのような経過の中で大事なこと」と訂正されたのは、「一番の元」の語句が、単に時期的に、「一番始め」との意味に誤って理解される恐れがあり、それは昭和四十三年以前の正本堂建立に関する様々な事実経過の上から誤解を招く恐れがある故である。しかし宗門を、御遺命戒壇建立の方向へ誘導した「一番の元の人」が池田氏であることは事実であり、日顕上人の御指南の本来の意味は少しも損なわれていないのである。
 (ヘ)「どのように考えても、昭和四十三年の会長発言が決定的であるということを前提にされた、一月六日、十日のご説法は成り立ちません。したがって、是非、正本堂に関する部分のご説法を全面的に撤回されるよう再度求めるものでありますが、いかがでしょうか」
 前に詳述したごとく、昭和四十三年の池田氏の発言は、日達上人の御指南から一歩突出したところの、所謂「断定発言」であることは明らかである。またこの「断定発言」は、創価学会による、戦後の戒壇建立路線の延長線上になされたものであり、しかも正本堂着工大法要という、公けの儀式の中での言葉であって、その「断定」の意味の重大性は言うまでもなく、決定的といっても差し支えないものである。
 今回、日顕上人はこの池田氏の発言が、宗祖大聖人の仏法の深義を信徒の立場において規定しようとした、「慢心」の表われであったことを御指南されたのである。本来、甚深なる宗祖の法義に関する裁定は御法主上人の権能であられる。その裁定にのっとられた御指南に対し、「撤回するように」などということは、まさしく悩乱の暴言である。ただちに懺悔し、恭順の心をもって拝信すべきであろう。
 以上のように、学会は、正本堂に関する池田氏の発言には、何ら問題がないかのごとく、傲(おご)り高ぶった抗議をしてきたが、資料によって、池田氏・創価学会が、正本堂建立に関して、頑(かたく)なに御遺命戒壇に固執した事実経過は明白である。
 この固執が自己中心的な体質と相まって展開されたところに、「断定発言」という「慢心」が生じたものであろう。したがって、池田氏の昭和四十三年十月十二日の、正本堂着工大法要における発言こそ、氏の「慢心」を示す典型と指摘された、御法主上人の御指南は、全く適正なものであったことを再度確認して本段の回答とする。

 

「(二) 広布達成の意識と慢心」へつづく 


(二) 広布達成の意識と慢心

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)

  (二) 広布達成の意識と慢心

   「広宣流布を目指す信心から慢心が強まったとはいかなる意味か」に答える

 御法主日顕上人は、三月九日付の『御指南』で、池田名誉会長が昭和四十三年十月の着工大法要において「この(筆者注・三大秘法抄の戒壇の文を指す)法華本門の戒壇たる正本堂」と宗内で初めて明言した背景について、「私の感じている当時の事態をやや明確にする上から、あえて言うならば」と前置きされて、大要次のように述べられている。
 ①当時の学会幹部が広布の情熱をたぎらせ、「広宣流布は学会の手で」の合い言葉、「日達上人の代に広布の達成を」という言葉や意識で、広布の実証を示そうと意気込んでいたことは事実であること
 ②それは、昭和三十九年四月の「その時がついにやってきたとの感を深める云云」との挨拶
   昭和四十年元旦の「日蓮大聖人様のご予言、そして日興上人様のご構想が、日達猊下の時代にぜんぶ達成なされると思われます」との発言
   昭和四十年七月の「日達猊下のいらっしゃるあいだになんとか達成したい」等の発言をみれば、当時明らかに池田氏をはじめとする学会側に、「御遺命の達成」という意識があったこと
 ③しかして、そのような意識の中から、池田名誉会長の慢心が強まり、それが正本堂問題、五十二年路線の逸脱、そして今回の問題を生んだ根源になっていると思われること
 ④それは、昭和三十九年六月の学生部総会での「戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。(中略)したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえない云云」との三大秘法軽視の発言からも明らかであること
 御法主上人は、以上の四点が昭和四十三年の池田氏発言の背景として考えられると指摘されたのである。

 〔『再お伺い書』の主張〕
 この三月九日付の『御指南』に対して、学会側は『再お伺い書』において、
  「広宣流布を目指す信心から慢心が強まったとはいかなる意味か」
と表題をつけ、四月三日付の聖教新聞には、
  「〝広布めざす信心〟に冷酷なのは大聖人の御精神に違背」
との大げさな見出しを掲(かか)げて反論した。
 その『再お伺い書』の主張するところは、右の御法主上人の『御指南』には二つの問題点があるという。
 その第一点は「当時の池田会長をはじめとする学会幹部が、日達上人の時代に広布の達成を目指そうと、ご金言のままに突き進んでいたことが、あたかも何か間違いであったかのようなご認識であります」として、次のような事項を挙げている。
 ①学会は広布を目指す団体であり、日昇上人・日淳上人・日達上人の御歴代も学会の活動を称賛され、日顕上人も広布を目指す学会の使命と実践を称えて下さったこと
 ②池田会長は、就任した時に日達上人より贈られた「詮ずるところは天もすて給え」の御聖訓のままに広布の指揮をとってきたこと
 ③御書の「命限り有り惜む可からず云云」の御文や、日興上人の「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て云云」などの教えがあるが、もし信徒がこうした決心で進むこと自体、広布は御仏意だから、大慢に陥(おちい)る可能性があると指摘するのであれば、これは広布の妨げであり、宗祖への違背であること
 ④たしかに広布は御仏意であり、「時を待つべきのみ」とあるごとく、「時」のしからしむるところであるが、だからといって手をこまねいて待っても広布が自然にできるものではなく、「時の池田会長をはじめとする学会幹部が、ひたすら広宣流布達成を目指し前進していたことは、賛嘆されこそすれ、間題視されることなど全くなかった」こと
 その第二点は、「そうした広布達成の意識から名誉会長の『慢心が強まった』とする決めつけは、飛躍も甚だしいものであるということであります」として、次のように主張している。
 ⑤この決めつけは、理不尽な言いがかりであり、こじつけであること
 ⑥これは、名誉会長を何としても慢心と決めつけようとする結論のみが先走った感情論であること
 ⑦猊下は正本堂発言が、自らの「訂正」で根拠薄弱(こんきょはくじゃく)になったため、別の〝慢心の根拠〟をつくり出そうとした、としかいいようがないこと
 ⑧池田会長は自身の決心としては、日達上人の時代に広布を達成したいと念願しているが、広布は御仏意であることも十分配慮した発言をしていること

 〔主張の整理と論点〕
 これらの主張を大まかにいうと、池田会長はじめ学会幹部は御遺命の通り広布を目指して頑張ってきた、歴代の猊下にも称賛された、それにもかかわらず、日顕上人が「広布達成の意識から慢心が強まった」(傍線筆者)といわれることは、いわば〝大善の意識から悪心が強まった〟ということであり、その切り替えの論理が理解できない、ということであろう。
 『再お伺い書』の筆者は、この「達成の意識から慢心」の理論を分析するにあたって、もし猊下が〝広布達成の意識を持つことが間違い〟すなわち大善意識そのものを否定された場合は、宗祖ヘの違背(いはい)になるといえるし、もし、「池田会長の中に〝広布は御仏意〟という意識が欠けていたから間違いである」と指摘されるならば、⑧の主張のごとく、当時の会長の考えの中には「御仏意」も「時」も十分配慮していたことを立証すればよい、ということであろう。
 しかし、彼らとしては、次に予想される〝大善意識から悪心〟という切り替えの論理こそ争点にしたいところであり、その争点が立証不可能な論理の飛躍であることを証明できれば、猊下の『御指南』が理論的破綻(はたん)をきたしていることになり、そうなれば『御指南』は、単に池田名誉会長を慢心と決めつけ、自説を糊塗(こと)するための、猊下の言いがかりにすぎないもの、と宣伝できると考えたのではないか。
 『御指南』の御文が本当に立証不可能な論理の飛躍といえるのか否か、その検討はあとに譲ることにしたい。

 〔創価学会の功績〕
 『再お伺い書』では、「昭和三十九年から四十年頃の学会幹部が(中略)広布の実証を示そうと意気込んでいたことに何か問題があったと思われているのでしょうか」と質問しているが、このことについて触れておきたい。
 たしかに、『再お伺い書』主張①の通り、創価学会は広宣流布を目指す団体であり、御遺命のままに多くの人々を折伏し、当時疲弊(ひへい)していた宗門を外護し興隆させてきた功績は甚大であり、その労苦に対して、宗内僧俗が等しく感謝し賛嘆してきたのである。
 なればこそ御歴代の猊下が創価学会に大きな期待を寄せられ、歴代会長に対して最大級の賛辞と感謝の意をもって遇(ぐう)してこられたのである。
 これらのことから考えても、『御指南』で創価学会の使命や折伏行・宗門外護の功績などをあげつらっているのでもなく、それらを非難しているわけでもないことは当然である。
 しかし、「広布の実証を示そうと意気込んでいた」意識の中から慢心が強まることは充分ありうることであり、この点を『御指南』で指摘されたのである。これについては後に述べたい。

 〔日顕上人と創価学会〕
 御当代日顕上人は、初代牧口会長と面識のあった、宗門内できわめて数少ないおひとりであり、創価学会を草創時代から常に暖かく見守ってこられたお方である。
 御登座以前は、二十年にわたって宗務院の要職を務められ、池田名誉会長をはじめ創価学会の首脳陣と数多くの協議・折衝(せっしょう)等を通して、宗内の誰よりも、広布の指揮を執(と)る創価学会会長の苦労、そして会員の強い使命感を熟知されていた。
 また昭和五十四年七月に御登座なされてからも、御先師日達上人の御遺志を継承しつつ、一宗を教導する法主という重大な責任を一身にになわれ、当時、宗内外に吹き荒れていた創価学会批判の嵐のなかで、敢然と学会を庇護(ひご)し、祖道を基(もと)として宗内の刷新を断行された。
 さらには未来広布をおもんぱかり、大慈大悲のもとに池田名誉会長の改悛(かいしゅん)を信じ、捲土重来(けんどじゅうらい)を期して、法華講総講頭に再任されたことは周知の事実である。
 畏(おそ)れ多いことであるが、創価学会と池田名誉会長にとって、日顕上人こそ最大の理解者であり、最大の味方であり、最大の恩人であられる。
 日顕上人は、永劫にわたる創価学会の健全な発展を切望し、理想的な僧俗和合の確立のために尽力してこられたことを、創価学会員たるもの、断じて忘れてはならないと思うものである。
 この日顕上人が、創価学会の歴史と経緯(いきさつ)を踏まえ、熟慮に熟慮を重ねたすえ、堅い決意をもって今回の御処置をとり、御指南なされたのである。

 〔すり替えと詭弁(きべん)〕
 『再お伺い書』の標題に、
  「広宣流布を目指す信心から慢心が強まったとはいかなる意味か」(傍線筆者)
とあり、聖教新聞の見出しに、
  「〝広布めざす信心〟に冷酷なのは大聖人の御精神に違背」(傍線筆者)
と掲げているが、御法主上人はこのような表現はされていない。
 『御指南』には、「(大聖人の御遺命の達成という)意識の中から池田名誉会長の慢心が強まり」といわれている。
 この「意識」とは、「大聖人の御遺命の達成」とカギ括孤(かっこ)でくくって表現されたところの意味であり、さらにわかりやすくいえば、「広宣流布は学会の手で」という「意識」である。
 いかに、「標題・見出しは本文に拘束(こうそく)されない」といっても、この場合の「意識」と「信心」とでは、その内容・意味が全く異なっているのである。
 なぜならば、「信心」とは信受の一念によって尊極無作(そんごくむさ)の法に感応しようとする作用であるのに対して、ここでいう「意識」は、凡夫己心の第六意識を指しているにすぎないからである。
 もし『再お伺い書』の筆者や新聞編集者が、「意識」と「信心」の相違を知った上でこれらをすり替えたならば、会員・読者を欺瞞(ぎまん)し愚弄(ぐろう)したことになるであろうし、それは同時に、御法主上人に対し奉り卑劣な策を弄したことになる。
 もっとも、身体は御本尊に向かっても、〝池田先生の生命にリズムを合わせるため〟とか、〝先生の心を感じるため〟などの、現今見られる新興宗教なみの信心に毒されている学会首脳の頭では、正宗本来の信心など理解もできないだろうし、「意識」と「信心」の区別などおよびもつかないのであろう。
 また、『御指南』の中で御法主上人が一部を訂正されたことを挙げて、御指南そのものが「根拠薄弱」になったかのごとく言っているが、この訂正は、補充説明というべき内容であって、池田名誉会長の慢心を覆(くつがえ)すものでもなければ、御指南の根拠にはなんら影響のないものでもある。
 さらにつけ加えるならば、日顕上人が「名誉会長を何としても慢心であると決めつけようと」しているとの認識であるが、いまさら他人が決めつけなくとも、名誉会長はすでに慢謗法を幾重(いくえ)にも犯しているのである。
 少なくとも、御法主上人に反逆し、口を開けば「全部私がやったんです」と公言してはばからない現今の言動は、誰が見ても明らかに慢心そのものである。
 猊下は『御指南』において、池田氏の慢心の「原因」について言及されているのであって、この期に及んで池田氏が慢であるか否か、を論じられているのではない。

 〔憍慢の原因〕

 ここで憍慢の原因について考察してみよう。
 『成実論(じょうじつろん)』に、
  「問うて曰く、慢は云何(いか)にして生ずるや。答えて曰く、諸陰(しょおん)の実相を知らざるときは、則ち憍慢が生ず。(中略)若し人にして無常の色(しき)を以て、自ら是れ上、是れ中、是れ下なりと念ぜば、是の人は正に如実の相を知らざるを以ての故なり」(国切論集三-三一九)
とあり、みな等しく五陰仮和合(ごおんけわごう)の無常の色身であることを忘れ、仮(かり)の差別世界に執著するところから憍慢の心が生ずるという。
 また、『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』には、
  「欲を受用(じゅゆう)する処に於ける慢とは、謂わく大財、大族、大徒衆等の現在前するに由るが故に、心遂(つい)に高挙するなり」(国切瑜伽四-一一六)
と具体的に説かれている。
 すなわち、貪欲(とんよく)に執著する者は、大いなる財産や権勢を手にし、大衆の支持を得たときに慢心を起こすというのである。
 さらに『阿毘曇甘露味論(あびどんかんろみろん)』には、布施行について、
  「若し仏に施さば涅槃に至るの受報あり。布施に六難あり、一には憍慢施、二には求名施、三には為力施、四には強与施、五には因縁施、六には求報施なり。衆僧(しゅそう)の中にて施を分別して、是を布施の六難と謂う」(国切論集二-六)
とあり、せっかく涅槃の行因として仏に供養をしても、そのことによってかえって慢を生じたり、名誉や報酬を求める心を起こすならば、邪難の行に堕(だ)すと戒めている。

 〔〝達成意識の中から慢心〟とは〕
 猊下が『御指南』の中で指摘されたのは、当時の池田会長の「日達上人の時代に広布の達成をめざそう」「広布は学会の手で」という意識の中から慢心が強まったとの点である(傍線筆者)。
 すなわち池田氏の心の変化を指摘されているのである。
 この『御指南』の意図を、学会首脳部の面々が全く理解できないとは思えないが、蛇足(だそく)ながら少々説明しておこう。
 通常、本宗における信心修行の過程を端的にいえば、まず発心することから始まり、歓喜が生じ、化他行の大事を知り、広布への意識に目覚め、情熱をもって実践修行に精進し、功を積み、それがおのずから福徳を累(かさ)ねることによって、心身が浄化され、妙法ヘのより強い確信と報恩感謝の念が生まれ、ひいては心に三宝尊ヘの不動の敬心(きょうしん)を確立し、その相として、謙虚にして慈愛あふるる人格を形成していくものであろう。これが健全にして正常な信仰の成長過程である。
 もちろん、大聖人の仏法は、「常修・常証・常顕・常満」を旨とするから、これらの過程が単に直線的なものではなく、時に応じ機にしたがって様々な形をとることも当然である。
 しかるに、仏道修行の道程においては、この正常な成長過程から脱線することも多いのである。
 宗祖大聖人は『三沢抄』に、
  「仏法をば学すれども或は我が心のをろかなるにより或はたとひ智慧は・かしこき・やうなれども師によりて我が心の曲がるをしらず、仏教を直しく習ひうる事かたし」と教示されており、自覚するか否かにかかわらず、せっかく仏道を志し修行に邁進しながら心が曲がり、我慢を生じ、悪師に誑惑(おうわく)されて信仰に狂いが生じることも多いとの御指摘である。
 まさしく「仏教を直しく習ひうる事かたし」とは、我ら大聖人門下にとって、軽々に見過ごしてはならない御文である。
 では、正常な過程から脱線するのはどういう場合かというに、いま挙げた過程でいうと、発心・歓喜・化他・広布ヘの意識・情熱・実践までは少なくとも外形上は問題ないが、次の積功(しゃっく)から累徳(るいとく)へ進むはずが、実践と一分(いちぶん)の積功によって心に誇りが生まれ、誇りが自負になり、自負は自賛となって、それがついには慢心になるのである。
 これは、筆者の想像によって我見を並べているのではない。

 〔修行による慢心〕
 『出曜経(しゅっちょうぎょう)』には、
  「世尊、告げて曰く、『修行の比丘にして、勇猛精進なれば、便ち慢怠(まんたい)を生ぜん。若し懈怠(けたい)にして精懃(しょうごん)ならずんば復懶惰(らんだ)を生ぜん。是の故に汝今極めて精懃なること莫(な)く、懈怠なること莫れ』」
とある。この経文なども、学会首脳部ならば、早速「仏が勇猛精進を否定するとはなにごとか」と、釈尊に『お伺い書』の一通も出したくなる内容であり、聖教新聞ならばさしずめ「釈尊に致命的誤り、勇猛精進を否定」と大見出しを掲げるところだろう。
 ともあれ、釈尊の説き示す『出曜経』の経文を、虚心に拝すれば勇猛精進を否定しているのではなく、精進した功徳を一瞬にして消し去ってしまう憍慢謗法を厳戒されていることが理解できよう。
 また、いかに学会首脳が頑迷であっても、「引用した経文には『修行の比丘』とあるから、僧侶のことであって我々の知ったことではない」とまでは強弁(ごうべん)しないであろう。

 〔行善の憍〕
 次に、憍慢の種類を分類して「八憍(はっきょう)」という名目(みょうもく)がある。
 それは、「一・色憍、二・盛壮憍、三・富憍、四・自在憍、五・性憍、六・行善憍、七・寿命憍、八・聡明憍」をいうのであるが、この中で特に留意すべきは第六の行善憍である。これは読んで字のごとく、「善法を修行することによって起こす憍慢のこと」である。

 いかに正法を持ち、仏道を行じても、本従の師を信じ時の法主上人を師と仰いで随順しなければ、そこに憍慢の心が生ずることは当然である。
 この法数(ほっすう)の名目は、『文殊師利問経・巻上』や『法華文句・巻六』日寛上人の『撰時抄愚記』にも示されているので、折あらばぜひ確認してもらいたい。
 以上の事項を念頭に置いて『御指南』の、
  「当時明らかに池田氏をはじめとする学会側に『大聖人の御遺命の達成』という意識があったことは否めないと思います。しかして、そのような意識の中から、池田名誉会長の慢心が強まり、それが正本堂問題、昭和五十二年路線の逸脱、そして今回の問題を生んだ根源となっていると思います」
との御文を、恭順(きょうじゅん)な信心をもって拝し奉るならば、御法主上人が指摘された真意を諒解(りょうげ)することができるであろうし、さらに猊下の深い御慈悲をくみ取ることもできるはずである。

 〔慢心の証拠〕
 『再お伺い書』では、「猊下は池田名誉会長をはじめとする学会幹部に『大聖人の御遺命の達成』という意識があり、その意識の中から名誉会長の慢心が強まったとされていますが、その具体的根拠は何ですか」との質問をしている。
 しかし、『御指南』には当時の池田会長の慢心を示すものとして、昭和三十九年の学生部総会講演を挙げられている。
 これこそ、彼らのいう明白なる「具体的根拠」そのものである。
 『再お伺い書』では、この学生部総会発言についても、別項において、御法主上人に論難を構えているので、それに対する破折も別項に譲りたいが、『再お伺い書』のごとく、御法主上人の御訓戒に対して、「具体的根拠は何ですか」と反問する姿勢も異常であるが、もし具体的根拠が示されなければ猊下に誤りがあったときめつける感覚も異常といわねばならない。
 『開目抄』には、
  「銅鏡は色形を顕わす、秦王(しんのう)・験偽(けんぎ)の鏡は現在の罪を顕わす、仏法の鏡は過去の業因を現ず」
と示されるように、仏法に説き明かされた法界の因果律は絶待不変の法であり、たとえ他人に知られなくても、あるいは上手にうわべを飾っても、その業因は必ずのちに顕現するのである。
 池田名誉会長の現在の姿こそ、過去の業因が顕現したものにほかならない。まさしく「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ」との御文の通りである。
 とかく学会側の、反論ともいうべき質問は、
  「その証拠・根拠はなにか」
  「なぜその時に注意をしなかったのか」
  「誤りのあった学会を、なぜそれ以後に宗門は賛嘆したのか」
  「宗門でも同様のことを言った人もいるではないか」
という趣旨のものが多い。
 これは、犯罪者が減刑を計るために、係官に向かって屁理屈を並べているのと同轍(どうてつ)である。
 この主張の発想と感覚はけっして信仰者のものではない。なぜなら、正しい信仰をしているものならば、すくなくとも御法主上人から現在の姿を注意されたならば即刻改めるであろうし、現在の誤りが過去の因によるものと指摘されれば、過去を振り返って反省・懺悔し、今後の信心修行に誤りなきことを決意するはずである。
 もし我が身に全く覚えのないことならば、弟子としての礼を尽くし恭順の心をもって問訊(もんじん)し、教えを請えばよいのである。
 仏法修行においては、自らの悪心は必ず悪業悪果と顕れ、善因は必ず善果を生ずることを確信し、自己の罪障消滅と一生成仏のために、悪を止め善を勧めることに専念することが肝要である。それ故に現在の姿をもって過去の業因を推知(すいち)し、それを教訓として新たなる出発を志すベきである。

 〔池田氏個人の慢心から〕
 平成二年十一月に端を発した今回の問題は、ひとえに〝池田氏の慢心〟にその因があることを考え合わせると、このたび御法主上人より示された『御指南』の中でも「広布達成の意識の中から慢心が強まった」との御指摘は、まさに池田創価学会に対する頂門の一針といえよう。
 と同時に、一人の慢心が、何百万人という純朴な人々の信仰を狂わせ、人間性までを汚(けが)してゆく事実は、ただ奇異というほかない。
 また、たった一人の慢心を隠すために、いまや創価学会全体が致命的な誤謬(ごびゅう)を犯していることに気づいているのだろうか。
 その誤謬について、ここでは三点を挙げておきたい。
 その第一点は、初期段階での対応のミスともいえるだろうが、信仰上の問題に世法上の手段で対応したことである。宗門が信仰論や法義によって是非を論ずる以上、学会としては大衆を動員し、識者や弁護士の知識を使い、内部外部の新聞などをもって宗門に対抗する以外にないと考えたのかも知れないが、これが大きな誤りであった。
 なぜなら創価学会は本来信仰の団体である。その信仰と大御本尊様の功徳によって今日まで発展してきた教団である。
 その学会が信仰をもって解決すべき問題に対して、世法の力に依存すること自体、自らの信仰を放棄したことであり、創価学会という教団そのものが信仰のうえで敗北したことを意味しているからである。

 〔自ら存立基盤を破壊〕
 その第二点は、「宗教法人創価学会」の原点であり、存立基盤でもある「三原則」をことごとく破棄(はき)したことである。
 昭和二十七年の宗教法人設立時に、宗門に対して誓約した「三原則」とは、次の事柄である。
  ①折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
  ②当山の教義を守ること
  ③仏法僧の三宝を守ること
 いま学会内部においては「いまの猊下は間違っている」「本山は狂っている」「寺に行く必要はない」「学会が宗門を正すのだ」等々、連日のように狂乱の指導・情報を流して会員を洗脳しているが、それはとりも直さず自らの存立基盤を自らの手で破壊していることなのである。
 その第三点は、広布の原動力たる会員の信仰を汚し、組織の生命ともいえる信心の血脈を切断しようとしていることである。
 大聖人の定められた法義上の師弟の道を無視して御法主上人を侮蔑(ぶべつ)し、慢心の指導者に忠誠を誓わせる風潮は、日に日に組織内に定着しつつある。
 換言すれば、会員全体が憍慢の生命に染まりつつあるということであり、会員の信仰が汚れるとともに、会員の功徳がなくなっていくということである。
 いかに巨大で強靱(きょうじん)な肉体を誇っていても、血液が汚れ動脈に破綻をきたせば、その身は時を経ずして倒れることを知るベきである。
 このように、今日の学会の言動を大局的に見るとき、学会は自らの手で会員の純正な信心を破壊しながら、ひたすら組織崩壊に進んでいるのである。
 宗門は創価学会の組織崩壊を望んでいるのではなく、あくまでも、池田名誉会長が慢心を悔い改め、御法主上人猊下の御指南に随順し、僧俗一結して広布の道を進むことを願っていることを申し添えておきたい。


(三) 「戒壇建立は、従の従・形式の形式」との発言について」へつづく


(三)「戒壇建立は、従の従・形式の形式」との発言について

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)


  (三) 「戒壇建立は、従の従・形式の形式」との発言について

  「昭和三十九年の第七回学生部総会の会長発言は三大秘法破壊の講演なのか」に答える


 三月九日付の『御指南』において日顕上人は、池田名誉会長並びに学会首脳の慢心について、次のように仰せられた。
 「しかして、そのような意識の中から、池田名誉会長の慢心が強まり、それが正本堂問題、昭和五十二年路線の逸脱、そして今回の問題を生んだ根源となっていると思います。それは次に挙げるような事柄からも明らかであります。まず昭和三十九年六月三十日、東京台東体育館における学生部第七回総会の講演で、池田会長は、
   『戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民衆が全大衆がしあわせになることであります。その結果として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます』
  と述ベられています。いやしくも正宗信徒の身として、もっとも大事大切な御遺命である戒壇のことをこのように下すことは、まさに大聖人軽視、三大秘法軽視の最たるものです。この発言は、まさに大聖人一期の御化導の究極たる『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇の御文に対する冒涜であり、三大秘法破壊につながる重大なる教義逸脱というべきです」
 これに対して学会側は、今回の『再お伺い書』において、二点を挙げて反論してきた。
 その第一は、「『ご回答』で述べられた非難は、内容的に全く成立していないということであります」として、概要、次の四項目に分けて説明している。
 1、会長講演全体は、「戒壇建立」について、当時のマスコミ等にあった国立戒壇を目指しているとの論難を破折することに意味があり、決して戒壇を軽視しているものではない。
 2、会長は、「戒壇とは、仏法の終着駅であります」と戒壇の重要性を述ベ、その建立について、かつて国立の言葉を使ったこともあったがそこに本義があるのではなく、民主主義の時代にあっては幅広く民衆に公開されるべきであることを説いている。
 3、戸田第二代会長は、「本尊流布が、信心が、トウフである。戒壇建立はオカラである。カスのようなものだ」と何度も述べている。
 4、広布と信心の主たる目的は、全民衆の幸福の実現にあることを強調し、それとの対比において、戒壇建立は従もしくは形式といえるとの趣旨であり、あくまでも戒壇建立の形式にとらわれる必要のないことを述ベている。
 これらの説明の後、『御指南』に対する反論の材料として、
 イ、戸田会長の「戒壇建立はオカラ」との発言は当時の宗内から問題視されたことはなかった。
 ロ、昭和四十九年六月十八日、日達上人が富士学林研究科において、「じゃ、建物が国立っていう、誰か偉い人が建ててくれなければ、そこへお参りしてもさっぱり御利益がないのか、というような考えでは仕方がない。建物なんかどうでもいいんです。戒壇の大御本尊こそ我々の即身成仏の本懐の場所である。これが正宗の信心である」と仰せられており、日達上人も戒壇堂の建物を「どうでもいい」という言葉で、形式にこだわることを否定している。
 ハ、日顕上人も昭和五十一年十二月発刊の『講義集』に、「戒壇建立ということも、何もですね。結局、一切衆生を救うというところに、御本仏様の御慈悲がある訳です。そこからはずれてですね、全然、空理空論のような形で、国立戒壇ということを論じても、すなわち時代に即応しない形でいくら論じても、これこそ不毛の論ということになる訳ですね」と諭(さと)されている。
 ニ、さらに日顕上人の『戒壇論』再刊後記(昭和四十九年十二月)にも「一期弘法抄、三秘抄の戒壇の〝建立〟ということについても、必ずしも建物それ自体に比重があるのではなく、その内容の建立が大切である。故に、国立戒壇論者の言うが如き広宣流布達成の段階でなければ、戒壇の建物を建ててはならないという主張は、全く仏法の本義を忘却し、建物にのみ固執した形式主義なのである」と、より明確に戒壇についての形式主義を破折されている。
との四点を挙げ、結論として、
  「以上のことからすれば、昭和三十九年六月の会長発言が、三大秘法破壊の大逸脱であるなどと決めつけることが、全くの誤りであることは明白であります」
と主張している。
 次に第二の問題点として、
  「もし仮に、本当にこれが三大秘法破壊の重大な教義逸脱であるならば、二十七年前の当時において、当然、宗内で重大な問題となっていたはずであり、時のご法主日達上人はじめ教学部長であられた日顕猊下も、指摘されていたはずであります」
と言い、
  「しかし、現実には昭和三十九年六月三十日以降、日達上人並びに教学部長の日顕猊下はもとより宗内僧侶の誰人も、この学生部総会発言には何も論及されていないばかりか、池田会長を賛嘆(さんたん)さえしていたのである」
と主張している。
 その例証として、日達上人が池田会長並びに創価学会を賛嘆されたもの、
  l、昭和三十九年十一月の『撰時抄講義』の序
  2、昭和四十年三月の『御義口伝講義』上の序
  3、昭和四十一年五月三日、学会本部総会での祝辞
  4、昭和四十二年五月三日、学会本部総会での祝辞
を挙げ、日顕上人についても、昭和四十一年五月の本部総会において、有徳王・覚徳比丘の御文を現代に身をもって示しているのが池田会長であると称賛されたことを挙げている。 そして彼らは、このような日達上人・日顕上人のお言葉からみても、池田会長が三大秘法破壊の教義逸脱をしていたなどと、当時の宗内の誰人も思っていなかったことは明白であり、
  「従って、この昭和三十九年六月の学生部総会での会長発言を三大秘法破壊につながる重大なる教義逸脱であり、名誉会長の慢心のあらわれと決めつけようとされた論拠も、全く成り立たないのみならず、これも名誉会長ヘの感情的な言いがかりというほかないものであることはまことに明白であります」
と結論づけている。
 いま彼らの主張を検討してみると、彼らが例証の錯乱という根本的な誤謬(ごびゅう)を犯していることに気づく。
 すなわち、学生部総会での池田氏発言を正当化するために、彼らが引用した日達上人・日顕上人のお言葉は、池田氏発言とは全く異なった意味の御指南であり、池田氏発言を正当化する証拠になっていないのである。
 池田氏の言葉によれば、
  「戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民衆が全大衆がしあわせになることであります」
と、「戒壇建立」と「全民衆のしあわせ」とを相対させ、その軽重(けいちょう)を比較し、結論として、
  「ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます」
と断定しているのである。
 ここで、池田氏のいう「戒壇」が、単に建物のみを指しているのか、あるいは御本尊を含むものなのか、という点について検討してみたい。
 少なくとも池田氏は学生部総会の講演で、戒壇に関して「建物としての戒壇」とか「内容(御本尊)と相対するところの戒壇」などとは言っていない。
 むしろ、
  「戒壇とは、仏法の終着駅であります。(中略)いま大聖人様の仏法においては独一本門の仏法であるがゆえに、その終着点は本門の戒壇となります」 (昭和三十九年七月二日付、聖教新聞)
などの言葉からみて、明らかに本尊を含んだ意味の「戒壇」として使用していることが判る。
 では、例証として挙げられている、日達上人・日顕上人のお言葉における「戒壇」についてはどうであろう。それぞれについて検討してみよう。

○昭和四十九年六月十八日、富士学林研究科における日達上人の御指南の場合。
  「(戒壇建立の)この建立という言葉が、建物を建てると、こう決まっているものではない。戒壇の御本尊を、安置することであります」
と述ベられ、それを受けて、
  「建物なんかどうでもいいんです。戒壇の大御本尊こそ我等の即身成仏の本懐の場所である。これが、正宗の信心である。正宗の皆帰(かいき)である。我々のモットーである」
と仰せられている。
 ここで日達上人は、御本尊と戒壇の建物を対比した上で、建物に執(とら)われる必要はなく、大御本尊こそ根本であるとの意を強調されて、「建物はどうでもいい」と仰せられているのである。したがって、この日達上人の御指南と池田氏発言とは大きな相違がある。
○日顕上人が教学部長時代に発刊された『講義集』(昭和五十一年十二月発刊)の場合。 引用箇所の文は、
  「戒壇建立ということも、何もですね。結局一切民衆を救うというところに御本仏様の御慈悲がある訳です。そこからはずれてですね、全然空理空論のような形で、国立戒壇ということを論じても、すなわち時代に即応しない形でいくら論じても、これこそいわゆる不毛の論ということになる訳ですね」
というものであり、ここでは『民衆救済』と『国立戒壇という空理空論』とを比較した上で、空理空論よりも民衆救済に御本仏の真意があることを述ベているのであって、池田氏発言にあるがごとき、御本尊を含む戒壇建立と民衆の幸福とを比ベて、戒壇建立を、「ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません」などと見下す言葉とは、全く異なっていることを指摘しておきたい。
 しかも、この『講義集』を拝読すると、前段には、
  「御本尊様を受持していくところのあり方と言うものにおいては、時代によって、いろいろ変わって来る訳であります。その時代その時代に適合した方向性を見抜いて、その方向を御指南遊ばされるところに、唯授一人の血脈付法の御法主上人猊下が、おわします次第でございます。そこに血脈の意義があるのです」
と、正宗信仰の原点ともいうベき、血脈に対する根本姿勢を明確に説示されている。このような明々白々たる御教示にあえて目をつぶり、池田氏発言に近い言葉をなんとか見つけようと努力しているのであろうが、所詮それは無駄骨(むだぼね)というべきである。なぜならば、日達上人も日顕上人も、大御本尊を安置申し上げる戒壇に対して、池田氏のごとく、それを衆生と対比して見下すお考えは毛頭なく、したがって、そのようなお言葉を仰せられるわけがないからである。
○『戒壇論』再刊後記(昭和四十九年十二月)の場合。
 これも大いなる的はずれの引用といわねばならない。そこには明らかに「必ずしも建物それ自体に比重があるのではなく、その内容の建立が大切である」と述べられている。
 「内容の建立が大切」とは、いうまでもなく大御本尊様こそ最も大切であるとの意であり、この大御本尊様に対すれば『建立それ自体』の比重は軽いとの御教示である。ここにおいても、戒壇建立について、厳格に『建物それ自体』と『その内容』たる大御本尊との比較対照の上に論じられているのであって、池田氏発言の趣旨と異なっている。
 しかもこの『戒壇論』再刊後記にも、次のごとく正宗本来の根本義が示されている。
  「すなわち戒壇建立は未来のことであり、また事相のことであるから、敢えてこの論明を避け、未来に広布の相、顕著となったときの法主上人の裁断に委(ゆだ)ねられた深意と拝される。故に軽々しく一信徒の立場で御遺命の文を速断し、法主上人の御教示に背いて御遺命かくの如しという者は、法主上人のみならず御遺命御金言それ自体に背反することを知るベきである」
と。池田氏はじめ学会首脳は、今こそこの御教導を虚心に拝すベきではなかろうか。
 このように、彼らが池田氏の戒壇軽視発言を糊塗(こと)するために引用した両上人の例証は、その趣旨が全く異なったものであって、猊下の御指南に難くせをつけて反逆する彼らの現今の姿はまさに大謗法というべきである。
○戸田第二代会長が「戒壇建立は(豆腐の)オカラ」と言ったことについて。
 当時宗内から問題視されなかったと主張しているが、宗内全般にわたる法義の裁定と教導は、ひとえに御法主上人の御判断に委ねられるべきであって、その御指南も時期と機根、そして周辺の情況によって一様でないことは当然である。
 宗勢も発展途上であり、戒壇に対する意識も明確でない時点において、戸田第二代会長の譬喩は必ずしも適切ではないが、「本尊流布」「信心」と「戒壇」を相対した上で、「本尊流布」が大切であると強調することに対して、あえて問題にする程のこともなく黙認されたことは、容易に想像できる。
 また池田氏発言が昭和三十九年当時、直ちに間題視されなかった点についていえば、一般的に人の言動は、後になってみなければその真の意味するところが判然としないものである。すなわち結果の相をもって因行(いんぎょう)の意義を知るのである。
 その点からいえば、昭和三十九年当時の池田氏の「戒壇建立は従の従、形式の形式云云」の発言に、いかなる意図があったのか、当時は確認できなかったために、宗内で問題視されなかったが、近年の池田氏による法主軽視、宗門蔑視(べっし)の増長ぶりが明らかになった時点から振り返ってみるとき、はじめて学生部総会の発言が当時からの慢心を物語るものであったことが明瞭(めいりょう)になるのである。
 この日顕上人の御指南に対し奉り、清らかな信心をもって随順申し上げることが真の正宗信徒の姿勢であるが、それを全く的外れの例証を引いて猊下に反逆するなどは、まさしく本末転倒の大謗法であることを知るベきである。
 また彼らは、昭和三十九年以後に日達上人・日顕上人が池田氏著書の序などで池田氏の功績を称(たた)え、教学的理解を賞(め)でていることを盾(たて)にして、学生部総会発言に何らの問題もなかったとも言いたいようである。
 しかし、一宗の僧俗を教導される御法主のお立場から、信徒に対し、信行倍増と広布達成を願い、督励(とくれい)の意を込めて分々の行功に賞賛の辞を贈られることは当然であって、それをもって、必ずしも信徒の信仰のすべてに、一点の曇りも欠点もないと証明されたことにはならないのである。
 御先師日達上人も、御当代日顕上人も、池田氏の宗門外護と広布進展に寄与した功績に対しては、常に賞賛されてきたことは、紛(まぎ)れもない事実であるが、それと同時に、時折池田氏の言動からかいま見る慢心に、深く心を痛めてこられたことも事実なのである。

 両上人は、この池田氏の慢心を危惧(きぐ)しつつ、大慈悲の上から池田氏並びに学会首脳部が清純にして正当なる正宗信徒の道を歩み、学会が健全に発展するよう願って、種々の教導をなされてきたことを知らねばならない。
 しかし今回、池田氏は、両上人の御慈悲と深い思召(おぼしめ)しを踏みにじり、法主軽視・宗門攻撃の暴挙に出たのである。
 『再お伺い書』の中で、彼らが
  「(イ)昭和三十九年六月の学生部総会の戒壇発言を重大問題と認識されたのはいつですか」
  「(ロ)この会長発言について、当時、宗内で問題視されていなかったことをどうみられますか」
との質間をしているが、その返答は、今までの説明で充分であろう。
 また、彼らは、
  「戒壇建立の形式論にとらわれるなという会長発言の趣旨は、本文で述ベた日達上人や日顕猊下のお言葉と同趣旨であると存じますがいかがでしょうか」(傍線筆者)
という質問を設(もう)けているが、傍線部の文言そのものが池田氏の言葉でも発言の趣旨でもなく、完全な捏造(ねつぞう)・すり替えの作文であって、質問として成り立っていない。
 池田氏が言わんとしたのは、「戒壇建立の形式論」ではなく、「戒壇建立が従の従・形式の形式」という、いわば『戒壇建立軽視論』なのである。
 また池田氏がなによりも大切にしている「民衆のしあわせ」について一言すれば、「民衆のしあわせ」とは三大秘法の大御本尊を護持し信仰することによってはじめて実現するものであり、大御本尊の御威光と衆生の信仰そして大法弘通のための精進、これらが一体となり時を得て「戒壇建立」という結晶をもたらすのである。
 したがって、「民衆のしあわせ」と「大御本尊まします戒壇の建立」とは、本来一体のものであって、これをわざわざ分離・対比させて、その軽重を論じようとする池田氏の感覚が異常であり、誤りなのである。
 最後に、この学生部総会での池田氏発言が、三大秘法の戒壇を軽視したものであることは、現在の池田氏の慢(きょうまん)の言動と、それとを重ね合わせてみれば、明々白々と言えよう。すなわち日顕上人の御指南のごとく、側近や代弁者がいかに詭弁(きべん)を弄(ろう)し、多くの似て非なる例証を並べてみても、池田氏発言は三大秘法破壊につながる重大なる教義逸脱の言であることを述べて、本段の結論とする次第である。


(四) 「改訂」の語義について」へつづく

 


(四)「改訂」の語義について

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)


  (四) 「改訂」の語義について

   「昭和四十七年四月二十八日の正本堂の『訓諭』は、日達上人のそれ以前のお言葉の『改訂』なのか」に答える


 『再お伺い書』では、日顕上人の『御指南』の中の、
  「日達上人が昭和四十七年四月二十八日に示された訓諭中の実義は、正本堂がその時、ただちに『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇ではなく、その意義を含むものと改訂あそばされたことが明らかです」(傍線筆者)
  「日達上人は前三文に関しても、昭和四十七年四月二十八日の訓諭において明らかに正本堂がただちに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ではなく、その意義を含むのであることを示されました。すなわち、前のお言葉を改訂あそばされたのであります」(傍線筆者)
との二箇所に「改訂」という用語を使用されたことを取り上げて、『御指南』を非難しているので、これについて検討してみたい。
 まず学会側は、『御指南』の「改訂」の語義を「本旨の改変」と解釈して、前引の『御指南』の文に対して、
  「すなわち正本堂は、『ただちに「三大秘法抄」「一期弘法抄」の戒壇』ではなく、『その意義を含むもの』に『改訂』したのが昭和四十七年四月の『訓諭』というわけであります」
と論評している。
 このことから、学会側が「改訂」を「趣旨や本旨の改変」の意に理解していることが判る。
 それをもってさらに、
  「日達上人は『訓諭』以前においては、正本堂はただちに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇であるという意味のことを、おっしゃったと言われていると拝さざるをえません」
と、珍妙な論証をしている。
 そして、日顕上人が「改訂」という言葉を使った以上は、昭和四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会、同年十月十七日の学会本部幹部会、昭和四十三年一月号の『大白蓮華』における日達上人の御指南が、
  「正本堂はただちに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇だという意味において述べられたものと、日顕猊下が『認定』されたと拝するのが、きわめて自然な読み方であります」
といい、
  「そうであるならば、正本堂がただちに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇であると言ったのは池田会長であるということを前提にした一月六日、十日の御説法は全く成り立たなくなります」
と結論している。
 一見して誰にもわかる、このような欺瞞(ぎまん)にみちたあげ足とりと児戯(じぎ)にも劣る理屈は、そのまま学会首脳部の主張が、正当な議論に堪(た)えられないものであることを、自ら証明しているようである。
 結論からいえば、日顕上人の再三にわたる御指南は首尾一貫しており、学会側のいうような「矛盾」は存しないのである。
 彼らは「改訂」の語義を知ってか知らずしてか、歪曲(わいきょく)して解釈している。
 「改訂」とは、辞書によれば「書物などの内容を部分的に改め直すこと」であり、たとえば教科書などに「改訂版」と表示されていても、それは必ずしも「本論・本旨の改変」の意味ではなく、文字の変更や部分的な表現の変更程度のものでも「改訂版」というのである。
 したがって、今回の『御指南』に示された「改訂」という用語が、「本旨の改変」を意味するものか、あるいは、「部分的・末梢的(まっしょうてき)な手直し」を意味するものかを判断するためには、『御指南』の御文全体の真意を拝し、さらに前後の言葉から考察することが最も適切な手段である。
 間違っても、『再お伺い書』のような、猊下の仰せられた言葉を曲解(きょっかい)し、それをもって我田引水の論を振りかざすなどは、してはならないことである。
 では、日顕上人が『御指南』の中で「改訂」の語をいかなる意味に使用なされたかというに、次の事実から推して、日顕上人の御認識として、昭和四十七年の『訓諭』当時において、日達上人がそれ以前の御指南を全面的に改変して新しい定義を仰せ出されたなどとは、全くお考えになっていないことがわかる。
 言い換えれば、日顕上人は、昭和四十七年の『訓諭』において「全面的な変更がなされた」とは考えておられないということである。
 その第一の理由として、日顕上人は、日達上人が昭和四十三年十月以前の御指南の中で、正本堂について『三大秘法抄』『一期弘法抄』の御文を挙げて説明されたことはあるが、正本堂をただちに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇であると断定されたことはない、と仰せられていることである。
 その第二の理由として、昭和四十七年当時、教学部長であられた日顕上人は、「第一回正本堂建設委員会」(昭和四十年二月)での日達上人の御指南を解説されて、
  「正本堂はまさに一期弘法抄の戒壇の意義を含んで未来の広布にのぞむ現時の本門事の戒壇というベきである」
と述べられており、『再お伺い書』でいうがごとき、正本堂を「ただちに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇」などと認識されていなかったことである。
 したがって、日顕上人は「改訂」の語を「部分的・末消的な手直し」との意味で使用されたのであり、具体的な一例をいえば、以前には「本門戒壇の大本尊を奉安申し上る清浄無比の大殿堂」(昭和四十年九月十二日院達)などと表現されていた正本堂を、「一期弘法付属書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇」という表現に改めたとの意味で「改訂」と仰せられたのである。
 しかるに、『再お伺い書』では、『御指南』の、
  「正本堂がその時、ただちに『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇ではなく、その意義を含むものと改訂あそばされたことが明らかです」(傍線筆者)
との御文を強引に、「ただちに『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇」と、途中の部分をカギ括弧(かっこ)で区切り、それと、「その意義を含むもの」の文とを相対させて、あたかも、はじめは「御遺命の戒壇である」と定められていた正本堂を、のちに「その意義を含むもの」に改変したかのごとく偽装(ぎそう)して、なんとかして「改訂」の語義を〝本旨の全面的改変〟にすり替えようとしている。
 しかし、日顕上人の再度にわたる御指南の趣旨と、「改訂」の本来の意味を素直に受けとめた上で、『御指南』の御文を拝すれば、「ただちに『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇ではなく」の文は、「その意義を含むもの」を強調し形容するためのものであることが判るであろう。
 このように、「改訂」の用語が「部分的な手直し」という本来の意味に理解してみれば、日顕上人の『御指南』になんらの論理的矛盾もないのはもちろんのこと、〝昭和四十三年十月の池田氏発言が、正本堂を御遺命の戒壇と断言した最初である〟との御説法も、なんら遜色(そんしょく)なく成立している。
 したがって、学会側が提示している質問の中、
(イ)昭和四十七年四月の『訓諭』が、昭和四十三年十月以前の日達上人の正本堂の意義についてのお言葉の「改訂」とすると、日達上人は、当時、正本堂を三大秘法抄、一期弘法抄とストレートに関連づけて発言されていたことを認められたということですか。そうでないとするならば、何をどのように「改訂」されたということになるのでしょうか
(ロ)そうであるとすると、昭和四十三年十月の会長発言以前に、日顕猊下のいわれる〝正本堂を三大秘法抄の戒壇であるとズバリ述ベられた〟日達上人のご指南があったこととなり、〝ズバリと述ベた〟のは池田会長が最初であることを前提とした一月六日、十日のご説法は全く成り立たなくなりますが、どうお考えですか
(ハ)同『訓諭』が、従前の日達上人のお言葉の「改訂」だとすると、日達上人が、昭和四十七年三月二十六日、教師指導会で、昭和四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会のお話と、この見解が「ピタリと合っておる」というお言葉を、どう拝すればいいのでしょうか。「ピタリと合っておる」とご本人がおっしゃっていることを「改訂」されたと認定する根拠は何でしょうか
との三問は、いずれも「改訂」を曲解した上でのものであり、全く成り立たないものであることは前に説明した通りである。
 次に、彼らは『訓諭』の中の「意義を含む」とは、『ご回答』でいうような全体・部分の問題ではなく、事実を表明した言葉であり、「現時における」とは、『ご回答』でいう本質、性格を限定する言葉ではなく、時間的な限定をいうのであるから、『訓諭』全体の文脈からみて、「未来において~となる意義を含む現時における~」と釈されるベきであると主張している。
 また、学会側は、日顕上人が教学部長時代に、正本堂の意義についての指導会で述ベられた五文を引いて、当時の「意義を含む」の解釈と、今回『御指南』で示された「意義を含む」の意味合いとが食い違っていると非難している。
 しかしながら、これらの主張や議論は、『訓諭』を文章化した当事者の意志を忖度(そんたく)することであり、解釈上いくらかの幅と選択肢がある用語や文章を、部外者が一方的に固執して主張してみたところで、あまり意味のあることではない。もし、どうしてもその真意を知りたいというのであれば、成文の当事者に判断を仰ぐべきであろう。
 また彼らは、「意義を含む」「現時における」の解釈について、「日顕猊下ご自身の解釈で余りにも違いがありすぎますが云云」と評しているが、これも自分達で曲解した上に妄想の論を展開させて、あたかも日顕上人に自語相違があったごとく見せようとする悪質な中傷である。
 しかも日顕上人が教学部長時代にされた解釈と今回の『御指南』と、どちらを信ずればよいかなどと愚問を発している。
 宗祖以来不断の血脈法水を伝持遊ばされる日達上人・日顕上人両猊下は、その御内証において一体不二の御境涯であり、両猊下の正本堂に関する御真意は、今般の『御指南』に示された、
  「正本堂は(中略)御遺命の戒壇となることの願望を込めつつも、一切は純真なる信心をもって、御仏意にその未来を委ね奉り、事の広布並びに懺悔滅罪(さんげめつざい)を祈念するところの大殿堂である」
との補足説明に尽きるものと拝信すベきである。
 自らの成仏と正法広布を目指す真の正宗僧俗たるものは、信仰の原点は三宝尊崇(そんすう)にあり、正道正義は時の御法主上人の御指南に随順し奉るところから始まることを知らねばならない。


(五) 『訓諭』の「たるべき」への論難の破折」へつづく

 


(五)『訓諭』の「たるべき」への論難の破折

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)


  (五) 『訓諭』の「たるべき」への論難の破折

  「『本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり』の『たるべき』の日顕猊下の文法上の理解は正しいのか」に答える


 次に今回の『再お伺い書』の中で、創価学会が御指南への反論の大きなポイントとして挙げている事柄に、昭和四十七年四月二十八日の、御先師日達上人の正本堂に関する『訓諭』中の「たるべき」の用語の解釈の仕方の違いがある。
 これは本年の一月六日と十日の教師指導会での御指南中、日顕上人は、現在の宗内の状況や僧俗のあり方、また広布の進捗(しんちょく)状況を鑑(かんが)みて、この「たるべき」を「未定・予定の意」に解釈されたのに対して、学会執行部は去る二月二十七日、『お伺い書』を提出してきた。
 その中で学会側は、『広辞苑』や『古語辞典』(岩波書店)などを引用して、文法上の妥当性(だとうせい)として、むしろ「当然の意」「命令の意」「意志・決定」などのように「~は~にちがいない」という極めて強い確信が含まれていると解釈すべきであるとし、さらに本宗の大事たる「二箇相承」の中の「たるべきなり」の文にからめて、日達上人の『訓諭』の文も「当然性」の意味に解すべきであって、日顕上人の解釈は不可能であると反論している。
 それに対して日顕上人は、三月九日付の『御指南』で、二箇相承は本宗の御相承の書であり、伝法の深義に約して絶対的命令の意義があるのであり、『訓諭』中の「べき」と同等に扱うべきではない旨を教示され、さらに辞典の用語例を挙げて、いろいろあるが、日顕上人としては『訓諭』中の「べき」の用例は正本堂の意義について「教えさとす文」であるからあくまで前後の文意によって考えるべきであると教示されたものである。そして、 「特にこの場合は『広宣流布の暁』及び『一期弘法抄』の文義による、『本門寺戒壇』という重大性に基づく、未来の広布の様相に引き当てて深く考えなければならない」
ので、「未来とか予定」の意もあると「達観すべき」だと諭(さと)されたのである。
 それに対して創価学会の執行部は聖教新聞の四月四日付で、国語学者、中田祝夫氏と阪倉篤義氏の談話をとりあげて、日達上人の『訓諭』の「たるべき」は「確定した将来」「『当然』『適当』の解釈が妥当」との大見出しを掲げて掲載したのである。そして翌四月五日付の同紙で、「決定的になった猊下の『訓諭』の文法上の解釈の誤り」と、あたかも鬼の首をとったかのように反論してきたものである。そしてさらに細かく、
 (イ)『訓諭』の「たるべき」は辞典の用例中に特定されているのかどうか
 (ロ)特定するならどれに該当(がいとう)するか
 (ハ)特定しないなら他の用例があるのか
 (ニ)「たるべき」の文法上の解釈に未定・変更の余地はないと思うがどうか
 (ホ)文法上、一月六日と十日、今回の「ご回答」の猊下の解釈に無理があると思うがどうか(趣意)
と、日顕上人の御指南に対して詰問している。
 日顕上人の御指南は、一月六日と十日の御指南、さらに三月九日付『御指南』を拝すれば明々白々である。
 一月六日の御指南
  「大聖人様の三大秘法は、御本仏様の一切衆生救済の、実に根本の、厳として犯すべからざる大法で、これは御仏意によるものである。そのさらに一番の元が戒壇の大御本尊様と戒壇建立ということなのです。したがって『一期弘法抄』『三大秘法抄』における戒壇建立の御文は御本仏様の御指南であり、我々は、あくまで信に基づいてその御文を拝し、弘通の姿をもって、その御仏意の顕現を図るべきです」
 一月十日の御指南
  「大聖人様の『一期弘法抄』のお言葉は『国主此の法を立てらるれば云云』という、わずかなお言葉ですけれども、本門戒壇建立を一切衆生の成仏得道のための大仏法の究極の道とする意味ですから、大変な御文なのです」
 三月九日付の『御指南』
  「要するに本仏大聖人の最後究竟の御指南たる『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇は、凡眼凡智をもって断定し、執着すべきでなく、ひたすら御仏意に任せ、その御遺命の崇高(すうこう)にして絶大なる仏力法力を仰いで信じ奉り、その実現に邁進(まいしん)することこそ、本因妙仏法を信ずる真の仏子であります」
 つまり、日顕上人は、日達上人より御相承を受けられた法主として、『一期弘法抄』『三大秘法抄』等の深義を拝しつつ本門戒壇建立の意義を明らめたのである。血脈付法のお立場から、あくまで信に基づいてもう一度御書の聖文を拝し、弘通の姿をもって御仏意の顕現を図るべきであり、そのお考えから日達上人の『訓諭』を解釈せられ、『達観すべきである』と結論づけられたのである。
 日顕上人が「たるべき」の語句を説明するに当たり、国語辞典を引用されたのは、なにも文法上の議論をもって正解を求めようとしたのではなく、語義の範囲に、「未定・予定」も含まれていることを示して、御指南の補足とするためであった。
 いわば「たるべき」の真意は、血脈相伝の御精神の上から、すでに明確に定まっているのであり、これを学会執行部のように、国語学者の談話や文法上の用例をふりかざして、御法主上人を攻撃し、問難を試みても、所詮ためにするいやがらせの域を出るものではなく、意味のないことといわねばならない。
 仏教には昔から「観心釈(かんじんしゃく)」という解釈の仕方があり、また本宗の教学には、「依義判文(えぎはんもん)」という用語がある。これは血脈相伝による正法正義にのっとって文を判釈(はんじゃく)することであり、いわば「活釈(かっしゃく)」ともいうべきものである。今回の御指南は日達上人より血脈相承を受けられた御当代日顕上人が、その責務において判釈して述べられた御内証によるものと拝すべきであろう。
 国語学者の文法上の意見を開陳(かいちん)してきても、それを参考にすることがたとえあったとしても、そのことによって本宗の大事が決定されるのではない。だいいち正本堂に御安置申し上げる、戒壇の大御本尊様の建立の発願(ほつがん)の機縁からしても、宗祖日蓮大聖人が、一文不通(いちもんふつう)の熱原三烈士の至誠の信心を深く御感(ごかん)遊ばされたからであって、凡眼凡智で理解できるものではない。
 熱原三烈士の信心歴は、わずか入信して一年余りであり、その身分は社会の最底辺に属する人たちである。有力な親族や後ろ盾(うしろだて)もなく、その日暮らしの身分の人たちである。この人たちの根本は、大聖人様への渇仰心(かつごうしん)であり、頼るところは渾身(こんしん)の唱題のみである。
 それら熱原の農民が過酷(かこく)な法難に耐えて正法を護持したのである。
 その純粋一途な信仰に深く御感あって、宗祖日蓮大聖人が出世の本懐(ほんがい)たる戒壇の大御本尊を御図顕遊ばされたのである。その大御本尊様を御安置申し上げる本門戒壇堂の定義や意義は、御仏意による以外の何物でもない。その時々の機情、宗内僧俗のようすを深く感ぜられた日達上人、日顕上人の御解釈以外に会通(えつう)のしようがないのである。
 国語学者の見解をもって、御法主上人の御指南を批判しようとした創価学会執行部の心根(こころね)こそ反省すべきなのである。現今の創価学会のようにあえて宗門僧侶を無視し、日蓮正宗信徒の葬儀を在家幹部の導師によって執行している姿は、まさしく僧宝に対する怨嫉(おんしつ)そのものである。このような事態を正本堂建立時に誰が想像しえたであろうか。信心は、時の経過と共に深化する場合と、逆に謗法によって退化背反する場合とがあることを示した事例であろう。池田氏はじめ創価学会首脳の増上慢の心根こそ、今回の一連の問題の根本原因であったことをもう一度虚心(きょしん)に反省し、「たるべき」の真義を明確に示された日顕上人の御指南を熟拝(じゅくはい)すべきである。
 すなわち、たびたび挙げるが、日達上人の『訓諭』に示された「たるべき」の意味は、相承伝受された日顕上人の、次の御指南をもって確定されたのである。
  「正本堂は、広布の進展の相よりして、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含むものであり、本門戒壇の大御本尊が安置される故に、現時における事の戒壇である。そして、広宣流布の暁には本門寺と改称され、御遺命の戒壇となることの願望を込めつつも、一切は純真なる信心をもって、御仏意にその未来を委ね奉り、事の広布並びに懴悔滅罪を祈念するところの大殿堂である」
 この三月九日付の『御指南』こそ、「一宗を教導する法主」として教示された深甚(しんじん)のお言葉であり、正本堂の定義に関する議論の最終決着となるものである。
 学会首脳部も、『再お伺い書』で、
  「もとより私どもは、猊下のご指南、ご見解、特に『一宗を教導する法主』としての今回のご教示を根本としていくことに何ら異論をはさむものではございません」
と明言しているのであるから、まず三宝尊崇(そんすう)の信仰心をもって、日顕上人の御指南に信順すべきである。
 もし、御指南の指標される御意(ぎょい)が理解できなければ、それは学会首脳部の信心が至らないからである。おのれの不信心と愚癡(ぐち)を棚にあげて、御指南のあげ足とりをするなどは厳に慎まなければならない。

 

(六) 「公式見解否定の責任論」に対する反論」へつづく


(六)「公式見解否定の責任論」に対する反論

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)


  (六) 「公式見解否定の責任論」に対する反論

  「昭和四十七年三月二十六日の教学部公式見解に対する否定は、日顕猊下ご自身の社会的・宗教的責任にならないか」に答える


 次に『再お伺い書』の中、第六段において、昭和四十七年の宗門公式見解の否定は、日顕上人の社会的・宗教的責任にならないかと追及しているが、その不当性について論ずる。

 (イ)公式見解に対する反省の根拠

 御法主日顕上人は、三月九日付の『御指南』において、さる昭和四十七年三月二十六日に、当時教学部長として発表された公式見解について、次のように述懐(じゅっかい)された。
  「教学部長としての私は、その時その時を忠実にと思い、御奉公をしたつもりでありました。しかし今顧みれば、あの時の『正本堂は広宣流布の時に「三大秘法抄」「一期弘法抄」の戒壇となる』という趣旨の教学部見解は、宗祖大聖人の御遺命たる、本門戒壇の正義よりみれば、適当でなかったと思います」
と、今にして思えば公式見解は必ずしも適当な表現ではなかったとその御胸中を明かされている。
 さらにこの反省が、公式見解発表後十九年の歳月を経てなされたことについて、平成三年三月二十七日、第二回法華講青年部大会の席上、日顕上人は次のように御指南された。「登座以来十年間、この問題に関しては、極めて重大事であり、時が来たらざるが故にこれを申し上げませんでしたが、やはりこのことを、自らの深い懴悔とともに、申しておくものであります」
と、正本堂建立以来の広布展開の相をつぶさに御覧遊ばされた日顕上人が、深い御内証の上から、本門戒壇の本義に照らし時機相応した正本堂の真義を明らかにすべき時の到来を感じたと述べられたのである。
 ところで今般日顕上人が、正本堂に関する公式見解が「適当でなかった」と仰せいだされたのは何故であろうか。
 広布の進展は予断を許さない。まして必ずしも上昇機運にのみ乗るとは限らない。そこに予期せぬ魔の蠢動(しゅんどう)があって広布の停滞があるかもしれない。このような消長(しょうちょう)を考え合わせるとき、日顕上人が、
  「未来の広布の暁がいつになるかは未定ですから、正本堂の建物がそうであるかないかを現在において断定することも、またできない道理です」
と述べられたことは、現在の広布展開の状況からしても当然の御指南と拝さねばならない。
 顧みれば、正本堂建立前後の学会による広布の活動は、時を得て驚異的なテンポで進んでいたことは事実であり、誰人もこれを否定するものはないであろう。そのような宗門未曾有の広布進展の中で日達上人は、昭和四十年一月号の『大白蓮華』に、「いまや広宣流布」との一文を寄せられたのであり、また同年九月十二日の『訓諭』にも、
  「而して妙法の唱え日本国乃至世界に満ち、誠に広宣流布の金言虚しからずと云うべし」
と仰せられ、当時の学会を中心とする広大な妙法流行(るぎょう)を賞賛されたのである。しかし、これはあくまで広宣流布の時節到来と、その未曾有の進展の姿に約して、かく述べられたのであって、これを機に更なる広布の推進を期待されていたということを忘れてはならない。ともかくもこのような急速な広布進展の様相は、化儀の広布も、近い将来に達成されるかもしれないとの空気を宗内に醸成(じょうせい)し、ひいては『三大秘法抄』『一期弘法抄』に示された御遺命の戒壇が建立される日もそう遠くないと思わしむるほどのものであった。学会は、このような広布の進展の見通しの上に、すでに昭和三十四年当時には、正本堂を広宣流布の態勢としての最後のものと位置づけて、その達成のために邁進していたのである。
 そうした中で、日達上人は大慈悲の上から学会の志を諒(りょう)とせられ、昭和四十年二月十六日に第一回正本堂建設委員会の席上、初めて正本堂の意義について述べられた。この御指南を皮切りに、以後その意義が種々論じられたが、当時の未曾有の広布進展の相とも相まって、確かに正本堂を事相の広宣流布の暁に建立される御遺命の戒壇なりと発言するむきもあったことは事実である。
 正本堂に関する意義づけが、このように論じられていく中で、それまで宗内に永く語り継がれてきた、国立戒壇との関係が新たな論議を巻き起こすことになった。日顕上人は当時を回顧(かいこ)されて、
  「あの当時、正本堂を何とか御遺命の戒壇として意義づけようとする池田会長と学会大幹部の強力な働きかけや、妙信講の捨て身の抗議があり、その間にあって宗門においても、正本堂の意義がいろいろ考えられました」
と述べられている通りである。
 日達上人は、当時の未曾有の広布進展に裏づけられた、学会の強力な働きかけと、あくまでも国立戒壇に固執する元妙信講の捨て身の抗議との両者を慰撫教導(いぶきょうどう)しながらも、なおかつ血脈付法のお立場から、本宗の戒壇の本義を厳守され、その結果発表されたのが昭和四十七年四月二十八日の『訓諭』であった。そこに示された正本堂の意義は、当時の宗内に巻き起こっていた正本堂論議を終息させたところの、まさに時機相応した御裁定であったのである。
 ところで日達上人は、正本堂完成後二年ほどした昭和四十九年十一月十七日、創価学会第三十七回本部総会の御講演で、広宣流布の一応の目安(めやす)として、日本人口の三分の一ということを打ち出され、それにともなう本門寺改称についても言及されている。このことは、正本堂は現時において御遺命の戒壇の意義を含んではいるが、それが名実共にそなわるのは、あくまで広宣流布の暁であり、具体的には「日本国全人口の三分の一以上の人が、本門戒壇の大御本尊に純真確実な信心をもって、南無妙法蓮華経と唱え奉ることが出来た時」という条件があることを明確にされたことを意味する。
 日達上人が明示された広宣流布達成の条件に照らして、現在の広布の現状を鑑みるとき、いかに世界広布が進んだとはいえ、事相の広布達成は容易ならぬことと思わざるをえない。正本堂建立以来十九年、その間の広布進展の相を深く御覧遊ばされた上で、今後の見通しも含めて時の御法主としての日顕上人が、過去の行き過ぎた見解に反省を込めながら、いま新たに正本堂の意義について御指南されることは、戒壇の本義を闡明(せんめい)にするのみならず、今後の広宣流布令法久住の正しい進展を図る上で不可欠のことと拝さねばならない。

 (ロ)責任論の不当性

 今回の日顕上人の昭和四十七年公式見解に関する「不適当」発言に対し、学会側はそこに大いなる疑義をさしはさみ、『再お伺い書』の中で、
  「御登座以後、正本堂についてはずっと信徒を騙(だま)し続けてこられたということにならないでしょうか」
と非難している。
 そもそも「騙す」とか「欺(あざむ)く」ということは、二枚舌を使いながら時に言を左右することで、どこまでいってもその裏に真実がないときに使う言葉である。したがって、それは人を陥(おとしい)れることであり、仏法ではこれを妄語とか両舌といって、その罪の大きさは計り知れないものがあると説いている。これに対し、仏法における懴悔とは、過去の誤りについて深く反省をし正しく改めることで、妄語・両舌等とは根本的にその意味が違う。
 まして血脈に基づく御内証の上から、状況の変化に応じて真摯(しんし)に反省懴悔をなされ、広布の現実相に即応した御指南を示されることが、本宗僧俗を欺くことになどなろうはずがない。したがって学会側が、
  「その動機において欺くつもりはなかったとしても、現時点において結果的に間違ったと自ら認定されることを、当時宗内に徹底した責任は決して消えるものではないのであります」
と、ことさらその責任論を強調するのは、不当極まりない中傷と断ぜざるをえない。いかに前言を訂正したとしても、それが一宗主宰(しゅさい)のお立場において、結果的には現在の僧俗をより正しい方向へ教導することになるのである。文言の変化にとらわれた皮相的見解からくるこのような非難は、かえって正信の眼を忘失した学会首脳部の実態をはしなくも露呈したものといえよう。
 釈尊が出世の本懐である法華経を説こうとしたとき、聴衆の中には、爾前経に執着し、法華経の経説に随えない慢心の衆生があったという。『開目抄』の一節に、
  「教主釈尊の御語すでに二言になりぬ自語相違と申すはこれなり」
との御文があるが、これはこの時、未得謂得(みとくいとく)、未証謂証(みしょういしょう)の慢心を起こして退去した、罪根深重の五千の増上慢の言葉である。げに恐ろしきは我執によって仏法を判ずる増上慢である。
 正本堂の意義について、日達上人・日顕上人の御本意は一貫しているのであるが、『御指南』で仰せのように、時の流れの中で「色々考えられた」ことも事実である。今回日顕上人の『御指南』によって、その御本意が明示されたにもかかわらず、頑ななまでに一方的な見解に執着し、それをもって、あたかも言質(げんち)を取ったごとく御法主上人を詰問する学会は、まさに慢心そのものである。加えて彼らは、御法主上人が、二言をもって純真な信徒を欺いた、などと詐欺呼ばわりをしているが、まさに師敵対の僻見といわなくてはならない。
 ところで、前段にも述べたごとく、正本堂の意義のいかんにかかわらず、奉安される御本尊が宗祖大聖人出世の本懐たる戒壇の大御本尊である以上、正本堂こそ現時における事の戒壇であり、時の御法主上人の大慈大悲を賜り、特に許される内拝によって、正本堂建立以降も本宗僧俗が等しく懴悔滅罪を祈り、多大なる福徳を積ませていただいているのである。
 今回日顕上人猊下が唯授一人血脈付法のお立場から、過去の公式見解の行き過ぎを反省され、さらにその直後の『訓諭』について「補足解釈」をなされたが、このことによって戒壇の大御本尊まします正本堂に詣(もう)でる我々の功徳にはいささかの変化も生じることがないのは当然である。
 これをもってしても、正本堂の意義について、広布展開の事相の上からなされた今回の日顕上人の公式見解への御反省は、信徒を騙すことにはならないし、ましてその責任を問われる謂(いわ)れもない。かえって、常に本宗僧俗を正しく教導される意味から、時に正直な反省懴悔をもなされる崇高な御境界にこそ心をいたすべきであろう。
 最後に、本段の「お伺い」においては、
  「教学部見解は『適当でなかった』とされるが、その見解を日達上人がご承認されていたとすれば、日達上人も間違っていたということですか」
と質問している。この点について言えば、当時の学会の強力な働きかけを考慮して、「正本堂は広宣流布の時『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇となる」とした教学部見解を日達上人が承認されたことは事実である。しかし日達上人の御真意は、終始一貫して、正本堂を直ちに御遺命の戒壇と断定してはおらず、この時の御承認は御法主としての大慈悲の慰撫教導であり、広布に死身弘法の精進を続ける信徒に対する、深い御配慮であられたと拝すべきであろう。この日達上人の御真意をそのまま承継された上で、その意義をより明確に示されたものが、今回の日顕上人の御指南なのである。
 広布の達成とは、あくまでも御仏意であり、御本仏と衆生との不可思議なる因縁によってのみ実現されることであって、凡眼凡智をもってその時節を特定することは、僣越(せんえつ)といわねばならない。故にこそ日達上人は、正本堂完成後、二年を経て、「(広宣流布は)日本国の人口の三分の一以上の純真確実な信徒が出現した時」(趣意)と仰せられ、広布を未来に託(たく)されたのであって、この御指南の容易ならざる意義を拝さねばならない。
 いま日顕上人は日達上人と一体の御境界において、この御指南の意味するところを深く拝され、正本堂が「必ず『三大秘法抄』等の戒壇となる」と断定するかのごとき教学部見解を「適当でなかった」とおん自ら総括されたのである。
 ともあれ、日蓮正宗僧俗にとって、どこまでも化儀の広宣流布を目指して精進を重ねることこそ第一であり、それを傍(かたわ)らに置いて、いかに正本堂の意義づけのみを議論しても、それは不毛の論議であり、御遺命の戒壇実現もまたできない道理である。責任論をふりかざす不当性に一刻も早く気づき、広宣流布御遺命達成を目指し、折伏逆化に挺身(ていしん)することこそ肝要と思うのである。


(七) 先師冒涜論に対する破折」へつづく



(七)先師冒涜論に対する破折

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)

 

  (七) 先師冒涜論に対する破折

  「日達上人のご本意は『訓諭』ではないというのは、先師に対する甚だしい冒涜ではないのか」に答える


 本段における『再お伺い書』の質問は、
  「日達上人のご本意は『訓諭』ではないというのは、先師に対する甚だしい冒涜ではないのか」
というものである。
 しかしながら果たして日顕上人が、三月九日付の『御指南』の中で、「日達上人のご本意は『訓諭』ではない」と仰せられているであろうか。そもそもこの学会側の質問は、日顕上人が三月九日付の『御指南』で、
  「私は、日達上人の御本意はむしろそこにあらせられず、異なった趣意があることを、昭和四十五年時の御説法に拝するものです」
と述べられたなかの「そこにあらせられず」の一文を読み違えて、
  「日達上人のご本意は昭和四十七年三月の教学部公式見解並びにそれと軌を一にする同年四月の『訓諭』にあるのではなく」
と理解したところからきているものである。
 今般、日顕上人は、昭和四十七年、日達上人が発布された正本堂の意義に関する『訓諭』について、次のように御指南された。まず前段の文については、
  「正本堂が『一期弘法付嘱書』と『三大秘法抄』の意義を含む現時における戒壇ということであり、この『意義を含む』とは、全面的に意義が顕れたということではなく、まだ広布の進展が部分的であることを示すものです」
と説かれ、続いて後段の文については、
  「所詮、御仏意による広布は未来のことであるから、広布達成の時、本門寺の戒壇となるか否かは、予定であるから、また未定の意もあると達観すべきであります」
と述べられている。
 このことは、あくまで血脈授受のお立場から、日達上人の『訓諭』を正しく拝すべき御指南をなされているのであり、決して『訓諭』が御本意ではないなどと仰せられているのではない。本段の質問自体が曲解に基づくものであることをまず指摘しておく。
 ところで、この『訓諭』発布以前の宗内においては、昭和四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会の日達上人のお言葉を皮切りに、正本堂に対する意義が種々論じられた。その中には昭和四十三年着工大法要の際の池田氏の挨拶に代表される、正本堂をどこまでも御遺命の戒壇そのものと意義づけたいとする学会と、一方これに対して、あくまで広布達成時に国立戒壇を建立すべきであるとする元妙信講の主張等があったのである。また他方、昭和四十二年の建立発願式以来、その建設が順調に進捗(しんちょく)した正本堂は、建築規模の壮大さも手伝って、徐々に世間の耳目(じもく)を集めるところとなり、ひいてはそのことが国立戒壇論への誤解に基づく非難を招く結果ともなっていったのである。
 さて、この『訓諭』発布以前における議論のなかで、正本堂の意義については、時に『三大秘法抄』や『一期弘法抄』との関連性を述べられた日達上人のお言葉等もあり、そのことによって、ややもすれば正本堂を御遺命の戒壇そのものと認識する傾向なきにしもあらずであった。事実、昭和四十三年の着工大法要の折の池田氏の挨拶等はその典型であるし、それに呼応した形での宗内一部僧侶の同様な認識に基づく発言も少なからずあったのである。
 ともあれ、こうした世間の疑難をも巻き込んだ形の論議を重ねるうちに、正本堂の工事は進み、いよいよ昭和四十七年十月、完成奉告法要を迎える運びとなった。ここにおいて日達上人は、その意義を内外に明らかにして、それまでの論議に終止符を打たれるために、同年四月二十八日、『訓諭』をもって、最終的に正本堂の意義につき御指南されたのである。
 すなわち日達上人は、従来の宗内における、戒壇の本義からすれば妥当性を欠く認識や発言も、当時現出した未曾有の広布の上昇機運に鑑み、大慈悲の上から大乗的見地に立たれ、あえてそれを容認されていたものと思われる。
 これについて日顕上人は三月九日付『御指南』の中で、
  「また、その後、日達上人が昭和四十七年四月二十八日に示された訓諭中の定義は、正本堂がその時、ただちに『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇ではなく、その意義を含むものと改訂あそばされたことが明らかです」
と仰せられている通りである。
 この御指南の中にある「改訂」の語は、前言を翻してその内容を「改変」したという意味でないことは、本論文の第四段において考証した通りである。
 したがって、日顕上人は、日達上人の『訓諭』に御本意がないということを述べられたのではない。そのことは、『訓諭』が法主上人の一宗教導のための公式な御指南である以上、けだし当然である。
 しかし、場合によっては『訓諭』に甚深の意義を込められることもあるのであり、まさに昭和四十七年の当『訓諭』中の「意義を含む」「たるべき」等の語は、そこに甚深の意義を含んでいるのであって、故に日顕上人は、昭和四十五年四月六日の御霊宝虫払会御書講や、同五月三十日の寺族同心会質問会の砌の日達上人の御指南を拝してこそ、『訓諭』の真意を正しく理解できる旨の指南をなされたのである。このことは、日顕上人が長年、日達上人の謦咳(けいがい)に接した上で確信していると仰せの通りである。今回の御指南は、唯授一人血脈付法の御境界において、『訓諭』の正義をより深く示されたものであり、不相伝の余人の容喙(ようかい)すべき余地はないのである。

 以上のことから、学会の『再お伺い書』の、
  「(イ)昭和四十五年当時のご説法が日達上人のご本意であり、昭和四十七年四月の『訓諭』は日達上人のご本意でないとされる根拠は何ですか」
などという詰問は、三月九日付『御指南』の文意をとり違えたことからくる、的外れな質問というほかはない。四十五年の御説法には、正本堂をそのまま広宣流布時の戒壇と決定されていないし、その時はむしろ別に建つこともあり得るという趣意すら窺えるのである。その趣意をよく理解した上で、四十七年の『訓諭』を拝してこそ、正本堂の正しい意義が理解されるのである。故に日顕上人は、その意義に則(のっと)られ、『訓諭』中の「たるべき」を「予定・未定」の意味に拝すべきと指南なされたのであって、決して四十五年『御説法』本意論、四十七年『訓諭』不本意論を述べられたのではない。
 さらに、後段で詳述するように、今回明白となった昭和四十九年の賞与御本尊の裏書の一件は、日達上人の御本意が、正本堂をただちに御遺命の戒壇とお考えになっていなかったことを雄弁に物語っている。つまり四十五年の御説法の趣意と、四十九年のこの裏書に込められた字句の意味とは、共に正本堂は御遺命の戒壇そのものとは断定できないということを明確に示しており、時期的にその中間に位置する昭和四十七年の『訓諭』も当然この両者と同趣旨のものと考えるのが自然というべきであろう。
 以上、述べてきたように、日顕上人が『御指南』に、
  「私は、日達上人の御本意は、むしろそこにあらせられず、異なった趣意があることを、昭和四十五年時の御説法に拝するものです」
と仰せられたのは、昭和四十五年時の御説法に、戒壇についての正義及び正本堂の真義が示されており、その趣意が四十七年の『訓諭』に盛られているということの御指南と拝すべきなのである。
 たしかに『訓諭』は、当時の学会からの強力な意義づけに関する主張や、これに強硬に反対する元妙信講の捨て身の抗議等を考慮して、甚深なる教導の配慮がなされていることに、深く思いを致さねばならず、またその深義こそ日達上人の御本意と拝すべきなのである。
 これらの『訓諭』に込められた甚深の意義を、時至り、さらに闡明(せんめい)にされるため、今回日顕上人は正本堂の意義につき、
  「広宣流布の暁には本門寺と改称され、御遺命の戒壇となることの願望を込めつつも、一切は純真なる信心をもって、御仏意にその未来を委ね奉り云云」
と御指南遊ばされたのであり、これこそ日達上人の御本意でもあると言わねばならない。『再お伺い書』では、
  「(ロ)ご本意でない『訓諭』を発表されたということは、日達上人は宗内僧俗及び世間を欺かれたということになりますが、このような言い方をされることは日達上人に対する重大な冒涜になるのではありませんか」
と難詰しているが、これまで見てきたように、日達上人が御本意でない『訓諭』を宗内外に発表されたということもないし、宗内僧俗及び世間を欺いたということもない。また日顕上人が日達上人を冒涜したなどという詰問は、的をはずした論難というほかはないのである。
 さらに、本段「お伺い」の(ハ)及び(ニ)については、これらを合わせて要約すれば、「昭和四十五年四月の虫払会御書講、並びに同五月の寺族同心会の質問会でのご説法はいずれも当時の『大日蓮』に掲載されていないが、そのような非公開のものをもって、日達上人のご本意とするのは無理である」
との趣旨の問難である。
 この質問も、彼らの曲解と妄執の上になされているものであり、前述した通り、日顕上人は「四十五年御本意論」を述べているのではなく、それらの精神をもって、四十七年の『訓諭』の真意を正しく理解せよと仰せられたのである。
 また御当代日顕上人は御先代日達上人の御真意を深く感達(かんたつ)され、その御指南を用捨自在(ゆうしゃじざい)の御境界にあって教導されるのである。その御教示の援証がたとえ『大日蓮』に掲載されていないものであっても、それを用いるか否かは、ひとえに御法主の裁量に委ね奉るべきものであろう。
 (ホ)(ヘ)に対する答えもまた、これに準ずる。日達上人の御本意は、あくまで公式見解である四十七年の『訓諭』に込められているのである。
 以上のごとく、本段の質問はすべて三月九日付『御指南』の文意をとり違えたところからくる的はずれなものである。我見による自説に妄執するあまり、血脈に基づく御指南に違背して、『訓諭』を曲解することこそ、御先師日達上人、そしてまた御当代日顕上人に対する「冒涜」以外の何物でもないといえよう。

 

(八) 『日顕上人の解釈に落差あり』に対する反論」へつづく