第一項
血脈相伝を否定し、下種仏法の正意から外れた「御書根本」の妄説を破折する
創価学会資料(二)
日顕宗の邪義を破す
平成2年の池田総講頭罷免の直後に、創価学会から脱会して法華講に走った方が若干おられます。これらの方々にお会いしていく中で、いくつかのことに気がついたため、今後同じような過ちを繰り返してほしくないとの思いからこの文章を書いてみました。
なぜ脱会されたかについてその動機を伺ったところ、それぞれがいろいろな見解を述べられたのですが、ほとんどの方に共通していたのは次のどちらか又は両方でした。
①以前から池田先生に対して、また学会の人間関係や運動論に対して反感を持っていた。
②日常的に御書の研鑚を行っていなかったため、日蓮正宗の教義の変化に気がつかなかった。
したがって、御書を手に取って引用すると多くの法華講員の方が反論不能になり、教義ではなく執念か怨念のようなものを根拠として主張されるようになられたのです。
そこで、正しい大聖人の仏法を求める観点から、根本となる教義の面と、制度や運動論、人間関係の面とを区別し整理しながら、正しい信心を目指した研鑚の糧にしていただきたいとの願いを込めて一文をしたためます。
まず初めに「平成二年の池田総講頭罷免」ということを言っていますが、この「罷免」という語は正しくありません。罷免とは、辞令をもってはっきり職を免ずる処置を取ることです。
しかるに、この場合は「宗規」の一部改正に伴う付則による資格喪失でありました。故に、総講頭であった池田大作のみならず、法華講員を含む大講頭十四名も、すべて資格を喪失したのです。
また、罷免の場合は免職ですから復職の可能性はありませんが、資格喪失は爾後において復職の可能性が充分にありました。しかし、池田や秋谷は、その以前よりの敵対意識をいよいよ強め、盛んに宗門への謂われない悪口誹謗を重ねて、復職の可能性を自ら失ってしまったのです。
したがって、これについて「罷免」と言うのは、間違った、不正確な表現であることを述べておきます。
また、次に「日蓮正宗の教義の変化に気がつかなかった」と言っていますが、これも彼等の偏見であり、色眼鏡で見るからであります。日蓮正宗の教義は相伝に基づいて万古不変であり、池田や創価学会こそがクルクルと、恥ずかしげもなく変節し、珍説を次から次へと立てているではありませんか。
また、彼等は「御書を手に取って引用すると多くの法華講員の方が反論不能になり、教義ではなく執念か怨念のようなものを根拠として主張」云々と述べていますが、むしろ日蓮正宗の正しい信仰と教学を身につけた法華講員から破折され、形勢不利になると、恥も外聞もなく論点のスリ替えを図り、それも不能と見るや、怨念と狂気の固まりとなって罵倒か嘲笑で逃れようとするのが創価学会員の常套手段ではないか、と言ってあげましょう。
まず、大聖人の仏法の中に生まれた異なる主張を、本来の教えに正していくためには、絶対に外してはならない大原則があります。それは末法の御本仏・日蓮大聖人の経文である御書を根本としなければならないということです。この原則は、我々自身がそうであるだけでなく、相手にも求めなければなりません。なぜなら、御本仏が繰り返しそう断言されているからです。
この愚論は、その初めに池田や秋谷が口癖とする「御書根本」という語を一つ覚えとし、大聖人の正義は御書に依るべきであるというところから、御書の十七文を抜粋して、これによって、宗門の主張は御書に依らない、わがまま勝手な相伝・口伝による邪義である、などと論じております。したがって、まず彼等の言う「御書根本」について、その是非を述べることとします。
第一に、「御書根本」などということは、何も池田や創価学会のみならず、日蓮宗の各門下教団においても同様であり、皆、御書のお示しによって宗義を立てているのです。ただし、その拝し方が違うから多くの宗派が分かれるのであり、御書に依りつつ、御書の意に背く邪義となるのであります。創価学会も、根本の血脈不信によって異解を生ずることは同様です。故に、「御書根本」の主張には独りよがりの我見の誤りがあるとともに、御書中の浅深、立て分けを弁えない咎が存しています。
さて、次に、彼等の「御書根本」と言う、それこそ根本的欠陥を示しましょう。
彼等は御書の文々について、それぞれ所対による意義があるのを無視し、極めて短絡的に、文字だけを取って自分達の短見に結びつけ、「文証だ、文証だ」と誇示します。しかし、その文証の一切は、これら創価学会と会員の主張には全く当てはまりません。これは仏法の法体、教義、行法、利益、成仏等のすべての御文について言えることですが、一つには御書全体の浅深・次第の立て分けに暗く低見であることと、二つには自己中心の専断解釈があるのです。
一例を挙げると、『諸法実相抄』の、
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」(御書六六五)
の文の「凡夫」とは、直ちに題目を唱える創価学会員のことだ、などと直結します。そこに創価学会独特の、仏教における根本の尊敬を忘れ、深意を無視した能所混乱による機根中心の我田引水があり、池田の雑言のすべてがこれを顕しています。
右文の「凡夫」とは、単なる創価学会員などのことではなく、久遠元初凡夫即極の自受用身を指されることは、仏(釈迦・多宝)に対する一連の御文から明らかです。いわゆる能化(仏)に約して拝すべき文を、所化(衆生)の、それも破法だらけの身に約して短絡するところに摧尊入卑の誤りがあります。このように御書の勝手読み、我見読みをするのが創価学会であり、その見方はことごとく狂っています。
しかも、それで「御書根本、御書根本」と言うのですから、あきれ果てた素人論法でもあり、大聖人の御正意からは遠く隔たっている、と指摘しておきます。
第二に、今さら創価学会が「御書根本」と言っても、その見解は彼等が初めて立てたものではなく、日蓮正宗から学んだ日興上人以下歴代上人の相伝による判釈をかなり用いています。それを、いかにも創価学会独自の御書の正解であるかの如く「御書根本」と言うのは、僣上・傲慢の沙汰であります。さらに、御書の解釈の大綱を、他門にない本宗歴代上人の相伝による判釈に依っておきながら相伝を否定するのは、枝葉に執して根を截る大莫迦者であります。
彼等自身、「御書根本」と言うことの中味は血脈相伝の利益なくしてはありえないにもかかわらず、その元を忘れて血脈を否定する愚癡を知るべきです。いったい、「御書根本」とは、唯授一人の血脈相伝による歴代上人の判釈教義に依るのか、それとも彼等が独自に開発する教義に依るのか。前者ならば、血脈相伝の正義を認めるべきであります。後者ならば、新興宗教として一線を引くべきです。そのいずれにも足を掛ける如く、掛けざる如く、怪物・鵺の如き妖怪教学は、まさに創価学会の外道の論であります。
第三に、大聖人の御法門には、釈尊の権実二教のけじめを示す権実相対の法門が各所に拝せられますが、これは天台、伝教の助言であって、大聖人独自の本門の法門ではありません。そこには各宗の異義を整理するため、文証をもって示される所が多くあります。
さらに進んで、本門付嘱の法体を顕すための本迹、種脱、底上の相対においては、権実相対に使用する経釈の文証は、直接には挙げられていません。特に、文上に対する文底とは、文、義の奥にある意の重である。すなわち、文上の権実二教の諸文証よりさらに立ち入った本仏大聖人の証悟であり、それは日興上人への口伝法門(御義口伝)その他の相伝として伝えられたものであります。これはまさに相伝であり、口伝である。このなかで、既に文献化され出版に至った分と、唯授一人の相伝・口伝が今に至るも未公開の肝要部が存します。
要するに、大聖人の仏法の一切を文上の法門の通軌によって論じようとすること自体、本門甚深の綱格に暗い輩であり、それが創価学会の「御書根本」説なのであります。既に出版されている相伝文書を含め、あらゆる文献を正しく拝するには、血脈相伝への信心があって初めて可能なのであります。日興上人の『遺誡置文』にも、
「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事」 (同一八八四)
とあり、御書を心肝に染めるとともに、極理を師伝することが最も大切である、と教示されています。師伝による極理とは言うまでもなく、唯授一人の法体血脈に基づく宗義の根本にほかなりません。この血脈を否定し、かつ、浅深不弁の低劣な自己の見解をあくまで正しいとする皮相的な「御書根本」説こそ、日興上人の御教示に反逆する邪見教の最たるもの、と言っておきます。
第四に、池田と創価学会の血脈否定の謗言、そして派生団体にもかかわらず仏法弘通の中心であるとの思い上がりによる仏法破壊は、宗祖大慈大悲の三大秘法の功徳をことごとく消滅せしめています。故に、あらゆる御書の文証の功徳と成仏については、学会と学会員には一切、該当せず、かえってそのまま、御本仏よりの破折に当たっているのです。これは、全く仏法の中心たる血脈相伝に対する我意・我見による不信謗法があるからです。この根本の信解に狂うところ、いかなる御書の文証の徳も、彼等には存在しません。いわゆる「日蓮が弟子・檀那」は創価学会員ではなく、かえって悪しく敬うことにより、自他を亡ぼす仏法の醜敵となっているのです。
さて、次に、以上の正義に基づいて、彼等の挙げた一々の文証について批判・検討をしてみましょう。
①『仏法の邪正は経文の明鏡による』(P.170) (※北条時宗への御状)
(通解:仏法の邪正は仏の経文という明鏡=判断基準による。)
②『所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり』(P.502) (※如説修行抄)
(通解:結局のところ、仏法を修行しようとするならば、他人の言葉を用いてはならない。ただ仰いで仏の金言を守らなければならない。)
③『経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり』(P.482)(※聖愚問答抄)
(通解:経文に明らかである主張を用いなさい。文証が無いものは捨てなさい、ということである。)
④『菩薩・人師の言には依るべからず仏の御定を用いよ』(P.544)(※法華初心成仏抄)
(通解:菩薩や途中の師匠の言葉を根本としてはならない。仏の定められたものを用いなさい。)
これらの御本仏の御金言とは逆に、経文を無視したり、経文以外に正しい教えがあるというような主張をする者がいれば、「天魔・外道である!」と責めなければならないのです。
(注・各引用文先頭の丸数字は、読者の便宜のため、文責者が挿入した。)
学会の「御書根本」という主張の邪義は先にも述べましたが、その「御書根本」という主張によって引く彼等の「文証」なるものは、ほとんどが「スリ替え」の文証です。
要するに、正しい文証とは、引く文とその言わんとする趣旨とが合致していなければなりません。合致していない文証を、スリ替えと言うのです。学会で引くこれらの文証は、それに当たっています。その理由について、以下に少々述べておきます。
まず、御書のなかに佐前と佐後の別があることは、『三沢抄』に、
「又法門の事はさどの国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(御書一二〇四)
と示される如くであります。また、御書全篇にわたって権実、本迹、種脱の所対があって、ただ文の平面的な見解をなすべからざることは、涅槃経の法四依に、
「義に依って語に依らざれ、智に依って識に依らざれ」
と説かれ、また、『開目抄』に、
「一念三千の法門は但法華経(権実相対)の本門寿量品(本迹相対)の文の底にしづめたり(種脱相対)」(御書五二六)
とある如くであります。創価学会の者どもは、ただ「文証、文証」「御書、御書」と騒ぎ立てますが、御書には所対によって浅深・軽重が存することを教えてあげましょう。
大聖人は『法華取要抄』に、
「所詮所対を見て経々の勝劣を弁ふべきなり」(同七三二)
と示され、日寛上人も『文底秘沈抄』に『文句記』を引いて、
「諸の法相は所対に随って同じからず」(大石寺版六巻抄四七)
と述べられています。ただ、めくら滅法に御書を引いても、それが正しく当たっていなければ道理に反することになるのです。
さらに、御書全体を総括して正しく拝する規準として、『一代聖教大意』の、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書九二)
の御金言が存します。「御書、御書」と言っても、相伝の眼力をもって正しく拝さなければ、我意・我見に陥り、正義を没すること創価学会の如くなるのであります。なお、この御文については彼等の偏見があとに出てくるので、その所で充分に破折します(本書119※「第四項 血脈相伝による三大秘法の仏法を破壊し、池田大作を末法二人目の『法華経の行者』と崇める愚昧・妄想の珍説を嗤う」を参照)。
さて、彼等の引文の①、「仏法の邪正」以下は『北条時宗への御状』であります。しかし、一概に「経文の明鏡」とはいっても、『開目抄』に、
「経の中にも了義・不了義経を糾明して信受すべきこそ候ひぬれ」(御書五五八)
と仰せの如く、正しい経文の引き方、拝し方があり、了義、不了義のけじめをつけるべきなのです。創価学会の「御書根本」の語は、そのけじめを無視した言であります。
引文の②、「所詮・仏法を修行せん」以下は『如説修行抄』の文でありますが、仏にも小大、権実、迹本、脱種の別があり、金言もまた、しかりです。彼等にはそれが判っているのでしょうか。この文の前後始終はすべて権実相対の趣旨で、この、
「人の言を用うべからず」(同六七一)
とは、権経をもって実経に背く謗法の人師の言を破されているのであります。日蓮正宗に対する文ではありません。筋違いの解釈をするなかれ、と言っておきます。
引文の③、「経文に明ならんを用いよ」の文は『聖愚問答抄』の、これも明らかに念仏宗破折の権実相対の文であります。ここでは、
「文証無からんをば捨てよ」(御書三八九)
と仰せられていますが、例えば、あらゆる経文には明らかに「仏法僧の三宝に知恩、報恩せよ」とあり、創価学会の如く僧を無視し、軽蔑するのは、これらの文証に背いています。僧を無視してよいなどという文証は、どこにもないのです。また、創価学会の如き在家が本尊を下附してよいという文証もありません。よって、この文の趣意はそっくり、大聖人様が池田と創価学会を指して破折された文なのであります。また、仏の金言としては、経文・御書を中心として、宗門七百年の化儀・化法の文証、明らかなること天日の如く、仏法の本義が存在しているのであります。
引文の④、「菩薩・人師の言には依るべからず仏の御定を用いよ」は『法華初心成仏抄』の文でありますが、涅槃経の法の四依を説き給うなかの一文で、これも文の前後は全く権実相対の趣旨であります。その義からは、宗門の血脈とは全く次元の異なる筋違いの盲引です。もし、この文を依義判文すれば、大聖人の御書の正義は、古来の宗門の伝承法義に厳然たるものであり、創価宗も、かつてはそれを受けてきたのです。しかるに今、本仏日蓮大聖人のお定めに背き、他宗他門に擦り寄り、正系の血脈を否定するに至っています。つまり、この文の破折に当たるのは、まさに創価学会なのであります。
さらに、これらの四文を挙げたあと、「経文を無視したり、経文以外に正しい教えありと主張する者は天魔・外道だ」との旨を言っていますが、経文云々と言ってその浅深の義に依らないことこそ、経文に背き、日蓮大聖人に違背する大邪義であります。御本仏の金言は、そのような浅薄・皮相のものではない、と破しておきます。
『仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり』(P.181) (※行敏訴状御会通)
(通解:仏の遺言には、私の経文の外に正法が有ると言うならばそれは天魔の説である、と言っている。)
この文を引用すると「それは禅宗を破折しているだけだ」と、思いつきの愚かな言い逃れをする者がいますが、それでは大聖人が「禅宗の教外別伝はダメだが、我が正法では教外別伝は許されるのだ」とでも言われているというのでしょうか?それこそ大聖人に対する冒涜ではありませんか。そんな文証があったら出してみなさい!と攻めましょう。やはり禅寺に墓を建てた日顕の手下らしい発想ですが、大聖人はまさに日顕のような輩を天魔・外道だと破折されているのです。
この「仏の遺言に云く」云々は『行敏訴状御会通』の文です。これはまさに、禅宗の教外別伝を破する文であります。それも涅槃経の取意の文です。「思いつき」でも「愚か」でもなく、まさしく禅宗破折の文そのもので、それ以外ではありません。
すなわち、法門で言えば権実相対であり、この経の文をもって下種仏法に当てはめるなら、その明確な証拠を出しなさい。その論理もなく、飛び越して、「日顕のような輩を天魔・外道だ」云々と言うのは、まさしくスリ替えであり、無慙この上もない、卑怯・狡猾な論法であると駁しておきます。
そもそも、この文を下種仏法に短絡すること自体、法門の段階・筋道も弁えぬ愚かな者どもではありませんか。
『仏教には経論にはなれたるをば外道という』(P.152) (※蓮盛抄)
(通解:仏教では経文や論から離れた主張を外道と呼ぶ。)
したがって、経文に明確に書かれていることに対して、歴代法主も含めて後世のどんなに立派そうな人がそれと異なることを言っても絶対に信じてはなりません。また多くの法華講員の方がそうだったのですが、大聖人の言葉を無視して途中の法主の言葉ばかりを主張する者は仏法者とは呼べないというのが大聖人のご断言なのです。
これも『蓮盛抄』の文で、教外別伝の禅宗破折の文であります。臆面もなく、こういう所対の異なる文をもって歪曲の解釈を構え、宗祖以来の血脈に基づく歴代法主の御指南を否定する池田らの輩こそ、まさしく『聖愚問答抄』の、
「正理を以て前とすべし」(御書四〇二)
との大聖人の教えに背く仏敵であります。また、彼等の言う「創価仏法」や、池田の吐き散らしている数々の雑言こそ、経論からも御書の正意からも離れた、外道そのものであります。
日蓮正宗の教えは、歴代法主の言も含め、いささかも経論、ことに下種仏法の正意より離れていません。離れていると言うならば、具体的にその証拠を挙げてみよ、と言っておきます。
大聖人出世の本懐たる本門三大秘法の法体を血脈相伝するのが日蓮正宗であり、そこから離れ、仏法に背くのが創価学会なのです。
①『仏の遺言に依法不依人と説かせて候へば経の如くに説かざるをば何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か』(P.9) (※唱法華題目抄)
(通解:仏の遺言には、法に依って人に依らざれと説かれているので、経文のとおりに教えを説かない人をどんなに素晴らしい人であっても信用してはならない。)
②『設い天台の釈なりとも釈尊の金言に背き法華経に背かば全く之を用ゆ可からざるなり、依法不依人の故に』(P.529) (※立正観抄)
(通解:たとえ天台の解釈であっても、釈尊の金言に背き法華経に背いていれば、まったくその言葉を用いてはならない。法に依って人に依らざれ、との原則があるのだから。)
③『唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり』(P.462) (※持妙法華問答抄)
(通解:ただ途中の人の解釈ばかりを根本にして、仏の言葉によらなければ、どうして仏法という名前を付けることができようか。言語道断のことである。)
④『仏法の邪正をただす事・皆経文を先とせり、今当世の道俗・貴賎皆人をあがめて法を用いず心を師として経によらず』(P.1207) (※星名五郎太郎殿御返事)
(通解:仏法の邪正をただすことは全て経文を根本とする。ところが今の世の出家も在家も、みんな法を説く人をあがめて法を用いない。心を師匠として経文に依らない。だから誤るのである。)
⑤『仏法は強ちに人の貴賤には依るべからず只経文を先とすべし身の賤しきをもつて其の法を軽んずる事なかれ』(P.481) (※聖愚問答抄)
(通解:仏法は決して説く人の貴賤によってはならない。ただ経文を根本としなければならない。説く人の身が賤しいことを理由にその法を軽んじてはならない。)
したがって、法華講員の方々は歴代法主の言葉を引用する場合は、併せて「経文(御書)にもこう書いている」と示さなければならないのです。御書を引用した主張に対して、歴代法主の言葉を引用して意見を主張する方は、経文に照らせば自らが道理に合っていないことを証明しているようなものです。
(注・各引用文先頭の丸数字は、読者の便宜のため、文責者が挿入した。)
彼等は右五文を引いて、歴代法主の言と御書の言とに相違があると言い、大聖人の御書の文証をもって証明すべしと主張しますが、彼等の引く文をよく見ると、これらはすべて、創価学会の言い分を証明する文証にはなっていないのです。
また、彼等が日蓮正宗を攻撃せんとして引用する文も、全く的を射ていないのです。ここで引用している五文は、本宗への破折には当たらず、むしろ池田創価学会が自らの邪義を破折する文証なのです。
まず、①の『唱法華題目抄』の「仏の遺言に依法不依人と説かせて候へば」以下の文は、依法不依人の明規を示された文でありますが、この「法」とは、外道に対すれば内道たる一代仏教であります。また、爾前権経に対すれば法華経であり、迹門に対すれば本門であり、文上に対すれば文底深秘の妙法蓮華経であります。さらに、宗教に対すれば宗旨の三大秘法であり、これは相伝によって万代に伝承される歴代上人伝承の法体であります。これはすべて、日蓮正宗にこそ正しく伝わるところです。
これに対し、「人に依らざれ」の「人」とは、まさに創価仏法という外道義を提唱し、血脈を否定し、三大秘法の大義を変更せんとした池田大作であります。この池田を師とする創価学会は、まさにこの文の宗祖大聖人の破折に当たっているのです。
次に②の『立正観抄』の「設い天台の釈なりとも」以下の文は、この文中の釈尊の金言について、その浅深に背いていること、法華経についてその文・義・意の大綱に反してこれを論ずることは、天台にあらずして、すべて御仏意に背く池田創価学会を破折された文であります。大聖人の金言の正意に合致するのが日蓮正宗であり、 これに背くのが、法に依らずして池田らの人に依る創価学会なのであります。
次の③の『持妙法華問答抄』の「唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば」以下の文は、この仏説に依らざる「人師の釈」とは、権実相対に約せば弘法、法然、達磨、得一等であり、本迹相対に約せば天台の末流、種脱相対に約せば不相伝の日蓮門下、日蓮大聖人の三大秘法の化導に約せば、まさに池田大作の外道義であります。池田らの邪義・我見はまさにこの文に当たり、言語道断の次第です。故に、この文はそのまま、創価学会に返します。
次に④の『星名五郎太郎殿御返事』の「仏法の邪正をただす事・皆経文を先とせり」以下の文を挙げていますが、この文中の、
「当世の道俗・貴賤、皆人をあがめて法を用ひず」(御書三六四)
とは、まさに創価学会員が池田を崇めて、本門戒壇の大御本尊に参詣しないことを指摘されている文ではありませんか。また、
「心を師として経によらず」(同)
の文も、自らの立場のみを正しいと執着する我見・偏見の心により、宗門七百年の道理、文証、現証に背いて、クルクル猫の目のように変わる創価学会の非を示される文であります。
次の⑤の『聖愚問答抄』の「仏法は強ちに人の貴賤には依るべからず」以下の文も、要は経文の道理によって示される法の大切なるを述べ給う文であり、その法とは三大秘法の正しい伝承にあります。下種仏法の血脈と三宝を軽賤する池田や創価学会への強い誡めであります。『ニセ本尊』を敢えて配布する創価学会は、その法が全く謗法である故に、この、
「経文を先とすべし」(同三八九)
との御文の正意には全然、当たらず、かえって背いているのであります。
故に、仏法の正義を示す論証の方法は、経文、御書と歴代法主の言を一々に並べて引くという形式に囚われることが正しいのではなく、その文理が正しく、論旨の浅深・勝劣の趣意が明確であることが大切であります。権実相対に示された文をもって全く場違いの証明に当てることは、法理から言うも、許すべからざることであります。めくら滅法の愚論は通用しないことを、はっきり指摘しておきます。
『問うて曰く経文は分明に候・天台・妙楽・伝教等の未来記はありや、答えて曰く汝が不審逆なり釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ経文に分明ならば釈を尋ぬべからず、さて釈の文が経文に相違せば経をすてて釈につくべきか如何、彼云く道理至極せり』(P.259) (※撰時抄)
(通解:問うて言うには、経文には明確に書かれているが天台・妙楽・伝教等の言葉に未来について記したものはあるのだろうか。答えて言うには、あなたの不審は逆さまである。天台等の釈を引こうとした時こそ経文には書かれているのかと不審を持つものであって、経文に明確ならば釈の文章を質問してはならないのです。そうすると、釈の文章が経文と異なっている場合は、経文を捨てて釈につくべきでしょうか。彼が言うには、まさにそのとおりである。)
当然のことですが、法主とか特別の人間に対する口伝さえも大聖人は明らかに否定され、経文という、文字によって誰にでも確認出来る教えのみを認めるのが正しい仏法の大原則だと御指南されているのです。
この『撰時抄』の文は、経文と天台等の釈との重要性を比較せられ、経が釈より重いことを言われたものであります。しかし、これは大聖人が「釈を捨てよ」と仰せられた文ではありません。そう取るのは、まさしく切り文であります。質問者が釈の所在を尋ねたのに対し、釈より経が元であり、大切であると注意された所であります。故に、経が根本であることを寸示されたあと、天台、妙楽、伝教の釈を引かれて、重ねて経の趣意を述べられているではありませんか。したがって、大聖人は正しい釈を少しも否定されていないのであります。
ところが、この文をそっくりそのまま悪用して「法主とか特別の人間に対する口伝さえも大聖人は明らかに否定され……」などと言っているのは、まさに趣意のスリ替えであり、
捏造の代物であります。
日蓮正宗においては、法華経と宗祖大聖人、日興上人の教えを素直に拝して、その相伝に基づいて、歴代上人がそれぞれの時に応じて教えを垂れておられるのです。本宗における血脈相伝の大事は、天台、妙楽、伝教等の釈などとは全く異なったものなのです。
また、仏法は難信難解であります。大智・舎利弗すら、なお信をもって入ると言います。しかるに、彼等の「経文という、文字によって誰にでも確認出来る教えのみを認めるのが正しい仏法の大原則だ」などの主張は、まさに仏法の深意を蔑ろにする摧尊入卑の偏見です。大聖人の仏法は従浅至深、そんな簡単なものではありません。そこに創価学会の仏法に対する浅識と軽視と不信が存するのであります。
『仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ』(P.219) (※開目抄)
(通解:仏の説を根本にして、口伝を信じてはならない。)
『設い慈覚・伝教大師に値い奉りて習い伝えたりとも智証・義真和尚に口決せりといふとも伝教・義真の正文に相違せばあに不審を加えざらん』(P.307) (※報恩抄)
(通解:たとえ慈覚が伝教大師に会って習い伝えたと言っても、智証が義真和尚から口決相承したと言っても、伝教・義真の残した正しい文証に相違するならばどうして不審を加えないでいられようか。)
『師の口より伝うる人必ずあやまりなく後にたづね・あきらめたる人をろそかならば経文をすてて四依の菩薩につくべきか、父母の譲り状をすてて口伝を用ゆべきか、伝教大師の御釈無用なり慈覚大師の口伝真実なるべきか』(P.1258) (※妙一女御返事)
(通解:師匠の口から伝えた人が必ず間違いがなく、後で調べて明らかにした人が愚かであれば、それを理由にして経文を捨て四依の菩薩につくべきであろうか。父母=仏からの譲り状を捨てて、口伝を用いるべきであろうか。伝教大師の解釈も無用である。慈覚大師の口伝が真実であろうか。仏の言葉を根本にしなければならないのである。)
そして、世間や信徒たちから敬われている法主のような存在の誤りを指摘する時には、経文根本という原則に従って、自分勝手な主張ではなく御書に基づいて指摘しなければならないとも御指南されているのです。
この創価学会のくどくどとして、ただ文証さえ引けばよいというような主張は、要するに、権実相対の範疇の道理、文証をもって大聖人の甚深の血脈口伝を同一に論じ、法義の所対を混乱する暴論・邪論であります。創価学会の引くこれらの大聖人のお言葉は、すべて権実相対に限っています。故に「経文根本という原則」が大聖人の御法門の如く言うけれども、大聖人の正意の御法門では、経文根本という執着を、かえって否定されていることを知らないのでしょうか。その証拠は、
「文の底にしづめたり」(御書五二六)
との、いわゆる文底の御指南であります。すなわち、一代経の文に執われず、法華経を基準とせよ(「一念三千の法門は但法華経」権実相対)。迹門の文に執われず、本門を基準とせよ(「但本門寿量品」本迹相対)。本門の文に執われず、文底の意を拝せよ(「但文の底にしづめたり」種脱相対)と、明らかに仰せです。これでもなお「経文だ、経文だ」と言う者こそ、大聖人の御正意の法門に暗い謗法者であります。
この創価学会で挙げる三文について言えば、初めの文は『開目抄』の権実雑乱の各人師に対する伝教の破折の文でありますが、これもその範囲の趣旨であります。また、次の『報恩抄』と『妙一女御返事』の文も、慈覚・智証と伝教大師・義真和尚、慈覚と伝教大師の、真言と法華の関係の正義を論じ給う権実の上の文であります。
これに対し、例えば『法華行者値難事』の追伸に、
「追って申す。竜樹・天親は共に千部の論師なり。但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまはず有り。」」(同七二〇)
と記され、また『曽谷入道殿許御書』にも、
「問うて曰く、要法の経文如何。答へて曰く、口伝を以て之を伝へん」(同七八五)
等と仰せられているように、大聖人御自身、時に随い、機に応じて、本迹、種脱等の内容にかかる御指南を、口伝をもってなされていたことも事実であります。したがって、御自身の文底の義をこれらの文によって否定されたなどの莫迦げたことは、全く存在しません。
そして、この文底の意より、大聖人の口伝、すなわち『御義口伝』等が述べられているではありませんか。かえって、大聖人が御自身の法門の口伝をもって正義を顕されていることが明らかです。この口伝法門のさらに精髄・肝要が、日興上人、日目上人、日道上人と続く、歴代上人への相伝であるのです。故に『御義口伝』に、
「秘すべし秘すべし、唯授一人の相承なり、口外すべからず」(同一七九六)
と、明瞭にその趣意が記されているではないですか。しかも、これは学会が、相伝書の性格や意義も判らず、ただ、やみくもに排除しようとする、いわゆる後加文ではありません。れっきとした日興上人筆受の本文です。
文上に対する文底、すなわち、下種仏法の肝要の口伝法門は、まさに『開目抄』という御書の御文に依るのであり、御書に基づくものであります。権実、本迹、種脱、宗旨の深奥の区別もつかぬ低劣な頭で当たらない文証をいくら挙げても、暗夜の礫の如しなのであります。このような輩に対し、大聖人は「不相伝の僻見」と断じられていることを知るべきです。
『かくの如きの上人を豈に邪見の人と云うべきや、答えて云く此の事本より私の語を以て是を難ずべからず経文を先として是をただすべきなり』(P.1207) (※星名五郎太郎殿御返事)
(通解:このような世間から敬われている上人をどうして邪見の人と言うことができようか。答えて言うには、このことは本来自分の勝手な言葉で非難してはならない。仏の経文を根本にしてこれを糾さなければならない。)
これほど繰り返して大聖人が御指南されていることを守らない者は、まさに天魔であると断言しても良いでしょう。千葉県のある法華講員は、何の証拠も無く「御書以外にも真実が伝えられている。例えば南無妙法蓮華経の読み方は、日蓮宗では『なムみょうほうれんげきょう』だが、日蓮正宗では『なンみょうほうれんげきょう』だ。」と光久諦顕あたりが言い触らしていた言葉を鵜呑みにして主張していたのです。
ところが、実際に邪宗日蓮宗の寺の経本を確認したところ、はっきりと「なンみょうほうれんげきょう」と書かれていたのです。要するにその方の主張はウソ八百だったのです。
こうした例を見れば理解できるように、法義を正すための対話においては、相手の主張する内容は、経文も含めて証拠を一つ一つ確認する作業を絶対に行わなければなりません。また、証拠を示せない者は邪教なのだというのが大聖人の御指南なのです。
この『星名五郎太郎殿御返事』の文の「上人」とは、弘法大師、善導和尚、法然上人を前文に挙げられ、それぞれ金剛薩、阿弥陀如来、大勢至菩薩の化身と崇められている人々が邪見なるや、との問いに対し、「経文を先として是をたゞすべきなり」(御書三六四)との指南であり、この「経文」とはなんの経文か知っているのでしょうか。これは、すべて権実相対の重であり、法華経の経文を先として糾すべし、という趣意なのです。また、御書中にその例が多いのは、当時の権実雑乱が数多い状況より当然であります。「これほど繰り返して大聖人が御指南……」などの浮言は、その本末の法門の所対を忘れた低見に過ぎません。この文の「上人」とは、まさしく真言、念仏等の祖師であり、日蓮正宗の歴代法主とは全然、異なっているにもかかわらず、この語をもって「上人」とは正宗の法主のことの如く重ね合わせ、なんら具体的事実を挙げず、無智の者をだまそうとする奸計は、許し難い卑劣者であります。
以上の文証はすべて「スリ替え」であり、御文を冒涜する創価学会の邪論です。このように、彼等の出す文証はスリ替えや切り文が多いので気をつけましょう。
次に、証拠の確認という例証に、唱題の「ナン」と「ナム」のことを挙げていますが、過去から現在に至るまで、日蓮宗で「ナムミョウ」と発音していることは、まぎれもない事実で、常識です。故に、当宗法華講員の言が正しいのであって、言うところの日蓮宗の経本などは、どこで手に入れたのか。インチキなニセの経本でありましょう。このようなことまで挙げて素人を欺こうとするウソつき集団が創価学会なのです。
『若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり』(P.1355) (※祈祷抄)
(通解:もし証拠が無ければ誰が信じることが出来ようか。このような歪曲したことばかりデッチ上げて言うから、そういう輩を邪教と呼ぶのだ。)
したがって、前の唱題の件を受けて、わざわざ『祈祷抄』の文を引いているが、この文の、「僻事を構え、証拠もない誹謗を繰り返す邪教」とは、前述のウソとでっち上げの主張よりしても、創価学会が自ら、その僻事に当たることを暴露しているのです。
なお、たまに「それは学会の主張か」と質問する法華講員もいますが、この論文で示していることは、与えて言えば「本来の日蓮正宗の教義」なのです。なぜなら日蓮正宗の憲法とも呼べる「宗規」に「宗綱(宗義の根本)」として定められていることに基づいた主張なのですから。
これも、こずるい言葉でひとひねりして、初心の方をだまそうということでしょう。彼等は、彼等の論が「与えて言えば」本来の日蓮正宗の教義だと言いますが、それなら「奪って言えば」どうなのでしょう。まさにそれは、日蓮正宗から逸脱した邪教・創価学会の狂義であることを自ら暴露するような文の流れです。
しかし、与えても奪っても、彼等創価学会の主張は、徹頭徹尾、日蓮正宗の宗綱に反逆していることが、次第に明らかとなります。日蓮正宗の「宗規」やそのなかの宗綱を正しく読む眼力もなく、誤った見解と、ただ誹謗心による狂学では、日蓮正宗宗綱に基づくなどの言い草は、おこがましい限りです。たわけた虚言であると評しておきます。
宗規には、第1章に宗綱(宗義の根本)を定めていますが、その第5条第2項には、「経釈章疏の所依」という表現で教義として採用する文証を定めています。その中でも根本とする文証である「正依(=正しい依文)」としては、法華経開結とともに「宗祖遺文」(御書)が挙げられているのです。
この「正依」について更に詳しく説明すれば、宗規では続けて「日興上人、日有上人、日寛上人遺文」が掲げられています。このことは、大聖人の御金言(御書)が根本で、その大聖人の言葉どおりに口伝を書き残し、法を伝えた日興上人(僧宝の中でも信仰の対象である「久遠元初の僧宝」と呼びます。詳細は日寛上人の六巻抄に明らかです。)の言葉も正依、また、徹底して御書に基づき依義判文して日蓮正宗の教学を体系化した日寛上人の言葉も化法の上で正依とするのです。おかしくなった法主の言葉を根本としてはならない、というのが正しい日蓮正宗の教義なのです。
また、教義には「化法」と「化儀」とがあることを知らなければなりません。
では「化儀」についてはどうかと言えば、日有上人の言葉が「化儀抄」としてまとめられているとおり、日有上人の遺文は化儀のうえでの正依とするのが本来の日蓮正宗の教義なのです。なお、日寛上人の「当家三衣抄」も化儀に関して定めた正依と言えます。
したがって、後の法主が言った仏法の解釈が、御書やその他の正依に照らして正しくなければ、当然ですが決して信じてはならないというのが、大聖人の仏法の正しい考え方・教義なのです。
ここでは、要するに「宗制宗規」を取り上げ、そして「正依、正依」と言って、それ以外の御法主の文献について「自分達に都合の悪いものは採らない」という予防の煙幕を張っておるのであります。つまり、「宗規」に「正依」として、法華経開結十巻、「宗祖遺文、日興上人、日有上人、日寛上人遺文」と記されていることをことさらに挙げ、相対的に他の歴代上人の御指南の重要性を薄めようとしている、あるいは否定しようとしているというのが、この底意であります。
しかし、日有上人、日寛上人の遺文が正依であるということは、そのまま、他のすべての歴代上人の遺文も正依であるということなのであります。
なぜなら、日有上人は宗開両祖のあと、三祖日目上人、そして四世、五世乃至、八世と伝えられた御相承を継いで第九世となられた方であります。また、同様、第二十六世日寛上人も、二十五世まで承継された御相承を受けて登座された方であります。けっして個々に「大聖人直結」とやらで存在された方ではないのであり、唯授一人・金口嫡々の血脈によって伝承されてきておる方なのです。
したがって、日有上人、日寛上人が大聖人の教えを正しく敷衍して正依となるべき立派な著作を残されたのは、その間に宗祖以来の血脈を相伝された歴代の御先師方がおいでになったからであり、何も日有上人あるいは日寛上人が、御歴代上人を飛び越えて「大聖人直結」だ、などと言うことはないのです。
しかし、彼等はその道理を無視して、日寛上人は「大聖人直結」だと言うのですが、不合理極まる言です。それだから、『創価学会の偽造本尊義を破す』において私が述べたように、「大聖人直結」の日寛上人がどうして、おまえらの謗法とする「五道冥官」の入った導師漫荼羅をお書きになっているんだ、ということにもなるわけです(創価学会の偽造本尊義を破す76頁を参照)。
仏法の道理から言えば、法水を一器より一器に瀉す歴代上人がおいでになったからなのです。そうしてみると、日有上人、日寛上人をして、かくあらしめたところの血脈伝承の御先師方も、全く日有上人、日寛上人と異ならない、同等の方々であるということが、仏法の理の趣くところであります。
「宗規」において、日興上人は別格として、御歴代上人中、日有上人と日寛上人のお二方の遺文のみを挙げてあるのは、一つには両上人の輝かしい御事跡、それから宗門において中興の二祖として尊崇されるお立場から、その代表としておられるわけであります。したがって、本質的な意義の上から、日寛上人以後の御歴代においても、このことは全く変わるものではありません。大聖人以来、唯授一人の血脈を師弟相対して相伝し、末法万年に正法を伝持・弘通する歴代上人の御指南ならびに著作はすべて、基本的に正依となることは当然です。
その証拠に、また、「宗規」第十五条の五には、法主である管長の宗務として、
「教義に関して正否を裁定する。」
と、唯授一人の血脈の意義において明確に規定しておるのであります。ただ、それを「宗制宗規」の「正依」の所においては、代表してこのお二方を挙げておるというだけのことなのであります。
また、それについて、学会の汚い底意によるひっかけが存在しておるということも指摘する次第であります。